「フリーカーソル」飯野文彦

(PDFバージョン:freecursor_iinofumihiko
 原稿執筆には、Iというワープロソフトを使っている。
 ただ単に、初めて買ったパソコンに入っていたために、使いはじめた。以後惰性といってはなんだが、パソコン音痴なこともあって、新しいソフトを使いこなすのも難儀なので、使いつづけている。
 書式設定もずっと変えていない。縦書き、一行二十字、一ページ二十行。つまり原稿用紙と同じ設定にしてある。これも慣れたため、下手に変えるとどうも調子が狂ってしまう。
 ところが先日、あまりに原稿が進まないこともあって(いつものことだ!)何の気なしに、このワープロソフトの設定をいじってしまった。目的があったわけではないし、知識もない。玩具をいじくるのに似た気持ちだった。
 気がついたら、元のように直せない。パソコンにくわしい者だったら、馬鹿馬鹿しいと一笑に付すところだろう。けれども私にとっては死活問題に近い。どこをいじったかも想い出せず、どうすれば良いのか皆目わからず、ほとほと途方に暮れた。
 結局は、以前書いた原稿を〈名前をつけて保存する〉とし、それを白紙にして、今後の設定の見本にし、何とか事なきを得た。と、思っていたのだが……。
 これまたどういう加減から、そうなったのかまったくわからないのだけれど、それまでは矢印や移動でカーソルを動かしても、文末で停止していた。それ以上は進まなかった。それが新しく作った設定では、止まらないのである。
 不思議な気がした。何も打ってない真っ白い画面をカーソルだけがどんどん進んでいく。すぐにもどそうと思ったのだが、途中から、
(いったいどこまで進むのだろう)
 と面白くなった。
 最初は五百ページくらいまで行った。そこでふとカーソルを動かす矢印から指を離した。
(いったい文末は、どこだろう?)
 それが気になったためである。さっそく文末へ移動するキーを押した。すると五百ページから一気に〈一ページ一行一字〉つまり一番最初にもどってしまった。
 考えるまでもなく、何も打ってないのだから、とうぜんのことだ。それなのに、とんでもないことをやった気持ちになった。ショック、といっても良い。五百枚書いた原稿を一瞬にして、消去した気になったのだった。
「まじかよ。そりゃあねえだろうにぃ」
 声に出して悔しがる始末だった。
 もちろん数秒後には、誰にも見られていないのを承知しているのに、
「ったく」
 と吐き捨て、照れ笑いしていたが。
 ふつうの人だったら。というか、どんどん原稿が書き進められる物書きだったら、こんな行いは、すぐに忘れ、一字一字キーを叩いて文章を紡ぎ出す作業に戻るところだ。
 私はちがう。何の意味もない、単なる時間と労力と電気代の無駄づかい、空虚きわまりない行いとわかっている。それでいてどんどんページが進んでいく快感が、心のどこかに残って忘れられない。
(あんなペースで原稿が打てたら、どんなに気持ちいいだろう)
 夢を見るようなものだ。何も浮かんで来ないつらさを忘れるように、気がついたらまたしてもカーソルを移動させていた。
 文字も数字も記号さえ打たず、何も考えず動かしていく。ページが進むうちに、カーソルのスピードがどんどん加速していく。二百ページ、三百ページ……真っ白い画面が雪原で、その上を滑走していく。
 実に心地よい。五百ページを越えると、その気分はますます高まった。誰も来たことのないヴァージンスノーの上を、遠慮なく滑っていく。邪魔するものは何もなく、ただページ数だけがすばらしいまでの速さで増えていった。
「六百枚突破。二段組みにしましょう」
「七百枚突破。活字を小さくして詰め込みましょう」
「八百枚突破。上下二分冊ですね」
「九百枚。井之先生、絶好調ですね」
「やったー、千枚突破。大河小説です」
 馬鹿馬鹿しい限りだが、鳴けないカナリアが、鳴いてもいないくせに、鳴いた気になって気分だけを高揚させ、千三百、千五百、千七百――とまさに疾走していく。
「ついに二千枚突破だー」
 勘違いした陶酔感に声を上げたのが、喜びのピークだった。
 根が小心者である。高揚した気持ちに次第に雲が広がってきた。二千百、二千二百と進むうちに、
(こんなところまで来ても、だいじょうぶなのだろうか?)
