「電子記憶媒体」大梅健太郎


(PDFバージョン:dennsikiokubaitai_ooumekenntarou
 息苦しい。
 僕は腹部に重みを感じ、ゆっくりと目を開けた。季節は秋なので、暑さで寝苦しいわけではない。電気を消した部屋の天井は、窓からの夜明かりに照らされている。視界をさえぎるように、黒い影があった。
 深く息をつき、腕を動かしてみる。予想はしていたが、ぴくりともしない。身もよじれない。金縛りだ。
 壁にかかる時計の針は午前二時過ぎを指していた。
 腹部に正座している幽霊を観察してみる。淡い輪郭が部屋の暗闇に溶けそうだが、判別はつく。短髪で、男だ。
「にし、わき」
 名前を呼ばれた気がした。
 はて。どこかで見たことがある気がする。少し考えて、はたと思い至った。
「い、ち、は、ら」
 声を絞り出すと、幽霊は僕の顔をのぞきこんできた。そして、今度ははっきりと聞き取れる声で言った。
「本当に、見えるのか」
 僕は無理に身をよじり、吐き出すように言った。
「の、け」
「ああ、すまん」
 ふっと、身が軽くなった。僕は全身の感覚が戻ったことを確かめて、体を起こした。ベッドの端に腰をかけている幽霊は、市原孝史だった。
 僕と市原は同じ大学の三回生で、生物学科に所属している。生物学実習Bで、実験の班が同じだ。いつもの眼鏡姿でないせいか、すぐにはわからなかった。
 しかし、市原はいつのまに死んだのか。少なくとも、一緒にカイコガの終齢幼虫の脳を染色していた今日の午後の実験までは、生きていた。
「市原、死んだのか」
「驚かないんだな」
 市原は不服そうに答えた。
「幽霊との接触はありふれた出来事なもんで」
「少し誤解をしているな」市原は腕組みをしながら咳払いした。「俺は幽霊じゃない」
 幽霊じゃない、だと。金縛りまでしておきながら何を言う。虚しさに、身が包まれる。自分のおかれた状況を把握できていないのか。
「さっさと成仏した方が身のためだぞ。成仏の仕方がわからないなら、手引きしてやる」
 そう言うと、市原は首を横に振った。
「いや、俺はまだ死んでいない」
「幽霊はみんなそう言うんだよ」
 僕はベッドから降り、机に向かった。そして引き出しの中から小さな桐の文箱を取り出す。
「これはウチに代々伝わる、守り箱だ。この箱を開ければ幽霊は消える」
「消える?」
「まぁ、除霊っていうのかな」
「俺を消すつもりなのか?」
 市原の声が、不安そうに震える。僕はなだめるように、手をひらひら振った。「ほんの一瞬だから、恐くないって。感想を聞いたことがないから、楽かどうかはわからんが」
「ちょっとまて、話を聞け。いや、まて。待ってください」
「いちいち幽霊の言うことを聞いていたら、身がもたん」
「だから幽霊じゃないって」
「人の家に不法侵入して布団の上にのしかかっておきながら、まだ言うか。線香くらいあげてやるから成仏しろ」
「俺がいなくなったら、今日取った実験データの在処が永遠にわからなくなるぞ」
 そういえば今日の実験で、データを集めて解析する役は市原だった。僕の手元には何のデータも残っていない。このままでは、同じ実験をやりなおすはめになりかねない。
「それは困る。罪もないカイコガの命を、さらに奪うのは嫌だ」
 僕が文箱を机の上に置いたのを見て、市原はため息をついた。「俺の命はカイコガ以下か」
「命無いだろ」
「まだ死んでないって。俺の身体は今、大学の附属病院にある」
「病院?」
「そこに入院してる。見に来てみろ」
 つまり、市原はなんらかの事故に巻き込まれ、肉体は病院に運ばれたが、魂は飛ばされて幽体離脱してしまったのか。それならば、ここで市原の幽体を消すということは、トドメをさすのと同義だろう。
 それは少し、寝覚めが悪い。
「わかった。まぁ、確認がてら見舞いに行こう」
「おお、信じてくれるか。待ってるから来てくれ」
「ところで、死因は何だったんだ」
「お前、やっぱり信じてないな」市原は肩をすくめた。「原付の事故だ。後ろから追突されて、電信柱に弾き飛ばされた」
「それでメガネがないのか」
「どういうことだ」
