「優しい母さん」高橋桐矢


(PDFバージョン:yasasiikaasann_takahasikiriya
 しとしとと冷たい雨が降っています。
 お腹をへらした子ギツネが、とぼとぼと山の道を歩いていました。一日ずっと歩き通しなのに、朝から何も口にしていません。
 雨で、えもののにおいが消えてしまっています。痛いほどお腹がすいて、寒くて、しまいには眠くなってきました。でも、このまま巣穴に帰ることはできません。
 子ギツネは、今朝、母さんに「えものを取るまで絶対に帰るな」と、恐ろしい形相でにらまれて追い出されたのです。
 涙で視界がにじみます。
 すると、
「あらあら、もう暗くなるわよ。どうしたの」
 優しい声に顔を上げると、知らないキツネのおばさんがいました。
 子ギツネは、思わず声をあげて泣いてしまいそうになりました。寒くて心細い体と心に、優しい声が、じんとしみます。
 でも、ここで泣いてしまったら、今日一日、苦労して歩き回ったのが無駄になってしまうような気がしました。
 だから足をふんばり、胸を張って答えました。
「えものを探してるんです」
 キツネのおばさんは、子ギツネをつくづくながめて「まあ」とつぶやきました。
「お母さんはどうしたの?」
 子ギツネは尻尾をぴんと立てました。
「巣穴で待ってるんです。ぼくがえものを取って戻るのを」
「まあ」とキツネのおばさんはくりかえしました。
 おばさんは子ギツネに一歩近づいて、目を細めました。
「あなたはえらいわね。体も大きいし、堂々としているわ。うちにも、あなたみたいな子どもがいるのよ。でもね、小さくて体が弱くてね。今日は家で寝ているの」
 子ギツネは、見知らぬ病気の子供のことを思い浮かべました。暗い巣穴で一人でお母さんの帰りを待っているのでしょうか。
「かわいそうですね。早くよくなるといいですね」
「ありがとう」
 おばさんは、どこか寂しそうな笑みをうかべました。
「あなたも気をつけてね」
 子ギツネは、「大丈夫です」と答えてかけだしました。それ以上おばさんと話していると、言ってはいけないことを言ってしまいそうでした。
 本当は病気の子がかわいそうだなんて少しも思いませんでした。こんな雨の寒い日に、ぬくぬくと巣穴で寝ているのです。おばさんが、その子の分も、えものをつかまえてあげるのでしょう。
「それなのに、ぼくは母さんに追い出されて、雨にぬれながらこんなおそくまで一人でえものを探しているんだ」
 なさけなくて悲しくて、歩いているうちに本当に涙が出てきました。
 母さんが、あのおばさんみたいに優しかったら、どんなによかったでしょう。
 子ギツネはこの春に生まれたばかりで、まだ半人前です。えものを一人で見つけるなんて無理なのです。
 母さんは、自分のことがきらいなんだ。と子ギツネは思いました。そうじゃなかったら、こんな寒い日に追い出すでしょうか。
 それでも、巣穴に戻ることはできません。戻っても、こわい母さんに、また追い出されてしまうでしょう。今朝だって母さんは、おしりに噛み付いて追い出したのです。
 子ギツネは、涙をこぼしながら、歯をくいしばり、森の道を歩いていきました。
 雨でにおいもわからず、日も暮れて暗くなり、やっと、一匹の小さなヘビをつかまえたのは、もう夜中近くなってからのことでした。
 それから季節は巡り、夏が終わり、秋になりました。
 子ギツネはもう、子ギツネではありませんでした。
 一人立ちした若いキツネでした。
 母さんの巣穴を出て、自分ひとりで暮らしていました。
 もう見違えるようにたくましく、狩りも上手になっていました。雨の日でも、わずかな跡をたどってえものをつかまえることができます。暑い日も、寒い日も、自分の力でえものを見つけて生きていくことができるようになっていました。
 森の道を歩いていた若いキツネは、見覚えのあるキツネが近づいてくるのに気づきました。
「おばさん。こんにちは」
 あの雨の日に会ったおばさんでした。
 おばさんは、キツネを見ると「まあ」と声をあげました。
「あのときの子ギツネさん? 大きくなったわね。すっかりたくましくなって」
 キツネは、気になっていたことを聞いてみました。
「おばさんにも、ぼくと同じくらいの子供がいるって言ってましたよね。元気に大きくなってますか?」
 おばさんは、寂しそうに笑いました。
「うちの子は、今も小さくてね。えものを取るのも下手だから、まだわたしがかわりに行ってるのよ」
 おばさんの話を聞いたキツネは、首をかしげました。
「でもぼくと同じくらいの年なんですよね? 一人立ちしていないんですか?」
 おばさんは、ついと顔をそらしました。
「調子がよくないっていうものだから。今日も、コンコン、おセキが出て」
 何かおかしいなと思いながらも、キツネは「お大事に」と声をかけました。
 おばさんは、そそくさと行ってしまいました。
 キツネは、おばさんの後姿を見ながら思いました。
 同じ年というなら、もうとっくに一人立ちしていていい年です。今もおばさんと一緒に住んでいて、おばさんに取ってきてもらったえものを一緒に食べているのでしょうか。
 病気といっても、コンコン、セキがでるくらいなら、たいしたことはなさそうです。
 前に会ったときは、うらやましいと思ったものでしたが、今はそうは思いませんでした。
「大丈夫かなあ」
 その子も。おばさんも。
 なんとなく気になりながらも、どうすることもできませんでした。
 キツネがおばさんとまた会ったのは、それから数年たってからでした。
 今度は、おばさんの方が先に、キツネに気づきました。
 なんだか、じっと見ている年寄りキツネがいるなと思ったら、
「まあ」という声としぐさで、おばさんだと分かりました。
「お久しぶりです」
 と応えると、おばさんは、「まあ、まあ」と喜びました。
 キツネは、ずっと気になっていたことを聞いてみました。
「おばさんのところの子供は一人立ちしましたか?」
 おばさんは、困ったような顔で笑っています。
「それがねえ。まだうちにいるのよ」
「え?」
 キツネは、おばさんをまじまじとながめました。
 もう毛はぱさぱさ、ところどころ抜けていて、足元もよろよろしています。もうかなりのお年寄りです。
「まさか、おばさんがその子の分もえものを?」
「そうなのよ」
 困ったような、困っていないような顔で、おばさんは笑っています。キツネはふいに、その子のことが憎たらしくなりました。その子がいつまでも一人立ちしないせいで、おばさんはこんなにやつれて、よろよろになってしまったのです。
「おばさん、駄目じゃないですか! ちゃんと一人でえものを取らせないと! いつまでも一人立ちできませんよ?」
「そうねえ、困ったわねえ」
 と、おばさんは言うばかりです。
 キツネは、おばさんがかわいそうと思いながらも、きついことを言わずにはいられませんでした。
「その子だって、困りますよ! 一人立ちできなかったら、おばさんが亡くなったあと、どうするんです! 一人でえものを取れなかったらすぐに、飢えて死んでしまいますよ!」
 おばさんは、何も答えませんでした。
 淋しそうな、どこかあきらめたような笑顔をうかべています。
「おばさん!」
 キツネは呼びかけましたが、おばさんは、小さく頭を下げて、森の奥に行ってしまいました。
 キツネはそれからおばさんに会うことはありませんでした。
 おばさんの子がどうなったのかも知りませんでした。

