「入港遅延船」森岡浩之

(PDFバージョン:nyuukoutiennsenn_moriokahiroyuki
 作者敬白

 ここにお目にかけます『入港遅延船』は、『突変(徳間文庫・九月刊行予定)』のプロモーション小説です。
『突変』で名のみ語られる事件を、当事者の視点から描いたものです。したがって、登場人物はまったく重複しません。
 また、この作品のみを読んでも、登場人物たちの身になにが起こったか、世界になにが起こっているのか、よくわからないかもしれません。
「オチがないじゃないか」と仰るならば、ごもっとも。
『入港遅延船』と『突変』の関係は、『謎の映像』と『クローバーフィールド/HAKAISHA』の間にあるものに近い、と思っていただければ幸いです。
 ほんとうはこんな説明はせず、ティザー小説を気取りたかったけれど、そんな度胸はなかったぜ。
 それでは、どうぞお読みください。

 左手でサムズアップする。立てた指を半分ほど戻し、その第一関節より先を横から見る。
 すると、その湾の形になる。
 爪の根元辺りに狭い海峡があり、そこから下、すなわち南に島が横たわっている。島の海岸線は南南西に延びたあと、南東へ緩いカーブを描く。北の海峡のほぼ南、第一関節の少し下の辺りで、海岸線は鋭く南東へ方角を変えて、岬を形成する。その東の水域は北の海峡よりは広い。海峡の向こうには、島の岬と相対するように、別の岬が西へ突き出ている。岬から東北へ伸びる海岸線は、指の腹から指先をなぞるように撓み、爪の上を滑るように南西へ進む。爪の根元の海峡まで来ると、湾をぐるりと一周したことになる。
 夏、湾を囲む陸地は滴らんばかりの緑に染まる。いまは秋も終わりに近づき、陸は二色で分けられていた。やや色褪せながらも緑のままの部分と、赤茶けた部分だ。緑は森林であり、赤茶色は湿原だった。
 湿原には何本もの川が流れていた。最も大きいのは、東北の湖から下る川だ。海近くでは網の目のように分流を這わせているが、本流は親指の先端辺りで湾に注いでいる。その河口のやや南に、パナマックス級のドライバルク船サンルーカスが停泊していた。
 積荷は米国産デントコーンである。予定ではとっくに陸揚げされて、コーンスターチにでもなっているはずだが、よんどころない事情でいまだ船艙に留まっていた。
 昼間、サンルーカスのエンジン・ルームは静まりかえる。ときおり、上空を飛ぶ生き物が放つ甲高い声が聞こえるぐらいだ。メイン・エンジンはもう一年以上も動いていない。稼働させるにはオーバーホールが必要だろう。
 夕闇が迫る刻限になると、エンジン・ルームに騒音が戻る。もっとも、船が大洋を渡っていた頃に比べれば、ずいぶん控えめで、寂寥感すら漂わせる。音源は小型のディーゼル発電機だ。毎日、四時間だけ、限られた場所に電力を供給するために働くのだ。
 限られた場所の一つが士官食堂である。天井に一本だけ残された蛍光灯のため、電力が必要だ。蛍光灯の下にはテーブルが二つあった。どちらも同じ大きさだが、一つには六脚の椅子があてがわれているのに対し、もう一卓には四脚しかない。そのぶん、ゆったりしている。
 四人席は船長たち幹部のテーブルで、それ以外の士官たちは六人席を使う。
「今日も無事、一人の犠牲者も出すことなく今宵を迎えることができた」薄暗い照明のもとで船長が言った。「そのことを神に感謝し、また明日をつつがなく迎えることができるよう祈ろう」
 祈りを捧げる士官たちの後ろでは、まだあどけなさの残る顔つきをしたボーイがサービスワゴンを抑えて待機していた。
 祈りが終わった。
 ボーイはストック・ポットから黄色くて泥めいたものをレードルで掬い、深皿に注いだ。そして、船長の前に置く。
 船長の次は機関長だ。皿が置かれると、機関長は肩越しにボーイを睨みつけた。「今日もこれだけか?」
