「鏡の奥に」大梅 健太郎


(PDFバージョン:kagaminookuni_ooumekenntarou
 玄関で引っ越し業者が、ありがとうございましたと言って頭を下げた。横山もつられて頭を下げる。閉まるドアの音に重なるように、ため息が漏れた。
「夜までには、ある程度荷ほどきしなきゃな」
 引っ越してきたばかりの1Kの床は、積まれた荷物で足の踏み場もない。横山は、最低限の生活に必要な物の入った段ボール箱を探した。
 洗面台と書かれた箱から、歯ブラシと歯磨き粉、コップ、そして電気ひげ剃りを取り出す。それらを手に、洗面所に立った。一人暮らし用の部屋にしては、鏡が大きい。歯磨きセットを蛇口の右横に、電気ひげ剃りを左横に置く。ふと、妙な視線に気がついた。鏡の中からだ。
 のぞきこむと、背後の洗面所の隅に、頭から血を流した若い女が座っていた。振り返っても、そこには誰もいない。もう一度鏡に視線を戻すと、女と目が合ってしまった。つい凝視してしまう。ぼんやりとしていた女の表情に、色がさした。
 しまった。
 そう思ったときには、もう遅かった。
 鏡の向こうの女は、急に鏡に近づき、身振り手振りで何か伝えようとしてきた。鬼気迫る、とはこういうことを言うのかもしれない。
 女からゆっくりと目をそらし、洗面所を後にする。
 安いと思ったら、事故物件かよ。
 部屋に戻った横山は、とりあえず荷ほどきの続きにとりかかった。
 横山は、いわゆる「見える人」だ。霊感というものかはわからないが、他人には見えないものをたまに見る。あくまで見えるだけなので、話すことも触ることもできない。
 子供の頃は、自分にしか見えないものの存在を恐れていた。しかし、大学四回生の今となっては、もはやどうでもよいものでしかない。そこらへんに転がる石ころのような幽霊よりも、卒論研究のデータ取りが進んでいないことの方が気がかりだ。大学近くのこの単身者用マンションに引っ越してきたのも、実験に集中するためだ。
 しかし、鏡の中というのは今までにないパターンだな。
 IHコンロにヤカンを置き、湯を沸かしながら考える。今までに見たことがある幽霊は、道ばたの通りすがりがほとんどだ。そういえば、部屋の中で見るのも初めてかもしれない。

 それではまた来週。
 テレビに映る司会者が笑顔で挨拶をする。それを合図に、横山は床から立ち上がった。あくびをひとつ、ふたつ。時計は夜の十一時を指している。
 荷ほどきは、日常生活ができるくらいには完了した。引っ越しの疲れもあることだし、今日は早めに寝ることにしよう。
 歯を磨こうとして洗面台に立つ。頭から血を流した女が笑顔で立っていた。手を振り、しきりに何か合図をしてくる。
「まだいるのか」
 横山は独り言を言いながら歯ブラシに歯磨き粉をのせた。
 女は半袖のTシャツにジーパン姿で、かなりラフな姿をしている。年は、横山と同じくらいだろうか。頭から流れている血は半乾きのようで、短く切られた前髪が、べったりとおでこに張り付いていた。血まみれではあるが、それなりに愛嬌のある顔立ちをしている。
 歯を磨きながら、女の挙動を見る。鏡越しだと、まるでテレビのようだ。
 何度も指で口を示しては、口を動かす。
 あ、う、え、え。
 お、お、あ、あ。あ、い、え。
 読唇術の心得は無いので、まったく理解できない。横山は両腕で大きな×を作り、首を振った。
 女の目に涙が浮かぶ。手で顔をおおい、その場に崩れてしまった。
 どうすりゃいいんだよ、これ。まるで俺が悪い人みたいじゃないか。
 横山はため息をついた。

 次の日の朝。カーテンの隙間から入る日の光がまぶしくて目が覚めた。窓とカーテンのサイズが微妙にあっていないようだ。
