「ことわざの真偽はいかに」飯野文彦

(PDFバージョン:kotowazano_iinofumihiko
 その日、私は前後不覚に酔っていた。なぜあれほど飲んだのかは、この際、重要ではない。ただ一切の記憶をなくすほど酔ったということだけだ。
 それでも帰宅できるのは、どういうことか。酔っぱらいには渡り鳥のような帰巣本能があるようだ。とはいえ、渡り鳥ほどしっかりしたものではなく、個人差がある。
 私の友人に、酔えば帰宅どころか所かまわず寝入ってしまう者もいる。必ず反対方向の電車に乗る者もいる。行き当たりばったりの家に上がり込んで寝こんでしまい、幾度となく警察の厄介になっている者もいる。
 彼もしくは彼女たちと比べれば、私の帰巣本能は極めて優秀だった。若い頃からどんなに泥酔していても、朝目が覚めれば必ず自分の部屋にもどり、自分の布団の中にいた。そんな風だから、絶対に自信を持っていたのである。
 ところが、その日、私は気がついたら布団の中にいた。それがどこなのか判断する余裕はなかった。何しろ、女性と一緒だったからである。
 断っておくが四十路を過ぎて独身生活を送っているのは、単に仕事が忙しくて、素敵な相手を見つけるだけのチャンスに恵まれなかっただけである。それに加えて、正直に告白するなら、同年代の野郎連中が狼のごとく女性を追い回していた間、私は酒場に足を運びすぎていたこともある。
 さらに若い頃は、貧乏だったこともあるかもしれない。しかし四十路を境に、仕事は順調に進んでいる。結婚資金には困らない。結婚年齢が遅くなった現代、その気になったら相手には不自由しない自信もある。現に飲み屋にいくと、ホステスが色目を使い、本気でアタックしてくることも度々、とまではいかないけれど、何度となくあった。
 しかし正直に言うなら、今さら家庭を持つのも面倒なのだ。好きな仕事と酒を楽しみながら、自由気ままに生きていきたい。というのがいつ変わるかもしれないけれど、少なくとも今現在の偽らざる本音である。あちらの方も、若いときのように自家発電ではなく、その程度の金銭的余裕もあるのだから……。
 と、話を戻すが、ふと酔いから覚めた私は、布団の中で、女性とまさしく一戦交えている最中だったのである。
 過去、こういうこともまったくなかったわけではない。しかしそれでも、ここに至るまでの記憶が多少なりとも残っていたものだ。たとえばソープにいくのなら、タクシー運転手か受付けの男との会話の断片を覚えている。口説いた女をホテルに連れ込んだのならば、口説いた過程なり、ホテルの選択なり、また金銭的な交渉なり覚えていたものである。
 とはいえ、それらのとき、決して帰宅しなかった。私は自分の部屋には、女性を連れ込まない主義だ。主義だなどと大げさなものではないけれど、要するに連れ込みたくなるほどの女性と知り合っていない上に、前記したように自由を愛する性格が、自分の城を守らせているのだろう。
 ああ、そんなことは良いのだ。とにかく私はその日、我を忘れて酔って、どこかで女を口説いたり、その手の店にくりだすこともなく帰宅したはずなのである。それなのに私は、夢中で相手の身体をまさぐっていたのだ。
 なぜ、と疑問がわいたのは一瞬だった。すぐに原因がわかった。私が相手をしていたのは、絶世の美女だったのである。どこで知り合ったのか、どこのどんな女性なのか、皆目わからない。だが、そんなことはどうでも良い。これほどまでに美しい人と、こういう経験ができる幸せに浸り切っていた。
 実際、それはそれは素晴らしい経験だった。絶世の美女であるうえに、身体の相性も私とぴったりなのである。さらに彼女も私につくしてくれた。それは実にツボを心得たもので、私は酒以上に溺れてしまった。そうして彼女とともに絶頂を迎え、至福のままふたたび意識を失ってしまった。そうして次に気がついたとき、私はいつものように自分の布団の中にいた。
 彼女は――。
 跳ね起きるなり、頭をぶん殴られたような頭痛に襲われた。けれども私はひるまなかった。そんなのはいつものことだ。私は夢中になって、布団をまくり上げ、シーツを、さらに敷布団までまくり上げるに至って、何をしているのだ、落したお金を探しているんじゃあるまいし、女性がこんなところに隠れられるわけがないと気がつく始末だった。
 愕然となって、布団に仰向けになった。さらに自分の完璧なまでの帰巣本能を憎んだ。あれだけ素晴らしい思いをしたのだ。そのまま居すわってしまえば良かったのに……。
 物音に私が目を覚ましたと気づいたのだろう。扉がノックされ、
「旦那様。お食事は?」
 と嗄れた声がした。家政婦として雇っている老婆である。
「いらない。もう少し寝る」
 せっかくの休日だったにもかかわらず、その日一日、私は布団の中で彼女を思い出しながら喘ぎ、もがきつづけたのだった。
