「隣の爺」飯野文彦

(PDFバージョン:tonarinojiji_iinofumihiko
 わたしの実家の隣に爺が住んでいる。小汚い爺だった。ひとり暮らしだった。夏でも冬でも、煮染めたようなよれよれの着物(というよりも浴衣に近い)姿だった。
 その姿で時折、近所のスーパーに買い物に出る。振り返ったり、冷やかしたり、茶化したりするのは、爺を知らない者だ。地元に住む者は、子供だろうと決して、そんなことはしない。爺を見かけたら、はやめに避ける。偶然鉢合わせしたら、ぺこりと会釈し、足早に立ち去る。
 爺は名前を「砂川以作」といった。名前はみんな知っている。だが、それ以上知っている者はない。できるだけ関わり合いにならないようにしているからだ。否、もう一つ知っていることがある。それは爺が信じられないくらい長生きしていることだった。
 正確な年齢は誰も知らない。同じ町内に住む老人に訊いても、
「結婚して自分が越してきたときには、すでに老人で、あの家でひとり暮らしをしていた」
 と言う。幼い頃からこの町内に住んでいるという別の老人も、同様のことを言った。さらに、
「うちの祖父さん祖母さんが、ここに家を構えたとき、すでに砂川さんは老人で、あそこでひとりで暮らしていたと言っていた」
 と話した。そんな風だから、わたしが物心ついたとき、当然ながら爺はそこにいた。すでに爺だった。親から口を酸っぱくして言われたものだ。
「砂川さんには、ぜったいに近づかないこと」
 わたしは十八才で上京した。そして二十年後、やることなすこと都会ではうまく行かなくなり、都落ちして実家に戻ってきた。親と同居しながら、新たな気持ちで小説を書き、顔見知りの編集者に読んでもらうなり、新人賞に応募するなりして、再起を期するつもりだった。
 だが物事はそう簡単にいかない。日がな一日、二階の六畳間にこもっていても、原稿はいっこうに進まない。
 焦りもある。近所の目もある。当然苛立ちが募り、ますます原稿は進まなくなった。結果として、といえるかはわからないが、わたしは神経を病んだ。
 何かを憎んでいないと、自分が保てない。外部のものを憎んでいないと、憎しみが自分に向かってしまう。そうなると到底生きていけない。と、手近に憎しみを向ける相手がいた。それが爺だ。
 なぜ、あんな得体の知れない人間が存在するのか。そんなことが二十一世紀の現代、許されるのか。
 親に訊いても、砂川と切り出しただけで、首と手を左右に振り、
「やめろ。砂川さんのことは気にするな」
 と話を打ち切ってしまう。かといって、両親以上に、じっくりと話せる知人は、近所にはいない。
 わたしは市役所へ出向いた。受け付けに若い女がいたので話しかけた。
「近所の人のことで、相談がある」
「どんなご相談でしょう?」
「ひとり暮らしをしている老人だが、昔から老人で、今でも老人だ。いったい幾つになるのか、誰も知らない。こんなことがあって、いいのか」
「はあ……」
「はあじゃないだろう。どう思う?」
「そう言われましても……」
 女は口ごもった。近くに立っていた中年の男が、何か? と近づいてきた。やりとりを見ていたようである。わたしより数才年上らしいが、頭頂部にまったく毛がない。わたしは女に言ったのと同じことをくりかえした。すると中年のその男は言った。
「もしかして、××町に住む砂川さんのことではないですか?」
「そうだ。知っているのか」
「ええ、まあ。それであなたは?」
「隣に住む井之という者だ。あんな得体の知れない者が、隣に住んでいると考えただけで、おちおち昼寝もできない」
「何か、トラブルでも?」
「存在自体が、トラブルだと言っているんだ」
「しかし、何か問題でも起こしたのならわかりますが……」
「ほんとうに、そう思うのか。それじゃおまえは、あの爺のことをちゃんと把握しているんだな」
「いいえ、自分は係がちがいますから」
「それなら、なぜ勝手なことをほざく」
「ちょっと『ほざく』はないでしょ」
 中年男が、眼を細めた。これだとばかり、わたしは責めた。
「なに、善良な市民に楯突くのか。えっ?」
 さらに罵倒しようとしたが、中年男はあっさり、すみません、と詫び、
「今、担当の者を連れてきますから」
 と逃げるように姿を消した。
 苛立ちの矛先が消えたため、ふたたび受け付けの女を見た。女はわたしが見ているのを承知しているくせに、視線を合わせない。
「おい」
 わたしが言うと、女は両肩をぴくっと揺らし、わたしを見た。わたしは眉間に皺を寄せ、女を睨んだ。
「何か?」
 今にも泣きそうな顔で、女は言った。わたしは視線を逸らさず、見つめたまま答えた。
「父親の弟に生まれた男の子は、わたしから見れば何だ?」
「は?」
「は、じゃない。おい」
 今度はどすを効かせたので、女は椅子から飛び上がるほど、身体を揺らした。目も潤み、唇もへの字に閉じる。
「何か?」
 今度は警備員が来た。三十前と思える若さだが、超デブで、一見しただけであだ名をつけた。怒ったトラフグ。わたしが睨むと、トラフグは、険しい顔でにらみ返す。
「おまえはやくざか?」
「は?」
「ここで雇われているやくざだな」
「自分は、警備担当の者ですが。あなたは?」
「善良な市民だ。その女に訊けばわかる」
 トラフグは受け付けの女を見た。見つめかえす女の目からは、涙がこぼれていた。若い女から、そんな風に見られたことはないのだろう。トラフグは紳士ぶって声をかける。
「だいじょうぶ?」
「ええ」
「この人は?」
「何か聞きに来たらしいんですけど、あたしのこと『おい!』っ脅すんです」
「いい加減なことを言うな」わたしは会話に割って入った。「さっきここにいた禿が、今担当の者を呼びに行っているのを、この女は知っている。そうだろ。エッ」
「でも、だからって『おい』呼ばわりされるなんて。両親からも、そんな風に呼ばれたことないのにぃ」
「この馬鹿者」
 わたしは女に叫んだ。女は立ち上がり、後ずさり、
「ねえ、聞いたでしょ。ひどいぃ」
 と両手を顔でおおった。
「ちょっと、あんた。どういうつもりだ?」