 女のことを思いだし、気が重くなる。えいやっと勢いをつけて起き上がり、洗面台に向かった。
 そっと鏡をのぞきこんでみる。そこに女はいなかった。
 あれ。いないのか。
 拍子抜けした横山は、そのまま髭を剃り顔を洗う。顔をあげた瞬間に女がいるのではないかと思ったが、予想ははずれた。
 たまたま通りがかった、浮遊霊の類だったのかな。
 安堵した横山は、そのまま身支度をし、部屋を出た。
 大学の正面にあるコンビニで朝食のマロンクリームパンを買い、研究室に向かう。学生部屋には同期の宇野気がいた。
「おはようさん。新居は、どないな感じ?」
 読んでいた論文の別刷りをパソコンの上に置き、宇野気が尋ねてきた。
「いい感じではあるんだが」
 横山はマロンクリームパンをデスクに置き、食器カゴからコーヒーカップを取った。インスタントコーヒーの粉を入れ、ポットのお湯を注ぐ。
「何や、不満でもあるんか?」
「クーラー付き物件を借りたんだが、他にもオマケが付いてきたかもしれん」
「オマケ」
 宇野気は腕組みして首をかしげた。
「前の住人が残してった物か?」
「前の住人そのものかもしれない」
 横山はマロンクリームパンをかじりながら、鏡の女のことについて説明した。すべて聞いたあと、宇野気は大げさに自分のおでこをぺちりと叩いた。
「せやから、この物件は怪しいって言うたのに」
「でも、事故物件ナビやその手のブログ、犯罪発生マップで事前に調べただろ」
「それが事故物件の恐ろしいとこやな。オマケのオバケ。おーこわ」
 なんまんだぶなんまんだぶと、宇野気は目を閉じて横山を拝んだ。
「後で、うちに来てみてくれ」
「何もしないって、約束してくれる?」
 わざとらしくしなをつくる宇野気の後頭部めがけ、横山は丸めたパンの袋を投げつけた。

「近くてええなぁ、ほんま」
 何度も言いながら、宇野気は横山の部屋に入った。
「ほれ、そこだ」
 横山は洗面台の鏡を示す。
「うわ」
 宇野気がのけぞる。横山と宇野気の後ろに、昨日と同じ姿をした女が立っていた。
「うわ、うわ、俺にも見えるで。こわっ」
「今朝はいなかったのに」
 横山は頭を掻きながら考える。夕方から夜にしか出ないのだろうか。
 暗い顔をした女は、また指で口を示して口を動かした。
「なんや。何か言いたそうやで」
「それがわかればいいんだが」
 あ、う、え、え。
「あ、う、え、え」横山が口真似する。
 お、お、あ、あ。あ、い、え。
「お、お、あ、あ。あ、い、え」
 何度も繰り返し唱える。しかし、どうしてもわからない。
「あかん。母音だけやったら無理や」
「な。どうしていいかわからんのだ」
 ううむ、と宇野気は腕組む。
「手話、やな。横山は手話でけへんのか」
「無理。それにできたとしても、この女もできるとは限らんだろ」
「ほな筆談や。何か書くもんよこせ」
「こっちからコンタクトをとるのは気がすすまないんだけど。何かあったらどうすんだ」
「大丈夫。この部屋は俺の部屋とちゃうし」
「どういう意味だよ」
 横山は紙とペンを宇野気に渡した。宇野気は紙に『読める?』と書いて、鏡の女に示す。
 暗かった女の顔が、みるみる明るくなる。
「おお、伝わったぞ」
 あ、う、え、え。あ、う、え、え。
 女は同じ口の動きを繰り返す。
「こっちの言葉は伝えられても、向こうからの言葉がわからんなこれ」
「向こうにもペンと紙くらいあるやろに、使えないんやろか」
 ぱくぱくと、横山は口真似を続ける。なんとなく意味が取れそうな気もするが、決め手に欠ける。
「あ」宇野気が素っ頓狂な声を上げた。「ええこと思いついたわ」