 キツネのおばさん……もうすっかり年をとった母さんキツネは、その日一日ずっと歩き回りましたが、一匹もえものをつかまえることはできませんでした。熟して落ちていたカキを一つ見つけて、くわえて巣に戻りました。
 くさりかけのカキでも何にもないよりはましです。
 母さんキツネは、巣に戻ると、カキを置いて、子供に話しかけました。
「今日はね、これしか見つからなかったんだよ。ごめんね。明日はもっとおいしいものをみつけてくるからね」
 返事はありません。
 母さんキツネは、ふふっと笑いました。
「そういえば、今日はね。あの子ギツネに会ったんだよ。りっぱな若キツネになっていたよ。母さんね。怒られちゃった。子供を一人立ちさせなくちゃだめだって」
 母さんキツネは、疲れた体を横たえて、ふうとため息をつきました。今日も一日歩き回って疲れました。
 子供をじっと見つめて言いました。
「だけど、お前はどこにもいかないものね。お前はいつまでも大きくならないし、一人でえものを取ってくることもできない。でも、そのかわり、いつまでも母さんのそばにいてくれる。そうでしょう」
 母さんキツネは、目の前の、薄汚れた子ギツネのぬいぐるみの鼻先を優しくなめてやりました。
 ぬいぐるみは何も答えませんでした。昔、母さんキツネの初めての子供が一人立ちしたあと、ぽっかり穴が空いたみたいにさみしくて、眠れなくて森をさまよいました。そのとき見つけたぬいぐるみです。
 母さんキツネは、体を丸めて、目を閉じました。
 ぬいぐるみの子ギツネは、どこにも行きません。
 えものをとりに行くこともできないし、一人立ちもしないのです。
 ずっとずっといつまでも優しい母さんのそばにいます。
「わかってるんだよ。母さんだって」
 母さんは、まどろみながら、つぶやきました。

終り




高橋桐矢プロフィール


高橋桐矢既刊
『あたしたちのサバイバル教室』