「数学嫌いの治し方」谷田貝 和男


(PDFバージョン:suugakugiraino_yatagaikazuo
 夏休みの午前。カレンダーの8月の日付は、もう残り少ない。
 庭木からは、ツクツクボウシの鳴き声がしきりに聞こえてくる。
 サッシの向こうで、ぎらぎら照らす太陽。
 クーラーから送られる冷風に揺れる風鈴。
 机代わりのお膳の上には、切った西瓜を並べた皿。
 そして……夏休みの宿題。
 この日は朝から、数学のドリルに取り組んでいるのである。
 ……出来ない。
 難しすぎる。そもそも、何を言いたいのか全然分からないのだ。
 複素数。二次方程式。ベクトル。サイン、コサイン、タンジェント……。
 ぼくの両親は理系の研究者。ここは大学の教員住宅だというのに、自分にはなぜか、その方面の資質は遺伝しなかったよう、なのだ。
 冷房は効いているはずなのに、脂汗が出てくる。
 そのとき、お膳の上のスマホが震え、かたかた鳴った。
 メッセージの着信があった。

  イタルへ。まなもです。いまから遊びに行っていい?

 文面を確認すると、すぐに返信した。

  了解。

 それから10分ほどして、玄関から聞き覚えのある声がする。
「こんにちわー」
 高泉まなもだった。
「お久しぶり。昨日、日本に帰ってきたんだって?」
「うん、ようやく研究が一段落してね」
 勝手知ったるなんとやらで、彼女は気安く上がり込んできた。
 ぴょんぴょん飛び跳ねるように歩むたびに、亜麻色のツインテールが揺れる。
 彼女が講師をしている、アイビーリーグのロゴが入ったTシャツに、デニムのショートパンツ。
「日本の夏は過酷だわー」
 ぼくの傍らで、畳に生足を投げ出して横座りする彼女を見て、ぼんやり思った。
(こいつみたいだったらな……)
 高泉まなもとぼく――中村格(イタル)とは、母親同士が大学の同僚という関係で、小さな頃からの遊び友達だった。そして、まなもは数学の天才児だった。
 幼児のとき、ぼくのような凡人がお遊戯だのお絵かきだのに明け暮れていたときに、彼女は高等数学を理解し、大学院入試レベルの問題を解くことができた、という。
 彼女の天才は、高校や大学と言った教育機関のレベルをはるかに超えていた。9歳のときにアメリカ東海岸の世界的な大学に留学、専門誌に論文を発表して博士号を取得した。ぼくが中学生のときには、世界の頭脳であるその大学の教授らと共同研究を行い、数論と理論物理学での画期的な新理論の構築に貢献した。そして14歳の現在は、おなじアメリカの、世界最先端の頭脳が集う高等研究所に招聘され、最年少の研究員となっているのだ。
 SNSのトークや、帰国して我が家に遊びに来たりするたびに、研究の成果を誇らしげに語るけれど、恥ずかしいことにぼくは全く理解できない。それでも友達でいてくれるのは、ただの好意なのか、それともふだん周囲に気安く話せる相手がいないのだろうか。
「あら、おいしそう」
 その「ノーベル賞、フィールズ賞間違いなし」という天才が、目の前で畳に横座りして、テーブルの上の西瓜に手を伸ばしている。
「早速だけどさ……ちょっと、教えてくれないかな」
 開いたままのドリルを見せた。
「だめよ。自分でやりなさい」
 彼女は苦笑した。
「西瓜なんかで買収されるほど、わたしは安い女じゃありませんことよ」
「……そういいながら、食うものはしっかり食うんだな」
「どういたしまして」
 涼しい顔で、西瓜の一切れを口にもっていく。
「おいしいわね、この西瓜」
 かじり取り、口の中で果肉と種をより分ける。
 唇のあいだから、ねっとりと動く舌が見え隠れする。
「じゃあ、お礼の代わりに。何故、イタルが数学が出来ないのか、教えてあげましょうか?」
「……いいよ」
 ぼくはちょっと不機嫌になった。
「どうせ、勉強しないからとか、頭の出来がちがうから、とかじゃないのか」
「そうね。9割方はそう」
 まなもはぼくのほうに顔を向けた。
 亜麻色のツインテールをかき上げると、襟首が露わになる。
 右耳たぶには金属の輝きがあった。ピアスなんて、いつの間につけたんだ?
 顔から視線を動かすと、今度は、ホットパンツの裾からにょっきりつきだした太ももに目が行ってしまう。
 ……しばらく逢わないうちに、こんなに成長したのか?
