「風が教えてくれた」森永西


(PDFバージョン:kazegaosietekureta_morinaganisi
「火事だあー」
 叫んだのは、他でもない私だが、本当は火事なんて起きていない。とはいえ、その辺にあったチラシに火をつけたり、今度は、ビニールの袋に火をつけてみた。かなりきつい臭いがする。よし、これならうまくいきそうだ。

 私は、浅野涼太、通信システムメーカーのライト&リアル社の技術者で、主に、テレビ会議システムの開発を担当している。
 1年ほど前に部長から、
「テレビ会議システムの開発を空調システムのアトモス社と提携して進めることになった。そのリーダーを浅野君に頼みたい」と伝えられた。空調システムと聞いて、最初は、「快適な空間でテレビ会議を」とでも売り込むのかなと思った。しかし、それなら、技術部ではなく、営業が販売協力をすればいいことである。
「いやいや、そういうことじゃなくて。テレビ会議システムの一部として、空気のコントロール機能を組み込めないかと、アトモスの方から売り込みがあったんだ」部長は、提携話の概要を説明してくれた。その話はこうだ。
 アトモス社は、「空気のデジタル化」に取り組んでいて、かなりの線まで来ている。ある空間の温度、湿度、匂い、空気の流れなどをデジタル情報化して、別の空間に再現することがある程度までできるようになっているらしい。その応用先として、テレビ会議システムが有効なのではないかと考えたらしい。
 なるほど、面白そうだ。空気をデジタル化して、互いに共有できれば、例えば東京の会議室と福岡の会議室の空気がつながって一体化することを意味する。それが、どんな効果を及ぼすかは、実際にやってみないとわからないが、今までにはないリアリティをテレビ会議にもたらす可能性がありそうだ、とその時点でも感じたことをおぼえている。

 部長から話があった1週間後、アトモス社との第1回目のミーティングが、横浜にあるライト&リアル社の研究所で開催された。アトモス社のメンバー5名が大阪の本社から来てくれた。そこで出会ったのが、アトモス側のリーダー、小泉美嘉である。会った瞬間に、美嘉が研究者であることがわかった。小綺麗な格好はしているものの、本当のところは、そんなことはどうでもいいといった雰囲気が漂っていて、「ああ、俺と同類だな」と直感した。
「はじめまして。小泉美嘉と申します。アトモスで空気のデジタル化技術の研究を担当しています。『どんな研究なんですか?』とよく質問されるのですが、一言できちんと説明するのが難しいので、いつも『雲をつかむような研究です』と誤魔化すことにしています。ただ、この答えも案外、的を射ていて、ある空間の気体の構成要素と変化をリアルタイムに把握する技術だとお考えいただければ間違いないと思います」
 どうも「リアルタイムに」というのがミソらしい。気体を採取して、その構成要素を特定すること自体は、かなり前からできているが、各種のセンサーによって秒単位で計測し、どのような変化が起こっているのかをその場で把握し再現する、というのが新しいらしい。
 それにしても、話をしている美嘉は、愉快そうに話をする。すごい技術というより、楽しそうな技術という印象を持ったのは、多分に美嘉の話し方のせいだったんだと思う。

