「蠅の娘」齋藤路恵(蔵原大、仲知喜)(補作:岡和田晃)

(紹介文PDFバージョン:haenomusumeshoukai_okawadaakira
 第2期『エクリプス・フェイズ』シェアードワールド小説企画の第4弾は、齋藤路恵を中心とした執筆チーム(齋藤路恵、蔵原大、仲知喜)が仕上げた「蠅の娘」である。
 『エクリプス・フェイズ』はトランスヒューマン、平たく言えば遺伝子改造を施され、サイボーグ化した人間にスポットを当てたロールプレイングゲームであるが、必ずしも世界はトランスヒューマンのみの独壇場というわけではない。広大な『エクリプス・フェイズ』宇宙には、トランスヒューマンを「フランケンシュタイン」だと否定する、バイオ保守主義という勢力も存在するのだ。
 今回ご紹介する「蠅の娘」は、バイオ保守主義の総本山である木星共和国の属国、衛星カリストの「ゲルズ」(北欧神話に由来する名を持つ都市国家)にて、秘密裏の諜報活動に従事する非トランスヒューマン(フラット)の女性を語り手に据えた小説だ。
 とにもかくにも、“大破壊”後の世界をフラットとして生きることは大変だ。「基本バイオ調整」をはじめ、あらゆるインプラントを拒否するがゆえに、風邪はひく、乗り物酔いはする、メッシュ通信のためには外部機器が必要だ……。そして、きわめつけは、魂(エゴ)のバックアップをとっていないので死んでも復活ができないこと。バイオ保守主義を貫くのも楽ではないのだ。
 本作は、このような「トランスヒューマンの時代に、生身で生きること」を、鮮烈で、読み手に戦闘時の“痛み”の感覚をヴィヴィッドに伝播させるような独特の身体描写を駆使している。
 相互監視がルーティン化した官僚機構の内部で抑圧される語り手の閉塞感、そして閉塞感を伝える内面描写にも織り込まれる透明感は、時にはアンナ・カヴァンの傑作『氷』を彷彿させる部分もあり、眉村卓の言うインサイダーSF(SFの技法を用いて権力機構や大組織のシステムの特異性を抉り出すような文学形式)としても味読に堪える仕上がりになっている。
 語り手を取り巻く、謎。はたして、なぜ、彼女は襲撃されたのか? 
 サイバーパンクSFノワールの伝統へ、ささやかながら新たな一ページを刻み込もうとするのみならず、フィリップ・K・ディックの『暗闇のスキャナー』(『スキャナー・ダークリー』)にも通じるアイデンティティの不安は、わたしたちが直面している現実の似せ絵でもある。存分に、ご堪能いただきたい。

 齋藤路恵、蔵原大、仲知喜の三人は第1期に引き続いての登場となる。第1期でも、彼らはそれぞれ単独で、あるいはペアを組んで創作を試みてきた。
 今回の「蠅の娘」のメイン・ライターは齋藤路恵。「SF Prologue Wave」でオリジナル短篇「犬と睦言」を発表したばかりなので、その名を憶えておられる方も多いだろう。今作は齋藤路恵がプロットを著し、蔵原大がアクションや銃器の設定をチェック、仲知喜が世界観や小説造形についてのアドバイスを行ない、それを享けて齋藤路恵が推敲を重ねる……という手順を経て制作された。ただし小説としては、齋藤路恵の作家性が最大限に尊重されたものとなっているため、彼女の単独作とみなしても問題ないだろう。なお、本作は「擬似群体」(ナノボット・スウォーム)や「VR(ヴァーチャル・リアリティ)戦闘訓練場」などの独自設定が魅力的だが、これらの設定は、既存の各種ガジェットを参考に、書き手が独自に想像を膨らませたものである。(岡和田晃)




