「幽霊」八杉将司

(PDFバージョン:yuurei_yasugimasayosi
 ぼくは本を読んでいた。
 読書が趣味で、休みの日は一人で買い込んだ本を読み漁っていた。
 でも、今、手にしている本はあまり面白い内容ではなかった。本屋でタイトルを見てつい衝動買いをしてしまったノンフィクションだったが、その著者の持って回った言いまわしにうんざりしていた。表現が違うだけで同じことを繰り返していたり、テーマと関係ない独りよがりな日常の持論を延々と語っていたりするのだからたまらない。とはいえ買ってしまったので読まなくてはなんだかもったいない。
 時刻は夕方で、小春日和の天気は部屋を気持ちよく暖めてくれた。
 そんな中でその本は、当然のごとく、ぼくを居眠りへといざなう。
 うとうとし出した。もう文字は目に入ってこない。まぶたが半分閉じていた。
 起きなければと思った。こんな中途半端な時間に昼寝なんかしたくなかった。
 だけど、体は動かなかった。
 指先一つ曲げられない。
 そこで人の気配がした。
 アパートに一人暮らしなのでほかには誰もいないはずだった。そういえば玄関の鍵を閉めただろうか。勝手に誰かが入ってきたのかもしれない。
 起きて注意しなければ……でも、体は動かない。ぼくは金縛りにかかっていた。
 その気配はぼくに近づいてきた。
 歩くたびに金属が打ち合う音が聞こえた。輪郭がぼんやりしていたが、徐々に見えてきた。ぼろぼろの鎧をまとっていた。泥だらけの足を引きずりながらやってくる。髪は長く垂れ下がっていた。信じられないことに落ち武者だった。だけど、顔はよく見えない。
 そう思ったら、そののっぺらぼうのような顔を急にぼくの正面に近づけた。悲鳴を上げかけたが、声すら出なかった。青白く頬をこけた男の顔が、息もかかりそうな距離にあった。
「その首、もらいにきたぞ」と、落ち武者は気味悪い声で言った。
 ぼくは恐怖に背筋が凍った。これまで心霊現象なるものを一度も体験したことはなかったのに、とうとう現れたかと思った。
 ところが、落ち武者は声色をころっと変えて、真面目腐った口調で言った。
「なんて冗談ですよ。落ち武者の幽霊とでも思いました? 違いますよ。私はあなたの幻覚です」
 幽霊が自分を全否定した。いや、自分の正体を正直に明かした。いやいや、幻覚が自分は幻覚だと自己申告するものか。幻覚じゃない?
 落ち武者はぼくの心を読んだらしく答えた。
「そう言われましても幻覚は幻覚でしてね。悪いのは私ではなく、あなたですよ。あなたが私という幻覚を作り出しているわけで。ああ、でも、ある意味幽霊でもありますが」
 どういうことだろうと思ったら、落ち武者は説明しましょうと語り出した。
「幻覚とは記憶です。記憶は海馬を含め、側頭葉内側部付近で形成されます。その部位で神経インパルスが異常に発火したりすると、連想的にいろんな記憶が導き出されることがあります。たとえば強い磁気を側頭葉付近に与えて神経細胞に刺激を与えると、死んだ親や三途の川を見る臨死体験に近い体験をすることがあります。あなたの場合、体が動かなくなる金縛りになっていくらか恐怖を感じたでしょう? それが呼び水となって、過去に記憶した幽霊のイメージが落ち武者の視覚イメージとして私を出現させたんですよ。実は幽霊の正体とはたいていがこれでしてね。だからある意味、私も幽霊とも言えるわけです」
 落ち武者が脳神経科学による解説を淡々としているのは妙な光景だった。ただ、その披露した理屈は、ぼくも過去何かの本で読んだことがある内容ではあった。
「そうです。私は幻覚ですから、あなたの脳が抱える以上の情報は引き出せません」
 じゃあ、どうしてそんな説明をしたのだろうと思った。
「知っていても忘れてしまっているかもしれませんからね。事実、幽霊が幻覚である可能性の情報を持ちながら、私を幽霊だと信じて恐れたでしょう? 忘却とは記憶が消されたということではありませんので私も扱えるんですよ」
 なるほど、だけど、わざわざ説明までして幻覚であることを知らせようとする理由は何だ。
「知ってもらいたかったんですよ。私の存在をね」
 どういうことだ。おまえは幻覚じゃないか。
「そうです。しかし、すべての人間は幻覚とともに生きているのです。現実にいると思った人々は実は幻覚である場合もあるんですよ」
 嘘だ。いくら何でも現実と幻覚の区別はつく。幽霊とか心霊現象とかいって驚くことはあるにしても。
「それは気づくことのできた幻覚です。気づくことができない幻覚もあります。ずっと一生、幻覚と思わず現実として認識してしまうこともあります。というか誰もがそのような幻覚の人間を一人や二人持っているものです。あなたがご存知ないだけで」
 馬鹿な。幻覚は幻覚だ。現実にあるものとは違う。どこかでおかしいとわかるはずだ。
「そうでもありませんよ。人間の脳とは不都合があると強引にでも辻褄あわせをする能力がありますからね。たとえば人間の目には盲点があります。マリオット暗点とも言いますが。眼球の構造上、一部視野が欠落しているんですよ。ですが、普段はその欠落を感じることはありません。脳がその部分を補完した視覚情報を意識に上らせるからです。ほかにも見たことのない光景を知っていると思い込んだり、都合の悪い記憶を無意識に改ざんしたりもしますね。そもそも自分の知識では説明できない現象に遭遇したら幽霊だの、UFOだのといったものに押し付けて納得してしまうのも脳の性質によるものです。ほかにもコルサコフ症候群による作話、分離脳手術を受けた患者による左脳の強制解釈、心理学でいう確証バイアス……とにかくあまりにリアルで、またその人物にとってそうであって欲しい幻覚はそうそう消えることはありません。一生、現実の存在としてその方の前だけに現れていることはよくあります」
 ……ぼくにもか。
「そうですが、具体的に誰かとは申しません。あなたにとってショックが大きいですし、その正体が知られたら消えてしまうかもしれません。私もまだここにいたいですからね」
 では、どうして教えた。放っておいてくれたらいいじゃないか。
「そうなんですけどね。幻覚は幻覚なりに生きているのです。あなたの脳の中でね。ですが、長らくあなたとお話をする機会が得られませんでしたので……まあ、私もさびしかったんですよ」
 それはどういう……。
「では、ここまでにしましょう。金縛りはすぐに解けますよ。ただの入眠時レム睡眠ですから。それではさようなら。お話できてよかったですよ」
 落ち武者は背中を向け、足を引きずりながら部屋から去っていった。
 やがてまぶたが開いた。体も動く。中途半端な睡眠をした寝起きみたいに頭がぼんやりしていた。
 幻覚を見た記憶はぼんやりとあった。
 あれは夢だったのだろうか。
 そうかもしれない。落ち武者と会話をしたことはなんとなく覚えているのだけど、内容まではうまく思い出せなかった。こういうのも夢とよく似ていた。
 本を閉じる。もう読む気がしなかった。
 目を醒まそうと思い切り背伸びをする。
 そこで脈絡もなくふと気づいたことがあった。
 そういえばもう何年も両親と話をしていない。
 ぼくは一人暮らしが長く、仕事も忙しいので遠くに住む親の元に帰ることはない。たまに電話をしていたが、ここ何年かはそれもしなくなった。
 なんとなく声が聞きたくなり、ぼくは電話に手を伸ばした。

                           (了)



八杉将司プロフィール


八杉将司既刊
『光を忘れた星で』