「十二宮小品集7 天秤を観る男」太田忠司(画・YOUCHAN)

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 冴えない風体の男だった。
 四十歳代半ばくらい。小柄ででっぷりとしている。髪はかなり薄くなっていて頭皮が透けて見える。着ているワイシャツには皺と汗染みが目立ち、黒縁の眼鏡はフレームが少々歪んでいるようだった。眼鏡の奥の瞳には生気が感じられず、艶やかに濡れている唇だけが別の生き物めいていて、逆に違和感を覚えた。
 折り畳み椅子に座っている男の前に、私は立った。
「話を聞こうか」
 男は上目遣いに私を見て、
「私は捜査一課長に会いたいと申し上げたはずですが」
 と言った。
「私は課長ではないが一課の人間だ。課長は今、今朝起きた殺人事件の捜査で忙しい」
「重要なことです。課長さんに会いたい」
「どう重要なのか、俺に話してくれ。その上で判断する」
 私が言うと、男は少し考えるような表情を見せた後で、
「わかりました。あなたにお話しします。ただし間違いなく課長さんに伝えてください。大事なことなんです」
「わかった。話を始めてくれ。知られていない殺人についての情報がある、ということだったな」
「はい」
「誰が誰を殺したんだ?」
「殺されたのは、六人です。そして殺したのは、私です」
「何だって?」
「私です。私が彼らを殺しました。ほんの少し、指で動かしただけで」
 男の口調は、落ち着いていた。その態度が私に疑念を抱かせる。
「おい、冗談に付き合っている暇はないんだ」
「冗談なんかではありません。本当に人を殺したんです」
 その眼は真剣だった。私は言った。
「……わかった。聞こう」
「ありがとうございます。何から話せばいいのか、ここに来る道すがらずっと考えていました。やはり、そもそものきっかけから説明したほうがいいでしょう。そう、小学校の理科実験のことから」

 その日、私ははじめて、それに出会いました。
 上皿天秤、という名前だったと思います。両側に小皿が乗っていて、片方に重さを知りたいものを乗せ、もう片方に重さのわかっている重りを乗せて釣り合いをとり、重量を量る計測器。説明しなくても、刑事さんも使ったことありますよね。
 一目見たときから、私は魅了されました。
 重さの釣り合いが取れなければ、どちらかに傾き、同じなら高さが一緒になる。その精密さに魅せられたのです。
 実験では鉛筆とか消しゴムとか、そういったものの重さを量りました。大きな分銅をまず乗せて、それから小さな分銅、板状分銅と乗せていって平衡を取る。その作業も私には楽しかった。
 実験が終わった後も、私は実験室にある天秤を見に行きました。先生に頼んで使わせてもらったりもしました。あまりに私が熱心なので、先生は私のことを理科好きだと思って将来はそちら方面に進むといい、と助言してくれました。でもそれは誤解です。私はただ、天秤に魅了されていただけなんです。
 中学に入学すると、科学部に入部しました。もちろん天秤を使うためです。休み時間になると実験室に入り込んでは天秤で何でもないものの重さを量っている私のことを、同じ部員たちも変人扱いしていました。そんな他人の眼なんて気にしてませんでしたけどね。
 天秤の歴史なんてものも調べました。ずっと昔、古代エジプトの頃から使われていたんですよ。重量を測定するための最も原始的な、それでいて最もエレガントな道具でした。
 好きが高じて自分のために天秤を買ったりもしました。アンティークなもので結構な値段がしましたが、小遣いをはたいて手に入れました。それを机に置いて均衡している様を眺めているだけで、気持ちが安らぎました。
 中二の春、私の視力は急激に悪くなりました。一時期は視界がぼやけて眼鏡による矯正だけでは見えず、このまま失明してしまうかもと心配しました。幸いその後に改善されて眼鏡を掛ければ日常で困るようなことにはなりませんでしたが。
 ただ、その頃からです。あれが見えるようになったのは。
 最初は、私の母親でした。朝御飯の準備をしている母親の頭に天秤が乗っかっていたんです。
 私が小遣いで買った、あの天秤です。母親の頭の上でゆらゆら揺れながら、でも均衡を保っていました。思わず「何乗っけてんだ?」と言いましたら、母親は自分の頭に手を置いて「何も乗ってないわよ」と言い返してきました。母親の手は天秤を擦り抜けていました。
 そのとき、父親も台所に現れました。やはり頭に天秤を乗せていました。そのままの格好で朝食を食べ、服を着替えて仕事に出かけていきました。
 何が何だかわかりませんでした。何の冗談だろうかと思いました。でも冗談ではなかった。家の外に出てみると、道行くひとがみんな頭に天秤を乗せていたんです。
 学校でも同じでした。同級生も先生も、天秤ばかりを乗せたまま授業をしていました。誰ひとりとして気付いてはいないようでした。
 こちらの気が変になったのかと思いました。でも何度見直しても、みんなの頭の上には天秤がありました。顔を伏せて居眠りしている奴の頭にも転がり落ちることなく、真横になった天秤が平衡を保っていました。
 どの天秤にも片側に分銅が乗っていました。しかしもう片方は空なのです。そのように調整されているように見えましたが、そうではないと私の直感が囁きました。片側には眼に見えない何かが乗っていて、それが分銅と釣り合っているのです。
 見慣れてくると、それはとても楽しい光景でした。みんな頭の上に天秤を乗せていて、それに全然気付いていない。見えているのは、私だけでした。
 それから幾百もの天秤を眼にしました。するとその中に平衡を保たずに傾いている天秤もあることに気付きました。近所に住んでいたお婆さんも、そのひとりでした。私が傾きに気付いた翌日、お婆さんは急な病で亡くなりました。
 同じような例が続いて、やっと気付きました。天秤の傾きは、そのひとの寿命の終わりを告げているのです。
 中学三年のとき、私にこっぴどい苛めをする奴がいました。それはもうひどい遣り口で、今も思い出すと身震いするほどの仕打ちでした。私はなんとかそいつの手から逃れたかった。だから、思い切ってやってみたんです。
 そいつの頭の上の天秤から、分銅をひとつ掠め取ってやったんです。
 そしたら翌日、そいつは車に撥ねられて死にました。
 偶然かもしれない。試しにもうひとり、私に体罰を繰り返していた体育の教師の天秤から分銅を取ってみました。
 結果は同じでした。その教師は翌日、心臓発作を起こして死にました。
 私は自分の思わぬ力に気付きました。人の寿命がわかるだけではない。その寿命を尽きさせることもできるのです。
 なるべくその力は使わないように心がけてきました。でも人生には、どうしても邪魔になってしまう人間というのが現れるものです。高校で私より成績の良かった奴、同じ女性を好きになった奴、気に入らない上司、そして結婚してから掌を返したように醜悪な態度を取るようになった妻。みんな、やむを得ず排除しなければならなかった。もちろん、悪いことだとはわかっていました。でも、ついやってしまったのです。
 そう、私は人殺しなのです。