(PDFバージョン:haenomusume_saitoumitiehoka
 完全な不意打ちだった。その日わたしが非番ということもあったのかもしれない。街中で急に襲われた。
 表通りとも住宅地ともいえない曖昧な通りを二人で歩いていた。店と店の間に住居が紛れこむ通りは、昼にもかかわらずしらじらと均一な光度だった。表通りの昼光はわずかなゆらぎを持っていて、日光に近い。このあたりは安い蛍光素材を使っているのだ。
 わたしは通りで相方のトリンドルと愚にもつかない話をしていた。曰く店の食事がワンパターンだとか部屋がいっこうに片付かないとか。前にいた女は視界の端に入っていたが、たいして気に留めていなかった。浮き上がるような黒い髪の女だった。黒髪は肩で均一に切りそろえられていた。女、なのは間違いない。それはわたしにもわかっていた。

 相手が振り返ったのに気づいた、そのときには女は発砲していた。
 まず、眉間に弾が入る。当たった瞬間に熱はない。通過するときに熱が発生する。熱が自分の内から外に漏れでる。自分では見えないが湯気でもでているかのようだ。弾は貫通せずに眉間の奥、鼻の斜め上でとどまる。終わるな、と思った。
 眉間の次は鼻、頬、口蓋。首は細いので少し当たる弾数が少ない。喉と胸骨の間のわずかなくぼみ、左乳房の下の肋骨の隙間、ピアスをしようと考えていたへそのわき。子宮と大腸の中間は柔らかいので奥まで入ってから止まった。右の太ももはまず足の付け根近くの内ももを貫通した。ついで、膝関節近くの外ももを弾が通り抜けた。ももの骨のちょうど真ん中から点対称に被弾した形だった。貫通したのはここくらいだ。体内にとどまった弾丸がしずかに音をたてはじめる気がした。それまで移動に使われていたエネルギーが熱に変わり、体内の温度があがる。弾丸の周囲の細胞が円形に焼け落ちていく。
 わたしの肌はきっとゲルズの外のクレーターのようになっている。「ゲルズ」、わたしの生まれた国。わたしの故郷で墓場になるだろうこの国。木星の衛星。カリストの小さな原野。美しい氷の大地。いまのわたしは美しいだろう。はじめて、そう、思える。
 弾丸はなおも続けてわたしを美しくする。生きてきてよかった。ひざ下の骨のくぼみ。すねに当たった弾丸ははじけて筋繊維をななめに抜けていく。めくれた皮膚で足の甲がけばだつ。血で熱くなった足は氷の大地が冷やしてくれるだろう。

 気がつくと足元に振動剣を持った女がうつ伏せに倒れていた。相方がわたしに聞いた。
「大丈夫?」
 何が起きているのかわからなかった。全身の皮膚に砂粒よりも小さい蠅がはりつき、蠢いているかのような違和感だった。わたしは状況がのみこめず、うまく答えられない。

 わたしは 死んだ はずだ。 あれだけの 弾丸を うけたのだもの。 死なない はずが ない。

 トリンドルが足元の黒髪の女のわきにしゃがみこんだ。

 めが 霞む。こいつは 本とうに トリンドルか。 トリンドル で なければいいのに。 なけ れば いい のに。 死んで いる のに 涙が 出そうだ。

 トリンドルはいつもの有能さで余計な音を一切立てずに状況を検分していく。しゃがんだトリンドルのくびすじは、おくれげをゆらしながらわずかな弧を描いている。トリンドルのからだは、いかにもおんならしくて、きれいだ。火薬と血のにおいだけがこの世界にそんざいしている。いや、ちがうか。わたしとトリンドル、そして、この女はここにいる。ここにいる、のだ。わたしは血をながして倒れているおんなのそばに立っている。めまいがじょじょに消えていく。きえなければいいのにな。

 わたしの位置からうつ伏せの女の顔は見えない。しゃがみこんだトリンドルがわたしに現実の状況を知らせてくれる。
「まちがいなく死んでいるわ。つまらん訓練も役に立つものね」
 有能な相方は立ち上がると、気味悪そうに足で倒れた黒髪の肩を蹴り上げた。女の身体が半回転した。女の顔は額から顎のラインを中心に赤くべたべたと濡れ光っていた。額から流れ出た血が眼のくぼみに、目のくぼみから流れ出た血は鼻の両脇を通って顎に流れていた。