 宇野気は紙に文字と数字を書く。
『あ→11 い→12 う→13 え→14 お→15 か→21 さ→31』
 鏡の向こうの女に見せて、指で数字を示した。女はこくこくとうなずき、宇野気のやったようにして、指で数字を示し始めた。
『41 33 24 44』
 宇野気が言葉に置き換える。
「あかさた、た。あかさ、さしす。あか、かきくけ。あかさた、たちつて」
 背筋にぞわりとした感覚が走る。
 女はそのまま数字を続ける。
『25 25 21 91 41 32 44』
「あか、かきくけこ。あか、かきくけこ。あか、か。あかさたなはまやら、ら。あかさた、た。あかさ、さし。あかさた、たちつて」
「たすけて、ここからたして。助けて、ここから出して、だな」
「うわぁ。これ、めっちゃやばいやん」宇野気が自分の二の腕をこする。「鏡の中にいる頭から血を流した女の人が、助けて、ここから出してって、どういうこっちゃ」
 二人の間に、どんよりとした空気が流れる。
「俺は理系。お前も理系。さて、このようなことは現実に起こることだろうか」
 横山が宇野気に言う。宇野気は苦笑いしながら答えた。
「説明できるようになって、初めて科学という。つまり、これは科学やない」
「じゃ、なんだこれ」
「なんやろね」
 宇野気は紙に『お名前なぁに?』と書いて女に見せた。
「ほかに書くべきことがあるんじゃないのか」
「おっと、気が動転してた」
『私は宇野気、隣のアホ面は横山と申します』と、宇野気は書き添えた。
「これ、重要か?」
「人間関係を構築する上で、自己紹介以上に重要なことは無いやろ」
「あれ、人間なのかね」
「さぁ」
 鏡の中の女は、紙に書かれた言葉を読み、眉をひそめた。そして、何かがはじけたように笑い始めた。
「おお、ウケてるぞ」
「なんでウケたかは知らんけど、関西人冥利につきるわ」
 笑いすぎたのか、女の目には涙が浮かんでいる。それをシャツの袖で拭って、指で名前を示した。
「のせ、えみ。やって。どんな字を書くんやろか」
「そこ、気にする必要あるのか」
 宇野気は『能瀬、能勢、野瀬、恵美、絵美、江美』と、思いつく限りの漢字を書き、順に示した。
「能瀬絵美さん、ということが判明しましたな」
 ああそうか、と横山はスマートフォンを取り出し、名前を検索する。なんらかの手がかりがあるに違いない。
 調べてみると、何人か同姓同名の人物が見つかった。
「この中の、誰かなんだろうけれど」
「しかし、そもそも絵美さんはこっちの世界の住人なんやろか」
「え」
 確かに。何となく、鏡の中に閉じこめられている印象をもってしまったが、逆に鏡の中の世界からこっちに出て来たがっている可能性もある。
「どっちが夢を?」
 横山がそう言うと、宇野気の平手が飛んできた。すんでのところでかわす。
「何すんだよ」
「いや、夢かどうか試そと思って」
 自分の頬を叩けよと言って、横山は宇野気の尻をぽんと蹴った。
「まぁ、まずは情報収集すべきやろな。聞く相手は目の前におるんやし」
 そう言うと、宇野気は紙に『そっちには、何か書く物ないの?』と書いて絵美に見せた。絵美は、さっきと同じようにして指で示した数字で文字を綴る。
「動かせない、のか」
 絵美の話によれば、鏡の中の世界の物は動かせないのだという。紙とペンもあるけれども、手に取ることができないらしい。
「ということは、食べ物も手に取れないってことなんやろか」
『ずっと食べてない?』
『すつとたへてない』
『いつから閉じこめられてる?』
『おもいたせないくらいまえから』
『おなかは減らない?』
『へらない。ふしき』
 むむぅと、横山は頭をかかえた。
「これって、鏡の中では時間がたたないってことか」
