「まわる」谷田貝和男


(PDFバージョン:mawaru_yatagaikazuo
「すごい」
 月の裏側にある観測拠点。
 探査機から送られてくる観測結果を見て、天文学者の周は管制室で思わず感嘆の声を上げた。
「こんなに間近に、中性子星が見られるとは……」
「まったくだな。生きているうちにこんなことがあるとは、思わなかった」
「テンジンさんですね。ようこそお越しくださいました」
 声をかけながら入ってきた老人に、周は最敬礼した。
 テンジンは北京に本社を持つ世界的企業のCEOで、この世界では伝説の人物である。少数民族の出身ながら会社を世界トップに押し上げた技術の開発者であり、そして、本プロジェクトを推進しているリーダーでもあるのだ。

 りゅう座方向に見つかったこの星が、太陽系からわずか250天文単位の距離まで接近してフライバイすることが分かったのは、数ヶ月前のことだった。
 多くの中性子星は自転軸から強力な電波を放出している――パルサーと呼ばれる――が、この星は自転軸が太陽系の方向を向いていなかった。発見されたのは、この星が重力レンズによる空間のゆがみを起こしているのが、偶然観測されたからだった。
 半径わずか数キロの天体が太陽の3倍の質量を持ち、すさまじい勢いで自転している。フィギュアスケーターが腕を閉じるとスピンが速くなるのと同じ理屈で、超巨星が数万分の一の直径に押しつぶされることによって、自転も猛烈に速くなったのだ。その周期は1200分の1秒。人類が観測できた、宇宙で一番速く回転している物体だ。
 中性子星は星の寿命の最期である超新星爆発で誕生した。そのとき非対称な爆発でエネルギーが偏ったために、光速の0.2%という速度を得て宇宙空間を移動し、今にも太陽系の至近を通過(フライバイ)しようとしているのだ。
 黄道面から離れているので、地球をはじめとする惑星に重力的な影響はないが、これほどの至近距離で太陽系外の天体が通過するのは、おそらくは人類の歴史上、最初で最後だろう。
 この千載一遇の観測の好機に、地球軌道を発進したあまたの探査機が、この中性子星を目指していた。
 そのなかのひとつは、ある民間企業が放ったものだ。
 テンジン率いる中国系の企業で、現代文明に欠かすことの出来ない機構の製造・開発をほぼ独占し、この時代、世界最大の売り上げを誇っている。
 そして潤沢な資産を惜しげもなく、この探査につぎ込んでいるのだ。
 周は、テンジンにさらに語りかける。
「探査機からの情報によれば、この星はクォーク星だという可能性が強くなりました」
「ほう?」
「中性子星よりさらに圧縮され、素粒子が崩壊してそれを構成するクォークがむき出しになっている星です」
「すごいな」
「理論的存在だと思っていましたが、実在するんですね。そしてまさか、観測機を送れるようになるとは……それも、あなたの開発したCNTフライホイールがあればこそ、ですよ」
 周のお世辞に、テンジンは満足げにうなづいた。そのあいだもぐるぐると、手に持ったなにかを回している。
「マニ車ですね」
 周は言った。
 マニ車とはチベット仏教で使われる仏具である。表面にお経の文言――マントラが書かれていて、一回転させるたびに回したものがお経を一回読んだことになり、功徳が積まれるという。
「あなたはチベット系でしたね」
「人民中国は無神論が国是でも、こういうのはあってもいいだろう」
 テンジンはいう。
「それに、我が社のマスコットでもあるしな」
「なるほど。回るたびに功徳をもたらすマニ車は、この社にふさわしい」
 周の言葉に、テンジンは満足げにうなずいた。

 すべては、この会社が一手に供給している、あるマテリアルから始まる。
 20世紀の末に、カーボンナノチューブ――CNTが発見された。
 ありふれた元素である炭素が籠のように結びつき、円筒状の構造をなしたこの物質は、今まで知られていたどの物質よりも桁外れに強靱である。
 重さはアルミニウムの半分で強度は鋼鉄の数十倍、これに匹敵する引っ張り強度の物質は知られていない。
 地球上と衛星軌道を結ぶ夢の建築物である軌道エレベータも、この物質を使えば建造可能であると騒がれた。