 わたしはしゃがみこんで、黒髪の顎を持ち上げた。顔を持ち上げたひょうしに黒髪の血がわたしの手首から腕を伝った。
 何が起きたのかはよくわからない。でも、死んだのはこいつだ。わたしではない。どうやらわたしは死んでいない。死んでいないどころかぴんぴんしている。夢が静かに引いていくのがわかる。目をつむらなくても、引いていくのがはっきりとわかる。こいつはわたしではない―――。

 トリンドルが言う。
「なんなのこいつ。わたしら人に恨まれるほどのことはしてないっつーの」
「あんたはしてんじゃない?」
 平静を装っていつもの調子で返した。が、疑問はおさまらない。こいつは誰だ。なんでわたしは生きているのだ。どうしてここに座っているのだ。現実感覚がゆっくりと回復していく。トリンドルから聞き出ねばならない。

「ねらわれたのはあんたでしょ? よく言うわ。VR戦闘訓練場(コロセウム)で負けたやつの逆恨みじゃないの? あんたハメ技(フェイント)上手いしね」
 まさか。トリンドルお得意の非常時ジョークだ。
 わたしはしゃがんだまま黒髪の顔から手を外した。とにかく死んだのはこの黒髪女で、撃たれたのも黒髪女のようだ。わたしは生きている。非番で武器は持っていなかった。で、あれば、殺したのはトリンドルか? 手が生体の粘液でいまいましくぬらつく。わたしは立ち上がる。

「汚してもいい布持ってない? ……非番がだいなしだわ」
「最悪。警察、今呼んだわ。上官に怒られるかしらね。不可抗力なのに!」
 トリンドルはわたしの質問に答えない。わたしはぬるぬるとした指先を持てあまし、こすり合わせて、赤い血液同士を混ぜ合わせた。足元の赤い絨毯は動脈の色にわずかに静脈の色が混じっている。振動剣はその血の上でのほの青く光っている。この通りの安い蛍光素材で、その本来持っていたであろう美しさは消されかけている。こどものおもちゃのようなやすっぽい照り返し。さっきまでわたしはあんなにうつくしいところにいたのにな。

 警察が来た。ついで上官がやってきて、わたしたちに自宅待機命令をだした。警察に介入されたくないのだ。わたしたちは死体がどうなったのかは確認しなかった。おそらく上官が引き取ったのだろう。自分ではまったく記憶がないのだが、黒髪の攻撃をわたしが無意識にかわしたらしい。そこで相方が連射式(フルオート)のハンドガンで応戦した、ということのようだ。相方はわたしの身のこなしを褒めてくれた。あんたのような近接戦バカが役に立つとは思わなかった、と。嬉しくはあるが、正直わたしには実感がまるでない。戦っているときのような静かに張りつめる集中はどこにもなかったのだから。
 トリンドルは言ってくれた。
「死ななくて良かった」
 わたしもそう思う。死ななくて良かった。訓練とは違う。失敗したら本当に死んでいた。みんなとおなじように、わたしはバックアップをとっていなかったからだ。
 木星圏の外では、生体保守主義(バイオ・コンサバティヴ)を狂信的だと嗤う者もいるという。わたしは慣習に疑念をもったことはない。祖母は地球で、母はカリストで亡くなった。この土地に生まれたから、わたしはこの土地で死んでいく。そういうものだ。死ぬというのは、舌先に残った余韻のように、かすかに甘く、うつくしい。それでも、夢から覚めれば、やはり死ななくて良かったと思う。

