「螺旋の恋」倉数茂

(PDFバージョン:rasennnokoi_kurakazusigeru
 少年は劣等生だった。決して不真面目でも愚鈍でもなかったのに、教室で聞く教師の言葉は、耳から流れ込む端から忘却の井戸に吸い込まれてしまって、脳髄にかすかな引っかき傷も残すことができなかった。黒板に書かれた図形は、未知の海域の航図にしか見えなかったし、プリントの問題は、石板に刻まれた古代文字のように意味不明だった。少年は教科書の余白を、空想上の獣たちで埋め尽くした。グリフォンが放物線を齧り、火蜥蜴がアルファベットのあいだにすべり入った。漢字の森で遊んでいた白澤(はくたく)は、偏や旁(つくり)の向うから九つの眼でこちらを睨んでいた。
 注意力に障害があるようです。それと、極度の内向性。調査結果を記した書類を見ながら医者はそう言った。目の前のものごとに集中できず、いつでもぼんやり空想世界をさまよっているんですな。もっともお子さんの年頃ではきわめて珍しいというほどでもない。まあ、しばらく様子を見てみましょう。
 自分が頭蓋の内側に棲まっていることを見抜かれて少年は動揺した。けれど医者にもわからなかったのは、そこがどれほど豊饒かということだった。そこには砂漠と氷山と沈んだ海賊船とがあって、それと比べたら、頭蓋の外の日常など、食卓に残された鳥の骨のように貧相でみすぼらしい存在に過ぎなかった。もっとも彼は努力もした。両親に叱られ、教師に注意されて、今日こそなんとか現実のかけらにしがみついていようと頑張っても、十五分もしないうちに空想の海に漂いだしているのだった。
 少年には友だちがいなかった。もともと口数が多い方ではなかったし、共通の話題もほとんど持たなかった。変人過ぎると目されていたので、いじめの対象にすらならなかった。クラスメイトは、片隅で静かに本を読んでいる彼を小石のように黙殺した。いや、もしかしたら、本当にその存在に気づかなかったのかもしれない。壁の染みや床板の罅(ひび)のように、意識することさえ忘れていたのかもしれない。少年も強いて友人を求めようとはしなかった。けれど、彼は孤独だった。当然だろう。彼はたった一人きりで夢想の王国に棲んでいたのだから。
 あるとき、彼は一本の塔を想像した。大理石で築かれた白亜の塔。白鳥のように優雅に空へと頸をのばし、頂には銀の鐘が輝いている。
 そこから都市の生成がはじまった。一本、また一本と新たな塔が彼の頭脳から生みだされ、その根もとにはオレンジ色のスレート屋根を葺いた館や宮殿が無から彫り出された。切石を緻密に積んだ城壁、華麗なアーチと凸凹の狭間。跳ね橋のついた門からは、石畳の坂道が曲線を描きながら港までのびていた。そして濃紺の海。壮麗な都だった。海上から見るならば、千もの輝く剣がまっすぐ天空を指差しているように見えるに違いない。
 もちろん細部もおろそかにはしなかった。目覚めているあいだは、食事中でも、入浴中でも、都市のディテールをゆるぎなく具体化する作業を継続した。少年は、市庁舎の前に広がる正五角形の広場の敷石のかたちを思い描き、その縁から生え出したハコベの葉が風になびいて揺れるさまを想像した。隅の町屋の革細工師の工房に入り込み、机の上に置き去りにされた大きな鉄鋏が夕陽に鈍く輝く様子を幻視した。富豪の邸宅の銀器を吟味し、痛んで市場の側溝に棄てられた蕪の悪臭に顔をしかめ、狭い路地裏の、角の磨り減った石段を登ったり降りたりした。そのうち、眠りが都市への通路となった。夢のなかではよりのびのびと自分の街を見て回ることができた。彼は肉体を持たない霊のようになり、自在に空へ舞い上がったり、急降下して窓から建物の内部をのぞきこんだりを愉しんだ。そこでは、昼間の激しく辛抱強い集中によって、事物のひとつひとつをかたちあるものにしていくプロセスは必要なく、自家受粉する植物のように、街がおのずと成長し、複雑さを極めていくように思われた。
 けれど、ここには誰もいない。
 そのことに気づいたのは、長い夢から覚めた直後だった。その夢のなかでは、海からのつよい汐風が塔の切石にぶつかって鋭い風きり音を立てていたほかは、物音らしい物音がなく、早朝の荷を運んできた馬車の車輪が高くきしむ音も、窓の鎧戸が次々に開け放たれていく音もしなかった。
 あそこには誰もいない。彼は痛烈な寂しさに捉えられた。もう何千回もあの街を訪れていたが、一度も人影を見たことはなかった。これほどまでに鮮やかな実在感を備えているにもかかわらず、あの都市は住人を欠落させていた。彼はうちのめされ、呻き声をあげてベッドに沈み込んだ。そして再び瞼をとじると、都市の中央に立つもっとも高い塔のなかの一人の少女を思い描いた。
 少女は、窓際に立って、眠りについている灰色の街並みを眺めていた。海はぼやけた紫の霧で、湿った風がそこから吹きつけてきた。やがて水平線から一条の光がさし、都市の壁と少女の頬を淡い薔薇色に染め上げた。彼女は窓のアラバスターの手すりをにぎりしめた。生まれて初めて目にする夜明けだった。
