「復活の船」片理誠

(PDFバージョン:fukkatunofune_hennrimakoto
 この世界はまるで牢獄だ、と告げた俺に対して、眼前の美女が手元のワイングラスから顔を上げた。
「なぜそのように思われるのですか、勇者様」
 雪のように真っ白なキトンに身を包んだふくよかな彼女は、とろけるような柔和な笑みを浮かべる。
「ご覧下さいませ、この花園を。騎士様がたが蛮族よりお守りくださればこそ、薔薇もかように咲き誇っていられるのです」
 俺は周囲を見渡す。
 大理石でできたこの神殿を色とりどりの薔薇が幾重にも取り巻いていた。まるで虹に囲まれているかのようだ。大勢の女たちが蝶を追いかけながら、アリアを高らかに歌っている。
 そう。一見しただけならここは確かに美しい。だがここの薔薇は、永遠に枯れることがない。
 蛮族どもの襲撃にしてもそうだ。必ずこちらが勝つよう、事前に設定されている。下らん。俺はただ、この誰かがしつらえた貧相な舞台で安っぽい三文芝居を繰り返しているにすぎない。何が勇者様だ。操り人形も同然の身の上ではないか。
「ここには“希望”がない」呟くようにして俺は吐き出す。「美味い酒、美味い飯、美しい女たち。欲しいと思うものは何でも手に入る。だが希望だけは決して手に入れることができない。つまり、牢獄と同じだ」
「なぜ希望がないなどと」
「なぜならば、この世界には逆境がないからだ。希望はその先にしか存在し得ない。何もかもに満ち足りているこの世界の果てにあるのは、絶望だけさ」
 軽い酩酊に身をまかせながら俺は過去に思いを馳せる。薄暗い通路、赤い常夜灯、白っぽい金属製の階段、その先にあの部屋はあるのだ。暗闇の中、血のような色のマントを羽織った、髭面の男がそこには立っている。仁王のような迫力と、魔王のような不敵な威厳をその全身にたたえながら。ギラギラと輝く血走った目、長年の風雪によって頬に刻まれた深い皺、人懐こく歪められた口の端。その全てが昨日のことのように蘇ってくる。だがどうしても思い出せない。あれはいったいいつのことだったのか。どこだったのか。そもそも俺は何者なのか。
 突然、周囲にいた美女たちが歌うのをやめた。いや、動きが停止したのだ。辺りの草花も色鮮やかな蝶たちも、全て停止している。何もかもがブルブルと震動していた。世界全体が震えている。
 何だ、と思う間もなく電子音が鳴り響いた。
 ──緊急覚醒命令ガ実行サレマシタ。

 気がつくと氷のように冷たいカプセルの中に横たわっていた。全身がまだ濡れている。慌てて蓋を押しのける。薄暗い部屋だった。
「ここは、いったい」
 周囲が上下左右に激しく揺れている。この揺れには覚えがあるが……?
 とにかく凍てつくように寒い。俺は引きちぎるようにして濡れた寝間着を脱ぐと、壁に掛けられていた服を手に取った。何かの制服のようだ。厚手の紺色のジャケットには金のボタンが二列になってついている。白い制帽を目深にかぶるとなぜか、行かなくてはならない、という炎のような使命感が体中を駆け巡った。
 廊下に飛び出す。薄暗い通路、赤い常夜灯、全ては遠い記憶の通りだ。辺りには大勢の男たちがいて、口々に何かを喚き合っていた。右に左にと、床も壁も天井も激しく揺れる。俺は階段の白っぽい金属製の手すりにすがりつくと、そこを一気に駆け上がった。革靴の踵が甲高い金属音で調子の外れたファンファーレを奏でる。行かなくてはならない、急がなくてはならない。俺は激しくうねる通路を全力で駆けた。突き当たりのドアに飛びつき、力任せに引いて中に。叫んだ。
「キャプテンッ!」
 窓からの雷光がブリッジ内に強烈なフラッシュを浴びせる。
 やっと来たな、と髭面の男が口の端を嬉しそうに歪めた。

