「吟遊詩人」平田真夫

(「展覧会の絵」外伝・森山安雄と合作)

(PDFバージョン:ginnyuusijinn_hiratamasao
――十二律
 日本や中国で古くから用いられた音階。管楽器の管の長さを三分の一短くして完全五度、三分の一長くして完全四度を得、これを繰り返して十二の音を得る。ただしこのやり方では対数関数にならないので、現在の平均率とは異なる音高となる。西洋では、ピタゴラスが弦の長さを用いて同じ方法を採った為、十二律はピタゴラス音階と実質的に同じ物である。


 艶のある固そうな皮膚に、切れ長の目――。始めは能面でも被っているのかと思った。その位彼女の顔は色が白く、のっぺりしていたのだ。
 だが、すぐにそれは、外灯の暗さ故の見誤りだと判る。一瞬、上目遣いにこちらを向いた視線が瞬いたかと思うと、細目の唇の端が僅かに微笑んだ。全身に一枚布を巻き付けたかのような弛んだ服。白地に茶色く染みが付き、地べたに直接胡坐をかいた膝には有棹の琴が乗せられている――。
「ちょっと、あなた」
 澄んだよく通る声で呼ばれて振り返る。跨った雌馬が足を止め、鬣の風船が揺れた。近くには他にもたくさんの子供がいるが、皆親子連れで、このような言い方をされるのは自分しか居なさそうだ。見ると舗道に、小柄な女が座っている。
 遊園地の舗道脇には、大き目の石で囲われた花畑がある。彼女はその前の敷石に座り込み、細い目でこちらを見上げていた。地べたには敷物も何も無く、硬い舗石に直接腰を落としているのだ。
「さっき、広場のパレードに参加していたお嬢さんでしょう? その石、何処で手に入れられたのですか」
 上から下までくすんだ白一色で織られた厚い衣装、肌はほとんど出ていない。頭も花嫁のベール或いは尼僧の被る頭巾のような布で包まれ、顔だけが外に覗いている。弛んだ裾は地面に流れるが如く、膝に乗せた琴を抱える腕は、僅かに手先だけを露わに棹を握っていた。
 さて、どう答えよう。逡巡するうち、馬が自分で向きを換え、女のそばに寄って行った。
「わたしも色々な土地を歩いていますが、そんな物を見るのは初めて――。馬の額にも別の石がありますね。ほら、光ってる」
 確かに――。首から下げた碧光石と、馬の頭に飾られた赤い石が、それぞれ周囲の熱を吸い込んで淡い光を放っている。
 遊園地の客ではなさそうだ。あの樹脂製の首飾りも下げていない。かといって、従業員なら誰しもが赤黄縞の制服を着ている筈である。琴を持っているからには、歌い手か何かか。正規の職員でないなら、場所を借りているだけなのだろう。
 だが、その置物にも似た姿の前には、芸を見せて見物料を集める帽子や箱も置かれていなかった。客寄せの為にでも、臨時に雇われたのか。だとすれば、見る限りでは余り成功していない。
 女は立ち上がりもせず、静かに二つの石を見詰め続けた。やがて全ての熱を放出してしまったのか、光は石に吸い込まれるように消えてしまう。彼女はため息を吐いて、腰をずらした。
「どうも、歳を取ると同じ姿勢は疲れますね。ああ、痺れる」
 だが、当人はそう言うものの、ようやく仔細に観察出来た顔面には皺一つ無く、薄桃色の唇にも濡れたような艶があった。眉は細いが、色は混じり気の無い黒であり、どう見ても黛一つ刷いていない。
 それでも彼女は大儀そうに座り位置を変えると、膝に乗せた琴をずらして、肩に立て掛け直す。同時に、袖に隠れた棹の部分が露わになり、三本の弦が外灯の明かりを反射して光を走らせる。
 西洋ではこの手の楽器で三弦は珍しいと、故郷の長老に聞いたことがある。確か、バラライカがそうだったか。意匠から見て、何処か中近東辺りの品のようだが――。だがさて、真ん中の一本だけ色が違うのは何故だろう。
 そうか、両側は金色なのに、それだけが有り触れた合金製なのだ。その為せっかくの琴も、肝心の部分で画竜点睛を欠いて見える。
 金で出来た弦はどんな音を出すのだろう。