 部屋に帰ってからわたしは今日の出来事を検討した。一番ありそうなこと、それはわたしが何らかの病にかかっていることだ。
 メッシュに接続してわたしの症状について調べた。わたしは今までいかなる幻聴も幻視も体験したことはなかった。軍では初歩的な精神医学を学んでいた。任務時に起こりうる精神的変調やトラウマへの対処法。機械的に改変された記憶への応急処置。だが、軍で学んだいずれのケースも今回のわたしの症状にはあてはまらない気がする。
 意外にも、わたしの体験に一番近いのはカルト宗教団体が起こした事件だった。ナノドラッグを使って、対象に神秘体験をさせた事件だ。自らの団体に都合の良い記憶を白昼夢のように流しこむ。
 宗教団体の事件の他は、とるに足りないオカルト話しか見つからない。

 職場にばれたらどうなるだろう? 精神疾患で退職に追い込まれた人間は何人も見て来た。自分がそうならないという自信があったわけではない。わたしも運が悪ければああなるだろうくらいには思っていた。だが、実際になってみたら、予想とはぜんぜん違う。自分では精神疾患という感じはしないし、去って行った同僚たちのように自分が苦しんでいるとも思えない。それとも自分だけが正常だと思いこむ病気なのだろうか?
 わたしと相方の仕事はかなり特殊だ。誰にでもできる仕事ではない。残念ながらわたしは相方ほど優秀でないが、それでも特殊な能力を必要とする仕事だということはわかっている。これ以上の出世は望めないだろうが、現在の高いREP(社会的評価)を維持できているのはこの能力のおかげだ。
 だが、もし、この能力がコピーできるとしたら? あるいは、もしわたしに代わる人物を量産できるとしたら?

 その日は自室でVR書籍を読みながら眠りに落ちた。
 昔、地球に優秀な少女狙撃兵がいた。その少女狙撃兵はお気にいりの赤いマフラーをしていたため、敵に見つかって撃ち殺されたという。

 世界を無数のわたしが歩いている。
 あるわたしは赤いマフラーをしている。べつのわたしは切りそろえた黒髪をしている。べつのわたしはいつもの軍服を着ている。空色のワンピースを着たわたしもいる。どのわたしもここいるわたしと顔も年齢も身長も違う。でも、こうした人びとはすべてわたしなのだろう。世界はわたしのにおいでむせかえっている。かぎなれて普段はきにもとめなくなっているにおい。当たり前だが、よくなじんで身体に溶け込むにおい。そしてあらためて意識するとちょっぴりうんざりするにおい、だが嫌いではないにおい。
 あるわたしは「おうちにかえってきたの!」と他の少女たちに自慢している。少女は軍から休暇をもらって家に帰省したらしい。他の少女たちは帰省したわたしにはなをこすりつけ、「おうちのにおいがする!」とはしゃいでいる。
 ほほえましい光景だった。わたしも自然と自分の故郷が思い出された。
 荒涼としたカリストの大地は白い綿でおおわれている。厚い氷を割って、たくさんの綿花がカリストの大地に根付いている。綿花はつめたい微風にそよいで、白く大きな頭をいっせいに、だがわずかなずれを生じさせながら、揺らしている。
 風にのって遠くから臓物なべのにおいが流れてくる。家に帰れば母はいつもどおりの味のスープを作っているだろう。熱せられたスープの粒子が鼻腔のおくに貼りついて、薄くいろづいた液体がわたしの舌を焦がすだろう。

 わたしは上官からのVPN(ヴァーチャル・プライべート・ネットワーク)で起こされた。明日は普通に出勤するようにとのことだった。夢の中でのわたしの故郷は、母から聞いた故郷の記憶と混じりあっていた。カリストの大地に綿花が咲くはずはないのだ。なぜこんなにも母のことを思い出すのだろう?



