「現代SFを楽しむためのキーポイント:シンギュラリティ」岡和田晃

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 シンギュラリティ(特異点)は、本来、数学における関数の値が無限大になる点、物理学ではブラックホールの内部など通常の自然法則が成り立たない点を意味している。これが現代SFを理解するための重要なキーワードとなったのは、数学者にしてコンピュータ科学者のヴァーナー・ヴィンジによる著名な提言がきっかけだった。一九八三年の講演において、彼は、主として一九八〇年代前半のコンピュータ・テクノロジーの発展に伴うハードウェアの高度化を前提にしながら、人間を超えた知性が創造されることで、従来の人間観・社会観が揚棄され、新しい現実が支配的となる時点が訪れると宣告した。それが技術的特異点の到来であり、ヴィンジはその時期を二〇〇五年から二〇三〇年の間であろうと予測していた。いったんシンギュラリティが訪れれば、人間は動物としての自然な進化の過程を一足飛びに越えてしまい、幾何級数的な進化を遂げる。結果、その本性が完全に制御不可能なものとなってしまうだろう。超人的な知性を有し「覚醒」に至るコンピュータが開発されること、巨大なコンピュータ・ネットワークおよびそのユーザーが超人的な知性を持った一つの実体として「覚醒」すること、マン=マシン間のインターフェースが密接になった結果としてそのユーザーに超人的な知性が備わること、バイオテクノロジーの発展によって人間の生得的な知性が向上することなどを、ヴィンジはシンギュラリティの到来の原因とした。ヴィンジによれば、ナノテクノロジーを駆使したり、AIの知能のプロセスをコントロールしたりすれることが、来るべきシンギュラリティへの対策として示唆されている。思想家のレイ・カーツワイルは、『ポスト・ヒューマン誕生 コンピューターが人類の知性を超えるとき』(二〇〇五年)において、ヴィンジらの研究を明快に整理したうえで、「収穫加速の法則」という概念を提示した。コンピュータ製造業の指数関数的な発展と細密化のプロセスを扱った「ムーアの法則」をパラフレーズしたものであった。カーツワイルによれば、進化は閉鎖系ではなく、ある段階での進化が次の段階の進化を生むために利用される加速度的なものであり、進化のプロセスの効率が上昇することでより多くの資源が供給されるようになる。それによって潜在力が消費され尽くすと、大規模なパラダイム・シフトが生じるというのが「収穫加速の法則」の要諦である。
 SFにおいて、シンギュラリティの考え方を意図的に導入した代表的な人物は、やはり当のヴィンジだろう。彼が書いた『マイクロチップの魔術師』(一九八一年)は、頭脳とダイレクトに接続されたコンピュータ・ネットワークを描くシンギュラリティSFの代表作と言うことができる。一方、シンギュラリティSFの起源を辿っていけば、フレドリック・ブラウンの『回答』(一九五四年)に行き着く。ヴィンジの提言以前にも、それこそ十九世紀から、シンギュラリティに類した考え方を提示した科学者や思想家は連綿と存在してきたが、「覚醒」したコンピュータによって起こり得たもう一つの歴史の叙述という体裁をとったウィリアム・ギブスン&ブルース・スターリング『ディファレンス・エンジン』(一九九〇年)は、サイバーパンクの作家たちによるシンギュラリティへの回答と読むことができる。また、二十一世紀に入ってからは、チャールズ・ストロスの『シンギュラリティ・スカイ』(二〇〇五年)に代表されるイギリスの「ニュー・スペースオペラ」と呼ばれる作家たちが、シンギュラリティ後の世界を前提とした作品群を精力的に発表している。近年の日本SFにおいては、円城塔『Self-Reference Engine』(二〇〇七年)、伊藤計劃『From the Nothing, with Love.』(二〇〇八年)、山口優『シンギュラリティ・コンクエスト 女神の誓約』(二〇一〇年)、藤井太洋『コラボレーション』(二〇一三年)等が、シンギュラリティを主題的に扱った作品として注目に値するだろう。


【主要参考文献】ヴァーナー・ヴィンジ「〈特異点〉とは何か?」「SFマガジン」二〇〇五年一二月号、早川書房。

[初出]『ポストヒューマニティーズ 伊藤計劃以後のSF』(二〇一三年、南雲堂)より改題。



岡和田晃プロフィール


岡和田晃既刊
『アイヌ民族否定論に抗する』