「秘め事」林譲治

(PDFバージョン:himegoto_hayasijyouji
 気がついたとき、下着姿で椅子に拘束されていた。手足が動かず、太い結束帯の感触がある。
 手は頭の後ろで組んだ形で結ばれている。ヨガをやっていなければ、肘の痛みがたまらなかっただろう。
 身体も結束帯で固定され自分がどんな状況なのか、頭を動かしても見えない。
 それでも上から順番に身体を動かしてみて、拘束具合を確かめる。血液の流れを止めるほどではないが、拘束はほぼ完璧と言っていい。
 結束帯は工事現場で鉄筋を束ねるのに使うものだろう。手足もこれで拘束されているなら、人力で解くのは不可能だ。
 縛り方といい、使う道具といい、これは慣れた人間の仕事だ。激情に任せての行動ではなく、そこには某かの計算がある。
 直前の記憶はない。だからまず自分の意識を確認する。名前は厄神亜貴子、浪速大学理工学部教授、三五歳。とりあえず自分が何者かはわかるようだ。
 そして冷静になれと自分に言い聞かせる。相手はこちらが恐怖に陥り、感情的になることを期待している。でなければ、こんな面倒なことはしない。
 だから相手に負けないためには、冷静になることだ。私の悲鳴を聞きたい相手には申し訳ないが、私は静かに事実関係を確認していた。
 これは闘争であり、それはすでに始まっている。
 まず駅を出たとき、近くの工事現場で急に意識を失ったのは、なんとなく記憶にある。たぶん薬物で眠らされたのだと思う。
 工事現場には黒いワンボックスカーが停まっていた。工事車両と思っていたが、あれが犯人の車両だろうか。
 刑事ドラマなら人を眠らせる薬物と言えば、クロロフォルムが定番だが、小動物ならいざしらず、人間相手にあんな即効性はない。
 何か別の薬物を使ったのだろうが、つまり相手はこうしたことに然るべき経験があるのだろう。
 私が拉致されたのは、プライベートの仕事に関することだろう。表の仕事でこんなトラブルに遭遇するとは思えない。
 ただプライベートの仕事がらみとしても、拉致というのは大袈裟すぎる。私を下着一枚にしたからには、欲しい物は手に入れたのではないか? それとも目的は別なのか?
 私はアプローチを変えることにした。ここはどこなのか? 部屋は、雰囲気から二〇畳ほどの大きさと思われた。
 床はコンクリートの剥き出しで、壁も同様と思われるので、倉庫の類かもしれない。照明は私の真上にある小さなスポットライトだけ、他に照明はない。
 私から室内の様子は見えないが、部屋の奥からは私がよく見えるだろう。人の気配は確かにある。
 暗い部屋の隅がどうなっているかまではわからない。時々聞こえるエレベーターの音が少し上の階で停まり、この階より下に降りる音は聞こえない。
 おそらくここは地下室だろう。エレベーターの停止位置が一階のエントランスなら、ここは地下二階くらいのはずだ。
 プライベートの仕事がらみなら、ここは私の仕事場の比較的近くだと思う。
 相手が場数を踏んだチームなら、他人に目撃されるリスクは最少にするはずだ。一〇〇キロ、二〇〇キロと離れているとは考えにくい。半径五キロを出ることもないだろう。一キロ以内であることも十分考えられる。
 拉致の段取りを考えれば、眠らせ、車に連れ込み、このビルの地下駐車場に入って、倉庫に移動と言うのが、自然な流れだ。
 意志の楽観主義、気分の悲観主義という言葉があるが、私は状況を楽観していた。連中が私に理由はわからないが腹を立てているとしても、殺人のリスクを犯すほど馬鹿ではあるまい。
 仕事柄、衝動的に暴力を振るいたがる人間は随分見てきた。私を拉致した連中は、紳士とは言わないまでも、すべての行動の損得の計算が伺える。
 もっともプライベートの仕事は怨みを買っても不思議はないし、拉致の実行犯が打算的でもクライアントは怨恨で動いていないとも限らない。ともかく情報が足りない。
 相手からこちらは見えるはずだから、薄目をあけて可能な範囲で周囲を観察する。気がついたときに目を開いて、身体も動かしたから、私が気がついたことはわかりそうだが、周囲からは何の動きもない。
 かすかに部屋の隅で、ぼんやりとした灯りが二つほど見える。光のおかげで人らしい輪郭も。
 見張りらしい二人は、スマホに夢中で肝心の仕事を忘れている。講義中に見かけるDQN学生のようだ。
 ただ復讐なり怨みなら、私を放置するとは思えない。いまの彼らの関心は私よりスマホにある。
 やがてエレベーターの音がした。上で動き出し、この階で停まる。気がついてからエレベーターがこの階で停まったのは初めてだ。この二人のボスがやってくるのか。