 翌日から、捜索を開始した。あの日、会社が終わってからくりだした店を、覚えている限り回った。店の者に訊ねもしたけれど、誰も心当たりがないという。次の日も会社が終わるなり、こりもせず同じ店にくりだしては探しつづけた。
 だがしかし、どうしても見つからない。あたかもあの女性の存在自体が夢幻であったかのようにすら思えてくる始末である。いや本当に夢だったのではないか。そう考えれば納得がいく。つまりこの世には存在しない理想の女性を夢見て私は……。
 いや違う、断じて夢ではない。記憶だけではなく、身体がそう私に告げている。
 そう自分に言い聞かせて、探しつづけたのであるが、次の週末になっても、彼女を見つけるどころか、手掛かりすらつかめないままだった。
「まだ見つかりませんか?」
 連日、夕方早々くりだす羽目になった焼鳥屋の親父に言われても、苦笑を返す余裕も残っていなかった。しょんぼりと肩を落としていつもの席に座り、口をとがらせてビールを飲む姿は、いい歳をしてまるっきり子どもだと自分でもわかる。だが、どうしょうもない。
 あまりに私の姿が痛ましかったのだろう。他に客がいなかったにもかかわらず、親父もそれ以上声をかけず、焼き鳥の串刺しをしていた。重苦しい雰囲気を振り払うように扉が開くと、親父はさっと顔を上げ、弾けるような声で、いらっしゃいと叫んだ。
「あれ、週末なのにがらがらじゃない。この店も危ないんじゃないの?」
 聞き覚えのある声だったが、そちらを見る気にもならなかった。だが、尖らせた唇にコップを運んでいると、その声が、
「井之さんじゃないっすか」
 と私の名を呼んだ。
 ずるずると重しを引きずるような思いで、やっとのこと顔をそちらに向ける。この店の常連で出版社に勤めている佐久間という青年だった。
「どうしたんですか。辛気臭い顔をして」
 佐久間は軽いノリで言いながら、私に近づいてきた。悪意がないのはわかっている。それでいて、私はムッと顔をしかめ、ぷいと顔を背けてしまった。
「あれ、どうしたんっすか……」
「佐久間くん、だめだめ」
 店の親父が口をはさんだ。ひそひそ声が聴こえる。私のことを佐久間に話しているのだ。仕方がないとも申し訳ないとも思うのだけれど、いじけきった私はただ唇を尖らせて、ズズッ、ズズズッと音を立ててビールを啜るばかりだった。
「そんなことがあったんすか。いやあ、昨日校了が終わったばかりで、ご無沙汰してたんだけど……。井之さん、隣、いいっすか?」
 私が聞き流すと、佐久間は一つ間を置いて腰を下ろした。しばらくは私などいないかのように、親父と会話していた。何を話していたのか、まったく耳に入ってこなかった。
 身勝手なもので、こちらに非があるのはわかっているのに、いざ仲間外れにされると、よけい気分がささくれ立った。子どもと同じで、いいんだどうせぼくなんか……という心境である。さすがに居づらくなって、次の店に移ろうとビールを飲みほした。
 ところが御勘定と私が言う前に、佐久間が口を開いていた。
「付き合いますよ、井之さん」
「え?」
「この後も、その女性を探して回るんでしょ」
「まあ……」
「だったら、ぼくも付き合いますって」
「でも、今週毎日、徹底的に探し回ったんだけど、手掛かりすら見つからないんだ。今日だって同じ……」
「それは一人で探したからかもしれませんよ。いえ、人間誰しも思い込みってありますから、実は本当はまったく違った店に行っていたり、見当違いの場所を探していたりすることもあります」
「う、うん。でも……」
「だから赤の他人のぼくがいっしょに回って、チェックを入れますよ。そうすれば忘れていたことを思い出すかもしれませんからね」
「でも、迷惑なんじゃ……」
「とんでもありません。井之さんにはいつも奢ってもらってばかりで、いつかお礼ができたらって思ってたんですから」
「でも、本当に良いの?」
「ええ。明日は休みを取ったんで、その女性を見つかるまで、とことん付き合います」
 佐久間は力強く断言した。
 自分のことながら現金なものだ。それまで拗ねていたくせに、まさに百人力を得た気持ちになって、佐久間以上に興奮した面持ちで、
「そうか。つきあってくれるか。いやありがとうありがとう」
 と固い握手を交わしていたのである。
    ◇ ◇
 こうして私は佐久間を供に、夜の街へと出向いた。
「ぜんぶ奢りだ。何でも好きなものを頼んでくれ」
「それではお言葉に甘えて」
 佐久間も大いに飲んだ。だが同時に、熱心に聞き取り調査もしてくれた。
 さすが編集者というだけあって、素人の私のようにたどたどしい聞き方ではなく、端で聞いていても鋭い。そのかいあって、二軒目に訪れたパブのマスターが、
「そう言えば、あの晩、女性のお客様が一人できていましたっけ」
 とつぶやいたのである。
「その人だ。まちがいない。彼女の連絡先わかりますか?」
「佐久間くん、そんな……」
