「本を読むように旅に出よう~エンパイアスターとニューヨーク~」冨川泰次


(PDFバージョン:honnwoyomuyouni_fukawataiji


――およそこの巨大なマルチプレックス宇宙には、ブルックリン橋のように、リスと呼ばれる世界も数多く存在する。それが始まりだ。それが終わりだ。――
『エンパイアスター』サミュエル・R・ディレーニ 米村秀雄訳

 多くの人にとって旅は楽しいかめんどうくさいかのどちらかだ。幸い、前者にあたるぼくは気楽に出かけることにしている。その時のスケジュールと予算によって行き先は国内だったり、海外だったりするが何より自分の知らないところにいる、というのが面白くてしかたがない。そんなぼくが メトロポリタン美術館に行こうとニューヨークへの旅を思い立ったのが去年の秋。四大美術館はすべて回りたいと思っているのに、行けたのはナショナル・ギャラリーとルーブル美術館のみ。エルミタージュはともかく、メッツぐらいはと気合いを入れた。なにしろ、アメリカ東海岸は遠い。

 なんとか行けるめどがたったころ、とあるSF小説のタイトルが頭に浮かんだ。それはサミュエル・R・ディレーニの『エンパイアスター』。キーワードは「ブルックリン橋」。そう、マンハッタン南部のイーストリバーにかかる大きな橋だ。この物語のはじめのほうで、主人公の少年、コメット・ジョーは老婆、シャローナからこの小説の肝でもある「マルチプレックス」という概念を教わる。その場所が、故郷の星のブルックリン橋だ。そして彼は地球に行ってブルックリン橋を見るんだと叫ぶことになる。

 話は今から四半世紀前にさかのぼる。当時、学生だったぼくはSFクラブと同時にプロレス研究会というものに所属していた。ようは大学生にもなったいい大人が冗談半分にプロレスごっこをする、というもの。そのとき、覆面レスラーだったぼくのリングネームが「エンパイアスター」。これがSF小説のタイトルだなんて、対戦相手をはじめ観客の人たちにわかるはずもない。そして、今でも当時の仲間はぼくのことを「エンパさん」と呼ぶ。

 そんなぼくが、せっかくニューヨークに行くんだからブルックリン橋に立ちたい、と考えるのは人情というものではないだろうか。ただ、初めてのニューヨークということで、日数は限られているわりに行きたいところはたくさんある。あれこれ考えているうちに、ブルックリン橋は「余裕があったら行く」という場所になってしまった。

 飛行機は羽田からの直行便。長時間のフライトを嫌がる人もいるが、ぼくはあまり苦にしない。黙って座っていれば、いずれは着いてしまうものだから。

 マンハッタン島が西洋人に発見されたのは大航海時代のまっただ中、1524年のこと。発見者はフランス宮廷に仕えるフィレンツェの商人、G.ヴェラッツァーノだった。その後、オランダ人がこの島をたった24ドル(実際には千ドルほどだったらしい)で先住民から買い取ったというのは有名な話。

 このとき、オランダ人は先住民を泥酔させてサインを強要したというエピソードが残されている。正気に戻った先住民は「あのときは酔っぱらい(マンハッタン)だったから無効だ」と訴えたのだが、まるで聞き入れられなかったのだそうだ。ここからマンハッタンという地名がついたというのだが、どうものちの創作らしい。そもそも、当時の先住民が金で土地を売り買いするということがわかっていたかどうかも怪しい。一般には地元の「丘の多い島」が語原とされている。なんでもかんでもドラマがあるというわけではない、という好例。その後、オランダ人はマンハッタン島をニュー・アルステルダムと命名する。だが、1664年に今度はイギリスが抗争の末に奪取し、ニューヨークと改名した。それが現代までつづいているのだそうだ。

 ぼくが泊まったのは南にある公園、ワシントン・スクエア近くのホテル。思い出されるのはヴィレッジ・ストンパーズの名曲、「ワシントン広場の夜は更けて」。このあたりは芸術と学生の街といわれていて、昼間など公園にはゆったりとした時間を過ごしている人を多く見た。なんといっても尾っぽの長いリスがたくさんいるのが珍しくてしかたがなかった。そして、休日の昼には多くのパフォーマーが出現。そこかしこに人だかりができていた。



 これほど平和な公園でも暗くなるとドラッグの売人が出没するらしい。夜、ホテルの近くを歩いたのだが、大通りはともかく一本裏路地に入ると急に雰囲気が変わって驚いた。1980年ごろからの犯罪抑止政策がうまくいって、ニューヨークもずいぶん治安がよくなったといわれるが、それでも日本とは比べものにならない。細心の用心が必要な街だった。

