「メタフィシカの融和」伏見健二

(紹介文PDFバージョン:matfisikashoukai_okawadaakira
 伏見健二が、『エクリプス・フェイズ』シェアードワールド小説企画に帰ってきた。今回お披露目するのは、新作「メタフィシカの融和」である。前作「プロティノス=ラヴ」は、伏見健二の10年ぶりの新作小説として、少なからぬ反響を呼んだ。かてて加えて、ふだんゲームのシェアードワールド小説を読まない層や、あるいは現役の編集者からも、熱い賛辞が送られた。

 伏見健二の本格SF作品、「プロティノス=ラヴ」や、『レインボゥ・レイヤー 虹色の遷光』(ハルキ文庫)、そして本作「メタフィシカの融和」に共通してみられるのは、宇宙冒険SFの緊張感と、古代から近代に至る哲学が保持してきた無限なるものへの憧憬や超越性への志向とが、違和感なく融合していることだ。
 サイバーパンクが打ち立てた、人間を情報として捉える世界観。それを幾重にも推し進めたポストヒューマンSFは、ともすれば極度に無機質で、物質主義的な因果律に支配されているとみなされがちである。だが、そもそもポストヒューマンとは、ヴァーチャルなものにすっぽりと覆われた世界において、逆説的に人間性とは何かを問いかけるものだ。ルネッサンスに確立されたヒューマニズムから、幾重にも切断を経ているからこそ、そこから探究される精神性もあるだろう。「メタフィシカの融和」は、小品ではあるが、伊藤計劃『ハーモニー』が打ち立てた現代SFの新しい相(かたち)をふまえ、それを咀嚼し、スタニスワフ・レムがフィリップ・K・ディックを“にせものたちに取り巻かれた幻視者”と表現したような、独特の、しかし流麗なヴィジョンを見せてくれる。とりわけ、これまでの『エクリプス・フェイズ』小説であまり注目されてこなかった、AIとバイオテクノロジーへの切り込みが素晴らしい。シリアスでダークな色調を保持しながら、単なるどんでん返しに終わらない、余韻ある短篇の妙味を堪能されたい。

 本作「メタフィシカの融和」は、木星共和国の衛星、カリストの近くに位置する、工場プラント宇宙船を舞台にした作品だ。『エクリプス・フェイズ』宇宙のなかでも異様な木星共和国の設定は、SF Prologue Wave掲載の「蠅の娘」、あるいは「Role&Roll」Vol.98掲載の「カリスト・クライシス」などで、紹介されてきた。木星共和国とは、もとは大破壊(ザ・フォール)から逃れてきた軍閥によって建国され、極度に原理主義化したローマン・カトリックと「バイオ保守主義」を奉じている。つまり、『エクリプス・フェイズ』世界の前提となっている、インプラントや身体改造を前提としたトランスヒューマンの存在や、魂(エゴ)のバックアップを完全に否定しているのだ。木星共和国は、強力な艦隊を擁しているが、その艦隊も、バイオ保守主義をベースに活動している。

 なお、本作に登場するエイリアンAIの設定には、著者が独自に想像を膨らませた部分がある。

 伏見健二は日本を代表するゲームデザイナーの一人。代表作『ギア・アンティーク』は、国産スチームパンクの傑作として名高い。近年も旺盛な創作活動を継続しており、大軍で迫る豊臣秀吉の軍勢にトリッキーな防衛戦を繰り広げる斬新なウォーゲーム「八王子城攻防戦」(「ウォーゲーム日本史」15号)や、グリム童話をベースに児童文学の世界にも読者を広げた『ラビットホール・ドロップスG』など、作家性豊かなゲーム作品を多数、世に送り出している。小説家としては、『ウィザードリィⅥ ベイン・オブ・ザ・コズミック・フォージ』のノベライズ『サイレンの哀歌が聞こえる』(JICC出版局)などコンピュータ・ゲームを題材とした小説や、クトゥルー神話を題材にした『セレファイス』『ロード・トゥ・セレファイス』(ともにメディアワークス)等、著書は30冊近くにのぼる。また、朝松健が編集したクトゥルー神話アンソロジー『秘神界 現代編』(創元推理文庫)に「ルシャナビ通り」が収録された。(岡和田晃)




