「オッドアイのクロ」伊野隆之

(PDFバージョン:oddoainokuro_inotakayuki
 猫を買うつもりはなかった。
 今まで動物を飼った経験はなかったし、ペットショップに足を踏み入れたこともない。それなのに、その店に、つい足を踏み入れてしまったのは、珍しく酔っぱらっていたせいか、それとも暖かくなりはじめた気候に浮かれていたからかも知れない。
 いや、猫を買った理由などどうでもいい。事実として目の前には黒猫がいて、一緒に買ってきたミルクをペチャペチャとなめている、はずだった。
 音のする方向を見て、改めて目を凝らした。確かに、時折ピンクの舌がミルクを舐めるのがはっきりと見える。でも。
 目をこする。最初は、目の調子が悪いのかと思った。目をこすっても、見えるのはひとかたまりの闇。いや、ひとかたまりというような立体感はなく、なのに平らにも見えない。ただ闇がある。そこから時折ピンクの舌がチロリロとのぞき、白いミルクを舐めている。
 しゃがみ込むようにして近づくと、舌の動きが止まり、突然、闇の中に二つの光が見えたんだ。金色とブルー。左右で色の違うオッドアイは、白猫に多いのではなかったか。白い歯と口蓋のピンクに縁取られた口を開け、にゃぁ、と小さく鳴いたのは、それは確かに猫だった。
 手を伸ばせば、確かにそこには柔らかな毛の感触があり、暖かな猫の体温がある。そっと抱き上げ、膝に乗せると、まるで膝の上に底なしの穴が開いたように見えた。
 しばらくなでていると、それが、ゴロゴロと喉を鳴らす。確かに、膝にかかるわずかな重みと、両手の感触からすれば、そこには確かに猫がいる。でも、黒猫はここまで黒いものなんだろうか。

「その子は特別なんですよ」
 店の奥のケージをのぞき込んでいたときに、たった一人で店にいた主人らしき男が、声をかけてきたのだった。
「なにがいるんですか?」
 今思えば、どこまで間の抜けた質問だったろう。周囲のケージはすべて猫なのだから、そのケージにいるのも猫に決まっているではないか。だが、論理はそうでも、目の前に見えたのは漆黒の闇。
「ちょっと見てみますか?」
 ケージを開けて、手を突っ込む。まるで手が闇に吸い込まれたかと思った一瞬の後、店の主人の手が闇を持ち上げていた。
「こちらで見てください」
 そう言って、店の主人は、狭い店の中央にあるテーブルへと、闇を運んだ。
「さあ、ちょっとおやつをあげようか」
 店主の言葉に反応してか、テーブルの上の闇が伸びをする。まるで絵に描いたような小さなアーチを作り、四本の足と、まっすぐに延びたしっぽの形が見えた。拳のような大きさの領域には、耳の形のとんがりと、針のような髭が見えたが、決定的に立体感に欠けていた。そこに小さな口が現れ、両目が開く。その瞬間に、闇が猫へと転化した。
「どうですか?」
 言葉がなかった。猫は目を閉じ、またそこにある闇へと変わる。
「これは……」
 カリカリの入った小さなトレーを差し出すと、また口が現れ、さらに舌が現れた。
 カリッ、カリッ。
 口を閉じる度に猫が闇に変わり、口を開くと闇が猫に変わる。たまに、ちらりとこちらを見て、そのときには闇に二つの宝石が浮かぶ。
 金色とブルー。
 まっすぐに見つめる大きな瞳に、否応なく魅せられていたのだろう。
「いくらですか?」
 思わず、そう聞いていた。
「いや、まだこの子は……」
 売り物ではないと言った店主を強引に説き伏せて買い取った、あの情熱は何だったのだろうか。
 クロ……これだけ黒いのだから、他には名付けようがないだろう……は、膝から降りると、ミルクをぴちゃぴちゃと音を立てて舐め続けている。そのクロを見て、店主がただでつけてくれた首輪を思い出す。
 蛍光イエローの首輪。少しは猫らしく見えるかと思って、首につけてはみたものの、クロはただ黒く、闇に蛍光イエローの線が入っただけだった。