 ある程度の予定をたてたとはいえ、この旅の基本はいきあたりばったり。思いつくままに出歩いた。自由の女神の足もとからマンハッタンの全景を眺め、セントラルパークにある不思議のアリス像を見、古本屋やアメコミの店をのぞく。定番なのが地元のスーパーを見て回ること。旅をする目的のひとつに日常から離れてみたいというのがあるのだが、なぜか旅先に行くとそこで暮らしている人の日常が見たくなる。どこか矛盾しているような気がするが、どうしてもやめられない。



 ニューヨーク観光といえば、エンパイア・ステート・ビルははずせない。子供のころにテレビで観た初代『キングコング』の印象は強烈だった。そこで近くに行ったのだが道が狭いせいか見上げてもてっぺんは見えない。中に入ると展望台へ向かうエレベーターの前には行列ができていた。さすがは人気の観光地。そこでは自由の女神に向かうフェリーもそうだったが、飛行場なみのセキュリティー・チェックを行っていた。ここにもテロの暗い影が残っている。

 そういえばテロではないが、飛行機がこのビルにつっこんだことがあった。それは1945年のこと。霧で視界が悪いなか、高度を下げすぎた爆撃機が79階に衝突してしまったのだ。しかも、おり悪くそこにはエレベーターがあって、衝撃で下まで落ちてしまう。それには係員が乗っていたのだが非常ブレーキのせいで一命を取り留めたという。あまり経験したくない話だ。

 展望台も人でごったがえしていた。マンハッタンは縦長なので見る方角によって景色が変わる。北はセントラルパークやビル街が、南はグリニッジビレッジをはじめとした住宅街、そしてワールドトレードセンターの跡地に建設中のビルが見える。東西には大きな川が流れている。さすがに高いだけあって、川の対岸はすぐそこだ。

 人混みをかきわけようやく南側の縁にたどりついたので、そこに陣取って日が暮れていくのを眺めていた。やがて街に灯がともりはじめる。街並みが夜景に変わっていくのを眺めながらおだやかな気分に浸っていた。建物に高低差があるので光の波の見ているようだった。

 ここで旅の醍醐味のひとつ、食事の話を。ニューヨークは美食の街だといわれており、流行の最先端を行くレストランも多い。だが、そういったところはたいてい予約が先まで埋まっているもの。そこでレストランはランチを楽しむことにして、夜はいわゆるジャンクフードを楽しむことにした。そのほうが財布にも優しいという理由もある。



 地元に知り合いがいるならともかく、初めていった場所で穴場のレストランを見つけるなんて無理な話。まずグランド・セントラル・オイスター・バーで食事をした。グランド・セントラル駅の地下にある老舗で超有名店。ランチにはちょっと早い時間に入ってカウンターに座った。まずは定番のクラムチャウダーを注文。カウンターの中にいるウェイターは背後の巨大なポットから無造作にチャウダーを皿に盛る。もう、何万回も繰り返した動作といった感じだ。それに加えてこれも必須の生牡蠣、そしてクラムのフリッターでビールを飲む。煉瓦造りの丸天井、シックな店内は歴史を感じさせる。もう何十年もここでは今と同じように牡蠣をすすっていたのだろう。1913年創業というから、あのアル・カポネもここで食事をしただろう。そう考えるとちょっとした贅沢気分。

 夜はワシントン・スクエアー近くのコンビニやスーパー、スタンドの屋台で買い食いやホテルの部屋で食事をとった。大きめのピザが1/8カットで1ドルの安さ。さすがに具はチーズと刻んだベーコンだけだが。あとはチェーン店のホットドッグやランチボックスにパスタやフライドチキン、サラダをつめこんだものなど。野菜も売っていたので思った以上に充実感があった。もちろんビールは欠かせない。あと、買いはしなかったがスーパーのいわゆるお総菜コーナーにはサンドイッチなどと並んで必ず寿司が置いてあった。ちゃんとした握りや巻物など、そこそこのバリエーションも。すっかり生活のなかに根付いているようだ。そうそう、専門店のハンバーガーも圧巻だった。ボリュームはもとより、その食感が日本のものとは大違い。粗挽きの肉が口の中で暴れるようで、まるで肉と戦っている気分になった。おかげでビールがすすむこと、すすむこと。まあ、ハンバーガーに限ったことではないのだが。

 なかでも絶品だったのがホテル近くにあった評判の店のランチだ。カレイのフィッシュバーガーとステーキバーガー、ともに二十数ドルするランチを注文。これが絶品だった。特にステーキバーガーは炭火で焼いたぶつ切りの肉に、こくのあるクリームソースがからんで飛び上がるほどおいしかった。この歳になると、見た目で味の想像がついてしまうものだが、これだけはそれを遙かに超えた味だ。ここは創作料理で評判の店という触れこみだったが、看板にいつわりなし。それにしても、アメリカにうまいものなどないといったのは誰なんだろうか。



