「晴れ、ところにより魚」青木 和

(PDFバージョン:haretokoroniyorisakana_aokikazu
「やだ。何これ」
 少し前から、なんだか生臭い匂いがして気になっていた。匂いの元を探して窓から顔を出し、何気なくベランダに目をやって、思わず声が出た。
 ベランダのあちこちに、薄汚れてくしゃくしゃに丸まったビニール袋が落ちていた。五枚か六枚はあるだろう。
 あたしはサンダルをつっかけてベランダに降りると、火ばさみで一枚つまみあげた。日が当たっているところはぱりぱりに乾いていたが、内側の方はまだ湿っていて、わずかな水がぺしょっと滴った。さっきから感じていた生臭さが急にきつくなる。
 匂いの元はこれだ。
 いつからこんなものが落ちてたんだろう、と思った。考えられるのは、昨日釣り道具を片づけていた夫だ。
 夫は釣りが趣味で、休みのたびに近くの釣り場へ出かけていた。以前はあたし一人を置いて出かけるのを躊躇していたらしいが、結婚して二年も経った今はもうそんな遠慮もなく、最近は一人で支度して一人で出かけて、一人で後片付けまでやっている。
 大事な道具らしいからあたしはずっとノータッチだったのだけど、ゴミを散らかしたままにされたんじゃたまらない。
 ──帰ってきたらひとこと言ってやらなきゃ。
 そう思いながら、あたしは次のビニール袋に火ばさみを伸ばした。
 二つ目のそれは、最初のものよりもずっと水を含んでいた。思っていたよりもずっと弾力があり、はじけるようにして火ばさみの先を滑り抜けた。
 ぺしゃっ、と小さな音をたてて下に落ち、その落ちた弾みでぷるぷると震えた。
 ──え?
 あたしは眉をひそめた。
 ──これ、ビニール袋じゃない。
 そうっと突っついてほぐしてみる。ゼラチンぽい質感の胴体の縁に、薄っぺらい鰭のようなものが生えていた。骨らしきものも透けて見える。
 何に似ているかと言えば、魚だった。大きさは二、三十センチくらい、形は鰯みたい、そして質感はシラウオみたい。
 そういえば、体に大量に水を含んでいるので、空気中に上げるとビニール袋そっくりに縮んでしまう魚がいるというのを、何かの本で読んだことがある。もちろん食卓に上るような魚じゃない。
 食べられない魚だからその辺に放り出しておいたのだとしたら、ビニール袋よりたちが悪い。
「帰ってきたらシメてやらなきゃ」
 あたしはそう決意すると、コンクリートに貼りついた魚を全部引っぺがし、ゴミ箱の中に突っ込んだ。
 だが、夜になって帰ってきた夫は魚なんか散らかした覚えはないと言い張ったのだ。
「昨日はボーズだったんだ。知ってるだろ」
 不愉快な記憶を呼び覚まされたと言わんばかりに、夫は不機嫌な声を出した。
「食べられない奴でも捨てるくらいなら見せびらかすさ」
「だったら何でマンションの十一階のベランダに魚が落ちてるのよ」
「そんなこと知るか。とにかくおれじゃない」
 そんな言い合いをして、結局結論は出ず、その日はちょっと険悪なムードで終わった。
 本人が何と主張しようとやっぱり夫が疑わしい。そう思っていたあたしだったけど、数日後、マンションのエントランスにある掲示板に、生ゴミを階下に落とさないようにという注意書きが貼り出されたのを見て、考えを改めた。いくらなんでも、そんなにあちこちに魚をばらまくほど夫は非常識な人ではないだろう。
 だけど、それならベランダの魚はどこから来たのだろう。謎は解けなかったが、魚の問題はそれきりになった。

 次に透明な魚に出会ったのは、梅雨の晴れ間の、とてもいいお天気の日曜日だった。雨の間に溜まった洗濯物を一山、洗い終わってベランダに出てくると、干してあったお布団の上にまたもやビニール袋に似た魚が散らばっていたのだ。
 今度はまったく乾燥していない、びしょびしょの状態。水気はお布団に染みこんで、黄ばんだシミを作っていた。
 今度こそ夫のせいでないのは確かだった。雨のせいで、夫は釣りに行っていない。
 せっかくふかふかになっていたお布団を汚されて、あたしはちょっと冷静でなくなったのかもしれない。ベランダの庇越しに上の階を睨みつけた──そんなことしたって上から見えるわけないんだけど──絶対に上の階の住人の仕業に違いないと思ったのだ。
 上の階の住人は、数か月前に越してきたばかりで、面識がなかった(入居の挨拶もなかったのだ)。小さい子供はいないと聞いていたけれど、そのくせ足音は妙にうるさくて、あたしはあまりいい感情を持っていなかったせいもある。
 ひとこと文句を言いにいってやると息巻くあたしを、夫が止めた。
「待てよ。本当に上の家のせいか?」
「だって、他に考えられる?」
「まあ落ち着けよ。鳥が落としていったってこともあるだろ。それに上の家のせいだとしても、話をするならちゃんと証拠を揃えてからでないとな」
 夫は妙に得意げな顔になって、部屋からカメラを持ってきた。
「まず被害状況の写真だろ。それから証拠物件の確保。火ばさみ持ってきて。こいつ保管するバケツか何かも」
 あたしにてきぱきと命令しながら、あちこち角度を変えてお布団の惨状を撮影する。濡れ衣を晴らすチャンスだと思ったからなのか、単に珍しい魚に興味を持ったのか、夫は急に張り切り始めた。
 やっぱりひそかに傷ついてたんだな、悪かったな、と思いながら部屋に引っ込んでバケツにゴミ袋を被せていると、ベランダの方で突然、
「うわっ」
 と夫が叫んだ。
「おい、来てみろ。見てみろ。わあ」
 ひどく慌てた声であたしを呼ぶ
 ベランダに出てみると、下の方から悲鳴とも歓声ともつかない大勢の声が湧き上がっているのが聞こえた。見下ろすと、道を歩いている人たちが揃って顔を上げ、空を指さしている。
「下じゃない、上、上」
 夫に促され、みんなが示す方向に目を向けると──。
 数え切れないほど大量の半透明な魚が、群れをなしてゆうゆうと空を泳いでいた。


