「インド人の金玉翁さんが、我が家に来てくれない」林譲治

(PDFバージョン:inndojinnno_hayasijyouji

 私はいまの家に越してからかれこれ五年になるのだが、この間、インド人の金玉翁さんが我が家を訪ねてくれたことは一度もない。そう、ただの一度も。どうしてだろうか?
 理由は幾つか考えられると思う。まずインドから我が家への道程を考えれば、距離という問題がある。インド・日本間は飛行機で移動するとしても、我が家は関空からは遠いし、金玉翁さんだって、インドの自宅から空港に行くま簡単には移動できないかも知れない。
 また世の中には飛行機はどうしても駄目という人もいて、そうなると陸路で幾つかの国境を越え、最後は船で日本へ移動となろう。
 他にも海路という方法もあるが、インド人である金玉翁さんがインドのどこに住んでいるかによって、海路のメリット・デメリットは決まってくる。
 物理的な交通機関の問題は解決可能としても、経済的な問題がある。多くの場合、この両者は不可分だ。だから遠くて旅費がかかるからいけない。それが我が家に来てくれない理由として考えられる。
 インド人の金玉翁さんは持病があり、長距離の旅行は健康が許さない可能性も考えられる。
 あるいはインド人の金玉翁さんは、僕のことを嫌っていて、我が家の敷居をまたぎたくないのかも知れない。
 別の観点での理由を考えると、インド人の金玉翁さんが私の存在も我が家の位置も知らない可能性も小さくない。私も作家業をしているから、インド人でも知っている人がいる可能性はゼロではないとしても、自宅の位置までは普通はわからない。
 あるいはインド人の金玉翁さんは密かに我が家を訪ねているが、私も妻も猫さえも気がついていない可能性も考えられるが、閑静な住宅地でインド人が出歩けば、誰にも気づかれないということはないだろう。
 さらに根本的な理由。それはインド人の金玉翁さんなる人物はこの世に存在しない可能性だ。これの判断はなかなか難しい。
 だってそうでしょう。インドには一〇億以上の国民がいるわけですから、金玉翁さんがいないとも限らない。この辺の事実関係を私が確認することはさすがにできない。金玉翁さんの実在について私が言えるのは、我が家の近所にそんな人がいないということだけだ。
 しかし、これはインドに金玉翁さんが存在しないことを証明するものではない。はてさて、インドに金玉翁なる人物は実在するのかしないのか……。

 さて、このインド人の金玉翁さんの話は頭の良い方ならすぐにおわかりのことと思うが、「金玉翁さん」を「宇宙人」に置き換えれば、そのまま「フェルミのパラドックス」で知られる命題である。
 フェルミのパラドックスを一言で述べるなら、「宇宙人が存在するのであれば、なぜ地球にやって来ないのか?」という謎である。
 これに関してはSFはもとより、科学解説だけでも数多くの書籍が出されている。もちろん肯定派・否定派の両方の立場があり、その結論はでていない。
 もっともフェルミのパラドックスに関して言えば、科学解説書の体裁をしていても、内容は著者の願望投影であることが多く、科学的論考よりも願望の吐露が目的なら、もとより議論になるはずもない。
 科学的論考であれ、願望投影であれ、フェルミのパラドックスを論じる人達は、みなさん真面目にこの命題に向かっている。
 しかし、ものの本によると、パラドックスを唱えた天才エンリコ・フェルミ博士は、外野の人達ほど真面目にこの命題を唱えたわけではなさそうだ。
 1950年、アメリカでゴミ箱が消える怪事件が頻発。それと同じ頃空飛ぶ円盤の目撃例も増加していて、ある新聞漫画家が「宇宙人が人間には理解不能な理由でゴミ箱を盗んでいる」という漫画を掲載。
 同年夏にロスアラモスでロバート・テラーなど錚々たる科学者達と昼食をとっていたフェルミ博士は、この新聞漫画を評して、「円盤とゴミ箱消失という二つの現象を説明している立派な説」と述べたという。
 ここでしばらく円盤論議が交わされ、唐突にフェルミ博士はこう指摘した。「みんなどこにいるのだろう」と。
 こういう具合であるから、フェルミのパラドックスに関しては、みなさん「(フェルミの)ネタにマジレス」しているきらいもないではない。

