「金星、地獄の動物園」間瀬純子


(PDFバージョン:kinnseijigokuno_masejyunnko
 ソネリルは遠からず砂漠に飲み込まれるだろう。
 私は飛行機で四十八時間かけて、ソネリルに来た。もうずいぶん前のことだ。私は日本に帰れなくなった。
 物価は安いので、手持ちの金で暮らしていけるが、もう、帰りの飛行機の切符を買えないのだ。日本までの切符は、ソネリルの人々の数十年ぶんの収入に当たる。
 日本にいるはずの家族に連絡して、送金してもらおうかと考えたこともある。が、何度、電話しようとしても、実家の電話番号が思いだせない。
 私……林カナは日本で会社に勤め、辞めた。日本には、法律とは別に、細かく複雑な規則がたくさんあった。たとえば、ある意見に対して、何人かでおしゃべりをしている席にいるとする。参加者の何割かが、あるていど熱心に賛成したら、私も賛成すべきだが、そうでなければ賛成してはならない。賛成者の割合と熱心さの見極めは非常に困難だが、厳密に定められているようだった。
 規則は誰が決めているのかわからないが、少しでも間違った反応をすると、見えない管制装置のスウィッチが入り、人々がいっせいに冷たい目で見て、同時に部屋の天井や椅子に仕掛けられた非殺傷性の透明針発射装置が私を狙い撃つのだった。
 私は満身創痍だった。楽になる手段はあった。洗脳されればいい。歌謡曲がその方法だった。それは店でも職場でも流れていた。たくさんの曲があったが、どの曲も同じことを歌っていた。「頑張れば、いいことがある」
 根拠のない空の約束手形だ。私はそれが思考コントロールであることに気づく程度には鋭敏だった。
 私は、日本に充満する思考コントロールと管制装置から逃げた。
 そして、ソネリルに来た。ソネリルには何もない。

 ソネリルは、赤道に近い、粘土づくりの古い都市だ。四千年前には、オアシスを囲む王国があって、周辺との貿易でおおいに栄えたらしい。オアシスは干上がった。今では誰も来ない。
 私の滞在している首都のホテルには数人しか客がいない。私は三階の部屋から螺旋階段を降りて、焦げくさいコーヒーの匂いがかすかに漂う、踏みにじられた絨毯の敷かれた人気のないフロントロビーを抜け、強化ガラスのドアを押し、外に出た。砂の混じった風がいっきに吹き寄せた。私はスカーフで口もとを覆う。
 すぐ外はアスファルトで舗装した駐車場である。アスファルトの質は悪く、ひどい凹凸だらけでぜんたいに波打っているように見えた。磨り減ってできた穴から、オレンジ色の砂岩が覗いていた。
 この首都には植物がない。
 ホテルのエントランスには、いちおう観葉植物の鉢が飾ってある。その、大きな葉に裂け目の入ったビニール製のモンステラだけが植物に似たものだったが、葉はソネリルの強い光によって褪色し、鮮やかな水色に変わっていた。
 砂が混じった風に、ビニールの葉が激しくはためく。
 
 駐車場には一台だけ、古い紺色のBMWが駐まっている。かたわらに持ち主のギュンターがいて、眉をひそめ、ボンネットを覗きこんでいた。
 ギュンターは教養のある三十代のドイツ人で、数少ないホテルの滞在客のひとりだった。現在は長期休暇中なのだそうだ。BMWとともにフェリーに乗り、地中海を越えてきた。ホテルにいる外国人は、私とギュンターだけである。言葉が通じるのはお互いしかいなかったので、よく私たちは話をした。もっとも、おもに喋るのはギュンターだった。
「ミズ・ハヤシ、ソネリルの食料事情を知っているかい。
 食料はすべて、輸入だ。いや、寄贈されている。寄贈しているのはアメリカの薬品会社だ。彼らは食料に、開発中の薬品を混入し、人体実験をしている。今、開発しているのは、新しいタイプの抗鬱剤だ。ご存じのとおり、アメリカ人はヒステリックなまでに、力強くポジティヴであることを求めるからね。だが、どうやら、実験は失敗しているらしい」
 BMWのエンジンには、砂漠の砂が大量に入りこんでしまうのだと言う。ギュンターは毎日何時間も、ボンネット内部の機械をひとつずつ分解しては組み立て直していた。私はこの車が動いているところを見た覚えがない。
 だが、この日は、整備がうまくいったらしい。ギュンターは礼儀正しく私をドライヴに誘った。首都の外までのドライブである。

