「八杉将司『光を忘れた星で』インタビュー」聞き手・高槻真樹

(PDFバージョン:interview_yasugimasayosi


「光を忘れた星で」
八杉将司著
講談社BOX
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=283765X

――八杉さん待望の新作ということで、事前に「こんな話なんだよ」とうかがってはいたんですが、予想とぜんぜん違って大変びっくりしました

八杉「えっ、そうだったんですか」

――全人類の目が見えなくなる小説なんだよ、ということでしたよね。ジョン・ヴァーリイの「残像」とかH・G・ウェルズの「盲人の国」みたいな感じかなと思っていたところ、全っ然そうではなかったという。

八杉「大分前に書いたんですけどね。なかなか新作を出してもらえなくて、ほとんどお蔵入り同然で、もうええわと思ってたんですよ」

――まあ、私も事前に話を教えてもらって「盲人の国」かなと思っていたら、実際の話を読んでみたら筒井康隆さんの「残像に口紅を」であったという

八杉「あはは、そうですね。あそこまですごくはないですが(笑)」

――何がすごいって、普通は目に見えるものをすべてカットして小説にするってできないじゃないですか

八杉「実は以前書いた『ハルシネーション』という短編(「SFJapan 2006spring」徳間書店掲載)が元になっています。それは動くものが見えない、という話を書いたんですね。その時に、視覚に関する本を何冊か読んで、いっそ視覚がまったくない世界を書くのも面白いよね、と思ったんですけど、ストーリーがまったく浮かばんよねと(笑)メモだけ書いて放置していたという。もし書くとしたら、一人称で、視覚に関する記述を全部省くことになるわけですけど、小説やったらできるやん、と気軽に思ったわけですよそれが間違いの始まりで(爆笑)。死ぬかと思いました。小説でしかできない作品、本当の意味で映像にできない作品というのもやってみたかったというところがありまして」

――実際に書いていくのは大変だったでしょう。どういう工程を取られたのですか

八杉「視覚の表現があったら徹底的に切っていく、書きそうになったら『待て』と。徹底するほうが書きやすいんですよ。たとえば「明るい」といった「明」という漢字がありますよね。発明という字にも『明』が含まれています。目が見えるうんぬんとは関係ないんだけど、でも使わないようにしようと。ほかには『手習い』という言葉。校閲からは『見習い』では? と指摘が入りましたが、あそこはあえて『手習い』なんですよ。本当はちょっと違う意味なんですけど、この世界では『手で習う』ということでいいだろうと。そういう風に『全部使えん』と割り切ってしまったほうがむしろ書きやすかった、というのはあります」

――そうすると、視覚に関する表現は一切出てこないと

八杉「そのはずなんですけど、たとえば『白々しい』という表現を使ってしまったことに後から気付いて『くそう』と思ったという(笑)だからそれぐらい徹底はさせてますけど、完全ではなかったですね」

――でも作家の常として自動筆記的に一気に書いてしまうんじゃないんですか

八杉「あーいやいや。それができなくて死ぬかと思ったんです(笑)」

――じゃあ一文単位で『違う、あ、これも違う』とか?

八杉「そうです。だから普通の作品の倍ぐらい時間がかかったというか。文章書いてはこれでいいのか、と確かめる。全部書いた後で確かめる方法もあるんですけど、一文一文の視覚描写ができないということで話も感情も変わってくるところがありまして。一文一文なるべく気をつけて書くようにせざるを得ませんでした。僕、書くのが早い方ではありませんけど、遅い時で一ヶ月に五十枚ぐらいしか書けなかったかもしれません。早くても百枚行ったら万々歳といったところで。もう最終的に目をつぶって書きたいと思いましたもんね。で、目をつぶってみたら『ハッ、書けない!』(爆笑)ブラインドタッチならできるんじゃね、と一瞬思った自分がアホかと思いました。そういう体験を二度三度しましたね」