 ミーティングは、プロジェクトの進め方など、主に事務的なことの確認で終わった。私は、技術的な話を少ししたいと言って、美嘉を社員用のカフェに誘った。
「空気のデジタル化って、何がきっかけで研究するようになったんですか?」と、私はたずねた。
「私、コンサートとかライブに行くのが好きなんです。家でもDVDを見るんですが、テレビの画面や音だけではどうしてもあの熱気が感じられないでしょう。ある時、そうだ、熱気というくらいだから、それって空気だなって思ったんです」
「なるほど、ライブの熱気と空調の研究魂が結びついたんですね」
「そうなんです。空調メーカーは、温度とか湿度とか、いろんなセンサーを開発しているんで、熱気を情報として記録することができれば面白いなって。でも、取り組んでみると、なかなか大変なことがわかってきました」
「どんなことです?」
「釈迦に説法ですが、デジタル化って、デジタル化して記録できればいいってもんじゃなくて、その記録データに基づいて再現できなければあまり意味がありません。音楽を記録しても、それが聞けないんだったら意味ないですもんね。録音機と再生機の両方があってはじめて、音楽のデジタル化の恩恵があるわけです。熱気の話も同じなんです。デジタル化すること自体は、まあ難しい面はあってもどうにか実現できそうだと目処を立てることができました。しかし、その再現ははるかに難しいんです。つまり、空気の録音機は作れても、再生機をどうやって作ればいいか、すぐに途方に暮れました」途方に暮れたと言う割には、美嘉は相変わらず楽しそうに話す。
「そんなに難しいんですか?」技術者としてはなんだか間抜けな質問だが、空気のことは素人だから仕方ない。
「ええ。空気の何を記録しているかというと、大きく分けて、温度、湿度、匂い、流れの4つです。そのうち、温度と湿度は、エアコンと同じことですから問題ありません。匂いと流れがやっかいなのです」
「なんとなくわかってきました」またまた間抜けな合いの手である。
「映像の再現は、光の3原色でできますね。音の再現は、波形によってどんな音もスピーカーから出せます。しかし、匂いは、匂いの3原臭とか、匂いの波形とかありませんから、主要な匂いの成分を用意する必要があるんです」
「はあ、確かに大変そうだ。で、どうしたんです?」
「約300種類です」
「300?」
「そうです、300。結局、300種類の匂い成分を特定するセンサーと匂い成分が入った300本のカートリッジボンベを作りました」
「気が遠くなる」と私。
「さらに大変なのが……」
「まだあるんですか?」と私。
「空気の流れの再現です」
「それは、あまり大変そうに思えませんが……」
「甘いです」美嘉はにっこり笑うと、真面目な顔に戻って、「でも、今日はこれくらいにしておきます。私の方の説明ばかり長くなってもいけませんから、テレビ会議システムの話を聞かせてください」
 そのあと、私の方からテレビ会議システムの技術進展とライト&リアル社の強みについて説明して、その日は解散した。
 それ以来「空気の流れ」のことが私の頭から離れなかった。

 新しいテレビ会議システムのコード名は「ブリーズ」と名づけられた。そよ風を意味する英語である。美嘉のアイデアであるが、空気の流れにこだわっていることが、この時も感じられた。そして、我々が目指したのは、「場の一体感」である。遠く離れた相手の顔や会議室が見えるだけでなく、空気を共有することで、一緒の場にいる(かのような)「一体感」が生まれるだろうと期待した。

 プロジェクトの第1ステップは、テレビ会議システムとアトモス社のシステムを融合させることだった。融合とはいっても、操作の体系をテレビ会議システムに一元化するだけなので大した問題はなかった。第2ステップは、テレビ会議室にアトモス社の装置(センサーやコンプレッサーなど)をいくつかのパターンで設置しながら、装置の最適な数や配置を探っていった。このステップは、主にアトモス社が担当したが、装置の動作や役割を目の当たりにすることで、空気のデジタル化の実態が飲み込めると同時に、美嘉が言っていた「空気の流れは、さらに大変」の意味もわかってきた。
 空気のデジタル化の温度、湿度、匂い、流れのうち、最初の3つ(温度、湿度、匂い)は、会議室Aと会議室Bの状態を、言ってみれば「同期」させることである。会議室Aの状態を会議室Bに再現するか、またはその逆か、それとも、2つの会議室を平均化するのか、それは、その時の目的によって選べばいいが、いずれにしても、実際に存在する状態を別の場所に再現し「同期」させる技術である。
 しかし、流れは「同期」ではない。会議室Aで吹いた風は、そのまま会議室Bに流れていかないといけない。会議室Aの風を再現するのではなく、会議室Aと会議室Bがつながっているとしたら、その風は会議室Bにこんな風に流れていくはずだという「シミュレーション」である。会議室Aの風の性質と強さと方向、その続きを会議室Bでリアルタイムにシミュレーションして、空気の流れを作るというのは決して簡単なことではない。しかし、そのことを美嘉に確かめた時の回答は、拍子抜けするものだった。
「空気の流れのシミュレーションはかなり難しそうですね。『甘いです』と言っていた意味がわかりました。どういう方法で解決しているんですか?」と私はたずねた。
「諦めたんです」美嘉はあっさりと言った。
「えっ?」
「正確に、どんな状況でもシミュレーションするというのは諦めたんです」
「大雑把にやっているってことですか?」
「まあ、そういうことです。限定的な状況を想定しています。今回のテレビ会議システムであれば、強風が吹くはずはない。恐らく扇風機だって回っていない。あるのは、主に人の動きで起こる空気の流れです。そのくらいの流れであれば、角度をコントロールできる送風口を画面の周りに20個程度取り付け、圧縮空気を送ってやれば、ほぼ解決できます」
「なるほど、状況を絞り込んで、それに合わせて単純化するわけか」
「はい。これが意外とうまくいくんです。単純化しても人の感覚はそれを補うみたいですね。例えば、匂いも本当は空気の流れに乗せないといけないんでしょうが、匂いの再現と流れのシミュレーションを別々に行っても、心理的には、その匂いはあちらから漂ってきたと人は感じるものなんです」
「ふーん。面白いなあ。やってみないとわからないことですね」
「はい。今回のプロジェクトも、『ブリーズ』が、人間のどの感覚を助け、何を感じ取れるようにするのか、実験がとても楽しみです」

