「狭い路地」飯野文彦

(PDFバージョン:semairoji_iinofumihiko
 私が暮らしている二階家は、大通りから一本入った路地にある。道幅は二メートル半くらいで、三メートルはないだろう。我が家よりも奥に何軒かの家があり、車で行き来しているが、すれ違うどころか、一台通るのがやっとだ。我が家や反対側の家の塀には、擦った跡が絶えない。
 さて、ある日。暦は九月になったものの、あいかわらずの猛暑がつづいていた。暑さに夜中何度も目を覚まし、結局うとうとしか出来ないまま、朝を迎えていた。
 冷房はつけるが、すぐに止める。俗に言う冷房病の一種だろうか。七月はじめから冷房をつけっぱなしにした日々の悪影響で、涼しくなってもやたらと鼻水が出たり、身体の節々が気怠くなってしまうのだった。
 この日も、午前十時を回った頃になると、二階にある自室は、サッシ戸を開けているというのに、サウナのような有り様だった。心身ともに気怠くぼんやりとしていたが、とても眠っていられずに、ベッドから身体を起こした。
 ふだんだったら、まっすぐ階下に降りて、トイレに行くなり、洗面するなり、冷蔵庫を開けて何か飲むなりしている。ところがこの日は、どういう気持ちの加減か、南側のカーテンを開け、網戸を開けて、ベランダに出た。途端に直射日光が照りつけて、クラッと目眩さえ覚えた次の瞬間、視線を家の前に伸びる路地に向けた。
 狭い路地に魑魅魍魎がぎっしりと詰まっていた。一瞬、目蓋を開けたまま心身ともに凍りついてしまい、視線が逸らせなくなった。動けないながらも、心の一部がクルクルクルッと回転して思考している。
 少ない私の知識で言えば、水木しげるの描くありとあらゆる妖怪か。子供の頃に見た映画『妖怪百物語』の中で、妖怪たちが百鬼夜行する光景があったが、まさにそれが現実に我が家の前で起こっている。
 改めて断るが、昼前とはいえすでに太陽がさんさんと照りつけている時刻である。路地の向こうにはいつものように近所の家がそびえ、大通りではバスや車両が行き来しているのが見える。それらはすべての日常と同じなのに、我が家の前の路地だけが、がらりと一変している。
 まさに押すな押すなの有り様だった。門が閉まっているので、我が家には入ってきてはいないものの、押されて門が開いたら、一気になだれ込んでくる。そんなことになったら、我が家はどうなってしまうのか。
 一階には年老いた両親が居るはずである。何かの弾みで、門の外のチャイムが押され、耄碌した父なり母が、客だと想って玄関を出て、門を開けたら、とまで考えただけで、真冬に放尿した直後のように身体がぶるるるるるるるっと震えた。
 両手でごしごしと顔面を擦った。擦りながら想った。目を覚ませ、しっかりしろ、しっかりするんだ。そうしてから、ふたたび路地を見た。だが風景は変わっていなかった。
「おーい、井之さーん」
 声がした。近所に住むKだった。Kさんは路地を大通りのほうから我が家のほうに向かって歩いてきている。Kさんの家は我が家よりも奥にあるので、いつも路地を通る。表通りにある酒屋にぶらり煙草でも買いに行った帰りらしい。くわえ煙草で笑いながら、私に手を振った。
 私の神経は、ますます凍りついた。まさに芋を洗う中を歩いてくるのである。まわりの魑魅魍魎どもは、露骨に顔をしかめている。声こそあげないものの、口を開いて牙を剥き出している者も居れば、今にも襲いかかろうと両手を掲げている者も居る。だが、Kさん本人はまったく気づいていない。
「井之さーん、何ぼんやりしてんのー」