「でもさ、不思議だと思わない?」
 そう言って、まなもは自分の頭を指さす。
「人間の脳はコンピュータに例えられるわよね。計算――思考の方法も。でも、それなら、どうして計算が苦手なひとがいっぱいいるのかしら? 計算はコンピュータの一番得意な分野よ」
「他のことにリソースを割かれているから、じゃないか。身体を動かしたり、ほかのことを考えたり……」
「それだけじゃないわ」
 皮だけになった西瓜を皿に置いて、まっすぐぼくを見た。エメラルド・グリーンの虹彩に囲まれた黒い瞳から、目がそらせない。
「人間の意識は、ノイマン型アーキテクチャのコンピュータとは違った、量子力学的計算過程で生ずるもの、というのがわたしの研究テーマなの。ペンローズのいうとおり、脳は量子コンピュータなのよ」
「???」
 ぼくの理解を超える話になってきた。
「量子コンピュータである脳は、別の世界を計算フィールドとして使っている。そこでしか走ることの出来ないプログラム。それが意識。シリコンチップの『人工知能』が人間の意識を再現できないのはそれ。いくら計算速度が速くても、メモリをいっぱい積んでも、だめ。アーキテクチャが違いすぎるもの」
 ぽかんとして聞いているだけだ。
 熱っぽく語り続ける彼女の白皙に赤みが差している。冷房をかけていても、うっすら汗がにじんでいる。
「……SFみたいな話だな」
「そう思う? でもSFじゃないわ」
 彼女はちょっとまじめな顔つきになった。
「脳髄は物を考える処に非ず、って知ってる?」
「いや」
「昔ある作家が『奇書』と呼ばれた小説で、そう書いた。全然別の意味だけど、一面では正しかったのよ。「脳が描き出す『世界』は、わたしたちが現実に、物質的に存在している『この世界』とはべつのところにある」
「はあ?」
「そしてその世界は、この世界の『数学』が適用できない世界なのよ」
 まなものペースに飲まれるわけにはいかない。とりあえず、突っ込みを入れなくては。
「虚数のことか?」
「違うわ」
 彼女はふん、と一笑に付した。見え透いた罠に引っかかった小動物を眺めるようなまなざしが突き刺さる。
「虚数は、『この世界』の数学体系のものなのよ。量子力学は複素数なくては考えられないわ。ここでわたしが言っているのは、違う。いわば『別の数学』」
「別の数学?」
「一貫した論理体系の中で、その論理で記述しきれることが正しいのかどうかは、本質的に証明できない。かつてゲーデルが証明したことね」
「数学は完全ではない、と?」
「そう、1+1=3である世界。円周率πが有理数である世界。素数に関するリーマン予想が覆された世界。わたしたち人間の『意識』が存在できるのは、そんな世界なのよ」
「いやもう……なにがなんだか」
 あきらめた。彼女の独壇場をゆるそう。
「だから数学が難しいの。わたしたちが依拠している『意識』のありようと矛盾してしまうから」
「はあ」
「そしてごく一部の『天才的数学者』とよばれるひとの脳だけが、この世界と『意識』の世界に折り合いをつけて、数学的思考、仮想力を発揮することが出来るのよ。たとえばピタゴラス、エウクレイデス、デカルト、ニュートン、ガウス、オイラー、フォン・ノイマン、そして……」
 ちょっと頬を緩めた。自分、と言いたげだ。
「なんかもう……くらくらしてくるよ」
 ぼくは呆然とするしかなかった。
「じゃあ、どうすればいいんだよ。数学の法則を、この世界に合わせてしまえ、とでもいうのか?」
「……方法はあるわ」
「?」
 まなもはにっこり笑った。
 彼女がこんな笑顔を見せると、そのあと決まって、なにか奇妙なことが起きるのだ。
 そして、バッグから眼鏡のようなものを取り出す。
「グラスディスプレイよ」
 眼鏡――グラスディスプレイを装着する。
「このグラスディスプレイには、特別なアプリケーションがインストールされている」
 蔓がちょっと太いけど、見た目には普通の眼鏡と変わらない。
「映し出されるアイコンを視線の向きで選択、操作できるようになっている
 蔓に仕込まれていたコネクタにケーブルを接続し、その一方を、右耳のピアスにねじ込んだ。
「これはピアスじゃなくて、インターフェイスなの。さっき説明したとおり、わたしの脳はふたつの世界を行き来できるようになっている。それを『機械の言葉』に変えるチップが脳に埋め込まれている」
「脳に……って」
「そう、手術でね。わたしが推進する、新しい数論の探求には不可欠だったから」
