「風よりも速いシカ」高橋桐矢


(PDFバージョン:kazeyorimo_takahasikiriya
 年老いたシカの耳に、トンボが止まりました。
 耳を動かすと、トンボは、つうと飛んでいきました。
 のんびりとした森の午後です。
 年老いたシカは、立ったまま、うつらうつらとしています。このごろは、一日の大半をそうしてすごしています。
「おじいさん。こんにちは」
 声に目を開けると、目の前に、若いシカが立っていました。体は一人前の大きさですが、まだ角は短く、やっと二年目の枝が生えてきたばかりです。鼻先はつやつやとしたピンク色で、体中に若さがみなぎっています。
 若シカは礼儀正しく前足をそろえてたずねました。
「風より速いシカ、を知りませんか?」
 年老いたシカは、首をひねりました。
「さあ……なあ……」
 のんびりと間のびした答えに、若シカの顔に落胆がうかびました。何も隠さないのが若さです。ちゃんと挨拶できただけマシというものです。
 年老いたシカは、風上に鼻を向けました。年をとって鼻先がかわいてきて、匂いや風がわかりにくくなったのです。
 春の森にふく風は、ただやわらかくうららかなばかりで、何も教えてはくれませんでした。
「それだけでは分からんなあ。どんなシカなんだね」
「え? ああ。はい」
 若シカがふりむきました。せっかちにも、歩き出そうとしていたのです。
「その名で分かるかと思ったんですけど。そうですね。すごく速いんです。ええと」
 若シカがうつむいて言葉を探して考えているのを、年老いたシカはじっと待っていました。
 若シカが顔を上げました。
「どんなすばしこいキツネもしつこいオオカミも、風より速いシカには追いつけないんです」
 若シカはとくいげです。年老いたシカは言葉を選んで答えました。
「速いシカならそうだろうな」
 若シカは、あちこち見回しました。どうも落ち着きがありません。
「あとはええと」若シカの顔がぱっとかがやきました。
「あちこちの森で、いろんなシカと競争して、一度も負けたことがないんです」
 そんな話ならどこかで聞いたことがあるような気もします。自分の速さに自信があると、力だめしをしてみたくなるものなのでしょう。
「ほう……あとは?」
「そうだ。ハヤブサと競争して、勝ったんです!」
 年老いたシカは目を細めました。それもどこかで聞いた話です。いえ、どこかで聞いたというよりは……。
 若シカが、ぴょんと跳ねました。
「ああ! 一番有名な話を忘れていました! 大きな山火事があったとき、風より速いシカは、森中に火事のことを知らせてまわったんです! 知ってると思いますけど山火事っていうやつは、風に乗ってとてつもない速さでひろがりますからね。風より速いシカがいなかったら、たくさんの動物が燃えてしまっていたでしょう」
 年老いたシカは、もぐもぐと口を動かしました。どう答えようか迷っていたのもあるし、何本か歯が抜けてしまってから、歯の間から息がもれて、早く話せないのです。
「うむ……」
 どうやら、若シカが話しているのは、年老いたシカの若い頃のことのようなのです。
 そういえば、若い頃、調子に乗って「おれは風より速い」と言ったことがあったような気もします。それがいつのまにか、どこにどう伝わったか、「風より速いシカ」になったのでしょうか。
 若シカは、目をかがやかせて話しています。
「風より速いシカは、九十九頭のシカと競争して勝ったんです。でも百頭目にも勝つとはかぎらないでしょう? そうなんです。ぼくは、風より速いシカと競争したいんです。だから、森をまわって、風より速いシカをさがしているんです」
「おまえさんも速いのかね」
 年老いたシカは聞いてみました。若シカは、ちらっとくやしそうな表情を浮かべて、足元の土をかきました。
「生まれた森では一番速かったんです。でもみんな、風より速いシカはもっと速いって言うんです。だから」
 ふいに声に力がこもりました。
「どうしても風より速いシカと競争したいんです。そしたらぼくはもっと速いってことになるでしょう」
「お若いの。その風より速いシカの話を、あんたはいつ聞いたんだね」
 若シカは、胸をそらしました。
「小さい頃から聞いてました! 角に二年目の枝が生えたら勝負しにいくんだって決めてたんです」
 年老いたシカは、自分の体を見おろしました。
 ぱさぱさとかわいてところどころハゲた毛並み。たるんで弱々しい筋肉。かすむ目に、聞こえにくくなった耳、ぬけた歯。ぼんやりとした頭。
 かつて、風より速かったシカは、今はもう、そよ風にも負けるくらい、年をとってしまいました。
 年老いたシカは、若シカをつくづくとながめました。
 黄金色の毛並みに、しなやかで力強い筋肉、かがやく瞳。ピンク色の鼻先。見るからに若さに満ちあふれています。
 若いから、今日はきのうより速く、明日は今日より速く走れるようになると信じられるのです。
 きのう出来たことが今日できなくなり、明日はもっと……。未来がこぼれるように失われていく日がくるなどと、考えたこともないのでしょう。
 だから、昔、風より速かったシカが、年月を経て年老いて、とっくに走れなくなっているかもなどと、思いもしないのです。
 本当のことをつげる必要はないと思われました。
 年老いたシカは、ゆっくりと首をふりました。
「さあ、知らんな。わしは聞いたことがない」
「そうですか。では別な森に探しに行ってみます。きっと風よりも速く、あちこちの森をとびまわっているのでしょうね。ぼくも急がなくちゃ追いつきませんね。おじいさん、ありがとうございました」
「ああ」
 年老いたシカは、若々しく立派なシカが、風のように速く走っている姿を思い浮かべました。
 それはかつての自分です。
 でも……もしかしたら。
 今でもどこかの森で、風よりも速いシカが野山をかけている、そんな気がしました。
「お若いの」
 年老いたシカは、去ろうとする若シカを呼び止めました。若シカがふりむきました。
「風より速いシカに会ったら、……どうかよろしくつたえておいておくれ」
 若シカは不思議そうに首をかしげました。年老いたシカは、微笑んでつけくわえました。
「いつまでも、いつまでも元気で、と」
 若シカは「わかりました」とうなずきました。

終わり




高橋桐矢プロフィール


高橋桐矢既刊
『あたしたちのサバイバル教室』