「いや、時間は経過してるんちゃうか」
 宇野気は腕時計を鏡に映す。秒針の動きが、鏡の中の時の動きを示しているように思えた。
「鏡の中の世界へは、鏡の外から干渉することができる。でも、鏡の中では何もできないってことか」
 横山はペンを手に持った。鏡の中の横山が、絵美にペンを渡すように突き出す。そしてペンを掴むように仕草で示した。絵美がペンを握ったことを確認し、ペンをはなす。
 鏡の中のペンは、鏡の外と同じように床に落ちた。
「今、手をすり抜けよったで」
「どういう原理なんだろ」
「鏡の中って、光を反射してできてる世界やんな」
 宇野気の言葉に、横山はうなずく。
「だとしたら、絵美ちゃん以外の鏡の中のものはすべて、動的平衡状態なんちゃうかな」
「わかるように言え」
 つまり、と言って宇野気は本を取り出し、ページの端にパラパラ漫画を描いた。
「このコマと次のコマは、まったく同じ絵柄なので、パラパラしても変化がないように見える。でも、まったく別の物。毎回新しく世界が構築されなおしてるといえる。一方で、なぜか絵美ちゃんは鏡の外の世界同様、動的平衡状態ではなく、連続して存在している。だからこのコマで絵美ちゃんがペンを握っていても、次のコマのペンはもう一度新しく構築されたものなので、絵美ちゃんの握っている空間座標からずれる。簡単にいえば、握れてない。だから次のコマに進むと、ペンはするりと手からはなれて落ちる」
「映画が投影されているスクリーンの前に立つようなもんか」
「光の振動数を考えれば、1秒間に五百兆コマの映画を見てるようなもんやな」
 贅沢な話やでと言いながら、宇野気は紙に文字を書いた。
『もう少し実験に協力してもらえる?』
 絵美の顔が、少し不安げな表情になる。それでも、うなずいてくれた。
『手を洗面台の上に置いてみて。そして、上から私が歯磨き粉のチューブを落とすけど、動かんといてね』
 言われるままに、絵美は手を洗面台の上に置いた。そして宇野気がチューブを落とす。チューブは絵美の手で跳ねることなく、洗面台の上に落ちた。チューブは絵美の手にめりこんだように見える。
『痛い?』
 絵美は首を横に振った。
『手をチューブから抜いて、もう一度チューブにめりこませてみて』
 絵美の手は、チューブから抜くことはできたものの、もう一度チューブにめりこませることはできなかった。
「優先されているのはこちらの世界なんやな」
「映し出される映画の中に入りこんだ感じか。気が狂いそうになるだろうな、これ」
 もし、自分がこの状態になったとしたら。考えただけで恐ろしくなる。
「あれ?」
 宇野気が変な声をあげた。
「どうした?」
「今、絵美ちゃんは俺たちの目の前にいるけどさ、物を動かすことはできなくても動き回ることはできるんだよな」
 鏡の中の絵美は、こちらをのぞきこんでいる。
「そうだろな」
「ってことは、鏡に映っていない部分にも行くことができるんやろか。たとえば、隣の部屋の鏡で見ることができる、とか」
「なるほど。試してみるか」
 横山は洗面台を離れ、部屋の段ボール箱から小さな手鏡を取り出した。
「いいぞ。こっちに来るように言ってくれ」
 手鏡を見つめながら、ぼんやりと考える。今朝洗面所にいなかったのは、どこかに移動していたからだろうか。絵美はいつから鏡の中に閉じこめられているのか。そして、外に出ることはできるのだろうか。
「そっちに行ったぞ。見えるか?」
 宇野気の声がする。鏡をのぞきこんでも、自分のマヌケ面しか映っていなかった。
「だめだ」
 横山は洗面台に戻った。後ろには絵美がついてきていたが、部屋ではまったくわからなかった。