 経験則でしかないが、幽霊はみな死んだときの服装のままでいるようだ。だから、メガネが吹っ飛んだ時にはまだ生きていて、電信柱に激突した衝撃が致命傷なのだろう。そう伝えると、市原はなるほどとうなずいた。
 僕は両腕を天井に向け、ううんと伸びをした。首を回すとこきりと鳴る。
「さて、明日は朝からお前の入院姿を確認しに行くことだし、寝るぞ」
「ちょっと待ってくれ」
 市原はベッドの端から降り、床に正座した。嫌な予感がした。
「頼みがある」「断る」
 僕は市原の言葉に重ねるように拒否した。あまりの即答に、市原は一瞬ぽかんとなる。その隙にベッドに潜り込んだ。
「話くらい聞けよ」
 市原は寝転がった僕の上に、再びのしかかる。ずしりと重い。
「祖父さんの遺言だ。浮気はするな、保証人にはなるな、幽霊の頼みごとは聞くな」
「三つ目だけおかしいだろ」
「おかしくない」僕はベッドに潜ったまま続けた。「ウチは代々、金と幽霊で困ってきたんだ」
「金と幽霊は関係ないだろ」
「関係あるさ」僕はベッドから身を起こした。「幽霊の頼みなんて、いつもろくなもんじゃない。恨みを晴らせ、遺族に言葉を伝えてくれ、身体を貸せ。これを無報酬のタダ働きでしろってか。アホか」
 まくしたてた僕に、市原はたじろいだ。喉に乾きを覚えた僕はベッドを降りた。冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り、勢いよく飲む。「もう二度と、幽霊の頼みは聞かないんだよ」
「報酬があればいいのか」
 僕はわざとらしく舌打ちをした。
「そう言う奴もいた。どこそこの樹の下に埋蔵金があるとか、遺産をやるとかな」
「それならいいじゃないか」
 僕はため息をつく。「壷一杯の錆びた寛永通宝を、どう使えばいいんだ。レアものならまだしも、並銭のしかも劣化品なんて何の役にもたちやしない。遺産にしてもそうだ。赤の他人の僕が、どうすれば遺産をもらえるんだよ」
「まぁ、話を聞いてくれ」
 市原は僕の前に回り込んで言った。「俺は幽霊じゃない。生還すれば、礼をできる」
「ぬ」
 思わぬ言葉だ。確かにそうかもしれない。もし本当に市原がただの生き霊だったとしたら、生還する可能性もある。今までにないケースだ。
 黙った僕を見て、市原は言葉を畳みかけてくる。
「一週間、学食食べ放題でどうだ」
「ぬぬ」
 学食食べ放題。一人暮らしの僕にとって悪くない提案だ。しかし、学食くらいで祖父さんの遺言を破っていいものか。
「食後のアイスもつけよう」
「百円アイスか」
「ハーゲンダッツでもいいぞ」
「ぐぬぬ」
 カップラーメンよりも高いアイスが、毎食後につくというのか。
「話を聞いてくれる気になったか」
 市原はにんまりと笑った。
「話の続きはお前の生死を確認してからだな」
「病室に来れば、俺の頼みはわかると思う」
「どういうことだ」
「病室に、同い年くらいの女の人がいる」
 例え病院の大部屋でも同室に異性を収容することはないだろう。つまり。
「先客の幽霊か」
「そう。しかも、かなり微妙でな」市原は、ちらりと机の上の文箱に視線を向けた。「なんとか成仏してもらいたいな、と」
「話をしたのか」
 市原は、頭をかきながらうなずいた。
「気が動転してる俺を、なだめてくれたんだよ。彼女と話すうちに落ち着いてきて。お前のことを思い出したってわけだ」
「考えたことはなかったが、幽霊同士で意志疎通ができるのか」
 僕の言葉に、市原は視線を落とした。
「彼女は好きな男に、思いを伝えられないまま死んだそうだ」
 なんとベタな話だろうか。相手の男は幼なじみで、子供の頃から病弱だったその女の人をずっと気にかけていてくれたらしい。
「両思いだったんじゃないかと思う」
「お前、自分がそんな状況なのに、よく人のことを気にかけられるな」
「そう言われると、なんとも」
 あははぁと、市原は間延びした笑い声をたてた。
 僕はぼんやりした輪郭の市原を見ながら、文箱をなでた。
「成仏か。さっきも言ったが、この文箱で幽霊を消せるが、それが成仏なのかは、わからない」
 表面のざらりとした感触が、指先からしみこんでくる。身を守るためだけに使うんだよと言う、祖父さんの声が思い浮かんだ。そして、今までに消してきた幽霊の姿も。