 私を見ながら、煙草を持った右手を振ったので、火の先が、脇にいた者に接触した。運が悪いときには悪いもので、そこにいたのは唐傘の化け物だ。油紙に火が燃え移り、花火のごとく宙に舞い、ぱっと燃え尽きた。
 想わず私は、あっと声を上げていた。Kさんは立ち止まり、頭上を見上げている。まさに唐傘の化け物が消えた辺りである。
「おかしいな。カラスか」
 Kさんの話す声が二、三十メートルも離れた私のところまで聞こえてきた。すべては私の妄想、狂気、勘違いではない。実際に居るのだ。だからKさんも見えないながらも、気配を感じたのだろう。
 となると私もこれまで気がつかなかっただけで、以前からこうだったのか。何かのきっかけで、私に突然見えるようになっただけなのか。
「寝起きでしょう?」
 気がつくと、またしてもKさんの声が響いてくる。見ると、ずいぶんと我が家に近づき、こちらを見上げていた。
「え、どうして……」
「だって、寝ぼけ眼のままだよ。昨日、飲み過ぎたんじゃないの」
 Kさんは笑いながら我が家の前で立ち止まった。ジャージのポケットから煙草のパッケージを取り出す。新たな一本を口にくわえ、使い捨てライターで火をつけようとした。すぐに脇にいた巨大な唇を持った入道が、息を吹きかけた。火は消えた。Kさんは気づかず、もう一度、もう一度とくりかえすが、結果は同じである。
「おかしいな」
 ライターを振って、また火をつけようとしたKさんを見た入道の顔が真っ赤に染まった。やめろというのがまだわからんのかと怒鳴りつけているかのようだ。
「Kさん、危ない」
「えっ?」
「そこで火をつけないほうが……」
「だって、これ、今、煙草といっしょに買ったばかりだよ。ったく、不良品かよ」
 さらにライターを大きく振り、私が止めるのも聞かず、ライターをつけようとした。火が着火するかしないかというタイミングで、脇にいた入道が、今度は息を吹かず、大きく吸った。すさまじい肺活量で、ライター内のガスをも吸い取ったのだろう。ぼっと音を立てて、青い火炎がバスケットボールのような固まりとなって、Kさんを襲う。
「うわああ」
 Kさんはライターを放り投げ、両手で顔を掻きむしった。私はベランダの手すりまで近づき、身を乗り出した。
「何だよ、これ」
 Kさんは落ちたライターを見つめた。私からも路上に落ちたライターは見えた。ぎっしり詰まっている連中とだぶっているが、ライターだけでなく、路地の隅に落ちている空き缶や生えている雑草も見える。
「だいじょうぶですか?」
「ああ、髪が少し焦げたけど……。ったく、とんでもねえ不良品、売りやがって。ちょっと文句を言ってくる。もし何か言われたら、井之さん、証人になってね」
 Kさんは私が答えるより先に、ライターを拾い上げ、サンダルの音を響かせ、歩いてきた路地を戻っていった。
 さざ波ともすきま風ともつかぬ音が響いた。連中がKさんに向かって笑い声を上げているのである。たまらず私は室内に駆け込み、網戸だけでなくサッシ戸も閉め、鍵を掛け、カーテンを閉ざした。
 ベッドに寝転び、頭からタオルケットをかぶった。鼓動が激しい。締め切った室内はさぞかし蒸し暑いはずなのに、冷凍庫の中にいる気がした。
 寝よう、と想った。否、寝ているのだ。これは夢だ。すべて夢に違いない。
 自分に言い聞かせ、タオルケットの中で胎児のごとく身をかがめた。気がついたのは、一階から母の呼ぶ声だった。
「妖彦、電話だよ。まだ寝てるのかい」
 潜水を終えて、水面に顔を出すように、ベッドから起き上がった。実際に水に潜っていたかのように、全身がびっしょり濡れそぼっていた。締め切った室内の蒸し暑さのせいだ。どうやらカーテンの向こうのサッシ戸も締め切ってある。なぜ開けておかないんだ。冷房も使わないんだから……などと混乱した頭で苛立っているとき、またしても母の声がした。