 第3ステップは、美嘉が言うように、実証実験の段階だった。「ブリーズ」は、今までのテレビ会議システムと何が違うのか、何が優れているのか、本当に「一体感」は得られるのか、実際にやってみて確かめていく、このプロジェクトの成否を占う上で重要な段階であると言えた。
 様々な状況を想定し、装置を微調整しつつ、感覚を研ぎ澄ませて、そして、期待を胸に実験は進められた。

 私は、以前から自宅にテレビ会議システムを設置していた。開発中の機能を試してみるためには、研究所の会議室とは別のところにやりとりをする場所が必要だが、研究所は手狭だし、あまり遠くの場所では、セッティングや調整が面倒なので、自宅に導入していつでも試してみることができるようにしていたのである。
 今回も、自宅システムを「ブリーズ」に更新するよう申請して社内の承認は下りた。早速、美嘉とテレビ会議を使って協議し、「ブリーズ」を私の自宅に設置することの了承を得たあとで、こう切り出した。
「小泉さんの自宅にも、同じように設置しませんか」
 2週間後、東京と大阪のそれぞれの自宅が「ブリーズ」でつながった。それからは、ほぼ毎日、夜の12時頃から1?2時間は実験を行うのが日課になった。いや、実験を兼ねたおしゃべりといった方が本当かもしれない。就業時間中の実験よりも、自宅での会話の方が楽しみだったし、複数人数のテレビ会議とはまた違った環境で気づくことも多かった。

「話の途中だけど、ちょっとコーヒー持ってきてもいいかしら」そう言いながら、美嘉はカメラのフレームから離れ、キッチンの方に行った。この時、気づいたのだが、画面から離れても、物音がしなくなっても、美嘉がそこにいて、キッチンに移動していくことが、何となく感じられた。気のせいではないと思う。コーヒーを淹れ終えて、こちらに戻ってくる時にも、その気配が感じ取れた。
「コーヒーのいい香りがこちらにもしてきたよ」と私は言った。
「香りだけでごめんなさいね」美嘉の存在が確かにそこにあった。

 また、ある夜は、
「あれ、具合悪いの?」美嘉の様子が何か違うなと感じて聞いてみた。
「ちょっと風邪っぽいかな。テレビ会議じゃわからないだろうと思っていたんだけど。ばれた?」
「うん。表情とか、声とかじゃなくてね、何か違和感があるなって思って」そう、うまく言えないが、いつもとは違った。
「それなのよねえ。私も浅野さんの体調とか、機嫌とか、何となくわかるのよ」美嘉も同じようなことを感じていたようだ。
「その、何となくっていうのが、どうも『ブリーズ』の特徴みたいだなあ」私たちは「ブリーズ」の本質をわかりかけていた。