 翌朝、いつものようにVR戦闘訓練場(コロセウム)に寄ってから出勤した。管制室(コントロールルーム)に入ると、トリンドルが先に席についていた。
「おはよ」
 声をかけるとトリンドルはモニターの画面から目を離さないまま「おはよ」と応えた。
「コーヒー飲む? 入れてあるけど」
 コーヒーを入れるのはいつもなんとなくわたしの役目だ。トリンドルなりにわたしに気を使っているのだろう。
「ありがとう。いただくわ」
「大丈夫?」
 トリンドルはコーヒーを渡しながらわたしに声をかけた。廃水のような粉っぽいコーヒーから、湯気といっしょに深みに欠けたにおいが立ち上っている。
「平気よ」
 わたしも自分のマシンを立ち上げた。上官からメッセージが来ている。気を引き締めて業務にかかるように書いてある。

 わたしとトリンドルの仕事は国軍情報部の管制室(コントロールルーム)で疑似群体(ナノボット・スウォーム)の蠅――一般に普及している蝿型ドローン「スペック」とは似て非なるもの――を操作することだ。機械じかけの蠅、生体そっくりの蠅を用いて、「市民社会のトラブルの火種を事前に消す」というのが仕事だ。よく言えば超小型カメラを大量に用いた治安維持業務である。よその国では、こうした仕事は情報体(インフォモーフ)が担当するらしいが、わたしはひとりの「フラット」として、この任務に誇りをもっている。
 いくらナノサイズの群体といえども、「上階」、ここ衛星カリスト上のドーム都市「ゲルデル」では目についてしまう。これみよがしに蠅がとびまわっていたら悪目立ちは避けられない。だから、わたしたちは巧妙に、しずかに、建物の影や地下通路、人の死角を飛びまわる。死角はすべてリスト化されているし、わたしたちは身体でその場所を覚えている。VRソフトに、蠅の生活を疑似体験するものがあった。見つかってたたき潰されたら負け、一巻の終わりというものだ。わたしたちのやっていることはそれと同じだ。ただ、わたしたちのゲームに終わりはない。わたしたちは自分が見ていると思っているが、じつは見られている。見ることは常に見られる可能性を含んでおり、見ているわたしたちは見られている人物たちと共犯関係にある。
 わたしとトリンドルがこの仕事についているのは――情報体(インフォモーフ)にはない――飛びぬけて秀でた認知能力を有しているからだ。わたしとトリンドルは「もの」の形をきわめて正確に記憶することができる。
 間違い探しという遊びがある。あれはわたしとトリンドルに対しては遊びにならない。見た瞬間にどこが違っているかすべてわかるからだ。1分前に見たモニターと現在のモニター、壁の磔刑像が五度傾いただけでも、わたしたちはその違いに気づくことができる。そしてそうした映像を何十個と並列して処理することができる。くわえて私たちは、このドーム都市の、地上と地下を網羅した、詳細な地図をもっている。古めかしいモニターを使っているのは、常に大画面で地図を表示しておく必要があるからだ。
 初めて友人の遺体を見たときのことを憶えている。小隊が戦闘中に行方不明になり、やがて、小隊の一員と思われる遺体が発見された。遺体は爆発で細かく砕けており、DNA鑑定がなされるということだった。
 わたしの友人たちはその小隊に所属していた。遺体の一部が見つかったと聞いたとき、わたしも他の人に混じって遺体を見に行った。遠くからでもすぐわかった。それはクライドの左後頭部、首筋の左斜め上の頭皮と髪の毛だった。完全に頭から離れているのに、巻き毛はいつものようにカールしており、そこだけがなんとなくおかしかった。左の後頭部が残った、というのは、爆風は右前方からだったのだろうか。クライドは右利きだったから何か作業をしようとしていたのだろうか。
 わたしはボビーの方を見た。ボビーはクライドと仲が良かった。ボビーは神妙な面持ちで遺体を見つめていた。ボビーはクライドの死に呆然としているようにも、その死を受け入れようとしているようにも見えた。
 あとで考えれば、実際はそのどちらでもなかった。ボビーはまだその死体がクライドだと気がついていなかったのだろう。

「どこの地点?」
「痛たっ……」
 わたしの痛みと同時にトリンドルが反応する。わたしの蠅の痛覚よりトリンドルのメッシュ通信の方がやや早かったようだ。
「どこの地点?」
「A203」
「異常あり?」
「“台所”だからたぶん普通の“害虫駆除”だわ。後でまた近くのやつを送り込む」
「了解」