「妖彦。電話だって言ってるでしょうに」
「うるせえな。聞こえてるよ」
 怒鳴り返し、部屋を出た。腹立ちまぎれに踵から階段を踏みしめ、大きな音を立てて下りた。
「まったく、何時だと想ってるの。もうお昼過ぎだってのに」
 文句を言う母をやり過ごし、玄関の内側にある電話機に向かった。外れていた受話器をつかんだ途端、しまった、誰からか聞くのを忘れた、と気づいた。
 私は人嫌いである。同時に電話も好かない。いつも母には、留守だと言って、用件だけ聞いておくように、と何度も何度も伝えておいた。
 だが八十になり、半分呆けているのだ。その場では、わかったわかったと言うくせに、実際には何もわかっていない。電話だと執拗に起こしたのも、そのせいだ。あれだけ大声で叫べば、電話の相手にも聞こえている。今さら居留守はできない。うんざりした鉛のような気持ちを抱えながら、私は慎重に、
「もしもし」
 とつぶやいた。
「あ、井之さん。さっきはどうも」
「Kさん、ですか?」
「うん。実は病院にいるんだ。ほら、さっきの爆発で、怪我して」
「さっきの爆発って……」
 口ごもる私の言葉が聞こえなかったように、Kさんは一方的に話をつづける。
「警察も来ていてね。状況を説明してほしいって言われてるんだけど、ちょっと来てもらえる。井之さん、見ていたでしょ。証言してもらえると助かるさ。××病院のロビーにいるから、悪いけど、頼むね」
 電話は切れた。受話器を置くと、背後から母が言った。
「何だって?」
「何だってもないだろ。電話は取り次ぐなって、あれほど言ったじゃないか」
 さらに私は母に向かって捲し立てた。誰から電話があっても、ぜったいに取り次がないこと。私はうちにはいません。いつ戻るかわかりません。
「わかったね」
「そんなにがみがみ言わなくても……」
 母は皺だらけの口を、脱肛した肛門のようにとがらせた。よっぽど一発ぶん殴ってやろうかと想ったが、遣り過ごし、二階の自室に戻った。
「ったく、クソ暑いなあ」
 空気を入れ替えようと、カーテンを開けたとき、図らずも、外が見える。路地は相変わらず一杯にあふれかえっていた。
 あわててカーテンを閉めた。
「夢じゃなかったのか」
 たまらずまたしてもベッドに飛び乗り、ぐっしょりと濡れたタオルケットを頭からかぶるしかなかった。
 小一時間経たないうちに、母が私を呼んだ。
「ちょっと、Kさんが来てるよ」
「いないと言ってくれー」
「いないも何も、もう居るって言っちゃったじゃない」
「いい加減にしろー、この耄碌ばばあー。ぶっ殺すぞー」
 私は息をかぎりに絶叫した。言葉が途絶えたとき、返ってきたのは母の声ではなかった。
「井之さーん。おーい、井之さーん」
 家の外から聞こえるのは、Kさんの呼び声だった。しまった、大声で叫んだので、居るのがばれてしまった。私はベッドから飛び降り、階段を駆け下りた。
 Kさんが門を開ける前に、押しとどめようとしたのだ。裸足のまま三和土におり、玄関戸を開いた。Kさんは門の向こうに立っていた。その背後には、魑魅魍魎が押しくらまんじゅうをしている。さざ波か風のように、聞こえてくるのは、やつらがKさんを囃し立てる声だ。
「開けろおおぉ。門を開けろおおぉぉ」
「ちょっと、井之さん。ずっと待ってたんだよ。どうして来てくれなかったの」
 Kさんは何も気づかず、私に向かって不平を言う。やつらは身振り手振りも、Kさんを囃している。
「――開けろ。門を開けろ」
「ちょっとここじゃ話にならないから、中に入らせてもらうよ」
