「名前のないゾウ」高橋桐矢


(PDFバージョン:namaenonaizou_takahasikiriya
 広いサバンナに、名前のないゾウがいました。
 昼間はひとりで草を食べながら歩き、夜はひとりでねむりました。
 名前なんてなくても平気でした。
 名前というのは、ほかの誰かが呼ぶときにいるものです。そのゾウを呼ぶものは誰もいなかったので、名前なんて必要ないのです。
 おぼえているかぎり、ずっと昔からひとりでした。
 でも、困ることは何もありません。
 大きくて重いゾウがサバンナを歩くとドシン、ドシンと地面がゆれます。とてもりっぱな二本の牙は、するどくとがっています。長い鼻は、サバンナの一番高い木のてっぺんにもとどきます。
 おいしい草の生えている場所も知っているし、どんな日照りのときにも枯れない川も知っています。
 サバンナの動物たちにとって、水場はとても大切です。川の一番つめたくてきれいな水を飲める場所が、ゾウの水場でした。のんびりしているように見えて怒りっぽいカバも、さわがしいシマウマも、すばやいハイエナも、ライオンだって、ゾウの水場には近付きません。
 何にも困ったことはないし、名前をほしいと思ったこともありませんでした。
 ある日、ゾウが高い木の枝に鼻を伸ばして、やわらかい葉っぱをちぎりとって食べていたときのことです。
 サルのこどもたちが追いかけっこしながら遊んでいました。
 赤毛の子ザルが高い枝にのぼりました。ほかのサルが追いかけます。高い枝の一番先に、赤毛の小ザルはかろうじてぶらさがっています。ここから落ちて地面に叩きつけられたら、いくらサルでもけがしてしまいます。
 枝が大きくたわみました。赤毛の子ザルは、とうとう手を離してしまいました。
 次の瞬間。
 赤毛の子ザルは、ゾウの背中の上で、飛びはねていました。木の枝の下にちょうど、ゾウがいたのです。
 追いかけていたサルたちもつぎつぎと、ゾウの背中に、飛びうつってきました。子ザルは、ゾウの足をつたってするすると地面におりたと思ったら、もう別の木にのぼっています。
 サルたちがいなくなってから、ゾウは、背中を鼻で、ぽりぽりとかきました。
「やれやれ、背中で追いかけっこか。わたしのことを木か石と同じだと思ってるな」
 名前がないのは別にかまわないのです。
 でも、ゾウはゾウで、木でも石でもないのです。
 はしごではないし、踏み台でもないのです。
 それから、赤毛の子ザルは、毎日のようにゾウのいるところにやってきました。
 ゾウの足や鼻をはしごにして木にのぼり、背中を踏み台にして、木の実をとるのです。
 ゾウは名前がないので、子ザルが呼びかけることもありません。
 ゾウも、子ザルに話しかけたりしませんでした。
「木や石が、とつぜん、話しかけたらおどろくだろうからな」
 とゾウは、思っていたのでした。
 木や石だと、自分で思うぶんには、別に腹も立ちません。
 でも同じことを人から言われたら、どうでしょうか。
 サバンナには、遠くから旅をしてくる動物もいます。
 二、三日前から、ライオンの姿を見かけていました。りっぱなたてがみの、若いオスライオンです。
 その日、ゾウはいつもの水場で、水を飲んでいました。
 川のほとんどは茶色くにごっていますが、そこだけは、透明でつめたい水がわきでてくるのです。
 お腹いっぱい水を飲み、つぎは水のシャワーをあびようと、鼻に水をすいこんだとき、後ろで大きな声がしました。
「そこをどけ!」
 ゾウがふりむくと、オスライオンがいました。オスライオンも、ここが一番いい水場だとわかったのでしょう。
 ゾウは、耳をぱたぱたと動かしました。それから、ゆっくりあたりを見回しました。
 水場をかこんで、動物たちが集まっていました。
 シマウマもハイエナも、ゾウが水を飲んでいるので、いつものとおり、少しはなれて待っています。あの赤毛の子ザルもいます。
 けれど、オスライオンは、ほかの動物たちにはかまわず、ゾウをまっすぐに見つめています。
 ゾウはライオンに向き合いました。
「誰に言っているのだ。どけというからには名前をよんだらどうだ」
 ゾウには名前がありません。だから、どくつもりもありませんでした。
 けれど、ライオンは、ふんと鼻でわらいました。
「名前なんてあるのか? 石や木に名前があるのか。おまえなんて、おれさまの通る道をふさぐ石だ!」
 大きな口をぐわりと開けて、空気がびりびりするほどの大声でライオンがほえました。
 ゾウは、きばを、ライオンに向けました。するどく強く長いきばなら、ライオンを串ざしにするのも簡単です。大きな太い足で、ライオンをぺしゃんこにすることもできます。
 そのとき足もとで声がしました。
「ライオン殺しのゾウ、っていう名前になっちゃうよ?」
 いつのまにそばにきていたのか、赤毛の子ザルでした。ゾウは、ふむ、と考えました。
 確かにその通りです。
 まだ若いライオンは、本気を出したゾウがどれほど強いのか知らないのでしょう。
 ライオン殺しのゾウ……、いかにも強そうです。ちょっとだけ心が動きましたが、やっぱりやめておくことにしました。
 ゾウは、だまって、ライオンの横を通りました。ズシン、ズシンとひびく足音に、ライオンがびくりと体をふるわせました。
 肩をいからせ、強がっていましたが、ライオンのしっぽは、足の間でふるえていました。
 本気を出さなくてよかった、とゾウは思いました。
 鼻に残った水を、空に向かってぴゅーっとふきだすと、空に虹がひろがりました。