 と不安のほうが大きくなった。心の中に非難めいた気持ちも起きる。
 こんな枚数、私にこんなにすらすらと書けるわけがない。否、書けたとしても、それこそ血のにじむような想いと苦しみとともに長い時間を経て、その上で達成できるかもしれない領域である。それをこんなにすらすらと進むなんて……。
 少しでも自分の文章が打ってあるのならまだしも、最初からまったくの未入力である。文末のキーを押せば、またしても一気に〈一ページ一行一字〉に戻ってしまう。その状態で、すでに二千五百ページを越えていた。
 一人見知らぬ町に放り出された気がした。否、町なら人がいる。ここには誰もいない。大海原にひとりぼっち、とも、宇宙空間にひとりぼっちともつかない不安と孤独に包まれ、泣き出したくなった。
 それでも、いや、それだから逆にカーソルを止められない。途中で止めたら、取り残されせてしまう。蟻よりもミジンコよりも小さくなってしまい、辺りには何もない巨大な空白が広がるだけだ。二度と日常に戻れない。彷徨ううちに埋没してしまい、人知れず消えてしまう。
 白い画面でありながら、いつしか暗転している気さえした。真っ暗闇の中をただがむしゃらに突っ走っている。止まることも戻ることも恐ろしくてできない。いくじなしなだけに泣きながらもただただ先に進むことしか出来なくなっている。
 いつしか三千、四千をとうに過ぎ、四千六百ページを越えていた。もう少しで五千だ。
(やめろ。戻れ。戻れないなら、パソコンの電源を抜いてしまえ)
 心で叫んでも、キーから指を離せない。気持ちのどこかに『スター・ウォーズ』のミレニアム・ファルコンのように、一気に加速して、抜け出せるのではないか、などとありもしないとわかりながらも期待を持ってしまっているのである。さらに『二〇〇一年宇宙の旅』のように、すべてを突き抜けてしまうのではないかという、SFというよりもオカルトもしくは宗教めいた気持ちすらある。
(だめだ。五千を超えるな!)
 警報音が響き、鼓動が高鳴る。涙も乾いて、瞬きすら忘れたように白いディスプレイを凝視している。視界も狭まりディスプレイしか見えない。ディスプレイイコール私の目となっていた。
『スター・ウォーズ』『二〇〇一年宇宙の旅』の次は『ターミネーター』だ。シュワルツェネッガー演じるターミネーターのごとく、視界の隅に数字が並んでいる。ページ数だ。
〈47××ページ×行1字〉〈48××ページ×行1字〉×のところは早すぎて、判読できない。〈49××ページ×行1字〉
(やめろ。止めろ。戻れ)
 心で叫び、警報音が響き、視界全体が赤色に点滅している。が、キーから指を離せなかった。
〈50××ページ×行1字〉
 瞬間、精神のヒューズが切れた。空白、意識的でなく、勝手にキーから指が離れた。加速が一瞬にして止まる。
〈5002ページ15行1字〉
 画面に、金色に輝く着物姿の、禿頭ででっぷりと太った男が居た。あぐらをかいて座りこみ、素焼きの徳利から手酌で、猪口に酒を注いでいる。
 酒が零れそうになり、口から迎えに行こうとしたところで、私と視線が合った。
「お、おまえは、どうしてここに」
 猪口が揺れて酒が零れた。
「おっと、もったいない」
 分厚い唇を突き出してずずっと啜り、そのまま一息で飲み干す。牛のあくびのような嘆息を漏らし、唇についた酒を手の甲で口に運びながら、ふたたび顔をこちらに向けた。
「いや、失敬。で、おまえは?」
「――」
「何でこんなところまで来たんだ」
 私が答えられずにいると、男はすでに酔っているのか、にたにたと微笑みながら、
「まあ良い。見られたなら、しょうがない。どうだ。何か望みはあるか?」
 男は猪口に酒を注ぎながら、さらに、
「何でもいいぞ。億万長者になりたいでも。世の美女という美女を、片っ端から自分のものにするでも。嫌いな者どもを、ひとまとめにこの世から抹殺、なんてことでも。何でもござれ、ときたもんだ」