 話し終えた男は、冷静なままだった。
 私は言った。
「作り話をするにしても、もう少し現実味のあることを言えないかね」
「信じてもらえないとは覚悟していました。でも、どうしても信じてもらわなければ。そして課長さんに会わなければならないのです」
「なぜ課長にこだわるんだ? さっきも言ったように、そんな与太話を聞いてる暇は課長にはないんだ」
「じつは昨夜、私は課長さんに会っているのです」
 彼は言った。
「あるアパートから飛び出してくるところを、偶然鉢合わせしてしまったのです」
「それが課長だと、なぜわかる?」
「私、課長さんのお宅とは同じ町内に住んでいるんですよ。だから課長さんのことも存じあげています。でも昨夜課長さんが出てきたのは、少し離れたところにあるアパートでした。今朝になって警察の車が何台か停まっていたようですが」
「……課長の家の近く……ああ、昨夜殺人事件が起きたアパートだな。でも、そこから課長が出てきたって? 嘘だろ。そんな話、聞いていないぞ」
「でも本当です。いきなり飛び出してきた課長さんとぶつかったときに、顔を見てますから」
「すると、まさか……いや、そんなはずは」
 私は慌てて首を振った。
「課長さんに会わせてください。手遅れにならないうちに」
 男は言う。
「手遅れ?」
「じつは課長さんとぶつかったとき、うっかり私の手が課長さんの頭の上の天秤を叩いてしまったのです。そして天秤に乗っていた分銅が……」
 男はポケットに手を突っ込み、何かを取り出す仕種を見せた。
「これを、課長さんの天秤に戻さないと。さもないと……」
 そのとき、部屋の外の廊下が騒がしくなった。外に出てみると、同僚が慌ただしく駆けてくる。
「どうした?」
「大変だ。課長が急に倒れた」
 同僚はそう言って、また駆けていった。
 残された私は、振り返って部屋の中を見た。
 男は座ったままだった。
「手遅れ、でしたか」
 男は自分の掌を見つめる。何もないように見えるその掌を、私も見つめた。
 そして無意識に、自分の頭の上に手をやった。
「大丈夫ですよ」
 男は言った。
「あなたの天秤は、安定していますから」



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太田忠司既刊
『目白台サイドキック 女神の手は白い』