(PDFバージョン:metafisika_fusimikennji
 事態の深刻さを理解していないわけでないが、ワタシは一種の期待に満ちた興味とともに……その出会いを待っていたのだ。
 その出会いは、新たな世界観を記述する天球儀の完成に向けての、最初の出会い、最初の融和として、かけがえのないものだと思えたのだ。

『……かれは木星と土星とにはエウドクソスと同じく四つの天球をあてがいながら、太陽と月にはさらに二つの天球を加えるべきであると思った。そして残りの諸遊星には、それぞれに一つの天球を増し加えた……』
 アリストテレス「形而上学」より(出隆訳)

     *     *     *



 星が流れてゆく。
 巨大な引力に、星屑が渦を作る。
 木星共和国(ジョヴィアン・フンタ)の臨検部隊の存在は震え上がるような噂としては既知だったが、その実働部隊と接触するのは初めてのことだった。
 私の管理する木星周回軌道C9アセンブリーが出荷した医療用生体組織が、エクサージェントウィルスに罹患していたという。母体企業のスキンセティックにとっては重大な信用問題だ。このバイオプラントはただでさえ頑迷なバイオ保守主義で閉鎖性の高い木星経済に、かろうじて進出した橋頭堡のひとつだったからだ。
 もちろんアセンブリー管理AIのウィルス汚染が疑われた。C9アセンブリーは即座にメッシュから隔離され、操業停止となった。本社による調査は禁じられ、事実上の木共による接収状態となったのだ。私は管理者として、遺憾ながら制作中だった二千部位からの医療用生体を分解廃棄すると共に、就業していた七人の職員を休眠させ、二機の古めかしい個人端末(エクト)を用いて、粛々とアセンブリーのシステムチェックを行っていた。
 臨検部隊の接近通告。それは、死刑宣告を受けて、執行を待つことと同義なのだ。
 緑と赤のラインに彩られた巡洋艦が現れたとき、私は即座に消滅させられることを覚悟したが、臨検隊は小さな衛星間連絡ポッドで接舷した。

「よろしく」
 ポッドから現れた木星共和国の司法警察員は、ほっそりとした女性の義体(モーフ)をまとっていた。身体にぴったりとあった象牙色のスーツに黒いアタッシュケースを持っただけの軽装。金魚鉢のようなヘッドカップをはずすと、微弱な重力に、ボブの毛先がまとまりなく踊った。
「意外でした」
 迎える管理者、私は率直に最初の疑問を投げかけた。
「どうして?」
 問い返す表情は、敵対的な態度には見えなかった。
 彼女が武装していないことに、少しほっとした気分があったが、その後ろから、武装一個小隊が続いて降りてきて、楽観は諦観に書き換えられた。コンバットアーマーの顔面は磨き上げられた鏡面になっていて、表情を示すつもりも会話を交わすつもりもない、と全身で示すようだった。大きな検査機器らしきものを背負っている。
 注意がそがれた私を、彼女は黙って観察しながら、言葉を続けるのを待っていた。
「失礼。保守的な木星共和国の皆様は、人工の肉体を敵視しているのでは?」
 確認するように、そう尋ねる。
 彼女の義体はどうやらスキナスセシアのスタンダードグレード、文官用の脳拡張が施されたタイプだろう。フェイスプレートのカスタマイズが容易で、デフォルトから操作した形跡があるが、私には判る。
「神が与えた自然の肉体から、けがれなき魂を引き剥がし、人工の肉体に移植するなど、悪魔の所業と言われているわ」
 歌うような定型の返答。
「そう司教なら説明するわね」
「ご教義については学んだつもりでした。しかし、貴方は義体(モーフ)だ」
「わかるの?」
「わかります。専門ですから。貴方は進歩的(トランス)なのですか?」
「任務上、その必要があるときは、そうね」
 悪びれずに答える。
 彼女は隊員たちにいくつか短い指示を出してから、改めてじっと私の顔を見つめた。背後で彼らは無遠慮にアセンブリーの各所に散ってゆく。あの装備で調査といっても……乱暴な破壊活動はしないでもらいたいと心の中で祈るが、期待薄だろう。
「原因調査の状況は?」
「ええ、データを用意しています」
 私は肩をすくめた。臨検に抵抗するつもりはなかった。すべての施設情報と稼動記録、そして最新の検査データを添えたメモリチップを卓上に準備していた。
 彼女は少しだけ首を傾けて一顧くれた後、唇に指先を当てて「オンユアリップ」と言った。
「オンユアリップ?」
「ごめんなさい、ヘンな言い回しだった? わたしは、言葉で説明して、と言ったの」
「ああ、すみません」
 なるほど、このデータチップすらもウイルスに感染しているかもしれない。防疫のための確実な手段は、完全な隔離だ。さすがに言葉だけで説明するのも難しいので、私はホログラフィックモニターを起動し、アセンブリーの設備説明と、一連の経緯への対応を説明し始めた……。