――じゃあ、目をつぶってイメージしてから「よし」と書くという

八杉「あ、そういうこともありましたね」

――読んでいてすごく不思議だったのは、登場人物はすべて視覚というものを知らないというのに、我々が読んでいて思い浮かべるイメージはやっぱり画像なんですよ

八杉「実はこの作品を書く前に、先天性で目が見えない人が案内してくれるワークショップに参加したんですよ。普通の人が真っ暗闇の中で何か触ったり食べたりする体験をするイベントなんです。それが2007年にあったんですよね。この本の中に出てくる体験というのは、その時僕の感じたことをそのまま反映させてます。その時に感じたイメージが割と強烈に残っているんで、それが書く原動力になっていた、というところはありますね。実際に暗闇で動くということ、先天性で目の見えない方が暗闇でどう感じているかということを反映させていきました。先天性で目の見えない方がひとつどうしても理解できなくてイライラしておられることがあって、それは何かというと、宇宙が分からない。でも僕らにしても直接宇宙は見ていない。いろんな解析されたデータで見えた気になっているだけで本当に宇宙が見えているわけではない。実は宇宙に関しては目の見えない人も我々も大して差はないんじゃないかと思うんです。そこから視覚に関する距離のとり方が分かるんじゃないかと思ったんですよ。視覚とは真実が見えているわけではなく、目が処理した光の電磁波を頭の中で勝手に解釈した情報の一つにすぎないのであって、モノそのままが見えているわけではないんだな、とその時理解しました。下手すれば視覚なんてこんなもん超能力やと思いましたよ」

――でも私たちは俗に7割を視覚情報から得ているとも言われます。それをシャットアウトして作品が成り立つという自信はおありでしたか

八杉「活字ならいけるという確信はありましたね。というのは僕、映画を見たあと原作小説やノヴェライズを読むのって好きなんですよ。映画では描かれていないことでも原作小説やノヴェライズには書かれていたりする。人の感情とか理屈とか映画を見た後で活字で読むと新鮮な気持ちになります。そこはたぶん映像では表現が難しくて、文章だから書けるところであり、つまり小説であればそういった部分のみで構成した作品もできるんじゃないのか、という感覚はありました」

――そうするとこの作品の舞台設定を最終的にどうするか、というのは決めていなかったんですか

八杉「実はフラフラしてました。半分ぐらい書いてから書き直しましたし。進化の話も本当はああじゃなかったんです。すごいセックスシーンとかもあったんですよ。ていうのは、あれって視覚よりも触覚や聴覚で相手を感じることが圧倒的に多い。つまり視覚をさほど重要視しないコミュニケーションの一つなんですよ。だからこういった世界ではとても重要な要素になるはずだからと書いたんですが、進めていくうちに話と関係なくなったのでごっそり切りました」

――ちょっともったいなかったですかね(笑)

八杉「若干におわすところは出しましたけどね。セックスの意味かコミュニケーションの意味か区別がつきにくいんですよ。結果として人と触れ合う、手を握ることで相手を感じるとなると…僕は友情の話を書こうとしたのに(笑)どうしても色恋の話になってしまう」

――こういう話は普通主人公が特殊能力を持っていて、そのことが周囲と軋轢を生んでドラマが転がっていきますが、主人公が劣等生ですね

八杉「普通と逆にしたかったんですよ。全人類が目が見えない場合は、虐げられるのは目が見える人ということになるだろうと。この話を書こうと思ってウェルズの『盲人の国』を読んでみて『似てる、やばい』と思ったんですが、まあええわと書いてしまいました」

――でも似ているようで違いますよ。「盲人の国」も「残像」も語り手は目が見えるわけですから

八杉「そうです。それはしたくなかった。それをしたら意味がないと思いましたから。視覚を失う話はたくさんあるだろうなと思ったんですが、視覚表現を全部切った小説は聞いたことがなかった。そこまで過激なことをすれば耳に入っているはずで、たぶんないんだろうなと思いました。島田雅彦さんの、目の見えない女の子を主人公にした短編は見つけましたけど、それも視覚を全部切っているわけではなかった」

――まあ、長編で書くのははるかに難しいですし。しかもおそろしいことに、途中で目が見えるようになったら普通になるのかと思いきや、見えるものひとつひとつにいちいちつまづく有様を全部書いていくというすさまじいことになっていた

八杉「僕もね、目が見えるようになったら楽になると思っていたんですよ。そして実際に書き出してみたら、うあー何これもっとしんどくなってるやん、という感じになっていたという(笑)一応参考文献はあるんです。先天的に目が見えなかった人が手術を受けて見えるようになったときにどんな風に感じるか、その本を参考に書いています。色彩に引き寄せられるというところもそうですね。この本の表紙でマユリのズボンが赤いでしょ? 文中にはないんですが、輪郭よりも色彩が強く感じられる、という現象に沿っているわけですよ。って、描いてくださったイラストレーターの方に直接聞いたわけではないのですが。映画で『ブラインドネス』ってありましたでしょ。その原作がジョゼ・サラマーゴの『白の闇』という小説でして、その装丁をしていたのがこの中山尚子さんだったんです。それでお願いしたんですよ。そうしたらこんな絵が上がってきて、すごいって感動しましたね」