 Kさんは門に手を掛けた。門は鉄のつっかい棒がしてあるだけなので、化け物はいざしらず、人間ならかんたんに開けられる。
「やめろ。開けるなー」
 私は庭に立ち尽くし、叫んだ。だがKさんは私の言うことを聞くどころか、
「何を言ってんだよ」
 と眉間に皺を寄せ、荒々しくつっかえ棒を抜いた。門を開けた刹那、やつらが乱入してきた。
 たまらず私は家に逃げ込んだ。玄関を閉めて、三和土にうずくまり、頭を抱えた。
「やめろ、来るな。助けてくれ助けてくれえええ」
「ちょっと、妖彦。何をしてるの?」
 母の声だった。何もこうも、ぜんぶおまえの責任だ。勝手に取り次ぐから、こんなことに――。
 癇癪を起こした子供のごとく、私は顔をあげた。玄関の中に立って、私を見る母を見て、目に浮かんだ涙が乾いた。
 母ではない。やつらの一味だった。たまらず立ち上がると、脇で動くものがあった。はっと見つめると、そこにあの入道がいた。しばしすべてを忘れ、否、すべてが切れて、入道を見つめるうちに、わずかに意識が戻った。
 私は手で自分の頬を叩いた。入道も自分の頬を叩いた。懸命に咳払いすると、入道も同様だった。とたんに神経を滞らせていたものが、外れた。
「なあんだ、そう言うことだったのか」
 私が声を上げると、それに応ずるように、玄関の外から声がした。
「ちょっと、井之さん。聞こえる」
 私は玄関を開けた。そこにはKさんがいた。門の向こうはがらんとしている。
「ちょっと、平気?」
 Kさんがうかがうような目で私を見た。
「ええ、もうだいじょうぶです」
「何があったの?」
「何がって?」
「人が病院で待ってても、ちっとも来てくれないから、警察も帰っちゃった。まあ、あのライターには傷害保険がついてるから、少しは金が出るらしいけど、大したことがなかったから、きっと、雀の涙さ。それがくやしいから、井之さんからも警察に言ってもらおうかと想ったのに」
 私は両手を差し出して、まだまだ不平を吐き出しつづけそうなKさんを止めた。
「あのライター、壊れてませんでしたよ」
「だって見たでしょ、爆発したの」
「あれは、爆発じゃなくて……」
「じゃ何だって言うんだよ」
 Kさんは私を睨んだ。私は笑顔を返した。
「ったく、どういうつもりだ」
 煙草中毒のKさんは、ジャージのポケットから煙草を取りだした。新しい使い捨てライターで火をつけようとした。私はそっと近づき、ふっと吹いた。Kさんは気がつかない。二度三度くりかえす。
「何だよ、これも、不良品かよ」
「ちがいますよ」
「じゃなんで、つかないの?」
「つきますよ。もう一度やれば」
「なぜ、そんなこと、井之さんにわかるわけ?」
「なぜって言われても……」
「よし、賭けよう。今度ついたら、井之さんに十万。つかなかったら、逆に?」
「良いですよ」
「よし、成立だからね。だめだよ。後で、冗談でしたとかごまかしちゃ」
 私は肯きながらも、すでに息を吐きはじめていた。Kさんが右手を伸ばし、ライターを差し出すあいだも、息を吐いていた。
「いくよ」
 そう言ったときは、すでに肺臓だけでなく、体中の空気を吐きだし切っていた。そしてKさんがライターをつけた瞬間、一気に大きく息を吸ったのである。
 効果は、絶大だった。使い捨てライターと侮るなかれ。一メートルを越える火炎が上がり、一撃でKさんの顔が判別不能になった。すぐに両手で顔を覆い、倒れ、暴れるKさんを見て、だいじょうぶですか、と声を掛けようとした。ところが実際には、腹を抱えて笑いながら言っていた。
「はははは、これでお前もこっちの仲間だ」
(了)



飯野文彦プロフィール


飯野文彦既刊
『オネアミスの翼
王立宇宙軍』