 しかしCNTは、巨大な構造物ではなく、もっと身近なものでその真価を発揮し、世界を変えることになった。
 フライホイールである。
 フライホイール――弾み車は、古くから使われていたからくりである。機械の基本構造といってもいい。
 おもちゃの自動車の動力源として使われていたこのフライホイールが、省エネルギーが叫ばれるようになって、エネルギーをため込む装置として脚光を浴びた。余剰電力でフライホイールを回し、消費電力が足らないときにはその回転力で発電機を動かす仕組みだ。
 しかし、この種の装置の常として、大がかりになればなるほど効率が悪くなる。
 そこで、このフライホイールをCNTで作ることが考えられた。
 桁外れの引っ張り強度を持つCNTなら、通常の物質では遠心力でばらばらになってしまう速度で回転し、膨大なエネルギーをため込むフライホイールを作ることが出来る。
 たとえば、粘土で円盤を作って回転させてみる。回転を速くすると柔らかい円盤は遠心力で歪んでいき、ある回転数以上に達するとその形を維持できず、飛び散ってしまう。しかしもっと硬い物質、たとえば鋼鉄なら、粘土では飛び散ってしまう速度で円盤を回しても、びくともしない。硬い物質ほど遠心力に耐える力が強く、高速で回転させることが出来るのである。つまりCNTなら、なおのこと。理論的には秒速100キロを超えるところまで回転速度を上げられる。
 ホイールに貯められるエネルギーの上限は、ホイールの質量と破断長に比例する。コインほどの大きさのフライホイールが、静止軌道を回る人工衛星の10倍以上の速度で回りつづけ、街ひとつ分の電力消費量に匹敵するエネルギーを貯蔵する。
 まず実用化され、普及したのが、再生可能エネルギーとの組み合わせだった。
 太陽光発電や風力発電など、「再生可能」と呼ばれるエネルギーの最大の欠点は、発電量が一定せず、ばらつきが大きいことだった。
 電力消費量が最大の時間帯に、発電量も最大になってくれるとは限らない。あまつさえ、電力需要の少ない時間帯に最大出力を出しても、無駄になってしまう。
 このギャップを埋めるには蓄電装置が必要なのだが、バッテリやキャパシタ、従来物質のフライホイールを使用した施設も、一定以上の規模のものを作るのは難しかった。この問題が、再生可能エネルギーが普及する足かせとなっていたのである。
 それを解決したのが、桁外れの蓄電量を誇るCNTフライホイールである。
 CNTは導体なので、そのまま発電機になる。回転エネルギーを電力として取り出すのも容易だ。発電機は逆に動かせばモーターになる。
 発電量より消費量が少ない時間帯は、余剰の電気でCNTフライホイールを回し、電力消費がピークに達する時間帯には足らない分をそこから取り出す。かつてよりも格段に効率の良いエネルギーの需給関係が実現した。
 電気自動車のバッテリはCNTフライホイールに置き換わり、太陽電池の電気を充電して走るようになった。程なくして内燃機関エンジンの自動車は姿を消した。
 エネルギー構造は革命的な大転換を遂げたのだ。
 僻地に巨大な発電所を作って、高圧線で遠く離れた住宅や工場に送電するのではなく、地域ごとに小規模な再生可能エネルギーによる発電施設とCNTフライホイールによる蓄電施設を作り、電力を地産地消する。
 原発事故や放射性廃棄物の後始末、火力発電所から排出される二酸化炭素、水力発電の大規模ダムに伴う環境破壊などなど、これまで人類がエネルギーを得る代償だったもろもろの問題に悩まされることなく、十分な量の電力を賄うことが出来るようになった。
 さらに、これまでは無駄に捨てられているエネルギーが回収できるようになり、少ない発電量で実質的に消費できる電力量は飛躍的に増えた。
 小規模な発電装置とCNTフライホイールを使った蓄電モジュールとの複合施設は、世界中の津々浦々に設置され、地球の隅々まで潤沢な電力を供給した。インフラが未整備だった途上国の状況は一変した。エネルギーさえあれば、かなりの問題は解決できる。水不足、ごみの処理、砂漠化、産業の創出など、様々な問題が解決に向かった。