 と奇妙奇天烈な節回しに乗せて言った。
 またしても酒を注ぎ終えた男が、ゆっくりと顔を上げる。視線が合い、にたりと赤ら顔を微笑ませた刹那、私の中でショートしていた部分が、修復されたのか。
 気がついたら、電源コードを抜いていた。萎むような音とともにパソコンは切れ、画面は暗くなった。
 椅子から立ちあがり、台所まで走る。水道を出しっぱなしにして、何度も何度も顔を洗った。首を傾け、喉を鳴らして水を飲んだ。
 人心地がついたのは、食卓に向かって坐り、十分近く経ってからだった。
「あれは、何だったんだ」
 自分の声なのに、どこか遠くから聞こえるようだった。
 とつぜん悪寒に襲われた。両腕で自分の身体を抱きしめた。
「私は井之妖彦。歳は四十――」
 はっきりと声に出して自分のプロフィールを喋る。
 自分がここに存在していることを確認するために。あらぬ世界でなく、現実にここに存在していることを確かめるために。
「ここは日本国。私が住んでいるのは――」
 思いつく限り、喋りつづけた。そうするうちに震えも止まり、身体に力も戻った。
「今は平成二十×年。九月ももうすぐ終わり、いよいよ食欲の秋、スポーツの秋となる。どうです。まちがってはいないでしょう。どうです。この通り、私は至って正気です」
 立ち上がり、握った拳を上下していた。
「幻覚を見た。ははは、ご冗談を。私は正気なのですから、そんなものは見ません。あの男のように酒も飲んでいません。そうです、あの男は確かにあそこにいた。はっきりと見ました。まちがいありません。あの男は、私にまちがいなく言ったのです。『どうだ。何か望みはあるか?』と。さらに『何でもいいぞ。億万長者になりたいでも。世の美女という美女を、片っ端から自分のものにするでも』とも……」
 言葉とともに、上下する拳の動きも止まった。自分が言った言葉を頭の中でくりかえす。脳裏にあの男の姿が、はっきりと浮かんでくる。どこかで見たことがある。どこかで……。
「どこだ?」
 そうつぶやいた途端、想い出した。
 私は走ってパソコンの前に戻った。電源を入れる。
〈きちんとした……※保留☆。次からは※保留☆〉
「そんなのわかってるから、はやくしろよ」
 貧乏揺すりで部屋中を揺らしながら、ワープロソフトを起動させ、ひたすらカーソルを進めた。ひたすら、ひたすら。
〈50××ページ×行1字〉
 目を懲らした。何も現れない。
「おかしいな。たしかにここにいたのに」
〈51××ページ×行1字〉〈52××ページ×行1字〉〈53××ページ×行1字〉
「すみません。先ほどの者ですが。先ほどは失礼しました。どうかもう一度、お会いできましたらと思いまして」
 声をかけながら、カーソルを進めたのだった。が……。
    ◇ ◇
 本棚の奥から、ワープロソフトの説明書を引っ張り出し、ソフト会社に電話した。
 話し中だった。受話器を置くと、すぐにかけ直した。通じたのは三十分近く経ってからだった。
「お電話ありがとうございます。いつも我が社の商品を……」
 丁寧な女の声をさえぎり、ワープロソフトの名前と使い方について訊ねたい旨を告げる。
「それなら、担当者と変わりますので」
 保留の音楽を五分近くも聞かされ、今度は男が出た。若い男らしい。
 さんざん焦らされた私は、限界とばかり、言葉をぶちまけた。私がやったこと、見たことをありのままに話す。
 途中、電話を切られるのを覚悟した。何、切られたら、すぐに掛け直してやる。だが私が言い終えるまで、電話は切れなかった。
「という、わけなんです」
 はあはあと息づかい荒く言う私とは対照的に、男は冷静に言った。
「そうですか。出ましたか。いえ、ときどきあるみたいなんですが、それなら、次の行為を行ってください」