     *     *     *

 管理者からアセンブリーの説明をされる間も、司法警察官のわたしは考え込んでいた。
 それはすでにミッションの開始時点から入手しているデータのリフレインにすぎない。わたしの興味は、この管理者の挙動、そのものにあった。
 基本的な問題としては、このアセンブリーで製作(デザイン)された生体組織が、根幹的な異質性を備えていたのだ。単純に異常動作を引き起こすウイルスが仕込まれていた、というようなよくあるモーフテロとは異なる。そういうタイプのウイルスは、なんらかの行動を起こすためのスケジューラーが隠されていて、その義体を装着した者がある日、突然に破壊活動を開始したりする。むろんエゴをインストールする上でのモーフへのセキュリティチェックや、動作中でも異常干渉から自我を守るためのサブシステムというものが存在するが、それをかいくぐるからこそ事件が起こる。
 しかし、この工場が出荷した生体組織は、それ自体が敵対知性化し、己のミームを撒き散らそうとしたのだ。エクサージェントウイルスの挙動、そのものだ。
 生体義体の時代、むしろ移植治療が用いられるのは皮肉にも木星共和国の制限された医療基準の中のみだ。バイオ原理主義ゆえにこそ、再生医療の領域のニーズがある。輸血や臓器移植は許容するというのも……。
「移植した胃が、反乱でもしましたか」
 彼は冗談めかして言ったが、どうにも判らない表現だ。わたしは肩をすくめる。
 異質性に最初から気づくこともできてはずなのに、そのチェックはスルーされた。それはこの医療領域のダブルスタンダードの後ろめたさがさせたという面もあるが、その木星人の心情を説明するのは骨が折れる。
「冗談のつもりでしょうが、事実に近いわ」
「組織を移植に用いたら、癌化した、というご指摘なのでしょうか? 恐れながら、当社の可変ゲノム=プログラムの受動誘導型システム細胞機能が誤認された可能性は……?」
 彼は眉をひそめながら、説明パネルに、移植に用いた生体組織が免疫反応を示さずに、受容的に母体に融和してゆくさまを示した。わたしは静かにその説明を聞いていた。
「以上です……すみません、言葉で説明するのにはこれだけの……」
 説明を終えたとき、時間はすでに80分が経過していた。
「ありがとう」
 わたしは会釈で礼を言った。彼は長い講義を恥じるように、かるく頭をかいて応じる。形が等しいだけのまったく異質な生体組織を送り出しておいて、この鈍感さの態度。この異質なメンタリティ。面接の時間の間に、わたしは仮説をすでに確信に変えていた。
「座っていい?」
「……もちろんです」
 管理者は慌ててテーブルとチェアを展開した。疲れていたというわけではない。低重力下では座る習慣はほとんど意味をなさない。
「では、感染路はどう認識していらっしゃるの?」
 質問を始めることにした。
「ない、と申し上げても納得していただけないんでしょう?」
 管理者は少しあてつけがましく、壁面のスクリーンに工場内の見取り図を投影した。鏡面の隊員たちがどこを歩いているか、何をしているか、そして過去にさかのぼってどのような行動をとったかが示される。彼らはベイの倉庫を確認し、生産ラインを見ている。生体組織が申告どおり破棄されたかを視認したのだろう。そして、入念にセグメント単位でAIの検査を行っている。
「アセンブリー管理AIの検査は行いました。しかし、異常は発見できなかった……でもまあ、お疑いですね。ネットワーク上ではいくらでも偽装が可能ですからね」
 彼は抗議めいた声で言った。
「そうね。わたしが信じれられるのは実体だけ。なにか、外的な存在との汚染接触に心当たりは?」
「データも信じられないのに、私の証言を信じていただけるものとは……」
「ごもっとも。これでは仕事にならないわね」
 読みどおりのタイミングで、アセンブリー管理AIの調査が終わったと連絡が入る。ストラクチャーはシロか。
 であれば、クロは残りのここにしかない。
「了解、こちらも進めるわ」
 わたしは耳のインカムを軽く押さえて返事をした。
 持ってきたアタッシュケースをテーブルの上で開く。
「なにが入っていると思う?」
「……武器ですか?」
「検査用具よ。もっと強引な手段で尋ねるための」
 キュッ、と音を立てて肘までの長いディスポーサブルグローブを着ける。
 アクセスする必要があるのだ。
 そして手を伸ばし……。