「よく考えたら、ここでこの鏡に映るかどうか試せばええやんか」
「そういや、そうだな」
 横山と宇野気は手鏡をのぞきこむ。洗面台の鏡には絵美が映っているのに、手鏡には映っていなかった。
「どうやらこれは、この洗面台の鏡に特化した事例らしいな」
 横山は鏡の表面をゆっくりとなでる。手の表面に、じわりと冷たさが広がった。
「現象は確認できた。次は、理由だな」
 その前に、と言って宇野気は紙に五十音表を書き始めた。
「めんどうやけど、後々のことを考えたら、これがあったほうがええやろ」
 絵美は鏡の中で、宇野気の書く表を見つめている。
 このへんにいるはずなんだよな。
 横山は、手を伸ばして空を切る。当然だが、手応えはない。
「こらこら。セクハラはアカンで」
 顔を上げた宇野気が、やらしそうな顔つきで言う。横山の伸ばした手は、ちょうど絵美の胸のあたりに触れそうになっていて、絵美は身をよじって手をかわしていた。
「うわ。ごめん」
 慌てて手を引っこめる。宇野気の書き上げたばかりの表を使って、言葉を組み立てた。
『ごめん』
 絵美も真似して、表を指さした。
『いえ、きにしないで』
「濁点、半濁点、読点に句読点。そして小文字もあるから、意志疎通がしやすくなったな」
 横山の言葉に、宇野気は満足げにうなずいた。
「さ、話を聞こか」
「まずは、どうやってそこに入ってしまったかだろうな」
 横山は紙にそう書いて尋ねると、絵美の表情が曇った。
『わからない。でも、こころあたりはある』
 絵美は、自分のおでこをそっとなでた。
『かれしに、あたまをつかまれて、このかがみにぶつけられた』
「うわぁ」宇野気の顔がひきつる。「暴力彼氏やん。DVやん」
「それで鏡が割れて、血まみれになったってことか」
 横山は自分の頭をわしわしと掻いた。
「んん。この鏡、割れたんやろか。見る限り、ヒビも入ってへんけど」
 宇野気が鏡の表面をなでると、きゅきゅっと高い音が鳴る。絵美に聞いてみると、『たぶん、われてない』と表で示しながら、首を横に振った。
「鏡の代わりに、頭が割れたってこっちゃな」
「それで、魂のこもった鏡の出来上がり、と」
 宇野気が、ははっと気の抜けた笑い声を上げた。「まさに文字通り、DV彼氏の職人技による入魂の逸品やね。ひどい話やでこれ」
 横山は、ため息をついた。
「そういった経緯で、魂が鏡の中に閉じこめられた、つまり殺されたってことなのか?」
「でも、事前に調べたときには、そんなニュース見つけられへんかったで」
「不動産屋に、前の住人のことを聞いてみるか」
「そんなん、教えてくれへんやろ」
 宇野気は腕を組み、目を閉じた。
「電話、やな」
「電話?」
「そう。まずは絵美ちゃんに自分の携帯番号を聞いて、かけてみよや」
 宇野気は絵美から携帯番号を教えてもらい、横山に電話をかけるように促す。
「なんで自分のでかけないんだ?」
 横山が宇野気に聞く。
「もし、DV彼氏が出たら嫌やん。こっちの電話番号が割れるのも嫌やし」
 横山は宇野気の腰を足蹴にしながら、コールを待った。
『はい』
 女の声だ。当然ながら向こうからは名乗らない。
「あの、能瀬絵美さんの携帯でしょうか」
『はい、そうですが』
 耳を近づけて聞いていた宇野気が、「本人か確認しろ」と小声で囁く。
「絵美さん本人でしょうか」
『……はい。どちら様でしょうか』
「あの。鏡に、鏡が」
『何ですか?』
「か、鏡に頭をぶつけられたことがありませんか」
 アホか、と宇野気が横山の頭をはたいた。
『な』
 電話の向こうで、言葉が詰まったことがわかる。張りつめた空気が伝わってくる。
『哲也に頼まれたんでしょ!』
 怒鳴り声が、耳をつんざく。