 この猛スピードで回る円盤のおかげで、人類は厄介ごとと手を切って、エネルギー的に豊かな生活を送ることができるようになったのだ。
 しかし、地産地消の低エネルギー社会の実現、という方向とは正反対のベクトルも、世の中にはある。
 あるものは、こう考えた。
 これほど小型で高性能のエネルギー蓄積装置を、地球上だけでちまちま使うのはもったいないじゃないか、もっとふさわしい用途があるはずだ――。
 もっとふさわしい用途――それは、宇宙へ飛ばすロケットの動力である。
 CNTフライホイールに蓄積することの出来るエネルギーは、化学反応では理論上一番効率のいい液体酸素と液体水素の燃焼エネルギーを上回る。この高密度に蓄積されたエネルギーは、宇宙に飛び出すには非力な化学エネルギーと、強力だが問題も多い核エネルギーの中間を埋めるものとなる。
 化学ロケットでは至難の業だったSSTO――単段往還機も、軽く実用化された。
 軌道エレベータは、もはや作る必要もなかった。地球上のどこからでも、CNTフライホイールを積んだロケットが、べらぼうな低コストで打ち上がるようになったのだ。推進剤として使われるのは、ペットボトルロケットと同じくただの水や空気なので、環境汚染も起こさない。
 地球上の厄介ごとに解決のめどが立ちつつあることもあって、20世紀末から停滞していた宇宙開発は加速し、人類の行動範囲はあっという間に太陽系全域に広がった。
 軌道上には有人の宇宙ステーションが作られ、月や火星、小惑星帯へ向かう定期航路も開拓された。
 資源は地球上の鉱山ではなく小惑星から運ばれる。莫大なエネルギーは軌道上の太陽発電衛星から調達され、CNTフライホイールにチャージされる。光速こそ超えることは出来なかったが、無人の探査機だけなら、太陽系を飛び出すことも日常茶飯事の世の中になった。
 その原動力であるCNTフライホイールを世界に先駆けて実用化したのが、この会社であり、その開発を一貫して主導したのが技術者としてのテンジンだ。据え置き式から宇宙機に積むハイパワーのものまで、世界に流通するこの部品を一手に生産しているのだ。しかも効率、製造コストなどでいまだに他社の追随を許していない。
 どうにかしてキャッチアップしようと各社は躍起になっているが、その秘密さえ解けないという有様だ。
 そして、突然現れたクォーク星のフライバイという大イベントに、蜜を求めて花に群がる蜂のように、人類文明の総力を結したあまたの探査機が向かっているのだ。
 探査機はおのおのが、その目的に叶うような機構を搭載している。
 重力を計測するもの、電波、可視光線、あるいはガンマ線。それぞれの探査機が分担して観測し、実体に迫るのだ。
 そしてこの会社が送った探査機には、超高出力の粒子ビーム砲が積まれている。まさか、星の上の異星人を攻撃するわけではない。
 この探査機はクォーク星の人工惑星になるような軌道を取っている。軌道を周回しながら表面を走査するようにビームを当てて、その反射を解析して、内部構造を調査するはずだった――。
 周は語りかける。
「どうやら軌道に乗ったようですね」
「それでは、わたしも仕事に戻るとするか」
 テンジンは去っていった。手に持ったそれを回しながら――。

 1ヶ月後。
 周は地球に戻ったが、クォーク星はいよいよ太陽系に接近しつつあった。クォーク星を周回する人工惑星になった探査機が、地球にデータを送り続けている。
「なにか、変わったことはないのか」
 探査機のオペレーションルームで、研究員に周は声をかけた。
「……じつはですね」
 研究員が語ったところによると、クォーク星の軌道が観測するたび、微妙に変化しているという。
「誤差じゃないのか?」
「違いますね」
「ううむ」
 しかし、観測を重ねるたび、ずれはどんどん大きくなっていった。
 軌道のずれは、ほかの観測でも追試され、ニュースでも報じられることになった。
「どういうわけなんだ?」
「現在までの情報をもとに、シミュレーションを行ってみたところ、このままでは……」
 研究員は口ごもった。
「太陽の至近を通過する可能性が高くなる、という結果が出ました」