「足りないならば、お代わり、あります」ボーイはたどたどしい英語で言った。
「他に料理はないのか、と訊いているんだ」
 ボーイは怯えたような表情で、「ないです。マッシュだけ」と答えた。
「もううんざりだ。ミゲルを呼んでこいっ」機関長は怒鳴った。
 ボーイは配膳を中断し、弾かれたような勢いで厨房へ走った。
 やがて、薄汚れたコックコートを着た司厨手が、のっそりと入ってきた。
「なにか?」
「他のものをもってこい」機関長は要求した。「ジュガンツィはもう見るのもいやだ」
「そりゃ、なんのことです?」司厨手は不思議そうに問うた。
「今日のメニューだよ」機関長は、皿をスプーンで鳴らした。「こいつのことだ」
「はあ、マッシュのことですかい。お国じゃその変な名前で呼ぶんですか」
「名前なんざどうでもいいんだ。とにかく、トウモロコシの粉を煮ただけのものは喰い飽きちまった。腹ぺこなのに、こいつは喰う気になれないんだよ。舌も喉もこいつを拒みやがる」
「焼いて、ソースでもかけてあげましょうか」司厨手は提案した。「つっても、ソースの材料はろくなもんがねぇけど。塩水にコーンスターチでとろみをつけるぐらいだ」
「コーンミール以外のものを持ってこいって言っているんだ」
「おれだって、コーンミール以外のものを料理したいですよ。今日の上陸はお前さんがリーダーでしょう。なにか食えそうなものでも摘むなり狩るなりしてくりゃよかったんですよ。なにもしないくせに文句だけは一人前。なんなら、挽く前のデントコーンを囓ってみなさい」
「なんだと、この野郎。水を汲んできたじゃないか。それだけでも感謝しろよ」
「水はお前さんだって飲むでしょうが。恩着せがましい。それに、水汲みなんざ、おれの村じゃ女子どもの片手間仕事だ」
「もう勘弁ならん」機関長は立ち上がった。
「いい加減にしろ、二人とも」船長は大声を出した。「食い物があるだけありがたいと思わなきゃ」
 船長は腰にスミス&ウェッソンのM686を下げていた。この私物の回転式拳銃がなければ、船内の秩序はとっくに崩壊していただろう。
 機関長がしぶしぶ腰を下ろす。
 ドアの外で様子を窺っていたらしく、ボーイが素早く戻ってきて、仕事を再開した。
「その食糧もいつまであるか」一等航海士が暗い表情で呟いた。
「たんまりあるよ」船長は快活に言った。だが、その陽気な態度には、どこかつくられたようなところがあった。「おれたちが一生かけても喰いきれないぐらいさ。なんたって、この船の積荷は全部、食い物だからな。腐敗にさえ気をつけりゃいいんだ」
「でも、デントコーンばかりでしょう」一等航海士の表情は晴れない。「最近、ひどく日焼けする船員たちが増えています。もうそろそろ冬と呼んでもいい季節なのに。訊いてみると、口内炎を発症している者も多い。ペラグラが蔓延しているのではないでしょうか。つまり、ビタミンBが不足しているのです」
「といっても、サプリもない」
「そうです。使い果たしてしまいました」航海士は司厨手とボーイをちらっと見て、声を潜めた。「もっぱら士官たちだけで、ね」
「とにかく、サプリはないのだから、別の方法でビタミン不足を解消するしかないな。こっちの食い物に慣れるべきだろう。とりあえず、野菜っぽいものから始めるか」
 相変わらず一等航海士は憂鬱そうだ。「毒のあるなしをどうやって確かめるんですか」
「そんなの、ミゲルが喰って確かめりゃいいんだよ」機関長が言った。「コックの責任だろう」
「ふざけるな」司厨手はいきり立った。「いつまで士官面しやがるつもりだ。エンジンなんかとっくに停まってるんだ。機関長になんの仕事があるんだね。おれたちのほうがよっぽど仕事している。毒味はお前さんがしな」