「いや、あの」
 横山の動揺した言葉を押さえつけるように、『もうほっといてよ!』と絶叫され、電話は切られてしまった。
 脱力感が横山を包む。その横で宇野気は紙に文字を書いた。
『彼氏の名前は、てつや?』
 鏡の向こうで、絵美はこくりとうなずいた。
「こりゃ、どういうことや?」
「そりゃ、絵美さんは死んでないってことだろ」
「じゃぁ、この鏡の中の人は誰なんや?」
「そりゃ、絵美さんだろ」
「せやな、せやせや。うん」
 宇野気は笑い声をあげた。横山も、力無く笑った。鏡には、だらしなく笑う二人の顔と、不安げにこちらを見つめる絵美の顔があった。絵美は五十音表を指さす。
『どうしたの? でんわには、だれがでたの?』
 困ったね、と横山はつぶやいた。
「真実を告げるべきだと思うか?」
「真実って何や? こっちの世界の絵美さんは生きてて、彼氏のアホ哲也とは別れてるって言うんか?」
 そりゃ酷やで、と宇野気はひきつった笑顔のまま言った。
『間違い電話をかけてしまった。もう一度かけなおす』
 横山はそう書いて、電話をかけるふりをした。そしてしばらくして、首を横にふる。
『出ない。でも、通じたから電話は止められていないみたい』
 絵美は、これ以上わかりやすい態度はないくらい、しょんぼりした。そして、表で文字を示した。
『じっかに、ここにいるってれんらくしてくれませんか?』
「無理な話や。鏡の外のこっちの絵美ちゃんは無事なわけやし」
 宇野気はそう言うと、『今の状況をうまく説明する自信がありません。ごめんなさい』と書いてペンを置いた。
 紙を一瞥し、絵美はそのまま床にしゃがみこんでしまった。
「可哀想だ」
「でも、どうしようもないで」こんこんと、鏡の表面を叩く。「割ってみるか?」
「簡単には割れないんじゃないか、入魂の鏡だし。それに、もし割れたとしても、失敗したら最後じゃないか?」
 確かにな、と宇野気はつぶやいて、紙に言葉を書いた。
『今日はもう帰ります。横山のアホと二人きりになったからといって、いやらしいことをしちゃダメよ』
 紙を何度もひらひらさせて、絵美に見せようとする。しかし、絵美は顔を伏せたままで、こちらを見ようとしなかった。
「あかんな。落ちこませてしもたわ」宇野気はため息をつき、洗面台に紙を置いた。「とりあえず、今日はここまでやな」
「そうだな」
 うなずくと、二人は洗面所を出た。
「どうすればいいだろうか」
 横山が言うと、宇野気は「だから、どうしようもないで」と首を振った。
「実物が鏡の中に閉じこめられているわけでもないし、もしもこの絵美ちゃんを外に出してしまったら、こっちの世界に絵美ちゃんが二人おることになってまう」
 宇野気はため息をついた。「完全に無視して、何もなかったことにするのが一番ちゃうかな」
「お前、ドライだな」
 横山が言うと、宇野気は肩をすくめた。
「変にかかわりすぎると、情が移るで」
「情、か」
 横山は洗面所を振り返る。ひざを抱えてしゃがみこんでしまった絵美の姿が思い浮かんだ。
「ま、とりあえず今日は俺は帰るわ」
 玄関に立った宇野気は、じゃ、と言って出ていってしまった。
 ばたん、とドアが音をたてて閉まる。一人取り残された横山は、冷蔵庫から缶コーヒーを取り出した。いつもなら気持ちいい缶の冷たさが、今日は妙に痛い。プルタブを開け、一息にコーヒーを飲み干す。口腔を通し、じんわりと脳みそが冷やされた気がした。
 飲むことも食べることも、できないのか。
 缶の表面をぐっと押す。スチールの硬さが親指に返ってくる。
 持つことも、動かすこともできない。