 こともなげに言った。
「チップを通じて、わたしの脳がネットワークと接続される。そして、そこにある量子コンピュータと有機的にリンクされるのよ」
 窓の外を指さした。実験棟には、世界屈指というスパコンが設置されているはずだが、それに量子コンピュータが加わった、というのか。
「それで、どうなるんだ?」
「量子コンピュータでは、現在のノイマン型アーキテクチャのコンピュータでは作動不可能な、多次元解析プログラムが作動し、それが行きと逆方向に、脳にフィードバックされる。そうすれば、『この世界』と『意識』が存在する世界がシンクロして、『意識』の量子レベルを操ることが出来る――プリンストンで研究していた、わたしが主導していたプロジェクトは、これよ」
 つづけてまなもは、同じものをもうひとつ取りだし、こちらに渡す。
「イタルもかけて」
 まなもに促され、かけてみる。素通しになっていて、普通の伊達眼鏡と変わらない。映像はここに映し出されるのか。
「このデバイスから量子コンピュータにデータリンクされて、わたしが導き出した理論に基づいて開発されたプログラムが起動する。その映像が、ここに映しだされる」
 眼鏡の蔓を軽く押すと、表示が現れた。
「それに、この研究には、もっとすごい可能性があるのよ」
「どんな?」
「数学が変われば、それを基礎にしている物理法則が変わる。結果として、この世のあらゆるものごとを変えることができる。たとえば物理定数。重力をキャンセルして空を飛ぶことも出来る。光の速さを超えられる。エネルギー保存則を破壊して無限のエネルギーが手に入る……」
「おい、ちょっと盛りすぎじゃないか」
 歌うように唱えるまなもを見て、ちょっと背筋が寒くなった。
 彼女はいったい、アメリカでどんな研究をやっていたのだ……?
「これでいいわ。さあ」
 ディスプレイの内側には、奇妙な画像が映し出されている。
 フレームで描かれた正多面体。その立体がぐるぐる回り、しだいに大きくなりながら、形を歪ませていく。
「わたしを中心に世界が書き換えられる……もっと近くへ来て」
「……うん」
 ぼくと高泉まなもはお互いに掌を合わせ、指をからませる。
 伝わってくるのは、肌のぬくもりと血流の拍動――。
 球体が歪みきり、ディスプレイが一面白色に輝いた。
 ぱちん。
 その輝きをみつめていると、頭の中で、なにかがはじけたようだ。
 脳から脊髄、そして末梢神経を伝って、それは全身に行き渡る。
 自分の身体がゆがみ、ねじれ、スパゲティのように引き延ばされるように感じた。
 視界がブラックアウトし、ガラスのかけらをぶちまけたような輝きが飛び散る。
 弓なりになったノコギリの歯みたいなものが、視界の中でぐるぐる回っている。
 閃輝暗点。
 偏頭痛の前触れとして視界に現れる、輝く歯車。
(がまんして。もうすぐだから)
 声が聞こえた、ような気がした。
 ぶうううーーーんんーーーううーーーんん……
 うなりのような音が、遠くから聞こえてくる――。
 薄目を開ける。何も見えない。
「どこなんだ? ここは」
 まなもの声が聞こえる。
「ようこそ」
 身体が軽い。足下がふわふわしている。ぼくたちは宙に浮いているようだった。
(『意識』だけをこちらの世界に同調させたのよ)
(これが、ぼくらの『意識』が住む空間、だって……)
(そうよ)
 まなもは涼しい顔だ。
 どこまでも果てしない闇。
 目が慣れると、星のような輝きがいくつも見えてきた。
 その中に、ひときわ明るい輝きが。
 輝きは大きくなり、そして周囲を回る、青い球が見える。
「惑星……地球なのか?」
(ちがうわ)
 まなもの「声」が脳裏に響いた。
(もうひとつの数学が支配する、もうひとつの世界よ)
 青い球はどんどん大きくなっていく。やがて、視界いっぱいに拡がった。
 ぼくらはものすごい勢いで、地表に向かって降下していくのだ。
 大気圏に突入する。大地がどんどん近づいてくる。
 地上の山々や地表の輪郭が、しだいにはっきり見えてくる。
(森だ)
 ぼくらの眼下には、「森」が拡がっていた。
 いや、そう呼んでいいのだろうか? あたり一面樹が生えている――樹なのか?
 見慣れた「樹」ではありえない方向に、枝や葉が伸びている。それは、奇妙ではあるが一貫した法則性に貫かれているようだ。
(……すごい)
 これが「別の数学の世界」、だというのか?