「ミゲル、口を慎め」船長が司厨手を叱り、機関長に目を向けた。「マルコ、きみもだ。くだらないことで騒ぎ立てないで、出されたものを喰うんだ」
「しかし、船長。こいつ、上陸がどんなに危険なことかわかっちゃいないんだ」機関長はスプーンで司厨手を指した。「だいたい前はコーンブレットを焼いたり、コーンフレークにしたりして、それなりに仕事をしていたけど、最近のミゲルと来たら、トウモロコシを挽いて、ただ煮るだけで、ろくに味付けもしやがらねえ。こんなの、料理って呼べるのか。おれにだって……」
「止めろと言っているんだ」船長はスプーンでマッシュを掬い、口に含むと、司厨手に頷いてみせた。「うん、塩味が効いて美味だ。ミゲル、ご苦労だったな。もういいから、持ち場へ戻ってくれ」
 司厨手は無言で一礼すると、出て行った。
「ブタを乗せてくればよかったですな」一等機関士が発言した。「毒味役に使える。雄雌取り混ぜて飼っていれば、増やすこともできた。安全な餌もたっぷりあるんだから。豚肉はビタミンBが豊富と聞きますぞ」
「ニワトリのほうがいい」機関長が言う。「卵がとれる。もちろん、最初のうちはオムレツにするのを我慢して、孵すんだ。そうすりゃ、そのうち、全員が毎日、卵料理にありつける。雄鶏は締めて、フライドチキンにすりゃいい」
「思えばわれわれが飛ばされたとき、船のまわりにはまともな魚が泳いでいたに違いありませんな」一等機関士がしみじみと言った。「何匹か捕まえて、養殖すればよかった」
「太平洋のど真ん中だったんだぞ」機関長は呆れたようだ。「どうやって捕まえる?」
「ボートでも出せばよかったでしょう」と一等機関士。
「外海にはどんなモンスターが潜んでいるか、わからないんだぞ」
「ここだって同じですよ」一等航海士が口を挟んだ。「水深は外洋より浅いでしょうが、だからといって大型海棲生物が侵入してこないとは限りません」
「じゃあ、陸へ上がれっていうのか?」機関長はぎょっとした表情を見せた。
「遅かれ早かれ、そうしなくてはなりませんよ」一等航海士は応じた。「この船だっていつまで保つかわかりません」
「そのことは慎重に考えてみなければならんな」船長が言った。「甲板員たちの意見も聞きたい。明日、改めて話すことにしないか」
「連中の意見なんかあてになりませんぜ」機関長は鼻を鳴らした。
「そう言うな。士官だけで……」
 船長は機関長をたしなめようとしたが、ボーイの上げた叫びで遮られた。
 ボーイは興奮した様子で喋っているが、彼の母語なので士官たちにはまったく理解できなかった。
 だが、彼はようやく英語を二言だけ口にした。窓を指しながら、「灯り! 街!」とどこか誇らしげに告げたのである。
 それで充分だった。
 士官たちは窓に駆け寄った。
 その窓は西を向いていた。昼間なら海を挟んで八浬ほど先に対岸が見える。だが、外はもうとっぷりと日が暮れていた。昨日までと同じなら、窓の外には暗闇が広がるばかりで、対岸など見えるはずもない。
 しかし士官たちは、対岸が煌びやかな光で彩られているのを目にした。
「街だ。どう考えたって、ありゃ街だ」
「空に光が点滅している。あれは飛行機じゃないか」
「海にも。あれは船に違いない」
「おいっ、いま、汽笛が聞こえなかったか?」
「聞こえたっ、たしかに聞こえたぞ」
「おお、神よ。これは現実なのか……」
 士官たちもボーイに劣らず興奮した。
 ドアが勢いよく開き、甲板長が駆け込んできた。
「船長! 文明社会ですぜ。おれたち、帰ってきたんだ。奇跡だ。聖マリアよ、聖エルモよ、お救いくださり、ありがとうございます」甲板長は跪くと、咽び泣きながら父と子と聖霊と、おそらく彼の知っている限りすべての守護聖人たちに感謝を始めた。
 何人かの士官も膝を床についた。
