「印鑑騒動」田丸雅智


(PDFバージョン:innkannsoudou_tamarumasatomo
 おかしな事件はいつだって何の前触れもなく訪れるものだけれど、こと印鑑騒動に関しても、誰に予見されることもなく、とつぜん始まったのだった。
 それが私の身に最初に降りかかってきたのは、会社で交通費の精算をしているときのこと。提出した書類に不備があるといって、私は事務長から呼び出されることとなったのだった。
「いつも通りにやったはずなんだけどなぁ」
 と、私はぶつぶつ呟いていた。すると事務長は、
「まあ田丸さん、ここをよくみてくださいな」
 ヒステリック気味に、人差し指で書面をトントン。見ると、捺印欄が空欄のままになっている。
 私は、ただただ首をかしげるばかり。
「あれ、確かに押したはずなんですが……」
 事務長は、問答無用で書面をトントン。
「言いわけご無用、さっさと書類を完成させて」
 書類を回収できればよい。そう言いたげな事務長に、私は思わずむっとする。あってもなくても、印鑑なんてどうせ形だけのくせに。そう心の中で悪態づいた。
 だけど、おかしいなぁ。本当に、きちんと印は押したはずなのに。
「なにか、ご不満でも?」
「いえ、すみませんでした……」
 私は謝罪の言葉をいわされて、腑に落ちないまま書類に押印させられたのだった。
 しかし、その日のニュースで、謎はすぐに解けることになる。
 どの番組を回してみても、テレビはどこも同じ話題で持ち切りだった。
「……全国各地で、印鑑が書類から抜け出す事件が多発しています。繰り返します、本日明け方ちかくより……」
 この人たちは、何を言っているんだろう。何度聞いても言ってることが信じがたく、初めのうちは理解することができなかった。
 しかし、昼間のできごとを思い出し、私はようやく事態を呑みこむことができたのだった。
「なぁ、この事件、おれもきょう遭遇したみたいだよ」
 と、私。
「あら、大丈夫だったの?」
 と、妻。
「まあ、なんとか。でも、押し直した書類も、今頃また印鑑が抜け出してダメになってるかもなぁ」
「大変ね」
 テレビでは、放っておいても、すぐに識者が自説を展開しはじめる。
「ただ言われるがままに押した、意味のこもっていない印。優柔不断なまま、押したあとも迷いが残ったような印。そういう腹の据わっていないふわふわした印鑑が、書類という現実から逃避するがごとく逃げ出したのでしょう」
「なるほどねぇ、だから、おれの印鑑も消えちゃったんだなぁ」
 私は、なんとなく分かったような気分にひたる。
「なお、逃げる印鑑は、男性の押したものであることが多いとのことです。現場からは以上です」
 そう言って、庁舎の前からリポーターが締めくくった。
「男性のほうが多いのねぇ」
 と、妻が何か考えながら呟くように言う。
「そりゃあ仕事で押す機会が多いからなぁ」
「それだけかしら」
「どうして?」
「なんとなく」
 妻の言わんとすることは、おぼろげながら推測できる。近頃は、情けない男が増えたからなぁ。
 たとえば、娘の恋人にしたってそうだ。妻を通して聞く限り、結婚するとかしないとか、優柔不断にいつまでも、うにゅうにゅ言ってるらしい。そういうやつらが押す印は、実に責任感にとぼしく、形だけの浮足立ったものなのだろう。そんなんじゃあ、先が思いやられるなぁ。もっともまあ、私も人のことを言えた義理ではないけれど。
「お父さん、床に何かいるんだけど」
 廊下から、大きな声が聞こえてくる。
「ごきぶりでも出たかい」
「いいから、ちょっと来てよ」
 有無を言わせぬ言い方に、私は苦笑するしかない。こういうところばかり妻に似て。
 よっこらしょと腰をあげて廊下に出ると、あっちをパタパタ。こっちをパタパタ。
「おいおい、スリッパを粗末に扱うなよ」
「いいから、ちょっと見てよ」
「なに」
 と、娘が追いかけているのは、床を這いまわる田丸家の印なのだった。
「ほう、我が家でも」
「感心してどうすんの」
 よく見ると、家の中は印鑑であふれかえっていた。
「こりゃまた、いろんな書類がダメになったなぁ」
 それだけ、形だけの印鑑が多かったということなのだろう。
「呑気なものねぇ」
 と、妻。こう騒がしいと、なんだか笑けてくるのだった。