 このような楽器が、青銅や鉄の合金を使用するのは故無きことではない。良い音を出すには、ある程度の張りと密度が必要だ、と長老が言っていた。金では軟らか過ぎるので、強い張力を与えることが出来ない。或いは鍍金か何かだろうか。だが、それではすぐに剥げてしまう。
 それでも女は、あちこち塗装が剥げ、指板の擦り切れた琴を大事そうに抱え込み、本来なら弦を押さえる方の左手中指で、一番細い金線を弾いてみせた。指の動きに反応して、開放弦の余韻のある音が発せられる。それは意外に響きが良く、六角形の胴体に強く共鳴して耳に届いた。
「ああ、今日はドの音の響きが良いようですね。空気のせいかも知れません」
 中指が伸びて、今度は一番太い金線を弾く。一三一ヘルツ――一オクターヴ低い、同じドの音。さっきよりも更に余韻が長く柔らかい。
「あちこちの土地を歩いていると、色々な人の人生を知るものです。前に市場で会った歌い手は、そのような宝石を集めて旅をしていました。でも、お嬢さんの首に掛けてあるそれとは違うようですね」
 左手を動かして、指板の糸巻きに近い側を押さえる。
「此処が四分の三、四九八セント。完全四度の音」
 右手指が弦に掛かり、やや張りのある響きを鳴らす。一瞬遅れて真ん中の開放弦が弾かれ、二つの音は完全に重なってファの音になった。
 何か、言いたいことでもあるのだろうか。独り言のようでもあるが、一方で碧光石については明らかにこちらに語り掛けている。
「どうでしょう。あなたの下げていらっしゃる石に歌を与えたいのですが――。幾分か、光も良くなるやも知れません」
 碧光石に耳など無く、そんなことがあるとも思えなかったが、断る理由も見付からない。そこで馬に跨ったまま、上から彼女のすることを見詰め続ける。
 女は両袖を捲り上げて、膝に琴を構えた。頭に被った布から、三つ編みの髪が一房垂れ下がる。その色は、蜘蛛の糸のように白い。とはいえ、年齢に因る退色にしては張りがあって艶やかだ。やはり、当人が嘆く程の老齢とは思えない。
 既に調弦は完全である為、彼女は糸巻きには手も触れず、左手を棹の上で走らせた。同時に右手が弦に掛かり、曲を奏で始める。途端に、辺りに満ちていた全ての音が消える。
 金の弦が鳴らす完全五度、鋼の弦から発せられる短三度――。たった三本の弦から作られる旋律の前に、園内の全ての背景音が退いて行く。
 いや、そうではない。よく聴けば、遊園地本来のざわめきは変わらず残っていた。ただそれが、様々な雑音の集積とならず、琴の演奏に参加して共に曲を奏でているのだ。
 唱和。
 女の弾く琴は、他の全ての音と争うことなく、それらの響きと和声を保って音楽を作り出す。気が付けば、彼女の唇から虫の羽音のような倍音が漏れていた。喉歌というのか、言葉にならない声は、それ自体が一つの楽器として作用し、他の音に溶け込んでいく。
 旋律、和声、律動――。
 彼女の琴と歌、その他の全てが調和して音楽の三要素を作り出す。世界の何もかもが、彼女の指揮の下に集まって曲を奏でる。
 気が付くと、馬も又、蹄で地面を叩いて拍子を取っていた。何やら、自分の心臓までもが、歌に合わせて脈を打つようだ。
 やがて女の手が止まる。園内のざわめきが本来の姿を取り戻し、意味の無い雑音が周囲に甦った。拍手でもしようかと迷うが、どうもそのようなやり方では、想いを返す方法として相応しくない。そこで小首を傾げて、相手の目をじっと見詰める。女は意味を察してか、
「有り難うございます」
と微笑んで、琴を肩に持たせ掛けた。
「久方振りに気持ち良く唄えました。その石のお陰でしょうか」
 何故、誰も彼もがこのように言うのだろう。碧光石にそんな力がある筈も無いのに――。現に今も、彼女の演奏に対して何ら反応も示していないではないか。
 と、女は琴を抱えたまま、目を閉じて何事かをぶつぶつ呟き始めた。独白のような、或いは未知の存在に捧げる祈りのような……。既に周囲のことは、まるで気にしていないように見える。布に包まれた首が、そろそろと下がり出す。
 眠っちゃったのかしら。