「死んだら終わりと思ってた」市原は僕を見つめた。「でも、死んでも終わってない。むしろ、思いを伝える手段を失う分、きつい」
 市原は本気で心配しているようだ。確かに、その人は気の毒だ。だが、死んだ人すべてが幽霊になっているわけではない。そのまま死を受け入れるのが大多数のはずだ。つまり、その人は自らの終焉を受け入れられないまま、この世に留まっているのだろう。そうなのであれば、少し危険だ。
 時計を見上げると、もう午前三時を回っている。
「どっちにしろ、明日病室でだな」そう言うと、僕はもう一度ベッドに潜り込んだ。「一応、病室以外にも待ち合わせ場所を言っておく。明日の午前十一時に、理学部資料室の紀要棚前に来い」
「なんでそんなところに」
 市原は怪訝な顔をした。
「そこだと昼でも確実に会える」
「どこでも見えるわけじゃないのか」
「いつでもどこでも全ての幽霊を見れる奴もいるだろうが、僕は違う。そこまで霊感が強いわけじゃない」
「そういうものなのか。では、また明日。病室と資料室の両方で待ってるから、頼むよ」
 市原の声は、眠気にまぎれるように耳に溶けこんだ。

 翌朝。目が覚めて周囲を見渡しても、市原の姿はなかった。幽霊としての力が弱いせいなのか、それとも本当に近くにいないのかはわからない。ただ、机の上に出しっぱなしの文箱が、昨夜のことが夢ではないことを示している。
 手早く身支度して家を出ると、心地よい冷気の風が頬をなでた。秋晴れの、抜けるような青空。このまま山か川にでも行きたくなる。しかし、市原の生死を確認しなければならない。実験データの在処も得なければならない。
「めんどうなことになったな」
 僕は独りつぶやいて、自転車にまたがった。
 大学の附属病院は、自転車で二十分ほどの所にある。病院ともなると、絡んでくるタイプの幽霊がちらほらいる。視線を合わせないようにしながら、病院受付で市原のことを尋ねた。
「市原さんね。今朝意識が戻ったばかりなので、今日はまだ面会は無理かもしれません」
 申し訳なさそうに、受付の女性が言った。
「目が覚めたんですか」
 僕の言葉に驚きの色が混じっていたのか、にっこりとほほえんで、「そうですよ、よかったですね」と答えてくれた。
「あの、怪我の具合を教えてもらえませんか。僕、彼の大学の仲間なんです。学科のみんなに状況を伝えたいので」
 学生証を見せると、少しお待ちくださいねと言って席を立ち、部屋の奥に向かった。
 目が覚めたのか。それならば、報酬は確実にもらえるな。僕はうなずいてから、ふと思った。幽体離脱しているときの記憶は、そのまま引き継がれるのだろうか。もし、まったく覚えていなければ、約束自体も反故にされてしまう。それって結局、無意味ということではないのか。
 ひとりでうなっていると、受付の女性が看護師を連れて戻ってきた。
「そんなにご心配されなくても大丈夫ですよ。今、頭の検査が無事に終わったそうです。少しくらいでしたら面会してもかまわないと、主治医が申しておりますよ」
 看護師も微笑んで、どうぞと促してくれた。
「それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
 教えられた病室は、三階の一番奥にあった。壁の名札を確認する。二人部屋のようだが、市原の名前しか無かった。
 ノックをすると、はいという声がした。
「わざわざ見舞いに来てくれたのか」頭を白い包帯とネットでぐるぐる巻きにされ、右足を吊るされた市原は、右手をあげて迎え入れてくれた。
「大変な目にあったな」
 僕は、ベッドの横のイスに座りながら言った。
「まったく」市原は吊されている足をなでた。「ところで、俺が入院したことを誰から聞いたんだ。耳が早いな」
 市原の言葉に、僕はため息をついた。
「誰って、お前本人から聞いたんだよ」
「なんだそれ」
 市原は不思議そうな顔をする。さようなら学食一週間分とハーゲンダッツ。
 僕は気を取り直して世間話をすることにした。「原付の事故だって?」
「ああ。頭を強く打ったが、ヘルメットのおかげで骨は無事だった。右足は骨折したけどな」
 市原は笑いながら右足を示した。