――えっ、八杉さんの推薦だったんですか

八杉「講談社で本にすることになった時に『で、誰に絵を頼みましょうか』って振られて…僕に聞くの!と驚いたという(爆笑)『白の闇』の装丁の淡い色彩が気に入っていたんで一応挙げてみまして」

――今回のはSFファンには絶賛でしたけどね。確かにラノベ的ではないんですが。どちらかというとジュブナイル的で

八杉「そうみたいですね。僕はまったく意識していなかったんですが。これを書く前からも児童文学の会員の人から『八杉さん、ジュブナイル書かないの』って言われてましたから。まあ、少年を主人公にしてることもあるんでしょうが…僕、あまり難しい文章書けないし」

――でも科学描写もあるのにすごい平易ですよ

八杉「僕は大学も法律ですし、理系は早々に切って捨ててます。だからそこで書こうとするとああいう形になるんですね」

――一人称が生きていました

八杉「なるべくセリフで説明しようとしましたから。まあ、途中で視点変更もあるんですけどね。最初から主人公だけの一人称やと読者もしんどいやろうと。僕の過去の作品への批判で、一人称で書くので世界がどうなっているか書ききれていない、というものがありました。確かに一人の人間の視点からだけで書くのは苦しいので、今回は途中で人称を変えてやろうと思ってました」

――ネットでも本当に絶賛の嵐でしたね

八杉「あまりにも極端な設定で書いてしまったので、次はもっと普通になるから怒られるんだろうな、とは思いますが(笑)」

――自分の立ち位置はどのへんに置いておられます?職人のようなことを前には言っておれましたが

八杉「あ、それは変わりません。『こんな風にしてください』とお願いされる方が書きやすいですもん。ただ、僕が書きたい根本的なところはSFでも時代劇でもホラーでもどんな形でも書けるだろうとは思ってます。SFを書き始めたのもSF作家クラブに入ってからだし」

――えっ、受賞作はSFじゃないんですか??

八杉「実はあまりSFを意識していなくて…もともと小松左京賞の方に出そうと思っていたんです。最終の審査員が小松左京さんお一人でしたから、SF以外も受け入れてもらえそうと勝手に思い込んで。あれがダメだったらファンタジーノベル大賞の方に出そうと思ってました。小松左京賞の締め切りには間に合わなくて…SF新人賞の方にえいと出したら受賞しちゃったんですよ。なので、SFを意識しだしたのはその後です」

――でもSFはもともとお好きだったんでしょう?

八杉「みたいですね(笑)でもプロパーのSFサークルに所属したことがなかったので、自分が書いているものがSFかどうか自信がなかった。上田早夕里さんが言っておられましたけど、僕も『日本沈没』が原体験で。もちろん僕の小さい頃は映画もテレビドラマもありません。ただ親がテレビドラマ版がすごい好きで、祖父のところに行くたびに『日本沈没すごかった、だって姫路城が壊れるんやで』と言ってた(笑)というのは祖父の家は姫路城の裏にあったんです。散々聞かされて見たい見たいと思ってたわけですがでも見せてくれない。僕は小学生のころから活字も結構読んでいたんですが、原作本も読ませてもらえない。原因は後々分かりましたけど。エロ描写があるんで(笑)でも小学校五年か六年の時にようやく買ってもらってむさぼるように読みましたけどね。映画版はテレビで中学生の時に見ました。感無量でしたね。その後親が『首都消失』とか『さよならジュピター』とかの映画に連れてってくれましたけど、原体験としてはそのあたりにあるんですね。でもまだSFとして意識はしていない」

――それもあって小松左京賞に出したかった?

八杉「それもありました。その後SF新人賞に応募した後で、その年の小松左京賞受賞者の上田さんが同じ姫路の人だと聞いて、ああ僕の受賞はなくなった、と思いました」

――選抜高校野球じゃないんだから(笑)地域バランスなんて考えるわけないでしょう

八杉「まあそうなんですけど、狭い姫路から二人も受賞者が出るなんて考えられなくて。僕、それまで賞に応募して一次選考も通ったことがなかったんですよ。ライトノベル関連のレーベルに応募してたんですけど、一度一次を通っただけですよ。だから最終選考まで通ったと聞いて、知り合いに知らせまくりました」

――まだ受賞する前じゃないですか(笑)そういえば、八杉さんが小説家を志したきっかけって何ですか?