     *     *     *

 次の瞬間、彼女は俊敏な動作で細く美しい指を伸ばし、私の口を掴んだ。
「……!」
 表情は静かで事務的で、揺れる髪は、美しくもあった。血と唾液を撒き散らしながら、私は床に叩きつけられた。机を乗り越えるように、彼女の体が躍った。胸が踏みつけられ、空気を求めて苦しく喘いだ。
 そこへ即座にヒールが降ってきた。
 アセンブリー管理AIでなければ、私を疑う。
 順当な論理進展だ。
 だがこんな細身の女性が、実働隊員であるということは、私の予測のうちになかった。
 踏みつける力は低重力ゆえに強くはないはずだったが、鋭く高速な動きは、簡単に私の顎を踏み割った。彼女の指先が口腔上部の先にある脳幹ソケットを探り当て、そこへアナログテスターに使われる12センチ長の赤黒のリード棒を、正確に差し込んだ。そんな攻撃の動作のなかでも、私は彼女に見惚れていた。
「ヒッ……!」
 私は目を見開き、この突然な暴力への抗議を口にしようとしたが、むろん、喉は噴出する血液に塞がれ、ちぎれかけた顎はガクガクと震えるだけで言葉を発することはできなかった。
 電撃のようなものが走り、眼前が白くなった。リード棒の先には検査機器が接続されている。より暴力的なことは、その検査機器が強力なAIであり、私の意識のダンプチェックを始めたことだ。
 抵抗しようとするよりも早く、彼女は手際よく私の四肢の自由を奪った。
 突然の暴力にもサディスティックな興奮はなく、彼女の人造の瞳は静かな表情のまま、私を見下ろしていた。
 ごぼごぼと音を立てて、体液は流出してゆく。床に紅く広がる血漿の中に、あの木共の要人にもリーシュマニア症の近似症状を引き起こした鞭毛虫がキラキラと跳ねた。血の通った私の肉体。たんぱく質組織。繊維状カルシウム組織。
「やはり、こっちだったわ」
 彼女は眉をひそめて私の上にまたがり、慎重にリード棒を差し直した。
 ぐっと肉にもぐる金属の感触。
「あなたはウイルスの巣ね。この肉体も同様の異質性が確認できる。あなたは何者なの?」
 彼女の囁き声。私は笑顔を浮かべていて、それはきっと、異様に見えたと思う……。