「ところで」僕は病室を見回した。「この部屋は、お前一人か」
 隣のベッドはがら空きだ。昨夜市原が言っていた、女の人の幽霊も見当たらない。
「親が実家から来てるが、さっき荷物を取りに俺の一人暮らしの家に行ったから、今は一人だな」
「そうか」
 昨日の実験データの在処を聞いて、僕は病室を出た。廊下にも、女の人の幽霊はいない。代わりに、三角座りした子供の幽霊の姿が目に入った。視線をゆっくりと外し、気がついていないように振る舞う。前を通り過ぎようとした瞬間、子供は「あーあ」とつぶやいた。背筋に、ぞくっとしたものがよぎる。どういうことだ、と聞きたくなるのをこらえる。
 幽霊に惑わされるべきではないのだが、僕はもう一度病室に戻った。
「あれ。帰ったんじゃないのか」
 市原が驚いたように言った。
「いや、今から理学部資料室の紀要棚に行くから」
「なんだそれ」
「念押しだ。気にするな」
 僕はそう言うと、病室を出て大学の理学部棟へ向かった。

 理学部棟は三つのブロックからなる。僕が入学した年に完成した新館、戦後に進駐してきた米軍が勝手に建てた本館、そして戦前に建てられた旧館。理学部資料室は、その旧館地下一階にある。十年ほど前に総合情報棟ができて以来、重要な書物や最新の本、ジャーナルなどは全てそこに集約されたので、今はあまり活用されていない。
 実験室四つ分はあるだだっぴろいスペースに、残りカスのような資料や理学部紀要のバックナンバーなどが配架されているだけの場所だ。ごく一部の物好きを除けば、人が立ち入ることもほとんどない。
 資料室の戸を開け、電気をつける。古い本の匂いが鼻を刺す。紀要棚前の古ぼけた長椅子に、市原が座っていた。
「やっぱりか」
 僕は市原の横に座った。市原は眉をひそめて、申し訳なさそうに言った。
「なぜか、こうなったんだ」
「今、幽体離脱して来たわけじゃないんだよな」
 市原は、こくりとうなずく。
「昨夜お前に会った後病室に戻ったんだ。そして、今朝。俺の目の前で、俺が目を覚ました」
 市原は、気の抜けた軽い声で言った。
「珍しいものをみた気分だ。動いている自分の姿を、動画以外で見ることになるとはな」
 そう言って、市原は笑った。
「笑いごとかよ」
「いやまぁ、俺の体が俺の意志とは関係なく会話する姿は、なかなかに圧巻だぜ。お前も一度は味わってみるべきだ」
 そんなセルフ3D動画なんて見たくもない。
「僕が病室に行ったとき、そばにいたのか」
「ベッドの横のイスに座ってたのに、お前が座ろうとするから慌ててよけたぞ」
 市原はわざとらしく肩をすくめた。
「お前、そんなに霊感強くないだろ」
「昨夜伝えたとおりだ。そんなに強くない。それでも最後に、ここに行くと言っただろ」
 そうそうと、市原は不思議そうな顔をした。「あれ、唐突だったよな。何があったんだ」
 僕は首をひねりながら言った。
「病室の前にいた子供の霊に助けられた感じだ」
「ああ、あの子が」
「面白がっていたような感じだったけどな」そう言って、僕は気になっていることを聞いた。「僕が病室に行ったとき、昨夜言っていた女の人の幽霊もいたのか」
「いや。病室に帰ったときにはすでにいなかった」
 そうか。つまり、それは。
「心して聞け」僕は、深呼吸してから続けた。「お前の体は、お前の魂が外に出ている間に、女の幽霊に乗っ取られたんだと思う」
「そうだな」
 市原は、あっさりと認めた。
「驚かないのか」
「まぁ、そうなんだろうなと思ってた」市原は立ち上がり、ふらりと近くの本棚に近づいた。「不思議なことがひとつある。彼女はまるで俺のように振る舞っていた。お前のこともカイコガの実験データの在処も知らないはずなのに、普通に答えていた」
「お前が教えたわけじゃないのか」
 市原は、教えてないと答えた。
「どういうことなのか、西脇にはわかるのか」
「心当たりはある」僕も立ち上がり、市原の横に並んだ。「死んだ祖父さんの話によると、霊魂は意識の集合体らしい。一方で、記憶というものはデータとして肉体に刻まれている。つまり」
