【小松左京氏追悼エッセイ】「広島から巨大過ぎた人へ」天瀬裕康

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 無限の探索に旅立たれた小松左京さん――。
 生年は同じでも、大兄は1931年1月の早生まれなので、11月生まれの私は学年でいえば一年下ですが、同年扱いで広島のことを念頭において話しかけて下さったのは、まことに有難いことでした。
 本名(渡辺晋)のほうが馴染み深いかとも思いますが、筆名(天瀬裕康)で入会していますので、二足の草鞋の天瀬からの、転居歓送の言葉としてお受け取り下さい。

 小松左京というお名前を初めて目にしたのは、『S・Fマガジン』19号(1961年8月号)の空想科学小説コンテスト結果発表に、大兄の「地には平和を」が努力賞として紹介されたときでしたが、この作品は『宇宙塵』63号(1963年1月)に掲載され、第50回直木賞候補となったのですね。
 このデビュー作が私の胸を打ったのは、ほぼ同じ世代の河野康夫という黒桜隊の少年の存在だと思ったのですが、読後、彼を巻き込んだ本土決戦は時空を操作する者の作りだした虚構の世界だったことが分かり、並の作家には見られぬ巨大な小説空間を感じたものです。
 第2回日本SFコンテストでは大兄の「お茶漬の味」が見事受賞――これが刺激になって、私もコンテストに応募するようになるのですが、とても大兄のようにはまいりません。
 あれよあれよという間に、大兄は数え切れないほどの短篇・長篇を書かれましたが、そのうちに私の興味はフィクション外に向いていきだしました。

 そのキッカケになったのは、『S・Fマガジン』第49号に掲載された「拝啓イワン・エフレーモフ様」でした。
 これは同誌の47号に載ったエフレーモフの「社会主義的SF論」に対する反論でしたがが、要するにエフレーモフのSF論には「SFを文学の伝統の中で眺める見方が完全に欠落している」という点から始まり、<科学の文学>と<文学の科学>へと言及されています。
 他の論説からも感じられることなのですが、大兄は論旨の立脚点というものを大切にしておられます。「原爆の文学」と「文学での原爆」について悩んでいた私には、たいへん参考になるものでした。
 そこで振り返ってみますと、東海村で原子の火が灯ったのは1957年8月、岡山県と鳥取県の県境にある人形峠ウラニウム鉱山の開所も同時期で、その診療所に私が非常勤の医師として赴任したのは3年後でした。旧制中学2年で呉海軍工廠に動員され、数度の空襲を受け、さらに広島で被爆した私としては、地球の運命や科学自体の動向には強い関心があったのです。
 これより少し後に、SF作家の東海村訪問が行われ、「ルポルタージュ・東海村、SF作家クラブ現地報告」(『S・Fマガジン』70号)が出ましたが、末尾に付けられた小松さんの提案の中で、「日本のような小国にとっては、原子力開発は国家事業でなければならない」という点が記憶に残りました。

 そうした私が感心したものの一つに、エッセイ集『地図の思想』(1965年、講談社)があります。大兄はこの中の初めのほうに、<広島の街は四、五年前来た時と少しもかわらず、ほこりっぽい活気にあふれていた>と書いておられます。これは並の眼力ではありませんが、大兄はすでに終戦の年の年末、徳山へ行く途中、車中から廃墟の広島をご覧になったのですね。
 このあとの『探検の思想』(1966年、講談社)では、伊勢、出雲、大阪などが舞台になり、1967年6月に刊行された『未来 怪獣 宇宙』(講談社)には『S・Fマガジン』第94号に載った「<未来論>の現状」が収録されています。この「未来論の一般的状況についてのしごく概括的な報告」という副題を付けた未来論は、素晴らしいレポートでしたが、その後に出た『未来の思想』(1967年、中公新書)は、まさに巨人・小松左京的なものでした。
 すなわち、人類が発明した最初の「未来の思想」は「死後の世界」に関するものだった、と終末観の問題を提示し、次いで「進化の思想」に触れ、「あとがき」においては、未来に対する考え方を史観の立場から眺め、輪廻史観・終末史観・進化史観にまで言及しておられるのです。
 日本未来学会の発足は1968年7月で、広島でも研究会が開かれたりしていましたが、大兄は最初からリーダーの一人でした。

