【竹内博氏追悼エッセイ】「戦友竹内博君との思いで」西脇博光

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 私と竹内博君との付き合いは一体何年になったんだろう。
 彼と始めての出会いは、昭和47年、大学一年生で、同じクラスにいた安井尚志君(特撮映画・テレビ評論編集者)の紹介で六本木に円谷プロダクションの事務所があり、当時小学館より刊行された円谷一編著「円谷英二・日本映画界に残した遺産」を受取に行った時であった。
 その後祖師ケ谷大蔵にある円谷プロダクションに竹内君が移り、毎週日曜日特撮ファンが集まるようになり、彼の提唱のもと「怪獣倶楽部」の同人誌を発行するに至り、私も音楽評論文を書くようになった。
 私が、会社勤めをしながら、LP「ゴジラ」を始め様々なレコードの構成を担当させてもらったのも全て彼の勧めによるものである。
 円谷プロダクションを退社後、彼との親交は深くなっていった。なぜならば、彼のアパートが私の自宅近くにあり、会社勤めをしながら彼と一緒にレコード制作するにも適する環境にあったし、毎週土・日曜日には二人して駅前の喫茶店で様々なことについて話込むようになっていった。
 彼はよく私に「構成ばかりでなく、音楽解説をもっと書いた方がいいよ」と言い、私も機会あるごとに書くようになり、彼にチェックしてもらっていた。
 そういう意味でも彼は私にとって文章における先生であった。
 二人というよりも「怪獣倶楽部」に所属していたメンバー全て、一次的資料を執拗に集め、紙面に発表していく基本的な理念を持ち、憶測で物事を書く事はしなかった。だから皆プロフェッショナルとなっていった。
 この理念を植え付けたのは竹内博君に間違いなく、東宝特撮映画のDVDにおいて、彼が総解説文を、私が音楽解説をした際、「地味地な活動をしていたからこそ重要な局面になるといい仕事が入って来るものだ。だから音楽解説を西脇にまかせたのだよ」と言っていた彼の言葉の意味がよく理解できた。
 私も、今は禁止されているが映画館でカセットテープレコーダーを持ち込み、映画(音楽)録音をしていたから音楽をどのシーンで使用されたかが記憶出来たのだ。
「怪獣倶楽部」全員が戦友であり、そのリーダー格が竹内博であったのは間違いなく、よく人は我々のことを第一世代の特撮ファンというが、(私自身はこの言葉に違和感を感じている)現在のようにビデオやDVDなぞなく、夏・冬テレビ放映された特撮映画や東映動画、テレビ特撮の再放送を逃さず見て録音し、レイトショウ(オールナイト)で上映される特撮映画を録音しながら見て記憶したからこそ、下地を確立して、文章なり、レコード構成が可能であったと思っている。
 彼は、病気になり入院するまで、熱心に古本市通いをし、資料集めに没頭していた。私にとって必要と思う本も買い求めてくれた。無論購入代金は私に渡すその場で支払ったのはいうまでもないが。
 一次的資料の収集があったからこそ、各種の彼が編纂した書籍がこの世に出たのである。
 彼が糖尿病から腎臓を悪くし、人工透析するため、入院となった時期に、ある事情から私が退職し、入院先の病院の保証人となり、6月27日彼がこの世を去るまで、入院費・雑費管理、胃の全摘出手術後、毎月定期検査及び診察の介助をするに至ったのも、恩返しの意味もあったし、私の他誰もそういう時間がとれなかった事情もあったが、私に身を託したのだと思い、様々な事柄について少しも苦痛とは感じなく、当然のこととして自分はあたってきたつもりである。
 今日は彼の49日にあたるのだが、今朝彼が夢枕に立って「おい、伊福部昭について文章を書いているのか?」と言ったので「ああ書き始めたとこだよ」と返したら笑って姿を消したところで目を覚ました。
 彼の遺影と遺骨は私の自宅2階に安置してある。
 時期を見て合祀する予定である。今日も手を合わせ見守ってくれるよう願ったところである。
 竹内博と私は親友であり一人の戦友である。二人して特撮サントラを世に広めていったのだから。
 私の構成や文を彼が認めてくれたからこそ、その後、様々なサントラを私一人でも出来るようになったから。
 幾ら感謝してもしたりないくらいである。
 そして彼の遺作本「特撮をめぐる人々 日本映画 昭和の時代」(ワイズ出版)が一人でも多くの人達に読まれる事を願って。

平成23年8月14日竹内博君49日に。

        映画音楽研究家 西脇博光



西脇博光プロフィール


竹内博既刊
『特撮をめぐる人々 日本映画 昭和の時代』
『定本円谷英二随筆評論集成』