「意識が別の意識と入れ替わっても、記憶がデータとして肉体に残っているから、そこから読みとれるってことか」僕の言葉を市原が継いで、納得したようにうなずいた。「たまに、大事故や大病から生還した人の性格が、以前と違うという話を聞いたことがあるけど」
「そうだな。多分あれは、そういうことだろう。今回の市原のケースも、それに近いんじゃないか」
「記憶はたどれても、性格や意識、行動は入れ替わった側のものになるってことか。気づかれないのかね」
 今のところ僕以外に、意識が入れ替わっていることを知る人はいないだろう。病室に来ていた市原の親も、疑念をもっていないのではないか。本物とまったく同じように振る舞う偽物。それはつまり、本物だ。
「こっちの市原が本物の証拠なんて、出せないしな」
 困ったことになったなと、そんなに困ったような顔をせずに市原は言った。
「なんでそんなに余裕なんだ、お前」
「いやまぁ、羽安さんは悪い人でもなさそうだし」
「羽安さんって、その女のことか」
「そう」
「自分の体を乗っ取られておいて、まだそんなバカなことを言えるのか」僕は呆れて言った。「その羽安さんとやらは、お前にとって悪霊でしかないじゃないか」
「多分、すぐに体を返してくれるよ」
「どうしてそんなことが言えるんだ」
「いやまぁ、羽安さんだし」
 なぜ、一度しか話をしたことがないような奴の、しかも幽霊の言うことを信じられるのか。
「呆れた。もう知らん」
 僕は市原に背を向けた。
「ちょっと待ってくれ。頼みがある」
「成仏の件なら、もう無理だ。肉体の中にある限り、文箱の力が届かない」
「違う。羽安さんに、封筒と便箋を渡してくれないか」
 封筒と便箋。
「お前まさか、羽安さんの幼なじみ宛てに、手紙を書かせるつもりか」
「問答無用に成仏してもらうより、そっちの方が百倍マシだろ」
 そりゃ羽安さんにとってはそうかもしれないが、相手にとってはどうなのか。例え昔好きだった人でも、今、死んだ人から手紙が届くというのは強烈に恐ろしい話ではないのか。
「どうにも、悲惨な話にしかなりそうにない気がするんだが」
「頼む。これで羽安さんも俺も救われるはずだから」
 市原は両手を合わせ、拝んできた。確かにこのまま何もしなければ、羽安さんは市原に成り代わったままだろう。どっちにしろ、市原の中に羽安さんがいることを確認する必要がある。
「アイスは一ヶ月分に延長だ」
 僕はそう言って、資料室を後にした。

 カイコガの実験レポートを無事に提出し、僕は大学生協に向かった。文房具売場には、封筒と便箋が愛想なく並んでいる。悩んだすえ、秋らしいトンボの絵柄の入ったレターセットを買った。
 自転車をこぎ、附属病院へ向かう。道沿いに植えられた、ナンキンハゼの紅葉が目に染みる。途中で強い風が吹き、落葉する葉に包まれた。季節は巡り、僕らも年をとる。時間の流れに取り残された羽安さんは、好きな人がどんどん自分から離れていってしまうことを、どんな思いで受けとめているのだろうか。
 気持ちが引っ張られそうになる。幽霊の頼みは受けない。これは市原の頼みなんだ。自分に言い聞かせるように、強くペダルを踏み込んだ。
 病院の駐輪場に自転車を停め、前かごから封筒を入れた紙袋を取り出す。病室の廊下には、子供の幽霊の姿はなかった。彼は院内をうろうろしている浮遊霊の類なのだろうか。
 病室をノックし、中に入る。
 あれ、また来たのか、と不思議そうに市原は言った。僕は何も言わず、封筒と便箋の入った紙袋を突き出した。
「見舞いの品か?」
 市原は笑顔で紙袋を開き、そして動きが止まった。
「手紙を書く気はありませんか」
 僕は、市原の目をまっすぐ見て言った。瞳に困惑の色が浮かぶ。
「誰にだよ」
「羽安さんの、想い人にです」
 市原は、袋の中に手を入れ、赤いハート型の葉を取り出した。さっきのナンキンハゼの落葉が紛れ込んだのだろうか。
「何言ってるのかわかんない」
 葉の軸をつまんでくるくる回しながら答えた。
「僕もわかりません」
「何よそれ」
「市原が、そう伝えるように頼んできたんです」
 市原は視線を下にさげた。どうやら、本当に中身は市原ではないようだ。
「何言ってんのか、ほんとにわかんない」羽安さんは、葉を見つめながら言った。「死んでからもう、十年以上もたつのよ。そんな状態で、死者からの手紙が届くなんて気持ち悪いだけよ。遅いの。何もかも遅いの」
