「十二宮小品集6 乙女の姿しばし……」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 ドアを開けて店に入ってきた男の顔に、見覚えがあった。一週間ほど前に一度来た客だ。これでも人の顔を記憶することに関しては自信がある。だてに女ひとりで喫茶店を切り盛りしているわけではない。
 三十歳前後、細面で髪が長い。着古してはいるが趣味のいいシャツにジーンズ。肩から一眼レフのカメラを下げている。
 男はわたしの前のカウンター席に腰を下ろすと、少し頼りなげな声で、
「ホットひとつ」
 と注文した。
 昼時の客が一巡して店は暇だった。わたしは豆を挽き、ドリップでゆっくりとコーヒーを淹れた。
 横目で見ると、男は持ってきたカメラを弄っていた。撮った画像をチェックしているようだ。ディスプレイを覗き込み、難しい顔をしている。
 カップに注いだコーヒーを男の前に置く。どうも、と小さく言って男はカップを手に取る。一口すすって、またカメラの画像を見つめる。
「カメラがご趣味なんですか」
 声をかけると、男は少しびっくりしたような顔をして、
「趣味って言うか……まあ……はい」
 曖昧な返事をした。
「星宮神社の桜、もう満開でした?」
「ええ、きれいに咲いてました。でも、どうして?」
「このあたりで写真好きが撮りにくる場所といえば、あそこくらいでしょうから」
 そう言うと、男は納得したように頷いた。
「たしかにあのしだれ桜、すごいですね。桜色の雨が降ってるみたいだ」
 桜色の雨。悪くない表現だ。
「あ、そうだ」
 男はカメラを操作して、
「ちょっとこれ、見てもらえませんか」
 ディスプレイ側をわたしに差し出した。
 表示されているのは、話にも出てきた星宮神社のしだれ桜だ。
「まだ満開じゃないみたいですけど」
「これは先週撮ったものです」
「今日は撮り直しにいらしたんですか」
「それもあるけど……桜の木の根本のところ、見てくれませんか。ひとが立ってるでしょ?」
「ええ、女のひとみたいですね。ちょっと小さくてわかりにくいですけど」
「そこだけ拡大してみます」
 男はまたカメラを操作した。
「これです」
 再びディスプレイを見せられる。表示されているのは、淡いピンクのワンピースを着た女性だった。カメラの性能がいいのか、拡大されても顔立ちまではっきりとわかる。ちょっと時代がかった髪形、細くて形のいい眼、はにかむような笑みを浮かべた唇。
「この女性、見覚えはありませんか」
「……なぜ、わたしにお尋ねになるんですか」
 質問に質問で応じてしまった。男は少しうろたえ気味に、
「いや……この近辺のひとだったら、ご存じかと思って……」
「知りません」
 いささか突慳貪に答える。
「そうですか……」
 男は心底残念そうにうなだれる。コーヒーを一口、そして溜息をついた。
「その女性が、どうかしたんですか」
 そう訊いたのは、男の横顔に興味を引かれたからだ。
「この写真を撮ったときには、気づかなかったんです」
 男は言った。
「家に戻ってパソコンで画像をチェックしているときに、この女のひとが写っているのに気づきました。誰も近くにいないのを確認してから撮ったはずなんです。なのに写ってた」
 男はカメラのディスプレイを見つめている。
「最初は邪魔だなって思ったんですけど、でも、見ているうちに……このひと、きれいですよね?」
 何と答えたらいいだろう。わたしは曖昧に頷いた。
「最近じゃあんまり見かけない古風な感じで、でもきれいなひとです。見ているうちになんていうか……もう一度会いたい、いや、ちゃんと会いたいと思ったんです。で、今日はどうかなって思いながら星宮神社に来たんですけど、会えませんでした。まあ、当然でしょうけど……」
 男は残念そうに言った。本当に会いたそうだった。
 だから言った。