 古いBMWが、都市の外れにたどり着いた。私たちは車のドアを開け、外に出た。
 砂漠が広がっていた。オレンジ色の砂が風に飛ばされ、私とギュンターの上に舞った。サングラスをかけ、スカーフで頭部を覆っていても、砂が顔の皮膚を刺す。粘土の家が、砂になかば埋もれていた。
 家々の壁は、縦に切った粘土の巨大な円筒が大量に地面につきたって並んでいるかのようであった。住人たちは円筒の並び方が整っているかどうかなど、まったく意に介していないのだろう。壁はうねうね曲がり、ところどころで途切れていた。
 私は言う。「なぜ、壁がみんな曲っているのかしら」
 ギュンターが答えた。
「砂嵐のせいだろう。風力をまともに受けないように。
 圧力がかかる場所に構造物をつくるさいには、平面はつかわない。たとえば球形、扁球、流線型といった形にデザインする。飛行機の先端を考えてみるといい。あるいは深海や気圧の高い他の惑星」
 ギュンターは口の中に砂が入るのも無視して、話しつづける。
「金星には、動物園の廃墟がある。そこには、ありとあらゆる種類の奇形の動物が集められていた。鱗のない双頭の蛇、溶けかかったアザラシ、多肢症で象皮病のサル、内臓が露出した山羊、脳のない犬、両性具有のマレーバク。斜めにぶれた写真のように二重になった顔を持つライオン。地上で暮らすようになったクジラたちは地面を這うために、みずからの重みで皮膚が裂け骨が見えている。彼らの餌にするための、毛のない半透明のネズミが、コンテナにぎっしりつまっている。
 どの生物も、どうして生きていけるのか不思議なほどだ。動物園は、金星の粘土でつくられ、建て増しに建て増しをかさね、奇怪な建築物になっていた。
 動物園は、遠くからは豪壮な宮殿のように見えたが、粘土には、吸い殻や空き缶、コーラの瓶が混じっていた。昔のコインも。細かく仕切られた各小屋に、一匹づつ動物が入れられていた。金星開発の撤廃とともに、その動物園も閉鎖された。動物たちはうち捨てられた」
 私は、金星にはまだ人類は到達していないはずだと言おうとした。
 だが、自信がなくなったので止めた。
 翌日、ギュンターは自殺した。遺体はいつの間にか消えていた。BMWだけがホテルの駐車場に残り、朽ち果てていった。

 ホテルの私の部屋には、日本に残してきた恋人、和彦の幽霊が出る。
 和彦は煙のように部屋の天井付近を浮遊し、安物のコロンの香りを残して消える。

 ギュンターが言っていた食品の話はほんとうだろうか。私は毎日その話を思いだしながら、ホテルのレストランで『チェビビ』と呼ばれる、小麦を練って焼いたパンを食べる。
 そして濁ったミルクを飲む。私の血液は汚染されているのだろうか。体の向きを変える瞬間、頭蓋骨のなかで脳ががくりとずれる感覚がある。視界が急激にぶれることもある。それらの現象にも慣れた。

 ソネリル人たちは、比較的穏やかだ。鋼鉄のような色の肌をした、痩せた長身の種族だ。あたかも、高層ビルの展望室から見下ろしたさいに地上に見える、小さな人間のように、緩慢に動く。昼間から、粘土細工の街角に集まり、お喋りするわけでもなく、ただ通行人をぼんやり見ている。ここには何の産業もない。
 ギュンターの言葉を信じると、アメリカの製薬会社の植民地のようなものだ。たまに、突っ立っている住民のひとりが痙攣を起こして、倒れる。
 英語もフランス語もまったく通じない。ホテルのフロント係の、発音不可能な名前の男が、英単語をいくつか知っている。「ハロウ」私と顔を合わせるとそれだけ言う。
 私は彼に一万円札を一枚、渡した。それで、ずっと滞在可能らしい。

 林カナという名前は、正しいのだろうか。私は『地球の歩き方‐ソネリル/一九九五年版』に載っていた名前からそれを取った。日本語の本はそれしかなかった。私は日本人なのだろうか。
 ソネリルは暑く、私は何も考えられない。金星の動物園というのは、実はソネリルのことではないだろうか。私は、うち捨てられた動物のひとつなのではないか。
 和彦の亡霊が、ホテルの部屋を浮遊している。記憶が消えていく。和彦の亡霊は、私が日本人であったことの最後の証明だった。和彦の顔はもう忘れた。



間瀬純子プロフィール


間瀬純子既刊
『ナイトランド4号(冬2012)』