 トラフグがわたしに詰め寄った。頬やあごのふくれ具合に反して、目は糸蚯蚓のように細い。
「きさま、やくざの本性を出したな」
「やくざも何も、彼女を『馬鹿』呼ばわりしたのをちゃんと聞いた」
「馬鹿に馬鹿と言って、なぜ悪い?」
「彼女のどこが、馬鹿だというんだ」
 トラフグが叫んだ。しめた、とわたしは内心ほくそ笑んだ。単純馬鹿が、若い女を前にして、いい気になっている。かっこうの餌食だ。隙だらけだ。
「よし、教えてやる。仕事中に泣くやつは、りこうか?」
「そんなのは、りこうとか馬鹿とかとは関係な――」
「金をもらってるんだぞ。それも善良な市民の税金だ。それなのに善良な市民を前に泣くのが、りこうだというのか? えっ?」
「それは、おまえが先に、彼女を『おい』呼ばわりしたから――」
「いつ、この女を『おい』呼ばわりした」
「したわよ、さっきいぃ」
 女が泣きながら叫んだ。と、思わぬところから助っ人が出た。
「あたしも、聞いたわよ。この人、たしかに『おい』って言ったわよ」
 七十歳近い、見るからに地味なばばあが割り込んできた。トラフグの唇が、それ見ろとばかりに綻んだ。だがばばあはやめなかった。
「でも、その女の人のことを『おい』呼ばわりしたんじゃないのよ。あたしは全部聞いたのよ。この人『父親の弟に生まれた男の子は、わたしから見れば何だ?』って質問したのよ」
 わたしは改めてばばあを見た。地味で質素だが、どうやら政治的な活動をしているらしい。貧弱な身体に〈市民の血税を無駄遣いするな〉と下手くそな字で書かれたタスキをかけていた。
「その通りです。ありがとうありがとう」
 ばばあに笑顔で言ってから、どんでん返しの舞台のように顔から態度から一変して、トラフグを睨み、
「わかるか?」
 と詰め寄る。
「わかるかって……」
「父親の弟に生まれた男の子だぞ。そんなこともわからないのか」
「それは、甥……」
「それみろ、おい、だ」
 わたしは泣く女を指さして叫んだ。女ははっと顔を上げた。化粧が取れて、パンダ顔になっていた。おかしかったが、笑わず、
「両親が我が子を甥と言うわけがないだろ。それをこの女は感情的になって、善良な市民を悪者に仕立てようとした。これを馬鹿者と言わずして何と言おう」
「馬鹿者よ。あの女は馬鹿者よ」
 ばばあが叫んだ。わたしはさらに、はやし立てる。
「そのうえ、このやくざが、善良な市民を脅したんだ」
「ええ、見たわ。やくざよ、そのトラフグみたいなデブは」
 わたしは顔を押さえた。ばばあにもトラフグに見えたのが、おかしかったのだ。わたしがうつむいている間にも、ばばあはますますヒートアップする。
「謝れ、馬鹿女。謝れ、フグやくざ。善良な市民の血税でぬくぬく太りやがって」
「あの……」
 背後から声がした。見るとさっきの禿だった。禿の後ろにはワイシャツの袖をまくった若い男が居た。
「お、彼が担当か?」
「ええ。しかし……」
 禿は受付嬢と警備員に食ってかかるばばあを見た。
「いい、ほおっておけ」
 わたしは若い男に近づき、
「ここじゃうるさいから」
 と、そこから立ち去った。角を曲がり、ばばあが見えない場所で立ち止まり、訊ねた。
「で?」
「は?」
「砂川の爺のことだ」
「ああ、それですが……」
 若い男によると。税金もちゃんとおさめているし、隣近所とトラブルを起こしたという話もないので、問題はないと言う。
「歳はどうなんだ?」
「しかし、長生きしたから罪になるわけではありませんし」
「いったい幾つなんだ?」
「それは個人情報に関わることですから」
「それなら二百にも三百にもなる人間を放置しておいて良いのか」
「三百だなんて。せいぜい百五十近いだけで……」
「そんな長生きの人間がいるのか」
「しかし現に砂川さんが……」
「それなら表彰しろ。ギネスに登録しろ」
「ギネスはともかく、表彰なりは打診したことがあるようですが、いっさい断るとのことで」
「うむ」
 わたしは腕組みした。では打つ手はないということか。
「しかしさ」
 わたしは態度を豹変させた。フレンドリーに微笑みながら、
「わたしは井之妖彦と言います。小説を書いてます。砂川さんの隣に住んでるんですが、どうです、もしあなたの隣にあんな人が住んでいたら?」
「そう言われると……」
「ねっ。わかるでしょ。気になるって」
「ええ、たしかに……」
 ここだと思い、情報を引きだそうとしたが、相手は若いだけに、情が薄いのか、
「せっかくですが、個人情報保護法がありますから、これ以上は」
 とわたしを突っぱねた。
 わたしは折れた。笑顔で、若い男の肩を叩き、礼を言って、そこを後にした。これ以上、無用な敵を作るのはまずいと考えたからだった。
 役所のロビーに戻ると、相変わらずばばあが騒いでいた。トラフグだけでなく、ほかの者数人に囲まれ、どこかへ連れ去られていくところだった。
「また、あの人よ」
 背後から声がしたので、振り向くと、デブのばばあが金歯を剥き出しにして、隣に立つ野次馬に言った。わたしは金歯に近づき、
「知ってるんですか?」
 と訊ねた。
「年中、市役所や県庁にいて『反対反対』って、訳のわからないことを叫んでるの。○○○○よ」
「ほほう、○○○○ですか」
 わたしは肯きながら、市役所を後にした。爺のことは解明できなかったが、家路をたどるわたしの足は軽かった。人間、どんなことでもガス抜きができると、楽になるものである。
 さらにスキップこそしなかったものの、ハミングしながら、わたしは考えた。案外、爺はわたしにとって、得難い味方かもしれない。あの爺を盾に、今度は県庁へ乗り込もう。若い女、気弱そうな男を選んで、難癖をつけてやる。
 警察はパスだ。いくら若い女でも、気が弱そうな男だったとしても、わたしは警察に敬意を払っている。なぜかといえば、長くなるので一言だけ言うと、シーズンの変わり目の特番、二十四時間警察密着といったドキュメントを見れば、
「ああ、ほんとうにご苦労様」
 頭を下げたくなるからである。
「そうだ、あのばばあに、爺のことを探らせよう」
 思いつきが口から出た。名案だと思った。いったい、どういうことになるか……。