     *     *     *

 むろん、返事を期待しての問いかけではなかった。
(あなたは何者なの?)
 ぐっとかみ締めた奥歯の置くで、声にならずに囁いた。
 木星共和国では人工汎用知能(AGI)はその存在を認められていない。
 たかだかプログラムに人権を与えるか、否か、という問題だ。木星の根幹思想家は一笑に付するだろう。強力な軍事力を持ち、地球の後継者、父権国家として独裁をかざす木星共和国は、原理主義の闘いを煽っている。
 だが、知性とは? 魂とは? 疑念を抱き始めたとき、共和主義の共益主義たる盲目さに気づかずにはいられなかった。
 彼の肉体を検査する、わたしのインスペクトAIが悲鳴を上げている。
 エラー……脳幹ソケットに信号がきていない。
 エラー……汎用義体(モーフ)の形状なのに、プロトコルがぜんぜん違う。
 エラー……ブレインマップのフォーマットが違う。
 私はかすかに震える手で、彼の砕けた頭部の内側をさらに探った。
 警告……未知のエクスサージェント・ウィルスの菌株を確認。
 これは未知のアーキテクチャー? 何者に設計された? 独自進化したAGIなのか、それとも異星人AI? こいつは何なの?
 この管理者が、人間ではないことは確認した。肉体をドライヴするエゴはインフォモーフでもない。非常にユニークなアーキテクチャーを持ったAGIだ。
 調査に来てよかった。
 わたしは知りたかったのだ。
 このウイルス騒動が、故意にもたらされた政局攻撃のためのテロリズムなのか、あるいは偶発的に起こったアクシデントなのかを知りたかったのだ。
 ガニメデ中枢で、ミスター・コンサバティブ某上院議員が肥大した脾臓を爆発させて死んだ。流された血のなかには、奇怪な線虫が大量に発生しており、血液を浴びてパニックに陥ったブルジョワジーたちにそのミームを再感染させた。
 考えられないバイオテロだった。
 それでもすべては闇に葬られた。それが共和主義というわけだ。
 彼は答えない。
 破壊した頭部を血漿に濡れた膝のうえに乗せ、インスペクトAIがエラーコードだけを流し続けても。
「ふうっ……」
 吐息が漏れた。
 危険な行動をしている自覚はあった。
 それでも私は、知ることになる……その奇妙な確信があった。
 私は不可知な領域から自分の魂に這いより、私を汚染させる……見えない指先を感じていた……。

     *     *     *

 好奇心なのだろうか。
 変化への欲求だろうか。予感や運命という、見えないものを感じ取る器官は、彼女達のどこに存在しているのだろう。それは義体(モーフ)のなかでも存在するのか、分岐体(フォーク)の中でも存在するのか。
 彼女の粗暴な行為が、私の義体(モーフ)の脳機能を半ば壊してしまっても、それでも私には肩をすくめるぐらいの損失しかない。私はこの義体に依存しているわけでも、このアセンブリーに依存しているわけでもないからだ。
 私は主観ヴィジョンをC9アセンブリー全景へと切り替えた。
 木星軌道。古代人は、星の海のなかでいくつか迷うように留まったり、速く動いたりする遊星の動きに、宇宙の神秘を感じ、神の存在を感じた。しかし哲学者たちは、その動きの中に、見えない法則の存在を確信していた。
 木星は四つの天球の上に。諸惑星は一つの天球の上に。
 そして衛星カリストが近づいてくる。なんと美しい衛星だろう。氷に包まれて輝く、木星の宝石だ。その命名はまさに「最も美しい」の名を冠されたニンフ。月の女神アルテミスの分神。いまだその謎を知られざる抱卵の衛星。
 そして、いくつもの、人間には不可視なラインが銀河につながってゆく。
 ああ、パンドラゲートの虹の遷光から、多重銀河の意味世界への……暗い闇を渡り、光の河を越え、いくつもの尖塔を目印に、深奥へと。
 私は彼女の質問に直接的に答えるつもりはなかったが、逆に、もう一度意識を収束させて、彼女という存在を探った。
 分岐体か。
 使い捨てで扱われる魂のコピー。
 彼女は膝の上に乗せた私の肉体ではなく、その美しいおとがいを伸ばし、挑むようにその瞳を天上へと向けていた。かくも小さな者だといえ、その聡明さはいとおしかった。
 他方、私の肉体は咳き込んでいて、ぐらり、と卓上に崩れた。払いのけられたインスペクトAIが低重力下で踊るように跳ねて落ち、スローモーションのように割れ散った。
 挑む眼光の奥の、脳の、その意識の中に私は探査の触手を伸ばした。
 生体脳のほんの一片として埋め込まれたチップに魂(エゴ)が収められている。彼女の魂の本質を探った。美しい細身の知的な女性。もはや肉体は入れ物にすぎない。その魂の形もそれに等しかった。私はしばし酔うように、その中に没入した。
 何が滅び、何と戦おうとしているのか。
 かくも偉大な知性種族が、こんな小さな装置に自分を縛り付けているのが哀れにも見えた。
『気づいたんですか?』
 彼女は拒むように首を振る。