 舵を変われ、と言うなり彼はレーダーモニターに飛びついた。俺は慌てて船のステアリングをつかむ。
「いったい何があったんですッ!」
 分からん、という彼の銅鑼声。
「恐らく地殻変動だ。『快適なる夢幻冷凍睡眠者の聖域』は海に沈み、俺たちは命からがら逃げ出した! もう戻れんぞ!」
 船長の制服の上から赤いマントを羽織り、ボロボロにすり切れた白い制帽を斜めに被っている。灰色の髭に顔の下半分が覆われ、髭に覆われていない部分は皺が深い。長年の潮風によって刻まれたものだ。そう。全てが記憶のままだった。仁王のような迫力、魔王のような威厳──
 戻るですって、と俺は叫び返す。
「あんな無間地獄はもう二度とご免です!」
 重たい操舵輪を握りしめる。俺が今立っているのは大きな貨物船の操舵室。そうだ。思い出した。俺はこの船に乗ってきたんだ。
 今、船は激しい暴風雨の中にいた。横殴りの雨が窓をひっきりなしに叩く。外は星明かり一つない闇だったが、数秒おきに空を走る稲光が何もかもを鮮明に映し出している。照明など不要ないくらいだ。小山ほどもある黒い巨大な波が次々に押し寄せてくる。そしてその向こうで肩を寄せ合う巨人のように佇んでいるのは──
「せ、船長! きょ、巨大な氷山が!」
「分かってる! 右舵一杯(ハードスターボード)!」
「ハードスターボード、サー!」
 俺はステアリングを思いっきり右へきる。
「左舷全速前進(フルアヘッドポート)!」
 エンジンテレグラフの前に立っている男が船長の命令を復唱する。
 やがて貨物船は、その巨体をゆっくりと右へよじり始める。船の舵はすぐには効かない。大型船ともなればなおさらだ。そこにはもどかしいタイムラグがある。
 純白のレースをまとった、夜と見分けがつかないような暗さの巨大な波が上から覆い被さってくる。船は獣じみた咆哮を上げながらそれを懸命に乗り越える。稜線の頂点で、まるで雨雲を突き抜けてその向こうにある星の海にまで行こうとしているかのように、その巨体を宙に踊らせる。だが次の瞬間には力尽き、瀑布の如き飛沫を巻き上げながら波の向こう側へと倒れ込む。数十メートルを一気に駆け下り、次の波に船首を突っ込む。船体のほとんどが冷たい海水に埋まり、操舵室の辺りにまで濁流が押し寄せる頃、船は沸騰したような膨大な泡とともに巨大な水の塊を押しのけながら浮かび上がり、再び上に向かって進み出す。
 ブリッジは上下左右に激しくうねる。吹きすさぶブリザードがどこからか吹き込んでくる。唸りを上げる風と、絶え間なくぶつかり続ける波の音。稲妻がブリッジにいる男たちのシルエットを不気味に浮かび上がらせる。エンジンの振動がはらわたを揺さぶる。垂直に波を上ったかと思えば、次の瞬間には垂直に落下。可変ピッチプロペラが海中で悲鳴をあげながら盛んに泡をかき混ぜているのを俺は握りしめたステアリングから確かに感じていた。二基のディーゼルエンジンは三万馬力もの推力を生む。だがその持て余すほどのパワーをもってしても襲いかかってくる海水を完全には押しのけることができないでいるのだ。船が、波に押し負けている。
 左舵一杯(ハードポート)、 右舵(スターボード)四十五度! 両舷半速前進(ハーフアヘッドツー)! 右舷全速前進(フルアヘッドスターボード)! 船長の指示は目まぐるしく移り変わってゆく。その度に船は船首で円を描きながらも、砂漠でのたうつ鯨のように、左へ右へとその巨体をよじった。海に浮かぶ巨大な氷の塊を紙一重で避けていく。
 だが「進路そのまま! 全速前進(フルアヘッド)!」という彼の突然の指示に俺は耳を疑い、目をひん剥いた。
 目の前には空を覆い尽くすほどの巨大な氷山が二つもある。正気か? あんなところに突っ込んだら、こんな貨物船などひとたまりもない。紙くずのようにつぶされて、木っ端微塵に砕け散ってしまう!
「どうした! 復唱せよ、甲板長!」
「む、むむ、無理です、せ、船長! か、か、回避を!」
「あそこをゆく以外にこの海から抜け出す道はないのだ! 直進だ! 復唱せよッ!」
 駄目だ、助かりっこない。八つ裂きにされて氷の海に撒き散らされる自分の姿が眼前にちらつく。氷山と氷山の隙間。あんな狭いところを通り抜けられるわけがなかった。右か、左か、舵を切らなくてはならない。は、早く、早く回避を──
 だがこの時、ブリッジの誰かが叫んだ。「俺たちは帰ってきた!」と。
「あのふやけきったぬるま湯の中から、この寒風吹きすさぶ荒海に!」
 おおッ、とこの場にいる全員が応える。そうだ! そうとも! これが命だ、これが人生だ! 充足? 満足? 糞ッ食らえだ! 何が聖域だ! 何が楽園だ! 不屈であること、それが俺たちの全てだ! たとえここが地獄であったとしても!
 吹きすさぶ嵐に負けじと、全員が狂ったように口々に叫ぶ。バラバラだった雄叫びがやがて集まり、一つになって、耳を聾さんばかりの鬨(とき)の声となった。
 俺も一緒になって叫ぶ。俺たちは帰ってきた! あの魂の牢獄から、この荒れ狂う海へ、この“死ぬかもしれない世界”へ!
 そうとも! 俺は今こそ覚醒する。ここでは生きようとする者だけが生をつかむのだ!
 操舵輪をガッシと掴み、船長に怒鳴り返した。
「イエッサァアアアーーーッ! 進路このまま! 前進ッ! ヨォォォソロォォオオオッ!」
 全身の筋肉を硬直させ、ステアリングを砕かんばかりに握りしめる。もはや微動だにさせることもない。誰かが「機関室ッ! 両舷全速だ! 焼き付いても構わん!」と叫んでいる。船はその体を左右に激しくうねらせながら巨大な氷山と氷山の間に突っ込んでゆく。それは間断なく閉じたり開いたりを繰り返していた。あの氷の門の先に、と俺は目を細め睨みつける。両肩が強ばる。いがらっぽい焦燥感が炎のように背中を這い上ってくる。
 ──あの先に俺が焦がれ続けたものがある。
 ヨウソロォ、と誰かが叫ぶ。周囲がそれに呼応する。大合唱。俺も叫んだ。ヨォォォソロオオオッ! ヨォォォソロォォォ! ヨォォゥソロォォオオオウ! 俺たちは帰ってきた! ヨォォォソロォォオオッ! この苦しみの海にッ! この苦難に満ちた世界に! ヨォォソロォォーーーッ! ヨォォソロォォーーーッ! ヨォォソロォォオオオ──



片理誠プロフィール


片理誠既刊
『Type:STEELY 上』
『Type:STEELY 下』