 もう少し丁寧に言えばフェルミは「フェルミのパラドックス」そのものを述べたのではなく、彼なりに地球外文明の数を計算し、その結果と現実の数字(つまり宇宙人が来ていないこと)の食い違いから「みんなどこにいるのだろう」と述べたに過ぎない。
 フェルミが行ったような計算を「フェルミ推計」と呼ぶらしい。ここで注意すべきは、フェルミは当時の科学的知識と幾つかの推計により、「地球外文明の数とそれが地球に訪れる確率」についてフェルミ推計を行ったということだ。これは地球外文明が存在するかどうかの推論とは似ているが、内容はまるで違う。

 フェルミ推計とは、「地球上に生息するオタクの総数」とか「東京都でクリスマスの夜に一人でケーキを食べる人の総数」などを定量的に推測する手法である。
 他にも有名なところでは「シカゴにピアノ調律師は何人いるか?」という問題がある。これは噂によるとマイクロソフト社の入社試験問題にも使われたという。
 ただフェルミ推定は「普段考えたことも無いような対象物の量的推定」を行うための思考法であり、その数字が現実のそれと等しいことを保障するものではない。
 だから「東京都の人口はこれこれで、近所のケーキ屋の数とコンビニの数から都内でケーキを売っている店の数はこれこれと推定でき、そこからクリスマスに売られるケーキの総数はこれくらいになり、客の何パーセントは単独とすれば、クリスマスの夜に一人でケーキを食べる人の数は幾ら幾ら」と某かの数字は出ても、現実は「クリスマスで一人でいるような奴はそもそもケーキなんか買わねぇよっ!」などと言うことも起こりえる。

 それでは「フェルミのパラドックス」は「フェルミ推定」であろうかというと、すでに述べたようにそれは間違い。ただ厄介なのはフェルミのパラドックスを論じる仮定でフェルミ推定も行われていることだろう。しかし、両者は別物だ。それ故に地球外文明肯定派・否定派で「科学的」に議論しても結論はでない。
 何故かと言えば、いわゆるフェルミのパラドックスと言われているものは、問題の立て方が間違っているからだ。間違った問題を幾ら論じても、正しい結論は出てこない。ネタにマジレスすると往々にしてこういうことが起こる。

 さて、「シカゴのピアノ調律師」がフェルミ推定であるとして、その変形を考えて見る。「シカゴのピアノ調律師の数がしかじかだとして、自分がシカゴでピアノ調律師と遭遇する確率は?」これもフェルミ推定と言う事ができる。
 私事になるが2000年にシカゴでワールドコンが開催され、友人知人が何人も参加した。有名なティラノサウルスのスーなどを見学した人も多いのだが、私の聞いた範囲で、この大会でピアノ調律師に出会った人はいない。
 計算してみれば確率的に一人二人は遭遇しそうなものだが、遭遇したという人はいない。これはどういうことだろう? 誰も遭遇しないなら「シカゴにピアノ調律師など存在しない」のではないか? そうなのか? どうなのか?
 ここでシカゴでピアノ調律師に遭遇しなかった理由を幾つも論じることは出来る。ただここで注意すべきは、「フェルミ推定」と「推定の結果と現実の齟齬《そご》の解釈」は異なる命題であるということだ。
 フェルミ推定そのものはピアノ調律師の存在を論じていない。ピアノ調律師の存在を前提として、その数を推定するに過ぎない。
 現実にピアノの調律師という職業は存在し、シカゴにも何人かはいるわけだから、存在するはずのピアノ調律師と遭遇しなかった理由を考えることは出来る。
 それはピアノ調律師の側の問題かもしれないし、ワールドコン参加者の側の問題かも知れない。
 たとえばシカゴのピアノ調律師はみんな日本人を恐れていて、その姿を見かけたら隠れてしまったとしたら遭遇は出来ないし、ワールドコン参加者が大都市シカゴで行き交う人々の職業を瞬時で見抜く能力を持っているわけではないので、ピアノ調律師と出会っても主観的には遭遇していないことになる。
 ただ前者のピアノ調律師の意図に関しては、幾ら議論しても当事者ではないのだから結論など出るはずがない。議論して意味のある結論が出せるのは、後者、つまりワールドコン参加者の能力なり状況についての議論だけだ。