「たしかに奇跡だっ」機関長は立ったまま喜びを爆発させた。「ひょっとしたら、帰ってきたのはおれたちが最初じゃないか? 回想録を書けば、大金持ちになれるぞっ。ハリウッドで映画化される。おれの役は誰がやるのかな」
「そんなことより、まともな料理ですよ」一等機関士はよだれを垂らさんばかりの表情を浮かべた。「あの街にヴァレーニキはあるかな? まあ、なければ自分でつくればいい。ボルシチやカツレツぐらいはあるでしょう。ちゃんと小麦粉でつくったパンに、ドライフルーツを飾り立てたケーキ。そうそう酒も忘れちゃいけない。コーン・ウィスキーはもうたくさんだ」
「みんな、聞いてくれ」船長が手を叩き、注目を集めた。「嬉しいのはおれもご同様だが、少し冷静になろう。おれたちはほんとうに帰還したのか?」
「あの街の光が幻覚だとでも仰るんで?」一等機関士が不満そうな顔をした。
「いや、われわれが帰還した可能性は極めて高いと思うよ、レーシ。だが、あの街のほうが丸ごと飛ばされてきた、とも考えられる」
「そんなはずはありませんぜ!」甲板長が感謝の祈りを中断して、異を唱えた。「船長はあんなちっぽけな窓からしか覗いてないから、そんなことを仰るんだ。北と南を眺めてご覧なせぇ。手前の陸地は真っ暗なまんまだが、遠くに灯りが見えまさあ。西はご覧の通りだ。周りは文明社会なんです。人が住んでいるんです。帰ってきたんですよ。それ以外に考えられない」
「東は?」一等航海士が尋ねた。
「え?」甲板長は一瞬、きょとんとしたが、すぐ身振り手振りを交えて答えた。「東は見える限り真っ暗です。けれど、山のむこうの空はうっすら明るいんです。ありゃ、裏側に街があるに違いありませんって。お疑いなら、さっさと外に出てご自分の目で確かめてみなせぇ」
「おう、そうしようぜ」機関長が飛び出していった。
 士官たちの大半と甲板長も後に続く。
 しかし、一等航海士は室内に留まり、なにごとか考え込みはじめた。
「なにか気になるのかね」船長が一等航海士に訊いた。「あまり喜んでいないようだが」
「いえ、とんでもない。とてもハッピーです。家族や友人に会えますから。でも、これから日本人たちがこの船にやってくるでしょう」
「それがなにか?」船長は片眉を上げた。「救援に来てくれるんだ。違うか?」
「もちろん、疑っておりません。でも、日本人の前では、しおらしくしているべきでしょう。なにしろ東には大阪という大都会があったはずです。それが消えている。ぼくたちと入れ替わりに向こうへ飛ばされたと思われます」
「当船の責任ではない」船長は肩を竦めた。
「理性的に判断すれば自明のことです。しかし、問題は感情です。ぼくたちがはしゃいで馬鹿騒ぎするのを見たら、家族や友人と離された人々は気分を害するかもしれません」
「八つ当たりされるとでも?」
「それ以前に、日本人たちへ悪印象を与えてしまうことが好ましくないのです。ぼくたちは当面、日本人たちになにかと援助を請わなければならない立場ですから。船長の言葉で気づかされましたが、たしかに過激な行動の標的とされる可能性すらありえます。飛ばされた人間は何百万という規模のはずですから、関係者の数は膨大でしょう。非理性的な衝動に駆られる人間が含まれる確率は無視できません」
「心配性だな」船長は一等航海士の背中を軽く叩いた。「注意を喚起してくれたことには感謝する。たぶんスピーチをせがまれるだろうから、そのときは被災者とその家族、友人の悲しみにも留意しよう。だが、いまは喜び、ヒンドゥーの神に感謝しろ」
「それはいたしかねます」
「なぜだ?」
「何度も申し上げておりますように」一等航海士は微笑み、自分のターバンにそっと触れた。「ぼくはシク教徒なんです」

 そして、舞台は四年後、架空の地方都市・酒河市へ……。



森岡浩之プロフィール


森岡浩之既刊
『突変』