 眼下には「森」の他にも、「山」があり、「川」が流れている。「川」に流れているのは透明な液体――水なのか? 空には白い雲がいくつも。見慣れた世界と同じようで、それでいて微妙に違う感触が、そこにはある。
 映し出された映像に見とれていると、奇妙なものが眼に入る。
(……!)
(なんだ、あれは)
 黒い球のようなものが「森」の真ん中に出現した。みるみるうちに大きくなり、その表面が不規則に波打っている。
 棘が現れた。まるで、ウニのようだ。棘は自在に伸び縮みし、その一本が、こちらに……
 ばちん!
(あっ!)
 衝撃が襲う。棘は鞭のようにしなやかなにうねった。
 切っ先を紙一重でよけることが出来たが、シャツは大きく切り裂かれてしまった。
(なんだ!)
(気をつけて)
 まなもは制する。
(これは、こっちの世界が侵略されるというの……)
 ――なにかがくる。
 辺り一面回転するノコギリに囲まれている。いや、サメの歯のようにも見える。
(また閃輝暗点か……)
(いや、違う!)
 強い風――空気の流れが起こった。
(触ったら、さっきみたいに切られるわ)
 強い力で引っ張られる感触。あの黒いウニに巻き込まれそうだ。
(まさか……現実に干渉している?)
 まなもの訝る顔が眼に入る。
(とりあえず、逃げましょう)
 視界が再びブラックアウトする。
 ディスプレイの画像が切れて、ぼくらがいた部屋が、透明になったディスプレイ越しに見えた。
 そのとたん、むわっと熱い空気が包んだ。
 冷房が止まっている。
「停電……?」
「違うわ」
 まなもはいった。
「エアコンを制御している回路が動かないのよ。『向こうの世界の数学』が侵入しているから」
「え?」
「数学の世界が変わってしまった以上、コンピュータを電子的に動かしているアルゴリズムは役に立たない」
「そんな……」
 かけっぱなしだったのディスプレイをはずして、部屋を見渡してみる。
 つけっぱなしにしていたはずのテレビも、ひたすら沈黙するのみ。スマホはもはや、ただの黒い板だ。
 あの棘の先が触れたぼくのシャツには、大きく切り裂きができていた。現実だったのか。
「あの黒いウニみたいなやつは、数学の世界がコンフリクトを起こしている証なのよ。こっちの数学とあっちの数学が混ざって、せめぎ合いを起こしている。今はまだ、そのほんの先っちょが触れただけだけど、もし本格的に『向こうの世界の数学』がこちらの世界を侵してきたら……」
「どうなる?」
「この世界の物理定数、物理法則はすべて変わってしまう。そうなったらこの宇宙は、元の姿を保てないわ……」
「なんだって!」
 まなもの顔から血の気が引いている。
「考えてもみて。人間の身体は化学反応で成り立っている。それを制御してるのは電子のやりとり。それに、物質同士を引きつけている核力も変わる。弱くなって、すべての物質が原子の単位でばらばらになるか、それとも核力が強くなってすべての核反応が止まって、太陽が輝かなくなるか……」
「おい……」
「プリンストンでは数学者、物理学者とその可能性を論議してきたんだけど、当分はない、という結論だった。でも、こんなにも早かっただなんて」
 ……だから、アメリカでどんな研究をしてきたんだ?
「今わたしたちが相手にしているのは、名前も分からない、計算不能な怪物。名前があるなら、そう呼べばいい。ライオン、トラ、オオカミ、ワニ、サメ……どんな猛獣でも、正体さえ分かれば、対処の方法が見いだせる。でも、同定できない以上、得体の知れない怪物でしかない」
 まなもの額の上で汗が玉になっている。暑いからだけではなさそうだ。
「とにかく」
 まなもは腕を組んだ
「侵略してくる世界の、数学の解法を見いださなくてはね。あの黒い球体は、まだ『こちらの世界の数学』で証明し切れていない不十分な部分を見つけ出して、侵入してくる。わたしたちが先に『こちらの世界の数学』で証明すれば、そこに防壁が出来る」
「どうやって?」
「量子コンピュータが、もうひとつ要るわ」
「そんなもの、どこにあるんだ」
「ここに、ね?」
 高泉まなもは、ぼくをまっすぐ指さし、おでこに人差し指を当てた。
「協力して」
「どうすればいい……!」
「伝導率の高い部位を接触させて、電気信号を交換するのよ。そうすれば二台分の計算パワーが出る」
「伝導率の高い……?」
「濡れているところ。粘膜。唇とか舌とか……」
「ええっ!」
「はやく、わたしの言うとおりにして」
「でも、それって……」
 彼女は上目遣いにぼくを見て、唇を突き出す。Tシャツの襟首からは、ふたつのふくらみと 谷間がのぞいている。
 ぼくはあわてて、グラスディスプレイをかけ直した。
 素通しの眼に映ったのは、近づいてくる、まなもの唇――。
(……!)