 わたしたちの利用するナノボット・スウォームには御丁寧に痛覚システムが組み込まれている。もしわたしたちが寝ぼけて異変を見逃したとしても、痛みがわたしたちの眼を覚ましてくれる仕組みになっている。余計なインプラントを埋め込んでいないことで、わたしたちは痛みに敏感だ。そこをうまく突いたこのシステムは良くできている。わたしはときどき自分が本当に蠅になったのではないかと錯覚しそうになる。



 蠅の知覚はとりとめのない夢に似ている。映像Aと映像Bはまったく違うところのものなのだが、それはわたしの中で矛盾なく繋がっている。知覚の中では、愛人宅で性交する男の下あごは新しい服を買って喜ぶその妻の笑顔と物理的に隣り合って見える。服を買う妻の隣には、明日のパンについて悩む愛人の母の丸まった背中が見え、母親の背中の隣には、早く帰りたいと思って唇を噛んでいる愛人の揺れる乳房が見える。それは奇妙な一幅の絵画のようにも見える。全く違うことをしている人物たちが並べて描かれ、それぞれはそれぞれの人生を送っていて、自分の隣に家族や恋人の人生があるとは思ってみない。どれほど愛しい人も離れた場所で暮らす他人なのである。
 ときどき夢から覚めるとわたしは蠅になっていたな、と思う。あるいはわたしは蠅を操作している間、夢を見ているのかもしれない。

 擬似群体(ナノボット・スウォーム)の蠅が狩られると、物理的な痛みが体のどこかに起きる。それは指の先端であったり、後頭部のちょうど真ん中であったり、背中のへその裏側に当たる部分であったり、脈絡もなくいろいろだ。
 そして、もう慣れてはいたが、蠅が狩られると、胸がかすかに痛む。物理的にではなく心理的にだ。自分を失ったかのような、かすかだが、はっきりと刺すような痛みが現れる。

 思えば、昨日黒髪の女が死んだときの衝撃、あれはこの痛みを強烈にしたかのようだった―――。

 また、母親の夢を見た。母親はキッチンとベッドしかない丸太小屋で、臓物とオクラの赤茶けたスープを作っている。わたしは丸太のテーブルの前に座る。腐りかけの臓物から鼻の奥にこびりつくにおいが漂ってくる。母親は周囲を飛び回る蠅を気にすることもなく、鍋の中のトマトを潰している。へらで押し潰されたトマトから緑の内臓がこぼれだすのが見える気がした。トマトの青臭いにおいが腐臭の中でさわやかだった。母親が「17分戦争」で死んだのはもう10年も前だっただろうか。
「さあ、できた」
 母親がそう言って鍋を運ぼうとしている。なぜか母親の周りの蠅が先ほどよりも増えている。
 母親はテーブルを挟んで向かい側に立ち、そのままテーブルに鍋をおいた。母親は使いこまれた木製のスプーンで、黒みがかった木皿にスープを盛り付けた。
 わたしと母は神に祈りを捧げ、スープを口に運んだ。スープを口にすると味よりもまず熱が伝わった。スープの熱が舌から喉に通り抜けると、舌の上で何かが蠢く感触がした。
 舌から転がして手のひらに異物を取り出した。背中を緑の金属色に光らせた蠅だった。まだ生きていて、わたしの手のひらをそっと移動している。
「ママ、スープに蠅が入っているわ」
 母親はこともなげに答えた。
「気にすることはないわよ。わたしの指だもの。食べられるわ」
 あらためて母親を見ると、母は細かな蠅の集合体でできていた。点描を遠くから見ると、点の集合だとは分からないということだ。蠅が母親の周りにいたのではない。母親がそもそも蠅だったのだ。
 母親の口が裂けて、口角が軽やかに耳元へ持ち上がった。
「あなたは蠅の娘じゃない」
 母の笑顔は確信に満ちて、わたしの動揺をいやらしく喜んでいた。
 ああ、そうか。そうだった。わたしは蠅の娘だったのだ。ようやくすべてが腑に落ちた。