「さっきの、嘘です」
「え?」
「知らないって言ったの、嘘なんです。ごめんなさい」
「じゃあ、ご存じなんですか」
 わたしはうなずいた。
「誰なんですか」
「それは……わたしの母です」
 男の表情が当惑に揺らいだ。わたしはすぐ言葉を続けた。
「変なことを言ってると思われるかもしれません。だけど、本当のことです」
「でも、失礼ですが、あなたのほうが……」
「ええ、それは今のわたしより二十歳若い、二十六歳の母の姿です」
「……言われている意味が、よくわからないのですが」
「この喫茶店のある場所には以前、木綿問屋がありました。母はそこのひとり娘だったんです。年頃になって、店を継ぐために婿養子を取ることになりました。農家の次男坊で、実直なひとだったそうです。結婚して一年でわたしが生まれました。
 でも、わたしが二歳のときに、父は家を出ました。理由はわかりません。母が教えてくれなかったんです。でも母は、きっと父が帰ってくると思っていたようです。いつも星宮神社のしだれ桜のところに行っては、父を待ち続けていました」
「なぜ、桜のところで?」
「父と母が最後に別れたのが、その場所だったと教えられました。だから帰ってくるときも同じ場所だと思っていたようです。桜の咲く時期に帰ってくると」
「それで、お父さんは帰ってきたのですか」
「いいえ。母は二十年待って、病気で亡くなりました。父には会えなかったんです」
 わたしはお冷やをコップに注いで、一口飲んだ。
「でも、母が亡くなってからも桜の根本で母を見かけたひとが何人もいました。いつも若かった頃の姿のまま、誰かを待っているみたいに」
「それって、つまり……」
「まあ、俗に言う幽霊ですね。この話、信じます?」
「いや……何と言ったらいいのか……」
 男は混乱しているようだった。が、
「……もし幽霊だったとしても、あなたのお母さんは、美しいひとでした。だから――」
 ドアが開いた。いいタイミングだ。
「お帰り」
 わたしが声をかけると、男も振り向いた。
 そして、凍りついた。
 無理もないだろう。目の前に桜の根本にいたのと瓜ふたつの女が立っているのだから。
「そんな……」
 男は言葉を失っている。わたしは言った。
「娘です」
「……え?」
「わたしの娘。あなたの写真に写っていたのは、この子なんです」
「え? だって……」
「さっきの話は嘘。幽霊なんて、そんな話あるわけないでしょ」
 娘は何の話かわからずに、きょとんとしている。
「そう……そうなんですか……」
 男は安堵したように声を洩らす。わたしは娘に耳打ちした。
「このひとの話、聞いてあげて。突拍子もないことを言うけど、調子を合わせてあげてね」

 思ったとおり、娘と男は話が合うようだった。しだれ桜で見かけた女のことを話しても、娘はうんうんと頷くだけ。彼女は単なる勘違いだと思っているようだった。
 これなら、うまくいくかも。
 わたしは期待半分で思った。せっかちに結婚を急いては嫌がられるだろうから、少しずつ馴染ませていかないと。
 娘の相手は誰でもよかった。娘を好いてくれさえすれば、それでいい。
 結婚させたら、娘には早々に子供を産ませ、そして男を桜の許にやらなければ。
 桜は新しい男を欲している。精となり滋養となる男を。
 わたしの夫も、そして母の夫――わたしの父も桜に乞われた。今は共に桜の根に抱かれて眠っている。
 わたしの家は、そうやってあの桜に仕えてきた。代々、そうやって。
 だからわたしの娘も、夫を差し出さなければならない。
 母の霊がこの男を、わたしたちのところへ導いてくれたのだ。きっと桜もこの男を気に入ったのだろう。
 大事にしなければ。
 わたしは楽しげに語らう娘と男を見ながら、強く思った。



太田忠司プロフィール
YOUCHANプロフィール


太田忠司既刊
『目白台サイドキック 女神の手は白い』