 それが、この春先のこと。いつ生まれたのか、正確なところは聞かなかったが、クロはまだ片手に乗るくらいの子猫だった。小さくて、ちょこまかと動く。元気に部屋の中を走り回ったかと思うと、とんでもないところに入り込んだりするし、小さくて黒いから、物陰にいると、どこにいるかわからなくなる。狭いワンルームマンションだったが、小さなクロの姿を見失ったのは、一度や二度のことではなかった。
 特に大変なのは夜だった。仕事の帰りが遅くなると、部屋は真っ暗で、クロは完全に闇に同化してしまう。何かの拍子に首輪が見えなくなると、それこそどこにいるかわからないし、もし踏んでしまったら、小さな生き物は大けがを免れないだろう。だから、タイマー付きのフロアランプを買い、帰宅時間には必ず部屋が明るくなるようにしたのだった。
 ベッドの上でクロが丸まっていると、まるで漆黒の穴があいているようだった。本来なら見えるはずの細部が、どんなに目を凝らしても見えてこない。それなのに、首輪の位置を頼りに頭をなでると、耳がある。喉をまさぐると大きく口を開け、金とブルーの目でまっすぐに見つめる。それはそれで猫らしく、言いようもなくかわいいのだけれど、いかんせんクロは闇のように黒かった。
 夏に向けて、クロはどんどん大きくなっていった。出窓に飛び乗ると、クロは猫らしいシルエットを見せる。まっすぐに前足を伸ばして座った姿は凛々しい若猫そのものだった。それでいて体を丸めると空間に生じた穴のように見える。それが、クロだった。
 気温が上がるにつれ、クロの抜け毛が激しくなった。気がつくと、部屋の隅にクロの抜け毛がたまっている。ふと思いついて、クロの抜け毛を集め、知り合いが勤めている分析会社に持ち込んだことがあった。もちろん、サービスで分析してもらうのだから、そんなに大した分析はできない。クロの毛の化学分析の結果は、普通の猫と変わらない。けれど光学分析の結果は、実際に分析をした技術者を驚かせた。
 反射率ゼロ。
 カーボンブラックですら、こんなに黒くないという結果は、クロが特別の猫だってことを証明している。クロは、見たとおり、黒猫よりも黒いのだった。
 夏の終わりになると、クロが毎晩大きな声で鳴くようになった。まるで、赤ん坊が泣くような声で一晩中鳴くものだから、三日もすると寝不足でどうにもならなくなる。我慢しきれずに外に出したのは、そんな事情があったからだ。きっと、それがいけなかったんだと思う。
 まあ、わかっていたと言えばわかっていたんだ。クロがさかりがついたってことくらいは。クロが雌猫で、ある程度大きくなったら避妊手術をしなければいけないと、クロを買ったときに言われていた。でも、まだ子猫だったんだぜ。妊娠するなんて思ってもみなかったよ。だから、あまりしつこく鳴くときは、外に出してやったんだ。もちろん、朝にはベッドにいたさ。なんだかんだ言って、クロはなついているからね。
 それが、ある日、家に帰ってみると……。
 ちょうど小さなネズミくらいの大きさだったな。部屋の中に、いくつもの小さな闇がうごめいていたのさ。そりゃあびっくりしたけど、まあ、よく考えればなんてことはない。それがなんだったか、わかるだろ?
 えっ、何でこんな話をするかって? この前、視野の隅に黒い影が見えるって言ってたじゃないか。大丈夫だよ、目の病気でも、脳の病気でもない。今度、その影を捕まえてみろよ。カリカリが大好きだから、すぐに寄ってくるはずだ。金とブルーのオッドアイなら、きっとクロの子供たちだ。
 ほら、そこにも。



伊野隆之プロフィール


伊野隆之既刊
『九十九神曼荼羅シリーズ 
海から来た怪獣』