 ぱちん。
 ふたたび、視界がはじけた。
 ディスプレイにまた、「別の世界の数学」の世界が映る。
 しかし、さっきとはその様相が一変していた。
 あのウニが、もうこんなにも大きくなっている。棘がどんどん伸びて、いまにもこちらに届きそうだ。
 中心の球体は虹色に輝き、てんでに波打って、モアレ模様が表面に現れては消える。見ている間にも膨らんでいき、さっきの「森」が飲み込まれていく。
(まずいわ。領域が広がっている)
 禍々しいオーラが周囲に投射されている。
(本体をこの世界に接触させるわけにはいかない……)
 頭の中に、何かが浮かんでくる。数式か
(いい、集中するのよ)
 まなもの声が聞こえる――いや、意識が流れ込んでくる。
(分かってる)
 ぴりぴりする緊張感がこちらにも伝わってくる。
(なんて不細工なアルゴリズム。そんなんじゃこの世界の法則に、取って代わることなんてできないわよ!)
 火花――火花のような映像が散る。
 顔が歪む。すごい圧力がかかっている。
 ふたつの世界、アルゴリズムがせめぎ合う圧力。
 ぼくは耐えきれず、叫んだ――。
「んふぃおfのqp128fbmp4n←●◇dん2おいー#$>!!!」
 のどの奥から出てくる音は、声にならない。いや、論理にならない。
 コンピュータの数学が適用できる世界と、脳の数学が支配する世界。ぼくの脳みそは、どちらに所属しているのだ? 1+1=2だぞ、3じゃない。1でもない。ましてやiでもない――。
 ぼくたちの世界が破壊されてなるものか。
 耳元できりきりと音がする。それが、まなもの歯ぎしりの音だと気がついたとき――
(やった!)
 脳裏で声が聞こえた。
 次の瞬間。
 目の前の怪物は、その表面を激しく波打たせはじめた。さまざまな色彩で輝いていた球体が、みるみる黒くうねる塊に姿を変えていく。
 棘が激しく伸び縮みし、根元からちぎれ、中空に消えていく。
 暗黒の球がゆがみ、端からばらばらの細片になり、虚空に蒸発していく。
 目の前が再び、まばゆく輝いた。
 すべてが光の中に溶けていく――
 ぶうううーーーんんーーーううーーーんん……
 まなもが、ぼくの顔をのぞき込んでいる。
「イタル、気がついた?」
 ぼくは畳の上に大の字になっていた。かたわらには、まなもがしゃがみ込んでいる。
 そこは、ぼくたちがさっきまでいた部屋だった。
 クーラーからの冷風に揺られ、風鈴が鳴る。
 サッシの向こうからは、蝉の声。
 お膳に乗った皿には、食べかけの西瓜。
「……助かった、のか?」
 立ち上がったぼくはグラスディスプレイを外し、頭を振った。
「とりあえず、定理の証明には成功したわ。これで、こちらの世界の数学定理は守られて、あっちの世界が侵入してくることは、防げた」
 まなもは額の汗をぬぐう。グラスディスプレイはかけたままだが、映されているのは通常のコンソール画面に戻っているようだ。
「このシステムは、まだまだ研究の余地があるようね。秋にプリンストンに行ったら、今回の件の教訓を織り込んだ理論を構築しなきゃ」
 おいおい、まだやるのかよ? と突っ込みたい衝動をこらえて、ぼくは口を開いた。
「いや、ひとつだけ、たしかなことがあるよ」
「なに?」
「とりあえず、数学の宿題は、自分でやった方がよさそうだ、ってこと」
「そうね」
 ぼくと高泉まなもは、顔を見合わせて笑った。
 そしてぼくは、ちょっと胸を張って、こういった。
「それに、ぼくの有機コンピューターも、これでいて、なかなか役に立ったといえるんじゃないかな」
「ばか」
 まなもは顔を伏せて、小声でつぶやいた。
「……イタルの有機コンピュータだって? そんなの、口から出任せよ。嘘に決まってるじゃない」

(了)




谷田貝和男プロフィール


谷田貝和男既刊(共著:頭脳組合名義)
『ノストラダまス
予言書新解釈』