「ほんとうの敵」坂本康宏

(PDFバージョン:honntounoteki_sakamotoyasuhiro
 最近、いじめによる自殺事件が問題になっているせいだろうか。
芸能人や著名人の『いじめられっ子だった』というカミングアウトが目につく。もちろん、程度の差を問わなければ、ほとんどの人にいじめられた体験はあるだろう。しかし、僕にはどうも程度の差をひとくくりにして過大申告し、好感度をあげる一手法としているように感じられてならない。
 芸能界には、いじめられっ子しかいないわけではあるまい。『体が大きかったからいじめられた』などといういじめが本当に深刻なものだったのか、首をかしげざるを得ない。
 そういう人のコラムを読んでいると『いじめは必ずなくせる』などというキレイ事を声高に叫んでいる人が多いが、そんなこと、事実上不可能であることは、みんななんとなくわかっているはずだ。
 周囲を見渡してみると、動物の世界にだっていじめは存在している。ただ、それをひとくくりにして、生存競争とか弱肉強食という言葉に置き換えているだけだ。
 たとえば、鳥の雛は生存能力のない弱い雛を、巣外へ蹴り落とすし、熱帯魚を水槽で飼えば、弱い仲間をいじめ殺すことがある。つまり、いじめというのは、生命体が自分より弱い者を駆逐し、強い者たちだけで、さらに強い子孫を残していこうとするいたって普通の行いなのだ。だから、博愛精神で人間だけがこれを克服できるのか、はなはだ疑問と言わざるを得ない。
 たとえば、苛烈ないじめを受けている子を、他の学校に転校させたらどうだろう。程度の差はあれ、他の学校でもやはりいじめを受けるのではないか。これはつまり、一定数の集団のなかには、心が弱く、理性がしっかり働かない人間がある確率で存在していて、必要もないのに『弱者をいじめ生存競争に勝ち抜く』という生命が基本的に持っている古態的無意識に操られて行動してしまうからだろう。
 彼らは、弱者を駆逐し自分が生き延びるという生命全体が共通して持っている古態的な無意識に操られて行動しているだけで、何も思考してないのかもしれない。
 今、僕がいじめっ子に受けた仕打ちを思いだしてみれば、あんなことを考え、そして実行に移せる者が、人間であるはずがないと確信をもって断じることができる。
 『弱い者を迫害せよ』と命じているこの古態的無意識こそが、過去に差別問題をつくりだし、身分制度をつくりだし、数々の民族を虐殺し、いまこの瞬間にも、世界のどこかで人を殺し続けていている。そして、今でもそういう命令を、自我が確立せず、心が弱く、自分の意志で物事を判断できないかわいそうな人たちに、送り続けている。
 この世の不幸の大半をつくりだしている元凶なのだ。
 だからもし、なけなしの勇気を出して、目の前に見えているいじめっ子やその関係者を一人や二人処罰したところで、世界はなにも変わらない。事件のことはやがて忘れ去られ、時間がたてば同じような事件がまた起こることになる。
 背後でいじめっ子たちを操っている、その古態的無意識をどうにかせねば、まるでドラクエのモンスターのように第二第三のいじめっ子が現れる。戦っても経験値もゴールドも入らない。後につづくいじめられっ子たちは、なんども死ぬようないじめを受け、そして、実際になんども死ぬ。
 僕は、小説を書いているのはこの古態的無意識と戦うためだ。
 戦うといっても、無意識相手では、刃物や爆弾、武器弾薬の類いですら、まったく役に立たない。だから僕は、文章の力をもって、かわいそうな人たちを後ろから操っている奴に、攻撃をくわえると決心した。
 とはいえ、無意識という敵はいかにも強大である。売れないSF作家の力ではできることはたかが知れている。だが、敵わないとしても、一生をかけて古態的無意識に不快な思いをさせることは可能だ。
 僕は昔、いつ終わるかわからないイジメを受けながら、文章の力をもって、そんなことをしてはいけないと語って聞かせることにより、奴らと戦い、嫌がらせをし続けることを決心した。
 だから巨大なそいつと、今でも戦い続けている。
 おそらく、命の続く限りそれは続くだろう。



坂本康宏プロフィール


坂本康宏既刊
『稲妻6』