◇ ◇

 斯くして三日前、あの反対ばばあを騙して、爺の家に送り込んだ。
 どうなるか、わくわくしながら、二階の部屋の窓から様子をうかがった。だが、拍子抜けするほど、何事も起こらない。
 しかも、ばばあが出てこない。日が暮れても出てこない。次の日も早朝から見張ったが、同じだった。わたしが眠った深夜にこっそり帰ったのか。いや、それは考えづらい。となると、爺に絞め殺されでもしたか。
 わたしは意を決して、爺の家に乗り込んだ。もし殺人なり、拉致なりしていたのなら、一大事である。ところが……。
 玄関先で声をかけても反応がない。玄関戸を開けようにも鍵がかかっている。
 仕方なく雑草に覆われた庭に忍び込む。すぐにできの悪い草笛を吹くような音が聞こえてきた。耳を済まさなければ、わからないくらい幽かだが、家の中から聞こえてくる。
 風が吹き抜けるとき、ぼろ屋のどこかが鳴るのだろうか。それにしてもわたしの神経を妙に刺激する音だった。たまらずどこか家の中を覗ける場所はないかと、雑草をかき分けかき分け、庭を探索した。
 ぼろ屋の割りに、ガードは厳重だ。ところが締め切った雨戸を見ると、節穴がある。ワインのコルク栓が詰めてあった。
 指先に力を込めて、コルク栓をねじり、引き抜くことに成功した。と、その節穴から、あの粗悪な草笛のような音が漏れてくる。
 生唾を飲み、節穴から中を覗いた。驚いた。蝋燭で照らされた暗い室内、爺とばばあが素っ裸でセックスしていた。(了)



飯野文彦プロフィール


飯野文彦既刊
『ハンマーヘッド』