八杉「僕、もともとそんなに本を読む人間やなかったんです。一ヶ月に一冊程度。でも大学に入ったら自分の時間ができて、将来どうするの、と考えた時にフッと「小説家になろう」と浮かんだんです。それ以外に思い浮かばなくって。それでガチッと決まりましたね。実はそのとき、荒巻義雄さんの『紺碧の艦隊』などの『艦隊シリーズ』を七十巻近くずーっと追いかけて読みまして、作者が考えるために書く小説というものの存在を知ったんですよ。その世界がどうなっている、というのを考えるために書く、というのがすごい新鮮で、『書く』という行為も面白そうやなと思ったわけです」

――荒巻さんの「シミュレーション小説の発見」は読まれました?

八杉「読んだと思います。それまで特にジャンルとしてのSFを意識していなかったんですね。あの本を読んでからSFを意識するようになったのかもしれません。『SFマガジン』の存在も知っていたかどうか…山本弘さんの『サイバーナイト』とか好きでしたが、SFとしては意識していないし、SFを系統立てて読むということもしていない。ただ、徳間文庫銀背のSFは何か好きでした」

――そうすると、SFを意識しないプロパー外の読者にアピールしていくのが自分の使命だと?

八杉「いや、そんな使命感はないんですが(笑)あまり勉強ができたわけでもないので、自分に分かるように噛み砕いて書いていけば、分かりやすく読みやすい話が書けるなという手ごたえはあります。だから小説を書く時にどんな読者に読ませたいかというよりは、自分に対してどう読ませていくか、自分はどんな話が読みたいのか、というのを常に意識しています。それは自分が書きたいもの、ということではないんですよ。もっとアクションばりばりのものとかたくさん書きたいんですけど、それは書いていて気持ちいいというだけのことで、僕が読んで面白いかというと別なんですね」

――ずっと一人称で書いてこられたのはこだわりですか?

八杉「いえ、物語としての必要上一人称で書いてきただけで、必要ならば三人称で書きますけどね。ただ、デビュー作にしてもあれは一人称でなくてはいけなかったんです。今回も一人称でなくてはダメだったんです。もちろん読者が感情移入しやすいということもありますが…一人称には、一人称でしかあらわせないものがある。一人称で書く場合なら、『ぼく』は少年、『俺』は二十代ぐらいの青年、『私』はそれ以上の大人、と使い分けています。あ、むろん性格で分けることもありますよ。その時の気分なんですが。結構微妙なんですけど、自分の体験では中学生一年生の時は自分の呼び方は『僕』やったんですね。二年生になって後輩ができると『僕』ではナメられるので『俺』になりましたけど先輩には相変わらず『僕』なわけです。つまり、人と人の関係によって人称というのは変わる。それが僕の考え方ですね。『光を忘れた星で』の場合は目上の人と話すことが多く戦闘的なことをするわけではないので『ぼく』、『夢猫』の場合は同世代と話すし軍隊の話でもあるということで『俺』となります。これに対して『私』は長いスパンで過去を回顧するような時に使うでしょうか。活字は情景を直接見せられないので、読者にイメージしやすくする必要がある。だから僕にとって小説の中の『僕』は青年や子供ですから、あくまでひらがなで『ぼく』なんです。『俺』はあくまで漢字。『私』はひらがなで『わたし』ならば女の人ということになるでしょうか。あれはそれぞれがひとつの顔だと思っているので。ただ、あまり迷うようなら三人称にしてしまいますね。だから『SFJapan』の最終号に書いた『一千億次元の眠り』の場合はあえて三人称にしてみました。少し突き放したかったんですね。だから人称にはこだわります。文章自身にももっと凝りたいんですけどね…なかなか難しい」

――でも「光を忘れた星で」は大変に凝っていますが。あれは書いておられる時どういうイメージを思い浮かべておられましたか

八杉「文字ですね。あとはワークショップに参加した時のイメージと」

――これだけややこしい状況が平易に書けてしまうというのは衝撃でした

八杉「ややこしく書いてしまったら僕が分からなくなりますから(笑)最近は、自分が分からないことをそのまま書いてしまうのも面白いかなと思い始めているんですけどね。実は『光を忘れた星で』を書いてる最中に伊藤計劃さんの「ハーモニー」が出版されたんですが、あれが結構ショックで、ご覧のとおりネタがかぶってる部分もあったものだから、作品の後半は「ハーモニー」を受けて書き直しました。あれとは違う方向に行こうと途中で舵を切り替えたんですね。そのあたり、僕の人間と個人に対する思いを託したつもりです。だから、読み比べてもらうと面白いかもしれない。まあ、いろんなところから怒られてしまうかもしれませんが(笑)」

(2011年4月4日、神戸三宮にて)



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『光を忘れた星で』