 翌日にはそのライオンを見かけませんでした。またどこかに旅に流れていったのでしょう。
 平和な日々がもどったのです。
 けれどそれもわずかな間でした。
 日照りが続いていました。枯れることのない川があるので、飲み水には困りませんでしたが、ぎらぎらと熱い太陽の光が、草原の枯草に火をつけました。あっという間にサバンナは大火事になりました。
 動物達は、先をあらそって逃げていきます。
 ゾウも、早足で川に向かいました。
 動物たちが歩いたり、泳いだりして川を渡っています。
 いつもの水辺の透明な水が、どろどろの茶色になっていました。
 大きなゾウは、川の一番深いところも歩いて進みました。カバはすいすい泳いでいるし、ヌーやシマウマも先をあらそうように川に飛びこんで泳いでいます。
 けれど、小さな動物たちにとっては、そう簡単ではありません。
 どんな日照りでも枯れないこの川は、その分大きく深く、流れも早いのです。
 小さな動物達は、勝手にゾウの背中で一休みしていきました。
「今日のわたしは川のまんなかの石というわけだな」
 ゾウはつぶやきました。
 サバンナの向こう、遠くに黒いけむりが見えます。まだ逃げてくる動物がたくさんいます。赤毛の子ザルもまだ逃げていないはずです。
 小さな動物達は、ゾウの背中で休んで元気を出して、また泳いでいきました。
 ゾウは、進むのをやめました。
 川の一番深いところで、流れされないよう足をしっかりふんばりました。
 道に石があれば邪魔なだけですが、深くて広い川の真ん中に石の島があれば、小さな動物にとってはどれほど助かることでしょう。
 小さなミーアキャットは川を半分泳いだところで、おぼれそうになりました。それでも、必死に手足を動かしました。川の真ん中に黒い島があるのが見えたからです。そこまでたどりついて一息休むことができれば、きっと向こう岸に渡れるでしょう。
 あともう少しで黒い島に手がとどく、という直前でミーアキャットはぶくぶくとしずんでいきました。
 すると何かがミーアキャットをつまみあげ、黒い島に乗せました。
 黒い島はゾウの背中でした。
 ゾウが、おぼれそうな小さな動物達を鼻でつまみあげて、背中に乗せていたのです。
 ゾウは思いました。
 石は石でも、役に立つ石です。それなら悪くありません。
 ゾウの背中に、サルたちも、つかまって休んで、また泳いでわたっていきました。
 子ザルも、年よりのサルもいました。
 けれど、あの赤毛の子ザルは来ませんでした。
 ゾウはだんだんと心配になってきて、ついにはがまんできなくなって、背中で休んでいるサルに聞いてみました。
「赤毛の子ザルを知らないかね? もうとうに逃げたんだろうか」
 サルは、力なく首をふりました。
「赤毛の子は、まだ来ていないよ」
 さっきより、けむりが近くなっていました。赤い炎も見えています。
 川の水が増えてきていました。
 ゾウは流されないように、いっそうしっかりと足をふんばりました。
 とうとう水の上に見えるのは、背中と頭、それから鼻先だけになってしまいました。
 顔も体も水の中です。
 しだいに頭がもうろうとしてきましたが、その場を動こうとはしませんでした。
 今もつぎからつぎへと、にげてくる小さな動物たちが、背中につかまっていくからです。
 赤毛の子ザルがくるまで、しっかり立っていなければ。とゾウは自分に言い聞かせました。
 それからどれくらいたったのでしょう。
 背中の上に、赤毛の子ザルがひょいと乗りました。
「おそかったじゃないか」
 赤毛の子ザルは、ゾウの背中を手でさすりました。
「やっと逃げてきたんだよ。それに必死で泳いだんだ。もうおぼれるかと思ったよ。ここにいてくれて本当によかった」
「石の島がね」
 とゾウはこたえました。
 すると子ザルは、目をぱちくりとさせました。
「石の島じゃないよ。あんたはゾウじゃないか」
 ゾウは、困って鼻で背中をぽりぽりとかきました。
「ゾウはゾウだけど、わたしには名前はないんだ。だから、木や石のようなものさ」
 子ザルが背中でとびはねました。
「あんたはゾウだよ! ぼくを背中に乗せてくれたゾウはあんただけだよ! あんたはどこにもいない、たったひとりの、本当のゾウだよ!」
 キーキー声でさけぶだけではたりなかったのか、子ザルは、ゾウの大きな耳をもちあげて、呼びかけました。
「だから、あんたの名前は『ぼくの友達のゾウ』だよ!」
 ゾウは返事をすることもわすれて、立ちつくしていました。
「聞いてる? ぼくの友達のゾウ!」
「ああ、聞いてるよ。聞いている」
 ゾウは、足をつよくふんばりました。
 決して流されないよう、たおれないよう、強くかたい石の橋になって、小さな友達が、安全に川を渡れるように……。

 サバンナの火事は、川のすぐそばの草までぜんぶ、黒こげにしてやっときえました。
 動物達は、全員が川を渡って向こう岸に逃げることができました。
 水かさの増えた川には、火事になる前にはなかった、黒い大きな石が、真ん中のあたりに、まるで石の橋のように、水面から見えています。
 ゾウの背中のようなその石は、川を泳いで渡るとき、一休みするのにちょうどいい場所にあるのでした。
 いつしか、その黒い石のことを誰ともなく、「友達の石」と呼ぶようになりました。
 むかしその川のちかくに、名前のないゾウがすんでいたことは、もう誰もおぼえていません。

終り




高橋桐矢プロフィール


高橋桐矢既刊
『あたしたちのサバイバル教室』