 次の日の朝はいつもよりさらに一時間早くVR戦闘訓練場(コロセウム)に入った。
 試合場の端に対戦相手が見える。今日の敵は蜘蛛だ。VR戦闘訓練場(コロセウム)は人間外のさまざまな敵と戦う訓練のために作られた軍事施設だ。わたしもたまに非人間の側を操作するが、蠅のようにはなじまない。蠅はわたしのコピー、わたしの分岐体(フォーク)であるかのようにわたしになじむ。

 わたしの武器はナイフだ。刃渡りの短いナイフは相手に深く近く迫ることを要求される。刃渡りが長い武器を使う相手に対して不利だ。だが、わたしは相手の懐に潜り込む瞬間が好きなのだ。たとえ刺し違えたとしても。

 蜘蛛は立ち上がった時の胴の高さが、わたしの頭くらいだ。各足に巨大な爪が二本ずつついている。腹はガードが薄そうだ。下に潜り込んで、腹部から攻撃すれば勝ち目はあるだろう。糸が広がらないうちに突っ込むか? だが、移動速度はかなり速そうだ。足の移動距離を間違えて、巨大な爪に刺されれば即死だ。
 審判の声がする。試合開始だ。

 名前を呼ばれて、返事の代わりにおたけびをあげた。今日は声を出すと決めていた。肺の空気を一度すべて出し切りたかった。すべての声が大気の中で掻き消えていく。消える様子、それを確認したかった。

 痛みがはしった。擬似群体(ナノボット・スウォーム)に入ってはいないのに。
 夢。
 暗転したかと思うと、まさしく夢のように、時間が巻き戻っていく。トリンドルが襲撃者を仕留め、はじけた筋繊維を弾丸が逆流していく。体内温度が下がり、熱が引いていく。子宮と大腸の中間にとどまった弾丸が、ゆっくりと身体を抜けていく。
 めまぐるしく、フラッシュバックは続く。襲われる直後の光景、そして襲撃者にイメージが同期する。いや、同期したのではない。わたしは、トランスヒューマンではない。「フランケンシュタイン」どもとは違うから。
 とすると、襲撃者は、わたしだったのだ。
「わたし」の知らない双子の姉妹、つまり、アルファ分岐体(フォーク)。それが、わたしだった。わたしの姉、すなわち、オリジナル。それを、わたしは殺した。だから、わたしは……。
 蠅。
 あのとき、死んでいたのは、わたし自身だったのだ。
 わたしの身体は取替え可能なものではない。そう、わたしの姉は思ってきた。だが、軍にとっては違った。擬似群体(ナノボット・スウォーム)に慣れすぎた。魂(エゴ)がメルトダウン寸前とまでいかずとも、トラウマをかかえ、「崇高なる業務」には、不適格だと判断されたのだ。

 宙に声を出し切ってから視線を戻すと、審判が苦笑している。蜘蛛に表情はないが、笑っている気がする。わたしも笑った。
 吸い込む朝の空気が冷たい。軍はわたしが知らぬ間にわたしの姉妹を作ったのだろうか? どっちに進んでも痛みは増し続ける。それはわかっている。 

 蜘蛛の爪が刺さる。最初は肉が押される。あ、と思った瞬間にふとももの付け根に熱が走る。爪が芯にあたり圧迫感が増す。コンマ数秒の抵抗の後、足の骨が切断されて、わたしの身体は急に軽くなる。突き抜けた切っ先が空気に触れる。その瞬間は切っ先ではなく、わたしが息をできるようになる気がする。抜けた切っ先が捻じれると串刺しになった体の重量感が伝わる。刺された体と地面がひきつけあう。

 戦いが好きだ。剣を交えて相手を感じる瞬間が好きだ。昏くなっていく視界の奥で綿に包まれた氷の大地が見える。死ねばわたしは蠅に還れるだろうか? 銀色の 蠅に なって 氷の 大地に とけて いけるか しら。



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齋藤路恵 協力作品
『ラビットホール・ドロップス』