 ゴミ箱に缶を捨て、横山はベッドに腰掛けた。テレビのリモコンに手が触れると、ほとんど反射的にスイッチを入れた。野球中継が映る。
 そうか。
 横山はリモコンのボタンを見て、字幕と書かれたボタンを押す。ぱっ、と画面に文字が表示された。
 そのまま洗面台のところに行く。絵美はさっきと同じ姿勢のままだ。横山は電灯のスイッチに指をかけ、オン、オフを繰り返した。
 明滅する部屋の明かりに気がついたのか、絵美が顔をあげる。横山は紙に『見たいテレビない?』と書いた。
 視線は微妙に焦点があっていない。絵美はゆっくりと首を横に振った。
 横山は部屋に戻り、テレビを担いだ。アンテナケーブルは足りそうだが、コンセントは届きそうにない。一回抜いて、洗面台横のコンセントに差しなおす。そして、鏡を見ながら、ちょうど絵美の正面にくるようにセッティングした。
 スイッチを入れると、映像とともに画面に字幕が映った。一瞬、絵美の顔に生気が戻る。目は字幕を追っているようだ。しかし、しばらくして視線は下に落ちてしまった。
「つまらないのか?」
 テレビに、愛想笑いの芸人が映っている。『何言うてんねん!』緑色の文字で字幕が映る。
「あ」
 手元の紙を、鏡に映す。当然、鏡文字に見える。今までのやりとりはすべて、鏡越しだった。絵美は、鏡越しで横山や宇野気の書いた文字を見ていた。鏡の中、つまり絵美と同じ世界にいる二人を見ていたわけではない。
「ごめん」
 横山は部屋から、腰の高さくらいの本棚を持ってきて、鏡の前にすえつける。そして、その上にテレビを置いた。この位置なら、鏡の中からでも直にこの画面を見ることができるはずだ。
 絵美が急に立ち上がり、そしてしきりにうなずいた。テレビのスイッチをつけると、絵美は拍手をした。
 鏡の向こうは鏡像の世界。当然、その中にあるテレビも鏡文字を映す。鏡文字ではない、普通の文字を見たかったら、こうやって直接こちらの世界にあるテレビを見ればいい。
 実際、絵美は五十音表で『ありがとう』と示し、笑ってくれた。
 ひとしごとやり終えた気持ちで、横山は文字を書いた。
『どういたしまして。久しぶりのテレビをゆっくり楽しんでください。チャンネルのリクエストがあれば、どうぞ』
 絵美は、満面の笑顔で七と示した。

「とまぁ、そんな感じで」
 大学の中庭に設置されたベンチに座り、マロンクリームパンをかじりながら横山は言った。
「当然やけど、全部が鏡文字の世界に閉じこめられてるんやなぁ」
 右手と左手を交互に見ながら、宇野気はキラルアキラルと呪文のように唱えた。
「こっちの世界と光学異性体の関係にあるんやったら、めちゃくちゃやな。生理活性とかどうなってるんやろ」
「生理活性とかの問題でないだろ」横山は缶コーヒーを一口飲む。「そもそも、腹も減らないウンコもしない。傷も治らない世界なんだし」
 そういやそうか、と宇野気は両手を合わせた。
「ものを動かせへんのやったら、息もでけへんのとちゃうんかな」
 宇野気は、合わせた両手を鼻先に近づけ、ふぅと強く息を吐いた。
「呼吸運動はしてても、気体の出し入れはできてないんじゃないかな」わざとらしく空気を吸っては吐いてを繰り返す宇野気を横目に、横山はマロンクリームパンの包装紙を小さく畳んだ。
「あかん。過呼吸になりそうや」
 宇野気が立ち上がり、ゆっくり息を吐いた。横山も立ち上がり、ベンチのそばにあるゴミ箱に包装紙を捨て、缶コーヒーも飲み干した。
「テレビ以外に、絵美さんの娯楽になるようなものってないかな」
「あとは本とかやろけど、全部鏡文字になることを考えれば、ちょっと無理があるな」
「そもそも、本を持つこともページをめくることもできないしな」
「ま、最大の娯楽は」横山の後頭部を宇野気がはたく。「お前やろな」