 ここでフェルミのパラドックスに話をもどすと、「宇宙人が存在するのであれば、なぜ地球にやって来ないのか?」と言う命題の問題点が見えてくる。問題点は二つある。
 シカゴのピアノ調律師の場合、少なくともピアノ調律師は存在する事はわかっている。その前提でならフェルミ推定も某《なにがし》かの意味を持とう。
 しかし、フェルミ推定は対象物の存在の可否を判定するものではない。すでに述べたようにそこで言えるのは存在の期待値でしかない。それは「存在するのかしないのか」とは別の命題だ。
 だがいわゆるフェルミのパラドックと呼ばれる物の一番の問題点。それは必要条件・十分条件の混乱だ。
「地球に宇宙人がやってきた」ならば「宇宙人は存在する」とはいえる。また「宇宙人など存在しない」ならば「地球に宇宙人はやってこない」も妥当な結論と言えよう。
 しかし、「地球に宇宙人が来ていない」は「宇宙人は存在しない」を意味しない。
 そして混乱はここから生じる。命題はなぜか「宇宙人が存在する」なら「なぜ地球に来ないのか」へと変質してしまう。
 これに関しては、物理的に遠すぎるから、金がかかりすぎる、電波通信の方が効率が良いから、宇宙を旅するというモチベーションがない、地球人が怖いからなど、種々雑多な仮説が存在している。
 が、それらは共通の欠点をもっている。何かと言えば「地球人が宇宙人の意図を議論しても結論は出ない」と言う事実である。しかもそれが「宇宙人の存在の可否」と不可分の関係にあるため、議論はなおさら輻輳《ふくそう》してしまう。
 いわゆるフェルミのパラドックが途中にフェルミ推定を挟んだとしても、最終的に「宇宙人の意図」の議論に終始する限り、人類が幾ら議論してもまともな結論は出ない。まして存在の可否をそこから証明することは不可能だ。

 それではフェルミのパラドックスに関して正しい命題とは何であろうか。それは実に単純な話だ。「なぜ地球に来ない」という意図の詮索部分は捨て去ること。
 そして人類が議論して明確な結論が出る形に修正する。具体的にはこうなるだろう、「宇宙人が存在するとして、地球人類の能力では、どこまでの領域ならその存在を認識出来るのか?」と。
 例えば今現在の地球の技術力と既存の施設能力であれば、地球と同程度の文明なら半径一〇光年の範囲で存在が探知できるとする。
 しかし、それでも人類がいまだ地球外文明の証拠を発見できないなら、太陽系から半径一〇光年以内に地球外文明は存在しないと結論できる。
 宇宙人の意図を人類が議論したところで結論は出ない。しかし、人類が人類の能力を議論するならば、定量的な答えが得られるだろう。宇宙人の存在の可否については、その定量的な能力を基礎として論じることになる。
 それは宇宙人の意図についての派手な論議と比較すると、あまりにも地味な議論に見えるかもしれない。しかし、宇宙人の存在の本当に科学的に考察するのであれば、こうした地味な積み重ねを続けるしかない。
 天才エンリコ・フェルミ自身がいわゆるフェルミのパラドックに深入りしなかったのも、それが科学的考察とは相容れなかったためであろう。
 そう言うわけで、インド人の金玉翁さんが、我が家に来てくれない理由はいまだわからない。わかるのは近所にそんな人がいないことだけだ。私にできるのは、少しずつ近所の範囲を広げて行くことだろう。それがインドにまで到達した時、事の真相は明らかになるはずだ。憶測ではなく事実として。




林譲治プロフィール


林譲治既刊
『興国の楯1945 3』