「屋上」飯野文彦

(PDFバージョン:okujyou_iinofumihiko
「ここに来たことがある」
 ビルの屋上に上った途端、美咲が言った。
「まさか」
 苦笑してやり過ごしても、
「ううん、ある。覚えてるもの」
 と言い張ったのだった。
「ビルの屋上って、どこも似たようなものだろうから。それより、こっちだ」
「でも……」
「君にぜひ見せたいものがあるんだ」
 半ば強引に美咲の手を取って、端まで進んだ。低い金網ごしに、見事な東京の夜景が広がっている。これまでここに連れてきた女は、皆、数秒と立たない間に、
「わあ、きれい」
 と歓声をあげたものである。ところが美咲は違った。無言で立ち尽くしている。その横顔は、辺りの闇に負けないほど暗い。
「どうかしたのかい?」
 私が訊ねると、小声で答えた。
「恐いの……」
「どこが? こんなにきれいなのに」
「きれい、この場所が?」
「ここのどこが怖いんだよ。何にもないじゃないか」
 ついつい言葉が荒くなっていた。
 それまで握ったままだった手を、美咲はすっと引いた。私に向き直った顔も、かたく強張ったままである。
「どうしたんだよ」
 努めて笑顔を浮かべ、彼女の肩を抱こうとしたのだったが、無言のまま後ずさられてしまった。私を見つめながら、
「どうして?」
 とつぶやく。その声や表情に、ここに来るまで打ち解けていた面影は残っていない。やっとのこと、恋人と二人きりになれた甘い雰囲気は、微塵も感じられなかった。
「どうしてって、どういうことだい?」
「どうして、ここに連れてきたの?」
「それは、君に、この夜景を見せたくて」
「夜景?」
「何を言ってるんだ。この夜景が見えないのかい?」
 芝居がかった態度で、大きく腕を横に広げ、金網の向こうを指し示した。つられるように美咲もそちらに目を向けたものの、いちだんとかたい声で言った。
「見えない。何も見えない。どす黒い海のような闇が、広がっているだけじゃない」
「何を言ってるんだ。おかしいよ」
 苛立ちを押し隠し、彼女に近づいた。肩を抱こうとしたのだが、私が触れるより先に、
「来ないで」
 と叫び、こちらを向いたまま、背後に数メートル離れた。両手を胸の前で握りしめ、肩や膝が震えているのが、夜目にもわかる。
「そうか」
 私は自嘲気味に笑いながら、さらに、
「それじゃあ、もっと良く見てごらん。ほかに何か見えないか?」
 と辺りを指し示すように、両手を広げた。
 美咲は怖々と辺りを見廻した。顔をあちこちに向けるたびに、小柄な痩せた身体をピクッ、ピクッと震わせる。ついには、
「やめて。わたしに話しかけないで」
 と叫び、頭を抱えてしまった。
「そうか。そうだったのか」
 まさか美咲に霊感があるなどとは、思ってもみなかった。
「この人たちは……」
 震える声でつぶやき、私を見た。さらに何かを訊ねたそうだったが、唇が震えるばかりで声は出ない。心底脅えきっているのが伝わって来る。
「ここは自殺の名所なんだ。これまでも何人もの女が、ここから飛び降りて死んでいる。だから厳重に立ち入り禁止になってるんだけど、どういうわけか、上がってくる者が絶えないんだ」
「どうやって、ここまで連れてきたの」
「目隠ししてたから、わからなかっただろう。そんなことより、きれいな夜景を見せて、終わらせてあげようと思ったのに」
 一歩踏みだしただけで、美咲は飛び跳ねて、背後に走った。しかし逃げられない。逆に金網に囲まれたビルの隅に、自分を追い込んでいた。
 私はゆっくりと近づきながら言った。
「蛇の道は蛇って言うじゃないか。私の趣味が合うと知って、ここの連中が、私を特別に招いてくれるんだ」
「どうして、こんなことをするの?」
「君が好きだからさ。誰だってそうだろ。好きな人を手に入れたら、誰にも渡したくはない。ほかの男の手に渡る前に、自分のものにしたまま……。ちがうかい?」
「いや、来ないで」
「せっかくだけど、それは駄目だ」
 私はゆっくりした足取りで、美咲に近づいた。暗闇のなかに佇む彼女の姿が、刻々と変化していく。変えているのは、凄まじいばかりの恐怖だ。
 もともと細身で端整な美女ではあった。広尾にある公園で、学校帰りの彼女を見かけて、この女だと思ったのが、ひと月ほど前のことだった。さり気なく近づき、幾度となくデートを重ねた。
 見るたびにイイ女だとは思ったものの、これほど美しいと思ったのははじめてである。あたかも氷で作り上げた女神像のごとく、身も凍る恐ろしさが、彼女をより美しく磨いているのだった。