 少女もまた、目覚めたばかりだった。彼女はもちろん――少年にははっきりわかった――この街の王女だった。彼女は自分がこの都市で生まれたこと、この街と存在においてひとつであることを知りながら、この街についてはまったく未知だった。なぜなら、彼女は創造されたばかりで、まだ赤ん坊のように無垢だったからだ。彼女は曙光に照らされた街並みを見て、その朝露に濡れた蕾の美しさに我を忘れた。最初は青ざめたシルエットに過ぎなかった無数の塔も、陽が昇るにつれ急速に立体感と重さを備えてきた。不意に鋭い羽撃(はばた)きの音がして、純白の影がそのあいだを飛んで過ぎた。海鳥の群れだった。少女はじっとしていられなくなり、寝巻の裾をひるがえして、部屋から飛び出した。
 うっかり下を覗き込むと、目眩がしてしまいそうな細い階段を駆け下りた。途中で、裸足であったことに気がついて、灯りを点けはなしてあった小部屋から柔らかな山羊革の靴を失敬した。一階ごとに小さな踊り場があり、壁龕(アルコーヴ)を広げた程度の小部屋がひとつ付属しているのだった。下るにつれて階段の幅が広がり、手すりは優雅な装飾をほどこしたものへとかわったが、少女はそれに気づくことすらなく、ただひたすら下を目指して先を急いだ。
 そして、不意に階段は終わった。そこは城の中央の大広間で、奥まった側には玉座が、高い壁の上方にはステンドグラスがあった。明るんだ空からの陽射しが、薄ぼんやりとした筋となって斜めに宙をよぎり、微細な埃が色づきながら舞っていた。戸口に立って重い木の扉を押し開けると、ギッというかすかな軋みとともに、塞き止めてあった日の光が洩れてきた。思わず身内がぞくぞくした。初めて彼女は世界に触れたのだ。
 それから連日のように、彼女は街のあちこちをさまよった。数十の尖塔を備えた王宮でさえ小迷宮だったのだから、都市の全体はすでに小規模な宇宙だった。前日訪れた小路さえ、再訪してみると見逃していた横丁や戸口が口を開いていた。彼女は、指先で触れると金属の小鳥たちがチチチと囀りだす時計職人の工房や、百もの女工が働いているに違いない絨毯工場、優雅に踊っている陶製の人形が並んだ商店の飾り棚を見てまわった。腹が減ると厨房に入り込み、竈にかけられた大鍋からスープを掬った。
 だがどこにも人間はいなかった。どうしてだろう。食卓にはナイフや木の匙が投げ出され、この器のなかのスープはまだ白い湯気をたてているというのに。
 誰かと会いたいという願いは、街路で遭遇した一匹の縞猫以外は叶えられなかった。
 少女は、港まで降りていっては、日がな一日海を眺めるようになった。茶色い瞳のなかに虫を封じたような傷があったのでコハクと名づけられた猫もお供をした。目の前では、帆をたたんだ商船が、荷を積んだままゆったり波に揺られていた。海は単調さのなかに無限の変化を秘めていた。その潮騒に耳を傾けながら、王宮の図書館から抜き出してきた本を膝にのせ、気まぐれに頁を繰ってみることもあった。そこに記された文字以上に、彩色された動物たちの挿絵が少女の無聊を慰めた。
 少女はいろいろなことを空想しては、傍らのコハクに話して聞かせた。たとえばこの船に乗って海の向うへ旅をするというのはどう? 緑滴る島々を訪れ、極彩色の鸚鵡や椰子油を商うの。あなたにはいろんな珍しいお魚をあげる。けれども、自分の胸がそれこそ風を孕んだ帆のように膨らむのは、長い旅路を終え、この街に帰ってきたときだと彼女にはわかっていた。自分が舳先に立って目を凝らしているさまがはっきりと見えた。最初水平線に浮かんだ小さな泡に過ぎなかったものが白い真珠になり、それがついに千の塔を持つ都市へとかわるとき、私の胸は誇らしさに高鳴るだろう。これが私の街、私の家なのだと。突堤に腰掛けたままふりかえり、夕陽を浴びた壮麗な街の姿を眺めながらそう思った。けれど、それは孤独な都市だった。彼女同様、ひとりぼっちだった。今ものんびり寝そべったまま、なめらかな毛皮を波打たせているこの小さな獣を除いては。
 誰か、この都市の美しさを語り合える友がほしかった。真夜中の噴水の水の冷たさを、夏の午後の中庭(パティオ)の鮮烈な沈黙を、石造りの稜線で切り取られた空の碧さを、一緒に讃えあう人間が必要だった。だから少女は一人の少年を夢想した。彼女の空想の中で少年はやや俯いて座り、手元に開いたノートに何かを描き込んでいた。それはこの街のもっとも古い館の軒先に刻まれたガーゴイルであり、少年のペン先からその古拙な顰(しか)め面が生き生きと浮かび出た。そして少女は少しずつ少年の周りの世界を創造していった。彼が今腰かけているのは、装飾のない椅子と机がならんだ殺風景な部屋だった。その部屋は、灰色をした無愛想な建物の一部であり、さらにその周りでは、甲虫めいた金属製の乗り物が列をなして道を走っていた。やがて少年は立ち上がり、ノートを鞄にしまうとその部屋を出ていった。
 こうして少女は、粘土を捏ね上げるように少年をうみだしていく。少年は少女の一部であり、少女の創造物だった。そしていずれは少年も、また別の少女の姿を思い描くのだろう。以下、同様につづく。だけど、どれほど焦がれあっても、二人は決して出会うことはない。まるで追いかけあう二本の螺旋のように、少年と少女は永遠に虚空を駆けつづける。



倉数茂プロフィール


倉数茂既刊
『魔術師たちの秋』