「!」
「もしこの軌道を通ったとすると……太陽がクォーク星の重力に引かれて、周囲をまわる連星になります。そして、太陽を構成する物質、主に水素が、クォーク星にどんどん吸い込まれていきます。表面に大量に降り積もった水素はその高重力で圧縮され、急速な核融合を起こします――第2の超新星爆発です。その爆発による爆縮で中心部のクォーク星はさらに圧縮され、シュワルツシルト半径の中に落ち込みます――ブラックホールになるのです」
 周の顔は真っ青になっていた。研究員もこわばった表情を隠さない。
「あと5時間で太陽の至近に達します。避ける方法は――ありません」
「なんということだ!」
 やがて、クォーク星の軌道変更は他の観測でも確認され、メディアを通して大きく報じられた。
 地球は、大騒ぎになった。
 さらに――。
「新しい情報が入りました」
 クォーク星を周回している探査機の様子がおかしい。星の表面に向けて、予定にないビーム放射を断続的に続けている。という。
「これを見てください」
 別の探査機から送られた映像で、クォーク星の表面がアップになる。
 ビームによって、クォーク星の表面に彫りつけられた模様が映る。赤道上に一列に並んだそれは規則性を持っており、いくつかの種類が繰り返されていた。
「なんの模様だ……いや、文字のようだ」
「トラブルではなく、あらかじめプログラムされたもののようにしか思えませんね」
 モニターしている研究員はそういった。
「……まったく、何が何だか分からん」
 お手上げだ。
「これは、訊いてみないと」
 さっそく、テンジンに連絡を取る。
 テンジンは月の裏側の拠点にとどまっているはずだ。
 画面の向こうのテンジンに、周は強い口調で迫った。
「……なにか、ご存じなのですか。探査機は不可解な挙動をしているようです。こちらに知らされていないミッションがあるというのですか」
「わたしが計画していたことだよ」
 テンジンは落ち着き払って応える。
 苛立つ周。
「なんですって。いくら創業者とはいえ、そんなことをする権利があなたにあるのですか」
「なにしろ、わたしにしかできないことだからな」
「率直に答えてください。いまさら隠し事をすることはないでしょう」
「わかった。探査機の裏ミッション……いや、真のミッションを教えよう。その前に、これをご覧」
 ディスプレイの表示が切り替わる。電子顕微鏡による映像が映った。
 CNTフライホイールをアップしたものだった。
「なぜ、こんなものを」
 この会社のプロダクトで、CNTフライホイールとしてはごくスタンダードなものである。
 テンジンの音声のみがスピーカーから響く。
「よく見ろ」
 倍率を上げる。
「なにか……彫ってありますねな。アルファベットでも漢字でもないな。なんと書いてあるのですか」
 ぽつりと言った。
「オム・マニ・ペメ・フム。マントラさ」
「?」
「マニ車だよ」
「なにをいっているのですか」
「なぜ我が社のCNTフライホイールが、他社の追随できない効率を実現できているか、分かるか? すべてにこの仕掛けが施してあるから、だよ。そう、マニ車なのさ」
 そういって、テンジンは手に持っているものを掲げる。
「ばかな」
「マントラを刻んだCNTフライホイールは、電気さえ通せば一秒間に数百万回という超高速で回転し、功徳を積み続ける。これが秘密だったのさ」
 周はただ、唖然としている。
「分解しても変わった意匠か、まじないのようにでも思っただろう……まさか、これがその正体だとは思うまい。もちろん、ただ書いただけでは効力を発揮しないがね。わたしが真言に祈りを込めなければ。そのための修行は積んである」
 スピーカーの向こうから、笑っているような気配が伝わった。
「それに、この文様に見覚えがあるだろう?」
 テンジンは問いかける。
「……同じだよ。探査機はビームで表面にマントラを彫ることになるのさ」
「クォーク星の表面に、ですか」
 にわかには、受け入れることができなかった。
 しかし、テンジンの言うことを総合すれば、こうなるらしい。
 つまり。
 軌道上を周回する探査機から、強力な粒子ビームでクォーク星の表面を穿ち、マントラを刻む。