 怖がらせて、こんなに美しくなるのなら、なぜこれまでの女にも同様のことをしなかったのか。今さらながら残念に思えた。
 いや、どこか日本的な奥ゆかしさを残す美咲であるから、これほど美しいのかもしれない。これまでの女たちは、美人には変わりなかったものの、さばけた現代の娘ばかりだった。じわりじわりと責めたところで、美しくなるどころか、逆に鬼のごとき形相になるだけだ。むやみに騒いだり、反撃してきたかもしれない。
 次からは、美咲に似た美女を選ぶことにしよう。霊感などなくともかまわない。ここに連れ込み、刃物でもちらつかせながら、じっくりといたぶって、凍りつくその美しさを楽しんでから、突き落とせば良い。
「そうだったの。だから……」
 ふと気がつくと、美咲がつぶやていた。誰かから何か私に関する情報を聞いて、口走っていたという雰囲気である。そしてそれは当たっていたらしい。
「なぜあなたなんかに惹かれたのかが、やっとわかった。あなたに惹かれたんじゃない。ただあなたを操っている者が、わたしの魂を操作しただけよ。そこまで気づかなかったから、変だと思いながらも、ついつい誘われるまま、こんなところまで来てしまった」
「はい、良く、できました。満点です」
 私は拍手した。乾いた音が辺りに谺した。数度響かせたところで、ぴたりと止め、
「しかし不愉快だ」
 と言った。自分が操られていると言われて、愉快に思う者はいまい。
「誰に何を教えてもらった。そこに誰がいるんだ? 実香か? それとも麻央? ああ、あのおしゃべりの由希子だな?」
 由希子が正解だったらしい。闇のどこかから、かつて私にメロメロだった由希子の声が聞こえてきた気がする。
「ひどい。由希子ちゃん、かわいそう」
 どうやら美咲は、由希子がどれだけ私を本気で愛し、その末、どんな目にあったのかを知ったらしい。何、大したことではない。金持ちのひとり娘から、有りっ丈の金を貢がせ、親に私の存在が知られる前に、ここから突き落として自殺させただけである。
「でももう、これまでよ」
 美咲が言った。いや美咲ではない。先ほどまで恐怖に押しつぶされそうだった美しい表情が、憎しみに燃える般若と化している。
「どうするつもりだ?」
「おまえを、私たちの力で殺す」
 美咲の口から出ているにもかかわらず、その声は一人のものではなかった。複数の女たちの声が重なりあい、私に向けられていた。
 聞いているだけで、身体の底からぞくぞくと痺れる。ここで女たちを殺してきて良かった。美咲とめぐり逢えて良かった……。
 陰茎に血が流れるのが感じられた。性的な興奮さえともなって、私を歓喜させている。
「どうやって、私を殺すんだ?」
「取り憑き、私たちの恨みで呪い殺してやる」
「そんなことができるのか。それならやってくれ。早く、さあ早く」
 気がついたら私はあわただしく、身につけた衣服を脱いでいた。下着や靴下さえも脱ぎ捨て、汚れたコンクリートの上に素足で立っていた。
 夜風が吹いた。すぐに風でないとわかった。これまでに私が殺した女たちの霊が、私に襲いかかってきたのだ。その証拠に風のごとく吹き抜けず、ねっとりとまとわりついてくる。女たちの怨念が、私を包むのがわかる。
 全裸となった体躯に無数の蛇のごとく絡みつき、締めつける。無数の舌となって、隅々に至るまで舐めまわされているような悦楽に、私は嗚咽をこらえきれなかった。
「ああ、もっとだ。もっと責めろ。私の中にまで入り込んで、中から私を責めるのだ。何をしているんだ。手ぬるいぞ。揃いもそろって、愚図どもめ。そんな風だから、出会ったばかりの男に欺され、ひょいひょいと言いなりになって、犬死にさせられるんだ」
 私の言葉が、死した女たちの逆鱗に触れ、怒りに新たな炎を燃え上がらせたらしい。ぐわんと熱風のごとく、全身を包みこむ圧力が強まった。
 死ね、死ねえ、死ねええええ。念仏のごとく響くのは、女どもの恨み節か。
 全身、武者震いに襲われた。誰に触れられてもいない陰茎が、はち切れんばかりに勃起している。歓喜と興奮のあまり、呻きとも雄叫びともつかぬ声が、私の喉をふるわせていた。
「てめえらは屑だ。屑で出来損ないの牝に、ふさわしい死を与えただけのことだ」
 いっせいに裏返った悲鳴が響いた。切なさと悔しさが渦潮となって私を飲み込む。私の全身が激しく震えた。四肢が激しく痙攣し、立っているのか転げ回っているのかさえわからない。視線はあわず、口から泡が零れて、声さえも発せられない。