 想えば小松さんは「時代の先端のもう一つ先を行く」人でした。
 たとえば「万国博覧会資料」(1966年刊)に載った「万国博はもうはじまっている」という論説は、4年後のイベントに対する考え方として、興味深いものでした。すなわち、万国博は目的ではなく手段であることを基調として、より良き明日への手掛かりを掴むためのものであること、あらゆる分野の「情報」の一大交流イベントであること、情報の集大成と高次情報の再生産を「文殊の知恵」効果と呼んでいることなどです。他方では文明が生み出す害毒が、よい方向へと解決されることの必要性にも触れています。
 その1970年、小松さんは万国博のサブ・プロデューサーを勤められました。「人類の進歩と調和」をテーマにしたこの博覧会は、とかく科学の進歩が目について疲れましたが、アジア・アフリカ諸国の手作りの民芸品、なかでも各種の仮面をならべたコーナーでは感動しました。このあたりは大兄の発案だった由、納得できるものでした。
 万国博と同じ年に開催された国際SFシンポジウムでも、小松さんは実行委員長として主役でした。
 小松左京名義の「趣意書ならびに計画書」が『宇宙塵』144号(1970年5月)には載りましたが、発起人や世話人の中には懐かしいお名前がたくさん見られましたし、主催は日本SF作家クラブと日本SFファングループ連合会議になっています。私たちの瀬戸内海SF同好会「イマジニア」も連合会議の一員でしたから、なんとか出席したいと思ったものでした。
 8月30日の本大会における講演テーマやその後のシンポジウムにおいて、現実の原爆問題は討議されなかったと記憶していますが、9月24日に放映されたNHK教育テレビ教養特集番組での、アーサー・C・クラークとの対談「未来社会の展望」で、小松さんは原水爆についても言及されていました。
 それは被爆者である私にとって、意識に残るものでした。

 私は日本SF大会にも、さほど熱心に出席したわけではありません。
 もともと広島はSF不毛の地でしたが、若い人たちが頑張って、第1回ヒロコンが1984年の8月18日と19日に、市内の旅館で開催されました。女性が4割だった由、のちの「あきこん」では女性が実行委員長になります。
 その第36回日本SF大会「あきこん」は、1997年8月23日と24日の土・日に、広島の宇品港に近い広島プリンスホテルを借り切ったような形で盛大に挙行されました。中国・四国地区では最初のコンベンションで、参加者は延べ2800人というからまずは成功でしょう。
 私自身は「梶山季之とSF」という話をしたのですが、第1日に小松さんと科学者とのパネル「サイエンス・アドベンチャー」は一番の目玉でしたし、そのあとで雑談の時間がもてたことは幸いでした。
 時は流れ、2007年の8月30日から9月3日までパシフィコ横浜で開かれた第65回世界SF大会(ワールドコン)は、初日の19時から開会式が始まって、ゲスト・オブ・オーナーの一人として小松さんが登場するに及び、一挙に盛り上がったと記憶しています。
 私自身は会期中に、東京で行われた研究会での講演予定があったりして、あまり時間が割けませんでしたが、遠くからながらも大兄のお姿に接することができたのは、やはり大きな収穫でした。
 そして今一度、「地には平和を」と広島について、書き留めておきたいことを思い出したのです。

 2005年10月31日(月)14時から16時30分まで、広島市中区白島北町の郵便貯金ホール(現・アルソックホール)において、小松左京さんの講演や朗読劇などのイベントがありました。
 主催は、非戦平和を願って60年間活動してきた浄土真宗安芸教区の委員会です。第1部の開会セレモニーのあと、第2部が小松さんの特別講演「広島と私 終戦の年の思い出」と対談「小松左京と平和を語る」で、第3部は語り「おえらびください」と朗読劇「地には平和を」でした。
 月曜日で所用が詰まっていたため私は出席できなかったのですが、この件は『小松左京マガジン』第21巻(2006年1月)にも「広島で『地には平和を』の講演と朗読劇」として載っていました。
 私は最初、自分が「地には平和を」に惹きつけられたのは、時代感覚のせいだと思っていましたが、この作品は、それよりもさらに広範な対象(読者)に訴える力を持っており、その作者は、作家という枠をはるかに超えた巨人だったのです。それを実感するのに時間がかかったのは、大兄があまりに巨大過ぎて、全体像を掴みかねていたからでしょう。
 宇宙の中で遠くから眺めたら、全体が見えるかもしれませんので、それを楽しみに、他日、お目にかかりたいと思っております。



天瀬裕康プロフィール