 もしそうなら、此処にいても意味は無い。だが、このまま立ち去るのも躊躇われた。少なくとも、挨拶くらいはして行きたい。
 そう思っていると、相手は突如として顔を上げ、目を開いて辺りを左見右見する。馬がかつかつと蹄を鳴らした。
「何て光でしょう。こんな明るい夜、わたしが経巡った土地でも、一番かも知れない」
 言う通りだ。夜の園内を照らす遊具の電飾、舗道脇の外灯、様々な屋台の灯りなどで、周囲は光に満ちている。それら人工の明かりに因り、空には星さえ見えない。だが、都会に出ればこの程度の明るさは、何処にでもある。
「此処に住む人達は、あらゆる闇を光で満たす力をお持ちなんですね。その石のように――」
 彼女の言葉に合わせるように、碧光石が一瞬光を放つ。やはりこの半貴石は、人の心に応えるのだろうか。
「ねえ、あなた。さっきからお聞きしようと思っていたのですが、今居るこの土地は何というのですか」
 誰もが口の端に乗せる此処の名を知らない?
 その気になれば、世界の森羅万象と和することが出来るのに。もっとも、二つの能力、知識に繋がりは無い。
 だがさて、どう答えよう。遊園地は固有名詞を持たず、第一地名ではない。詮方無く少し考えてから、一番当たり障りの無いことを言っておく。
「そうですか」
 東京、という言葉を口内で転がしてから、彼女は琴の胴を爪で叩いた。乾いた木の音が響き、周囲の風に散らされる。
「でも、わたしには此処は眩し過ぎます。たまに見るにはいいけれど、住む気にはとてもなれない」
 女はため息を吐いてこちらを見詰める。黒い瞳に周囲の灯りが反射して、瞬きと共に明滅する。
「人がたくさん集まるので、歌を唄うにはいい所なのですけれど」
 布に包まれた顔が微かに笑った。同時に唇の端から白い歯が漏れ、舌先が艶やかな唇を嘗める。
「さて、そろそろ行かねばなりません。又次の土地に移って、そこで何を見るやら。流石に疲れたけれど、自分で選んだ生き方ですから仕方ありませんね。どっこいしょ、と」
 女は如何にも大儀そうに、しかし両手に琴を抱えたまま、支えも無しに立ち上がる。胡坐をかいた姿勢から、どうしてあんなことが出来るのか。全身を包む服は地面に引き摺るまでに垂れ下がり、右手に握った琴は、いつの間にやら取り出された麻の袋にしまわれた。袋の口が太い紐で縛られ、左肩に掛けられる。
 と、何処からか、今の喉歌のような響きが届いて来た。何かと思ったが、すぐに遊園地の接する海から吹く、潮風の音だと判る。風があの歌に似ているのではない、歌の方が自然界の呼吸を模しているのだ。
「ああ、世界が歌を返してくれていますね。この仕事をしていて、何より嬉しい瞬間です」
 女は潮風に耳を傾けるように目を閉じていたが、やがて瞼を上げて周囲を見廻した。
「では、もう会うことも無いと思いますが、と言いたいところなのですけど、未来は誰にも判りません。わたし達がラプラスの鬼でもない限り。だからこう言っておきます。今度お会いすることがあったら、又歌を聴いて下さいませ。それがわたしの仕事ですから」
 彼女は軽く会釈をして踵を返す。そしてゆっくりと、だがしっかりした足取りで舗道を歩き始める。今日まで生きてきた日々、かなりの分を歩いて過ごしたのだろう。
 地面に引き摺られた着物の裾が、舗道の敷石を掃くように撫でて行く。厚い布の端は、長い旅の歳月を思わせて、すっかり擦り切れていた。白い布を、辺りの電飾が次々に色を変えながら染めていく。
 後ろ姿を見送っていると、ふと彼女の足が止まってこちらを振り返った。衣服と同じく、灯りに照らされて虹色に変化する白い顔。風が、その律動に和するかのように吹き過ぎる。
 そして、吟遊詩人――旅の楽師は、最後にこう言い残して発ち去った。
「行かれた方がいいのでは? あなたを待つ人がいますよ」
 馬が静かに向きを換える。見上げれば、夜の空を背景に、巨大な観覧車が溢れんばかりの電飾を輝かせて聳えている。振り向いても、女の姿は既に無い。



平田真夫プロフィール


平田真夫既刊
『水の中、光の底』