 当初、新しいテレビ会議システム「ブリーズ」は、2つの会議室の「一体感」に貢献するだろうと期待されていた。しかし、実験を続けていくうちに、「一体感」以上に相手の「存在感」や「気配」に関わっていることが明らかになってきた。研究所のメンバーもそれを実感するにつれて興奮が高まった。
「浅野さん、慣れは必要ですが、使っているうちに、だんだん向こう側の『気配』みたいなのを感じるようになりますね」
「そうそう。最初は感じないんだけどね。慣れるんだろうかね。相手のノリとか熱意とか、話している人以外の様子とかも、何となく伝わってくるよね」
「今までのテレビ会議システムのどこか物足りない印象は、こういうことだったのかって思いましたよ。画面が大きいとか、テーブルがつながっているとか、そういったリアリティも大事だけど、相手がそこにいる存在感を感じるって大きいですね」
 メンバーのみんなと、これは画期的なテレビ会議システムになるぞとか、専用のパブリックビューイングの施設を作ったら面白そうだとか、話を膨らませて大いに盛り上がった。

 プロジェクトも終わりに近づいた頃、その夜も「ブリーズ」で美嘉と話をしていた。深夜12時半。美嘉の部屋で空気が動いた。
「あれ、窓が開いてるの?」実験の習慣で、何か変化を感じると反射的にたずねてしまう。
「いいえ、開けてないけど。何か感じたの? そちらの方が変化が増幅されてるのかしらね」美嘉も実験モードが抜けきらない。
「窓かドアが開いている時のような風の流れがあるよ」
「おかしいわね……」と美嘉がドアの方を振り返った。私も画面の隅に視線を動かした瞬間、「きゃー」と美嘉の叫び声。画面の隅に黒い人影が見えた。侵入者? 強盗? 頭の中が高速に回転した。美嘉を助けなければ。どうやって? 次の瞬間、私は叫んでいた。

「火事だあー」「火事だあー」私はマイクを手で被うようにして大きな声で何回も叫んだ。画面の中で、男らしき人影が玄関の方に行ったり来たりする様子が見えた。美嘉もこちらの作戦を理解したようで「あれは、お隣さんの声だわ。早く逃げた方がいいんじゃない」と男に言っている。男は「うるさい。静かにしろ」とまだ逃げる気を見せない。私は、110番に通報しながら、あたりを見回し、燃やせそうなものを探した。適当なチラシを見つけてライターで火をつけた。さらに、菓子が入っていたビニール袋をゴミ箱からひっぱりあげ、それにも火をつけた。かなりきつい臭いだ。雑誌であおいで、美嘉の部屋に流れやすくした。「ブリーズ」よ、頼む。
「ん、何か臭いな」と男が臭いに気づく。「大変、煙が回ってきたのよ」美嘉はわかっている。「早く逃げないと、煙に巻かれるわよ」と、男を玄関の方に押し出すようにした。「ちくしょう」男は「ブリーズ」と美嘉の演技にすっかり騙され、何もできないままに、外に出て行った。

 その後、侵入者は、駆けつけた警官に逮捕された。家に忍び込んだが、隣から火が出て、仕方なく逃げたのだと供述して、何を寝ぼけたことを言っているんだと警官にどやされたらしい。

「大丈夫だった? 怪我とかなかった?」ようやく落ちついた午前3時頃、再び「ブリーズ」をつないだ。
「大丈夫、無事よ。ありがとう。浅野さんの機転で助かったわ。本当にありがとう」美嘉は疲れた様子とほっとした表情を見せた。
「風が教えてくれたね。『ブリーズ』に救われたってわけだ」私は話しながら、「ブリーズ」がなかったらと思ってぞっとしていた。

「ブリーズ」は発表後、大きな反響をもって迎えられた。開発秘話には、強盗事件の話も付け加えられていた。「ブリーズ」の本領である「存在感」のことより、事件の方に関心が向くのは少々不本意だったが、機能を象徴的に理解してもらうには、わかりやすかったのかもしれない。まあ良しとしよう。本当のすごさは徐々にわかってもらえるだろう。

 私と美嘉は、その後、「ブリーズ」で話すことはほとんどなくなった。アトモス社の研究所が東京に移り、美嘉はそこに転勤になった。ほどなくして、私たちは結婚した。いかに「ブリーズ」とはいえ、美嘉が横にいるのにはかなわない。今も、美嘉が楽しそうに研究の話をするのを聞きながら、夕飯を食べている。



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