「からっぽな宗教」増田まもる

(PDFバージョン:karapponashuukyou_masudamamoru
 神社が好きで、旅行先などで神社をみかけると必ず立ち寄るようにしている。由緒正しい大きな神社はもちろん、名も知れぬ小さな神社でも、お参りをするとなんとなくすがすがしい気持ちになる。
 だれもが知っているように、神社には寺院の仏像のような具象的な礼拝の対象はない。鳥居や狛犬やご神木、そして社殿と拝殿があるだけだ。それなのに、お賽銭をあげて拝礼して、ぱんぱんと音高く柏手を打って家内安全などを祈ると、なぜかしらすっきりとした気分になる。
 かつてはその理由を神社の成り立ちに求めて、神社の由緒や神々の系譜などを調べたり、背後の山や奥之院まで登って古代の人々がその地を聖地とした理由をつきとめようとしたりしてきた。古い神社の背後の山にはしばしば古墳や磐座(いわくら)があって、日本人の信仰の原点を見る思いがしたものだった。
 しかし、最近ではそれらの個別の情報にはあまり興味がなくなった。むしろ、鳥居と樹木と注連縄(しめなわ)に囲まれた、このなにもない文字通りからっぽな空間が、なぜこれほどまでにわれわれの心をひきつけるのだろうかと考えるようになった。
 そもそも神道とよばれている日本古来の宗教はかなり独特なものである。なにしろ教義がなく、それゆえ倫理的な規範もない。神とよばれるものを拝んではいるが、それがなんだかよくわからない。善きものなのか悪しきものなのかもよくわからない。どんな姿をしているかもはっきりしない。ただ人間にはどうしようもないものとして畏れられたり拝まれたりするだけである。そのため神道は、シャマニズムやアニミズム、あるいは多神教といったレッテルを貼られ、原始的な宗教とみなされているが、じつは世界のすべての宗教の根っこにそういった要素はかならずふくまれているから、それを神道の特徴といってもなにもいっていないのに等しい。
 それでは神道の本質はなんだろうとずっと考えてきたのだが、最近になってひとつの答えがみつかった。それは「中身がないこと」そのものだった。それを具現化したものが神社である。神という人間の理解をこえたものが立ち現われるために、神社はからっぽでなければならず、それを維持するためにたえず掃き清められていなければならない。神道という宗教もまた、人間の理解をこえたものを受け入れるために、教義にあたる部分がからっぽで、ことばによる説明や意味づけを人間のさかしらとしてつねに排除しつづけなければならない。その一方で、そのからっぽさを守るために、表層をさまざまな儀式で飾ることはむしろ積極的に歓迎される。仏教が伝わってきたときも、思想には目もくれずに宗教儀礼だけとりこんだので、外見的には仏教が広まったように見えても、日本人の魂は神道のままだった。神仏習合ということばがあるが、そんなものはなかった。無常観ということばがあるが、実態はからっぽだった。のちにキリスト教が伝わったときも、おなじことが繰り返されただけだった。要するに、日本人は有史以来ずっと神道だけを信じてきたのである。
 これはかなり特異な宗教ではないだろうか? 人間は生きていくためにつねにまわりの環境を理解しようとしてきた。ことばであらわしたり意味をつけたりして、体系化しようとしてきた。そのもっともめざましい精華が科学であったといえるだろう。しかし、神道はそのような意味づけを拒絶する。教義にあたる部分をからっぽのままにしておくことに全力を注いできたといってもいいだろう。
 どうしてこんな変わった宗教が生まれてしまったのか。これはあくまでも試論だが、ひとつの仮説を提示してみたい。
 まず、この年表を見ていただきたい。
 八六四年 富士山噴火
 八六七年 別府鶴見岳・阿蘇姫神噴火
 八六八年 京都群発地震・播磨国地震
 八六九年 陸奥沖海溝地震(貞観の大地震)・肥後国津波地震
 八七一年 出羽鳥海山噴火
 八七八年 関東大地震
 八八〇年 出雲地震・京都群発地震
 八八七年 東海南海大津波地震
 これは九世紀後半のわずか二十三年にこの国を襲った地震・津波・噴火の記録である。これに飢饉や疫病まで加えると、文字通り天変地異と自然災害の連続である。もちろん、これはもっともひどい時代の記録であるが、有史以来、この列島に住みついた人々は、ほとんどつねにこのような過酷な自然災害に直面しなければならなかった。人災ならば腹立たしくても理解はできるし、打つ手もないわけではない。しかし、これらの自然災害はなんの予告もなく襲ってきて人々の命を奪い、生活の基盤を破壊していく。なまじこの列島の自然環境が温和で恵み豊かであるだけに、ふいに襲ってくる災害は理不尽きわまりないものとして感じられたにちがいない。
 このような環境におかれた日本人は、それを体系的に意味づけすることをあきらめたのではないかと私は思う。上記の年表をあらためて見直してほしい。ここになんらかの意味があるだろうか? 大いなる意志のようなものがはたらいていると感じられるだろうか? どう考えても、そんなものは見いだせない。もっと積極的に、意味などないのだと達観してしまうことしかできないのではないだろうか? できることといえば、この世の無意味を前提として、災害で死んでいったものたちを悼み、すべてを失った悲しみを癒すために、さまざまな儀式をつくりあげることだけだったのではないだろうか?
 教義も意味も真理もなにもないからっぽな「宗教」を。太古から伝わるさまざまな儀式や仏教などの外来の宗教からとりいれた儀礼で飾り立てたもの。これこそが神道であり、さらに踏み込めば、日本の文化そのものではないかと考えている。



増田まもるプロフィール


増田まもる既刊(翻訳)
『パラダイス・モーテル』