 ただ、ボリュームも凄まじくフィッシュバーガーは細長い鳥の巣のようなフライドポテトまでついていてすべて食べ終えるのに苦労した。ところが、だ。アメリカの人にはなんでもない量のようだった。隣に座ったちっちゃな老婦人、歩くのもやっとという風情で杖をつきながらよろよろと席についたかと思うと、迷わずにフィッシュバーガーを注文。食べ切れるのだろうかというぼくの心配をよそに、あっという間にたいらげてしまったのだ。こちらはただ、呆然とするだけ。なんというか格の違いを見せつけられ、軽い敗北感を味わった。

 もちろん、この旅の目的である美術館巡りは書きつくせないほどの収穫があった。MOMAと略される近代美術館ではゴッホやセザンヌ、ダリをはじめ名画が目白押し。なかでもピカソは質、量ともに圧倒された。いたるところに作品が置かれており、なんだか「分け入っても分け入ってもピカソ」といった気分。個人的にはウォーホールの『ゴールド・マリリン・モンロー』に歓喜。ミーハーで申し訳ない。メッツことメトロポリタン美術館も噂以上で堪能した。さすがは世界四大美術館のひとつ。ここに収蔵された作品だけで、美術史の本が書けるんじゃないだろうか。ぼくの好きなルネサンス絵画も充実。歴史や哲学の本によく載っているダヴィットの『ソクラテスの死』あたりが心に残った。まんぞく、まんぞく。

 そして拾いものだったのがフリック・コレクション。ここはこれは鉄鋼王H.C.フリックが個人で所蔵していた作品を展示ている場所。個人蔵とあなどるなかれ。ホルバインの『トマス・モーア卿』が有名なのだが、特筆すべきは寡作といわれたフェルメールが三作もあること。そして、ぼくが偏愛するティツィアーノもかなりの傑作、『赤い帽子の男』と『ピエトロ・アレティーノ』もあった。並べている作品を見るとフリックという人は本当に絵が好きだというのがわかる。金にあかせて名画を集めたという感じではなく、ちゃんと本人の絵の趣味というものが感じられるのだ。しかもいいセンスをしている。アメリカ人大金持ちの恐ろしさを痛感させてもらった。

 その日は最終日にやってきた。スケジュールでは夕方の飛行機でボストンに向かうことになっていたので、朝ならブルックリン橋へ行けるということになったのだ。早朝、地下鉄でイーストリバーの対岸へ地下鉄で向かった。そこから橋を渡ってマンハッタンに入るのがおすすめの散策コースらしい。地元のパン屋で軽い食事をとっていよいよブルックリン橋の上にのぼった。

 この橋は技師・J.A.ローブリングの設計になるもの。彼がフェリーとフェリーにはさまれるという不慮の事故で亡くなると息子のワシントンが1883年に完成させた。ワシントンをはじめ作業員たちはケーソン病に悩まされたというから、なみの工事ではなかったはず。その上に立ったときに感じるのは百三十年の歴史の重み。板張りの歩道には通勤途中の会社員やジョギングをする人、自転車を走らせる人などが行き交っている。彼らにとっては日常の場。それを肌で感じるのもまた楽しい。

『エンパイアスター』で主人公、コメット・ジョーはごつごつした岩の上に立ってブルックリン橋の向こうに沈む小さな太陽を眺めていた。イースト・リバーは乾上がっており、彼の背後(マンハッタン)はジャングルになっている。もちろん、同じ場所に立っても同じものが見られるわけではない。それに今は早朝だし。逆側に立って橋を見ると、物語でも語られる蜘蛛の巣状に延びるケーブルの向こうにはジャングルではなく、マンハッタンのビル群がそびえている。視線を左に移すと、ちっちゃな自由の女神が遠くに見えた。うん、いい観光地じゃないか。コメット・ジョーではないがここに立てて、ニューヨークに来てよかったなあとしみじみ思った。

 橋を渡りきったあとも、そのまま歩き続けることに。質素なビル街に店が点在するチャイナタウン、レストランの派手な飾りが目を引くリトルイタリー、そして芸術家の街、ソーホーを抜けるとワシントン・スクエアーが近づいてきた。そろそろニューヨークの旅も終わる。

 旅をしていると一度来ればいいかと思う場所とまた訪れたくなる場所に分かれる。ニューヨークは予想通り数日いたくらいでは味わいつくせないところだった。都会であり緑も多く、音楽や美術など芸術もあふれている。それだけなら東京も同じだが、人種のるつぼが持つエネルギーがニューヨークにはあった。暇はともかく予算が厳しくもあるのでどうなるかわからないが、今はもう一度この地に足を踏みいれるべく画策をしているところ。

 なにしろ、そこにはブルックリン橋があるのだ。





冨川泰次プロフィール


冨川泰次既刊(橋場日月氏との共著)
『武士道と100人のサムライ』