〈本日の○○地方のお天気は晴れ、南の風やや強く、ところにより魚が降るでしょう。午後からの降魚確率は四十パーセントになる見込みです。お出かけには傘をお忘れなく……〉

 天気予報が終わって、テレビの画面はバラエティ番組に変わった。リビングのソファに転がって、てっきり寝ているとばかり思っていた夫が、おもむろにリモコンに手を伸ばす。
「魚が降るとテレビが映りにくくなるんだよなあ」
 あくび混じりの声でつまらなそうにぼやく。
「だよね。ここのところよく降るよね。困っちゃう」
 空を泳ぐ魚の群れが現れて、一年ほどが過ぎていた。今ではもう日常におなじみの光景になっている。
 六月のあの日、魚の群れが現れたのはうちの近所だけだったけれど、その後日本中、世界中で次々と空中を泳ぐ魚が目撃されるようになった。基本的に空の高いところを群れて泳いでいるだけなのだが、時々何かにぶつかりでもするのか、まとまって降ってくる。
 その降ってくる魚が実は少々厄介なのだが、それ以外は特に実害はなかった。
 もちろん、魚が現れた当初、世界中が大騒ぎになったのは記憶に新しいところ。テレビや新聞が魚に触れないでくださいとヒステリックにわめき立て、防護服みたいなのが売り出され、品切れが相次いでパニックになった。みんなできるだけ外出を控えるようになって、世界の終わりみたいな雰囲気が漂った。
 けれどそんな状態は長く続かなかった。
 なんだかんだ言ったって、生きていくためには人は家の外に出なくちゃならないし、いつも防護服を着て生活できるわけもない。魚にじかに触れた人も大勢いたけれど、その人たちに何も起こらないことが分かると、危機感は急速に薄れていった。
 アメリカの疾病予防管理センターとかいうところ──病気もののパニック映画なんかでよく聞く名前だ──が魚は人体に無害だと発表した、というニュースが流れると、人々の生活はあっという間に元に戻った。
 空の魚は、厳密には魚類ではなくて、魚みたいな形をした何からしいのだけど、正体はよく分かっていなかった。どこから来たのか、なぜいきなりこんなに大発生したのか──ある学者は、今までもどこかにひっそりいた新発見の生物だと言い、別の学者はあれは生物ではない、気象現象の一種だと言った。
 どこかの天文台の発表では、魚は地球のものではなく宇宙を漂う雲のような物質で、それが地球の軌道に入り込んできた可能性もあるという。
 いまだに結論は出ていないらしい。
 一頃は頻繁に特集番組が組まれたりしていたけれど、魚が日常の風景になるに従って話題性も新鮮みもなくなって、聞かなくなった。
 今では〝降魚確率〟なんて言葉が生まれるくらい、雨や雪と同じような扱いだ。
 あたしはベランダに出て、朝に干した洗濯物に触れた。まだどことなくひんやりして、乾ききっていないのが分かる。
 でも、魚が降るのなら出しっ放しにしておくわけにはいかない。こびりついてしまった魚の汚れは本当にガンコで、落とすのに苦労するのだ。
 残った湿り気は乾燥機で乾かすことにして、洗濯物を取り入れた。早くどこかのメーカーが、魚落とし専用の洗剤を出してくれないものかしら、と真剣に思う。
 洗濯物を両腕に抱えたままベランダから遠くを見ていると、ずうっと南の方の空にきらきらと光る雲のようなものが現れた。
「あ、来た──」
 きらきらは風に乗って、みるみるうちに近づいてくる。どうやら天気予報よりもだいぶ早く「降りだし」そうだ。
 遠くで見る魚は結構綺麗だ。ぼんやり眺めているうちに空一面があっという間に魚に覆われてしまった。そうなると、半透明とはいえさすがにあたりが不気味に薄暗くなる。
 部屋に戻ると、夫のいびきが響いていた。やはり寝てしまったらしい。
 つけっぱなしのテレビを消そうとして、ふと手が止まった。
 夫は眠る前に科学番組専門チャンネルに切り替えたらしい。画面にはバラエティのアイドルタレントに代わって、どこか外国の海岸が映し出されていた。
 抜けるような青空にエメラルドグリーンの海。南の方の島だろうか。波静かな入江では小魚が黒雲のように群れをなして泳いでいた。一糸乱れないその動きは、まるで一匹の巨大な生き物のように見える。
 テレビ画面の中の群れが、突然ばっくりと割れるように姿を変えた。一頭の鯨が群れを割って入り込んだのだ。鯨が巨大な口を開けると、大量の海水とともに何百という小魚が呑み込まれていく。
 ナレーションは、小魚は繁殖のために年に一度この海岸にやってくる習性があり、鯨はそれを追ってくるのだと解説している。
 何の脈絡もなく、今しがた窓の外で見た空飛ぶ魚の群れが、テレビの中の小魚に重なった。
 ──空飛ぶ魚は宇宙を漂う雲のような物質で、それが地球の軌道に入り込み……


 星空の一角が突然、巨大な影に遮られたように真っ暗になる現象が観測されたのは、それから間もなくのことだった。

〈了〉




青木和プロフィール


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