(ときどきあるみたいって……)
 私は狐につままれた想いで、男が話す言葉を夢中でメモに取る。
「これでもまだ出るようでしたら、ご連絡ください」
 丁寧に言われると、意気込みも削がれて、
「はあ、どうも、すみませんでした」
 と恐縮しながら電話を切る始末だった。
 すぐにパソコンの前に戻り、メモを見ながら操作した。
 遅まきながら知ったのだが、何も入力してないのに、カーソルだけが進むのは〈フリーカーソル〉というらしい。カーソルがフリーになって、入力、未入力に関係なく、進んでいくのだ。
 それをオフにした。さらに、いくつかの項目をチェックしたり、逆にチェックを外したりした。それで、どうなったか。
 いくらカーソルを進めようとしても、動かない。
「なぜだよ?」
 口にした途端、とうぜんだとわかり、
「しまった」
 と叫んだ。
 あわてて、フリーカーソルに戻して、どんどん進める。前回の二倍、三倍、いやもっともっと進める、が、現れない。メモを見ながら設定を戻したり、直したりをくりかえしてもみるが、結果は……。
 翌日、営業時間開始とともに電話した
 担当の名前がメモに残してあったので、呼び出してもらう。
「どうです、直りましたか?」
「ええまあ」
「それは良かった」
「いえ、そうじゃなくて。設定を戻しても、現れないです」
「は?」
「あれをもう一度出したいんですけど」
「それは無理です」
「なぜです。まちがいなく現れたんですから、もう一度出すことだって……」
「いえ、実は。ここだけの話ですが、あのバグの原因は、いまだにわかっていないんです。いいえ、バグというよりも、何と言いますか……。ちなみにお客様、どんな願いをされました?」
「まだです。だから、これから頼もうと思って……」
「それはお気の毒様です。まさに千載一遇のチャンスだったのに。いや、ほんとうにほんとうに残念」
「しかし……」
 力が抜けて声が出なくなった。
 私の落胆を見過ごしたように、男はどことなく弾む声で
「また何かございましたら、ご連絡ください。では」
 と言い、電話を切ったのだった。(了)

〈後日談。というか、ある意味、想像できる展開〉
 以後、私がどうしたか。言うまでもない。四六時中、パソコンに向かって、ひたすらフリーカーソルを先へ先へと滑らせた。
 その甲斐あって、ついに遭遇したのだ。見つけるなり、この前の苦い思いをくりかえしてはと、相手がこちらに訊ねる前に言った。
「世界一のベストセラー作家にしてください。それだけでけっこうです。そうすれば金も女も自由になりますから」
「あ?」
「ですから……」
 私が同じ言葉をくりかえすと、相手はひっくり返ったガマガエルのような声で笑った。
「おい、俺を誰だと思ってるんだ?」
「誰だって……」
 そのときになって、初めて気づいた。相手が髪も髭も生え放題。痩せた身体には、ぼろぼろの着物を着ている。男は唇を歪め、
「ちょうど良かった。そろそろ誰か来てくれないと、参っちまうところで――」
 私はパソコンのコードを引き抜いた。が、気がつくと勝手に再起動している。しかも画面の隅、その男が住み着いている。

〈後後日談。というか、危険を感じたら読まないほうが良いかもしれない蛇足。またの名を創作秘話〉
 ほんとに、読む気?
 一応、忠告したからね。
 どうもありがとう!
 実はこの男も私がどうにもならない屑だとわかったらしく、
「おい、誰か紹介しろよ」
 と言いだした。
 これ幸いとばかり、久しぶりにしたためたのが、ええ、その通り……。
 ごめんね。でも、まあ、そのうち私みたいに愛想をつかされる日も来るって。もし、なかなか消えないときは、ソフト会社の電話番号と担当者の名前を教えるから。相談してみてください、ませませ! ませ?(了)



飯野文彦プロフィール


飯野文彦既刊
『オネアミスの翼
王立宇宙軍』