「なんで」
「外界とのコミュニケーションがとれるのはお前だけやん」
「コミュニケーションか」ふむ、と横山は少し考える。「おい、お前の実験生物のカワヨシノボリを分けてくれ」
「家で飼うんか?」
「絵美さんの前に、水槽を設置する」
 なるほど、と宇野気はうなずいた。「俺たちに見えるってことは、ほかの動物にも見える可能性があるってことやもんな」
「そう。だからお前のカワヨシノボリをよこせ」
「いや、そんなマニアックなもんより、ふつうに金魚とかの方がええんちゃうか」
「そんなもんかな」
 そらそうやと言って、宇野気は理学部棟に向かって歩きだした。「水槽とかエアポンプとか、古くて実験には使えん奴があるから、それを貸したるわ」
「そりゃ助かりまんねん」
 変な関西弁使うなと言って、宇野気が横山の頭を殴った。

 夕方、自分の実験がひと段落した横山は、研究室の共用自転車をこいで近所のホームセンターに向かった。
 ペット用品の一角に、水槽が壁一面に並べられている。金魚のコーナーをながめてみるが、どれもこれも女うけするようには見えない。
 らんちゅう、でめきん、ししがしら。これのどこが可愛いんだ。
 水槽を見つめていると、金魚もこっちに興味があるのか、近づいて来る。口をぱくぱくさせて鰭をふる姿は、何かを伝えたいように見える。まるで、絵美のようだ。水槽に入れられた金魚と、鏡に閉じこめられた絵美。
「こんなことしてていいのかね」
 意味のないことをしているようで、気が滅入りそうになる。ふと横を見ると、店員がほかの水槽の魚に餌を与えていた。
 金魚には食べる楽しみがあるのに、絵美にはそれもない。鏡に触れたときの、ひんやりとした冷たさ。絵美の、ぼんやりとした生気のない顔と、笑顔が交互に浮かぶ。せめて少しでも、気がまぎれれてくれれば。
 ため息をつきながら、別の水槽をのぞく。
 こめっと、りゅうきん、わきん。
 金魚すくいでよく見る、和金。小柄で可愛い気がする。水槽のガラスに指を近づけると、和金は交互に寄って来た。餌に見えるのか、ガラス越しにつんつん突いてくる。
「すみません」
 横山は、店員に声をかけた。

「ただいま」
 横山は水槽一式と金魚を手に、洗面所に入った。じっとテレビを見ていた絵美が、横山に視線を移す。昨日の暗さからは考えられないほど、絵美の表情は変わっていた。こうしてみると、ふつうの女の子と変わらない。
 視線が、そのまま水槽に移る。絵美は鏡の中の横山を、ぽんぽんと叩いた。何これ? と言っているかのようだ。
 横山は両手で、待ってくれとジェスチャーする。そして、幅三十センチほどの水槽を洗面台に置いた。
 絵美が興味深そうに水槽に顔を近づける。横山は水槽に玉砂利を敷き、オオカナダモを植える。その上からゆっくりと水を注ぎ、カルキ抜きの薬を入れた。エアポンプとLEDライトを設置し、最後に和金を五匹泳がせた。
 絵美は、両腕で大きな丸をつくり、こくこくとうなずいた。喜んでくれているようだ。
 鏡に映る絵美の姿を金魚も認識しているようで、鏡越しに近づけた絵美の指をつついてくる。それが嬉しいのか、飽きることなく金魚を眺めていた。
「気に入ってくれたようで、よかった」
 金魚と遊ぶ絵美の姿を見ていると、じわりと胸のあたりに締めつけられる。可哀想で、なんとかしてやりたいという感覚。
 情が移るで。
 宇野気の声が聞こえた気がする。鏡の表面を、ゆっくりとなでる。絵美はこの鏡に顔面を叩きつけられたと言っていた。
「俺が、もし」
 鏡におでこをつける。冷たさが体に流れこみ、背筋がぞわりとした。

(了)




大梅健太郎プロフィール