 印鑑騒動は、その後も収まることなく広がりつづけた。
 役所が印鑑まみれになっているのはテレビを見るまでもないことだが、掛け軸から落款が抜け出して、贋作がバレた骨董品屋なんかもいるようだった。
 家の中はというと、日を追うごとに印の数が増えていった。丸いもの、四角いもの。太いもの、細長いもの。きっと割印だろう、半分で名前が切れているもの。行書、楷書。
 中には時々、ご近所の名前が混ざっていることもあった。佐藤さん、大澤さん、鍋島さん。みんな適当な書類ばかりつくってきたのだなぁ。それとも、みなさん優柔不断な性格なんだろうか。
 不動産。クルマ。新聞勧誘。
 印を押してしまったあとで、
「やっぱりやめておいたほうがよかったかなぁ、どうだったかなぁ……」
 そりゃあ印も逃げ出すかぁ。
 まあ人のことはいいとして、とにもかくにも、我が家の印鑑が悪用されないことを、ただただ祈るばかりだった。
 現に、ある会社の社長の印が悪用された事件がテレビで報道されていたのだった。印は何者かに捕えられ、改ざんされた契約書に、ひそかにノリづけされていたのだという。事件は未遂で終わったらしいが、まあ、印が逃げ出したということは、自動機械的に押印している、名ばかりの社長だったのだろうなぁ。
 それに関連したもので、週刊誌では、印を売り買いする犯罪組織についての特集が組まれていた。ふらふらさまよう銀行印を捕まえて、高値で取引しているのだという。そんなので預金を降ろされたりでもしたら、かなわないなぁ。目下のところ、銀行は対応策を検討中なのだという。ということは、当分は自己責任で管理しろということだ。
 と、改めてそんなことを考えているうちに、さすがの私もだんだんと危機感を覚えはじめてきた。我が家の印も知らないうちに借金関連の書類にでも使われたら、面倒なことになるからなぁ。
 こりゃあ、家の中の印鑑たちを一網打尽にしなければいかんなぁ。外に逃げ出して、誰かに捕まる前に。そう思い、私は印を消すための策を実行に移すことにしたのだった。
 私はまず、ぞうきん片手に印鑑たちを追いかけてみた。拭きとって消してしまおうと単純に考えたのだった。しかし、何度やっても素早い動きでことごとくかわされて、またたくまに冷蔵庫の裏に逃げられるのがお決まりの展開だった。
 そして、その冷蔵庫が問題だった。どうやら印たちは、冷蔵庫の裏に巣をつくっているようなのだった。
 それというのも、近ごろは点ほどしかない小さな赤い粒のようなものが、部屋をうろうろしているのを目にすることが多くなっていたのだ。あれはきっと、印の子どもに違いない。あれが大きくなって、外に出て捕まりでもしたら、そうとう厄介だぞ。私は頭をひねって、印鑑の駆除策を考えつづけた。 
 霧吹きで湿らせて、動きをにぶらせるというのはどうだろう。そう考えて、めったやたらに霧を吹きつけてみた。だが、色がにじんでいくらか効果はあるようだったが、やはりそのまま逃げてしまって、根本的な解決にはならなかった。
 しかしあるとき、私の頭についに妙案が降りてきた。
 追いかけると逃げるのだから、この構図を逆転させればいいのではないか。と考えたのが発端だった。印たちをおびき出し、のこのこやってきたところを根こそぎ退治するのだ。うん、完璧じゃないか。好きそうなものさえ用意できれば、いける気がする。
 そして私は、ごきぶりホイホイを改造し、印鑑ホイホイなるものを作りだしたのだった。その真ん中には、エサの代わりに朱肉をセットする。それを私は、台所と冷蔵庫下の二か所に設置した。
 次の朝、作戦はおもしろいほど見事な成功を収めていた。
 そこには、朱肉を目指すばかりに粘着成分にとらわれた哀れな印たちが、たくさんかかっていたのだった。
 私は、そのすべてをひとつひとつ丁寧に拭きとって消していった。安堵の気持ちが広がっていく。中には、ご近所の印もまざっている。ついでに消しておく。
 しかし、その中に見慣れない名前があった。こんな人、近所にいたっけなぁ。
 気になって、私はさっそく町内会の名簿を見た。隅から隅まで指で追ってみたけれど、そういう名前は見当たらなかった。
「どこから紛れこんだんだろうなぁ」
 なんとなく消すのもためらわれて、妻と途方に暮れていた。
 すると、娘が割りこみ、あっと声を上げたのだった。
「こんなところに居たのね」
 そして、素早い動作でテープをかぶせ、印をきれいに写しとった。
「知り合いかい?」
 私は娘に尋ねてみる。
 と、そのとき。妻も、あっと声をあげた。
「ああ、その名前、どこかで聞いたと思ったら、そういえばあんたの……」
 それで私は、事情を察する。
「順番が前後しちゃってあれなんだけど」
 そう言って、娘は婚姻届を差し出した。
「いつまでもぐずぐず言っててもどかしかったから、まずは書面を用意して、腹をくくらせようって思ったわけ。それで目の前に座らせて、印を押させたの」
 我が娘ながら、やることが大胆だなぁ。
「……なんだけど、こんなことになるなんて、情けない」
 対する娘の印はというと、どっしり構えて動きゃしない。



田丸雅智プロフィール


田丸雅智既刊
『夢巻』