 それがこの計画の真の目的、そして結果がクォーク星の超新星化、というのか――。
「どうしてそんなことを」
 彼はいった。
「この星は1秒間に1200回という超高速で回り続ける。つまり、宇宙で一番巨大なマニ車になる」
「で、どうなるんだ」
「功徳を積み続けるのさ」
「ばかばかしい」
 周は一笑に付した。
「そんなことをして、なんになるのですか」
「しかしな……疑問に思ったことはないか」
 画面の向こうのテンジンはまじめな目つきで、周を見つめた。
「なぜこの宇宙はエレガントに記述できないのか。21世紀初頭にヒッグス粒子が発見されても、それをもとに構築された理論を、観測結果はいまだに裏切り続けている。ダークマターの正体が分かったか。さらに、宇宙全体のエネルギーの七割は正体不明、このダークエネルギーの正体も、いまだに闇の中だ」
 周は黙って聞いている。
「つまりわたしは、この宇宙が理論で記述し尽くせないのは、いわば宇宙の煩悩、のようなものじゃないかと思ったわけさ」
「……まさか、何を言っているんだ」
「そう、煩悩から解脱すれば、この宇宙はエレガントになるのだ」
 さらに、謳うように続ける。
「わたしはチベット自治区の出身だよ。そしてずっと心の中で帰依を維持してきた。しかし、無神論の共産党政権が支配する中で生きていくには、それを隠さねばならなかった。信仰とは縁遠い技術者になったが、このような形で試すことが出来るとは、ね」
 最後に合掌した
「……!」
「さようなら、もうきみに会うこともないだろう」
「……どういうことですか」
 そう言って通信は切れた。
「主任」
 そのとき、観測員が慌てて駆け寄ってきた。
「……天文台からの観測結果が入りました。クォーク星が、加速したそうです」
「加速した……? まさか」
 絶句したが、次の瞬間、頭の中でひらめくものがあった。
「……そうか、わかった」
 周はテンジンの言葉を思い出していた。
(この宇宙から解脱する――事象の地平面を超えることか)
 クォーク星の超新星爆発でできるのは、高速回転するブラックホール――カー・ブラックホールだ。
 カーの数式によれば、カー・ブラックホールの特異点はリング状を形成している。爆発のエネルギーが加われば、回転速度は光速を超えるだろう。事象の地平面は物質ではないから、それが光速を超えても理論的に問題はない。名実ともに、この宇宙で最も高速で回転することになるのだ。
 しかし、太陽系はどうなるのだ。超新星爆発の強烈なエネルギーと放射線を浴びたら――われわれ生身の人類は、ひとたまりもないだろう。
「……」
 観測室を出たとき、テンジンの言葉を思い出していた。
 周は心の中で、テンジンに問いかける。
「解脱とは、輪廻転生に伴う苦しみから抜け出すこと、でしたね」
(そう、われわれの宇宙は新しいステージへと進むのだよ)
 心の中のテンジンがそう答えたような気がした。
「……そうなのでしょうか?」
 そういって外が見えるホールへ出ると、周は言葉を失った。
 りゅう座の方角――クォーク星がやってくる方角の空に、ひときわ明るい点が輝いたのが見えた。
 そのとき、何かが聞こえたような気がした。重く押し殺したような声。
(オム・マニ・ペメ・フム)
 宇宙の深淵からマントラが響いてくるような気がした。
 周は自問する。
(解脱したブラックホールは宇宙のカルマを浄化する。超新星爆発はそのための儀式なのだろうか。われわれはみな『解脱』するのか?)
 光点は次第にその輝きを増してきた。それに呼応するかのように、太陽系じゅうのCNTフライホイールが、秒速100キロで回転しながらマントラを唱えている幻聴が、頭の中に響いてきた。

(了)



※CNTフライホイールにつきましては、野田篤司氏のWebサイト「マツド・サイエンティスト研究所」を参考にさせていただきました。記して感謝します。
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谷田貝和男プロフィール


谷田貝和男既刊(共著:頭脳組合名義)
『ノストラダまス
予言書新解釈』