「何びびってんですか。マスター、どうか人助けだと思って」
 佐久間の執拗な懇願にマスターも折れた。幾人かの客に電話を入れて、その女性とコンタクトをとることに成功したのである。
「どうか、呼んでください。行き帰りのタクシー代はもちろん、飲み代も払いますから。ねえ、井之さん」
「あ、ああ……しかし……」
「何がこの期に及んで『しかし』ですか。マスターお願いします」
 こうして小一時間が過ぎたとき、その女性が店に足を運んできたのである。
 その間、私はどうしていいのかわからず、ただ飲んだ。そのくせ酔いが回るどころか、逆に醒めていくのである。ついにあの女性に会える。気恥ずかしさとも嬉しさとも自分でもわからない気持ちが入り交じって、じっとして居られず、酔わないくせにただただウイスキーの水割りを口に運んだ。ところが……。
 結論から言えば、別人だった。確かに美人だったし、この店で何度となく見かけたことも思い出したが、違うのだ。
「ごめん」
「いえ。とにかく飲みましょう。そのうちに何か思い出すかもしれません」
 佐久間の気づかいもあって、わざわざ足を挟んでくれた女性に失礼もなく、そこそこ盛り上がった。私はというと、それまで酔わなかった酒が一気に回り、途中からは自棄になって、カラオケをがなりたてていたところまでは覚えているのだが……。
 気がつくと、女性と抱き合っている。まずい、相手が違うのに、と一瞬しらふに戻り、すみませんでしたと起き上がろうとしたのだ。しかし私が抱いているのは、あの美女だったのである。
「ああ、また会えましたね。ずっと探してたんですよ。いったいあなたは……」
 美女の唇が私の口をふさいだ。ねっとりと舌が入り込んできただけで私は我を忘れた。そして前回同樣にとっぷりと彼女に酔いしれたのである。
 目を覚ました瞬間、私は飲みすぎの頭痛すら忘れて、起き上がっていた。ここはどこだ、彼女は――。
 ところがそこはまたしても我が家の、自分の寝室の布団の上だったのである。私はまたしても自分の帰巣本能を憎んだ。だが今回は前回と違って、佐久間がいる。あの店でカラオケを歌った後は覚えていないけれど、佐久間に聞けばわかる。そう思って携帯を取り出し、佐久間に電話を入れた。
「はい、佐久間です」
 その声は掠れ切っていたけれど、私は容赦なく訊ねる。
「昨日、最後に行った店にいた女性だよ」
「最後にって、あの店が最後ですよ」
「その店にいた女性が、そうだよ」
「だって井之さん、違うっていったじゃないですか」
「いや、しかし……でも……」
 私は、あの店が本当に最後だったのか、と念を押して訊ねた。
「そうですよ。井之さんへべれけになって、腰が抜けたみたいになって歌ってましたけど、しまいには寝こんじゃって……」
「それじゃ、君とあの店で別れた後、一人で別の店に行ったんだ」
「そんなわけありませんって。タクシーで井之さんの家まで送ったんですから」
「それじゃ、その後抜け出して……」
「いいえ無理ですって。お手伝いさんが起きてくれて、やっとのこと家に担ぎ入れてくれたんですから」
「そんな。待てよ、それじゃやっぱり、あの店に呼んだ彼女が……」
「それはちがいます」
「どうして断言できる」
「だって……」
 口ごもる佐久間の向こうから、女のあくびらしきものが聴こえ、私は事態を理解した。
 私は礼を言い、電話を切った。寝室を出るなり、台所に向かった。
「おはようございます」
 家政婦の老婆は、流しに向かって背中を向けたままつぶやいた。
「昨晩、タクシーで送られてきた後、私はどうした?」
「どうしたって……」
「どこへ出かけた?」
「出かけるも何も、もうすっかりご機嫌でしたから」
「それなら誰といっしょだったか、もしくは誰かを呼んだかしなかったか?」
「いいえ、まっすぐ寝室に……」
「そんなばかな」
 私は食卓に向かって座り、頭を抱えた。どういうことだ。やっぱりあれは夢だったというのか。いや違う。身体が覚えている。あれは現実だ。となると……。
「旦那様」
 老婆がつぶやいた。無視してやり過ごしたが、老婆はさらに、
「外国の諺に、こんなものがあると聞いたことがありますが……」
 と言いながら、一枚の紙切れを食卓の上に置いた。手にとると、老婆は逃げるように台所を後にしていった。
「何だよ、言いたいことがあったら、紙に書かずに直接言えばいいのに」
 一人つぶやきながら、紙片に書かれた文字を読んだ私は、瞬時に全身が凍りついていた。
 ああ、世の中には、夢で済ませたほうが幸せな事がある。私はそのまま寝室に閉じ籠もり、日がな一日うなされて過ごすこととなってしまった。ちなみに老婆が差し出した紙片に書かれていた外国の諺とは、次のようなものである。
 ――この世に醜女はいない。アルコールが足りないだけである。

(了)




飯野文彦プロフィール


飯野文彦既刊
『ゾンビアパート』