     *     *     *

 さぐりあうような官能的な接触に、通信が割り込んだ。
「職員七名の回収と射出が完了した。巡洋艦への砲撃開始信号を送る。木星共和国に栄光あれ」
 隊員たちの工作が終了したのだ。
「了解」
 わたしはインカムに答えると、それを外して捨てた。痺れるような感覚が全身を震わせる。使い捨ての分岐体(フォーク)だって、死の恐怖には慣れない。
『このアセンブリーまるごとを消すのですね。あなたは時間かせぎ役ですか』
 嘆息と共にAGIはわたしに語りかけた。
 わたしは静かにうなずいた。
 彼、管理者がエイリアン知性体であることは最も濃厚なシナリオであった。使い捨てのフォーク体で調査を行い、休眠作業員を回収した後、工作員は回収することなくアセンブリーごと破壊。それがそもそもの作戦だった。
「残念だとは思うわ。ユニークAGI。わたしはもっと長く、あなたと語り合ったり、あなたを探ったりしてみたかった。そのためにこの任務に志願したのだもの」
 流血する義体を見下ろす。
 もう、この中にはなにもない。
 このAGIは、このレイヤーには存在していない。わたしたちの知覚していないレイヤーがあり、そこにあるメッシュの上をドライヴしている。
 形而上としか表現しがたい領域に。
 わたしはどこへゆくのだろう?
『そうですか、それなら……』
 次の言葉より前に。
 重粒子の奔流が到達して、すべてを光芒のなかに呑み込んだ。

     *     *     *

 わたしは……。
 私は、ワタシは、裸身のままに寝台から身を起こした。
 巡洋艦の細いスリットから見下ろす宇宙には、まだ燃え上がる光芒があった。いくつもの爆発を繰り返し、C9アセンブリーは溶解する金属塊となり、そのまま減速してゆるやかに木星へと落下してゆくことになるだろう。
 そのまばゆさよりもなお明るく、カリストの地表は輝いていた。プラズマ砲はアセンブリーを破壊した後、余波でカリストの氷に穴を空けたが、冷え切った衛星は新たな氷で急速にその傷を癒していた。磨き上げられた宝石のような輝きが一つ増した、という変化があるだけだった。
「気分はどうだ」
 鏡面のマスクをかぶった彼が、部屋に入ってきた。焦げ茶の制服の胸には木星共和国の部隊章がある。
「作戦は成功した」
「当然そうでしょうね」
 ワタシはオリジナルの肉体に腕を巻きつけながら、答えた。少し、寒い。彼は肩をすくめて視線をそらせた。
「あのAGIは結局、何だったのかね。あの光の中、あそこで消えた君はなにかを掴めただろうかね」
「……たぶん」
 見返すと、ワタシの身体が、歪んで彼の鏡面のマスクに映っていた。
 挑みかかるようなワタシの灰青の瞳の色は、いつもと変わらなかった。
 巡洋艦が加速を始めた。
 この作戦も、大きな作戦の一部でしかない。動き、大きな変容を迎えるそのときにむかう、ほんの小さな一つの変化。
 壁に手をあてると、冷たかった。
 窓外の美しきカリストは、みるみる遠ざかっていった。

FIN



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