「僕もそう思います。でも」僕は吊された羽安さんの右足を叩いた。
「痛い」
「人の体を乗っ取ってまで、伝えたい何かがあるんでしょ」
 僕の言葉に羽安さんはぽろぽろと大粒の涙をこぼした。少しひるみそうになるが、かまわず続ける。「何もしないまま、市原として生きるのもいいかもしれません。でも、羽安さんは自分の記憶を抱えたまま、男として市原の天寿をまっとうするつもりなのですか」
 羽安さんは首を横に振る。
「ありえない」
「ですよね。市原から、羽安さんの生前の姿は大層可愛らしかったと聞きました。でも今は外見も声も市原なので、大層気持ち悪いですよ」
「なによそれ」
 羽安さんは、泣きながら笑ってくれた。

 その夜、市原は僕の部屋に来て、羽安さんが手紙を書き始めたことを教えてくれた。
「このあと、どうするんだ」
 相手が羽安さんのことを今も想い続けているとしても、今更もらう手紙は、傷に塗る塩と同義だろう。片方の時間は止まり、もう片方は動き続けている。両方ともの時間が止まるまで、そっとしておいた方がいいのではないか。
「考えはあるが、うまくいくかはわからん」
「どんなやり方だ」
「いつかどこかで、ひょっとしたら届くかもしれない方法」
 そう言って、市原は病院に戻っていった。
 翌朝、再び病院に行くと、子供の幽霊と廊下ですれ違った。
「ま、よかったね」
 にっこりと微笑んだその子に、僕はお礼を言ってから尋ねた。
「君は、この病院で何をしているんだい」
「内緒」
 そう言うと、くすくす笑いながら走って行った。後ろ姿をぼんやりと眺めながら、ふと幽霊と自然に接してしまった自分に気がついた。向こうに何か頼まれたわけではなく、むしろ向こうがこちらを気にかけてくれた感じだ。今までに味わったことのない感覚が、少しむずがゆかった。
 病室に入ると、市原が笑顔で迎えてくれた。
「おはよう。羽安さんはもういないよ」
「あれ。本物の市原なのか」
「そうだけど、何か変か」
「アイスは半年分にしたことを、ちゃんと覚えているか」
「嘘つけ。アイスは一ヶ月だろ」
 なるほど、確かに本物だ。これは市原の肉体には記憶されていないことなので、疑いようもない。
「それで、羽安さんは手紙を書き終えたのか」
 僕の問いかけに、市原は一通の手紙とメモ書きを見せて答えた。赤いナンキンハゼの葉が添えられたメモには、綺麗な文字で『市原さん、西脇さん、ありがとう』と書かれてあった。
「届くところを見ずに、成仏できたのかな」
「羽安さんも本当に届けてもらえるとは思ってないだろうさ。でも、約束は守らないとな」市原は、ニヤリと笑った。「手段は選ばない」
 市原は両手で拝んでから、手紙を開封した。手紙は便箋一枚に綺麗にまとめられている。文末には『雄一さんへ、かすみより』と書かれてあった。
「この、かすみよりって部分を隠してスキャンして、データを俺によこせ」
「そんなことして、どうするつもりだ」
「画像を添付したスパムメールを作成して、自己複製プログラムを載せて全世界の不特定多数に送る」
 おいおい。
「ラブレターを全世界に送りつけるなんて、そんなの公開処刑じゃないか」
 僕は呆れて言った。
「破壊系のウィルスでもないし、内容は悪意のない純粋なラブレター。電子の海に放り込めば、きっと物好きが話題にしてくれる。話題になれば、いつの日か雄一さんの目にもとまるさ。何といっても、自分と同じ名前宛ての手紙なんだからな」
「そんな馬鹿な行為をして、羽安さんは怒るんじゃないか」
「怒ればいいさ。俺の体を乗っ取った報いだよ」
 市原は意地悪そうに笑った。
 確かに、今を生きる雄一さんにこの手紙を直接送り届けるよりも、いい方法かもしれない。自分と同名宛てのラブレターとしてしか読まないかもしれないが、何かひとかけらでも、伝わるかもしれない。燃やすわけにも、捨てるわけにもいかないこの想い。宇宙に骨を送り出す宇宙葬。これは、想いの電子葬だろうか。
「じゃ、早速行動に移してくれ」
 僕は羽安さんの名前を隠すために、ナンキンハゼの赤い葉を使おうと思った。

(了)




大梅健太郎プロフィール