 痙攣の凄まじさと同時に、心の片隅で苦笑している私がいた。結局、ここにいる馬鹿な女どもにはまったく分かっていない。私が苦しんでいると思っている。私は微塵も苦しんでなどいない。激しい歓喜に打ち震えているだけなのだ。
 私を形作る全細胞が、長年の恨みを晴らし終えたがごとく喜び勇んでいる。美咲と出会ったのは、きっかけにすぎないと知った。私を作り上げた連中の恨みが、解消できるときが来たらしい。
「うわあああああああああああ」
 私は絶叫しながら走りだした。白目を剥き、泡を吐きながら走る。女どもは、私がついに発狂したと思っただろう。
 それはある意味、当たっている。射精の瞬間を迎える寸前に、理性を保っていられる男はいない。来るべき瞬間を求めて、ただがむしゃら発狂したかのごとく腰を突き動かす。その代わりに、私は走っている。
「死ねえ、死ねええ、死ねええええええ」
 絶叫しながら金網に向かった。白目を剥きながらも眼球の片隅で、美咲がどこに立っているのか、確認することを忘れなかった。彼女の脇を抜ける振りをしながらも、寸前で向きを変え、両手で美咲を抱えた。
「何を――」
 美咲が絶句した瞬間、私たちはしっかりと抱き合いながら金網を乗りこえ、奈落のごとき地表に向かって落下していた。
 間近に目があった。ガラス玉のように見開いた美咲の目が私を見ていた。私はにたりと笑い、
「悔しかったら、取り憑けよ」
 と言った。さらに、待ってる、と言いたかったのだが時間がなかった。私は地面の数センチ手前で停止していたけれど、美咲は激突していた。皮は裂け、肉や臓器や骨までもが砕け、血潮とともに辺りに飛び散る。
 いっしょに死ねなかったものの、同じ瞬間に私は激しく射精していた。放出しながら宙を舞い、人心地ついたときには屋上にいたのだった。
 立ち上がり、脱ぎ捨てた衣服を身につける。
 先ほどまで私の中で踊っていた凄まじいばかりの歓喜は引き潮のごとく消えていた。私は一人、金網に寄りかかり、眼下に広がる東京の夜景を見ながらも、はじめてここに来たときのことを思いだしていた。
 あのときも一人だった。一人で自殺するために、当時から自殺の名所だったここにやってきた。当時はまだビルに人が住んでおり、今ほど厳重な立ち入り禁止対策が施されていなかったので、ぼんくらな生身の私にも上がってこられたのだ。
 原因は失恋だ。手痛く振られ、生きていられないとここに来た。そんな私を無数の男たちが止めてくれた。
 止めろ、死んで花実が咲くものか。
「いやだ。生きていてもしょうがない」
 それならどうだ。俺たちが力を貸すから、女たちに復讐してくれないか。
「復讐?」
 そうだ。俺たちのように純粋な男を手玉に取る悪い女どもが、そちらには溢れかえっている。これ以上、被害者を増やさないため。いや、そんな綺麗事でなくて良い。復讐だ。俺たちを死にまで至らしめた、傲慢な女たちに復讐するのだ。
「だめだ。私には出来ない。私のような醜男には……」
 だいじょうぶだ。俺たちが力を貸す。楽しいぞ。女どもを殺せ。殺せ殺せ。欺して殺せ殺せ殺せ――。
「そうか。美咲が百八人目だったのか」
 ぽつりとつぶやいていた。それまでに殺した百七人の恨みが、私に宿っていたはずだ。そして百八人の女を殺したので、ついに煩悩が消えた。除夜の鐘を百八つ打つように、私の中にいた連中の恨みが消えたのか。だからあれほどの歓喜が私を襲ったのか。
 しかし、それなら私はどうなる?
 どこからも答えはなかった。連中は私を見捨てたのか。
 いや、ちがう。もしそうだったならば、私は美咲といっしょに死んでいたはずだ。私だけここに戻ってこられたのは、連中の力があったからだ。
「そうだろ?」
 だが、やはり返事はなかった。
 歓喜に打ち震え過ぎて、気を失っているのだろうか。それとも……。
 私はまたしても金網を乗りこえた。そしていつもここから帰宅するときのように、目を閉じ、ひょいと飛び降りる。怪しまれないように、瞬く間に宙を飛び、目を開けると決まって自宅のベッドに横たわっていた。
 今回も同じだ。だが妙に感覚が違う。おかしい……と思って目を開いた。眼前にあったのはベッドではなく、暗いコンクリートの路上だった。

 (了)



飯野文彦プロフィール


飯野文彦既刊
『オネアミスの翼
王立宇宙軍』