 ドアが開き、部屋の一角が瞬間的に明るくなる。私の正面に長いテーブルが二つにパイプ椅子があり、テーブルの上にはペットボトルとカップ麺がきちんと並んでいるのが見えた。
「ごqrうさます!」
 聞こえたのは二人の声だけだが、身体を折り曲げて頭を下げているのは、声の高さでわかる。DQNだけに声だけは無意味に大きい。
 最初、「ごqrうさます」の意味がわからなかった。一瞬だが、外国人に拉致されたのかとさえ思った。
 違っていた。見張りの、滑舌が悪くて聞き取られなかったのだ。「ごqrうさます」とは「ごくろうさまです」のことだった。
 普通はこういう場合は、「お疲れ様」ではないかと思うが、挨拶できるだけDQNとしては上出来なのか、ボスもそれを訂正する様子はない。
 入ってきたボスは、何か小声で尋ねる。何を言っているかは聞き取るのは難しいが、言葉の端々の発音は、この二人よりもはるかにまともな日本語と思われた。
 「なんむせん」とDQNの一人が返答したが、たぶんこれは「なにもありません」と言っているのだろう。それからコンビニ袋を机の上に置く音がして、DQNたちは「ありすと」と唱えてから、袋の中身を取り出す。
 滑舌が悪いので「ありすと」と聞こえるが、たぶん彼らの中では「ありがとうございます」とでも言っているのだろう。二人のDQNが何かを食べている間に、ボスが近寄ってきた。照明の関係で胸から下くらいしか見えない。
 DQNたちのボスは、意外にもエリートビジネスマン風の服装をしていた。靴もスーツもアルマーニで揃えている。私のプライベートな仕事の客の何人かも同じようなスーツを着ていた。
 アルマーニなど、なまじ高級なだけに着こなせない人間が身につけると端で見ていて痛々しいだけだが、少なくとも彼はスーツを着こなしている。
 ボスは真っ直ぐ私の前に来ると、私の顔をのぞき込もうとする。だからそのタイミングで目を開いて微笑んでやった。ボスは、小さく、わっと叫んで後ずさった。
「馬鹿野郎! 気がついてるじゃねぇか! お前ら何、見張ってたんだ!」
「そこの二人なら、ずっと熱心にスマホ眺めてたけど」
 彼はもちろん私に礼をいうでもなく、DQN二人に近づくと、二人にそれぞれ平手打ちを食わせた。DQN二人は、刃向かいもせずに殴られていた。
「ケン、リュウジ、このことは後でゆっくりな」
「ありすと!」
 あいかわらず滑舌の悪い返事だが、DQN二人は直立していた。躾だけはしっかりしているようだ。
 何となく、昔実家で飼っていた犬を思い出した。世話をしていたのは弟だが、奴は躾のつもりで殴るばかりで、犬は反抗こそしなかったが、なつくこともなかった。尻尾を振ってなついたのは私だけだった。私だけが撫でて、抱いていたからだ。
 案外この男は、このケンとリュウジというDQNの面倒をよく見ているのか。
「どうもとんだお恥ずかしいところをお見せして申し訳ございません」
 男は私に向かって頭を下げた。それで顔が見えた。いままでのやり取りから、この男はヤクザの類だろうと思っていた。ただ外見は世間でイメージするようなヤクザとは違っていた。
 年齢は三〇代半ば、頭の位置から推測して身長は一八〇くらいか。容姿を言えば、中の上くらいだろう。
 知り合いにヤクザはいないので、これが平均的なヤクザの兄貴分なのかどうかはわからない。ただ私の公の職場に出入りする外資系企業の営業課長あたりと雰囲気が似ている。少なくとも後ろのDQN二人と違って、彼はまともな日本語が通じるようだ。
「私も、下着一枚のお恥ずかしい格好をお見せして申し訳ございません、とでも言えばいいのかしら?」
 男は、傑作だと言わんばかりに手を叩いて大袈裟に喜んだ。
「厄神先生は、なかなか洒落がきつい。いえ、先生ほどの美人なら、下着一枚でも美しくこそあれ、恥ずかしいことなどございませんよ」
 組織犯罪の可能性を予想していたので、驚きを顔に出さずに済んだが、状況は面白くないようだ。男は私を「先生」と呼んだ。つまり彼はこちらの表の仕事を知っている。
 となると、拉致の理由はどちらか? 公の仕事か、それともプライベートの仕事の方か? 例のものは無関係なのか?
「売り物になるほど美しいかしら?」
「もちろん。だからこそ、こうしてお越しいただいたのですよ。誤解なさらないでいただいきたいのですが、そのような格好でお招きしたのは、単なる保安上の必要からです」
「保安上の必要?」
「昨今は世相も物騒だ。武器を携帯している女性も珍しくございません。先生のような職業の方は特に。
 それに携帯で第三者を呼び出されるようなことも、可能な限り避けたいわけですよ、こちらとしては。ここならGPSも使えません。私としては、あくまでも先生とさしでビジネスの話をしたいわけで」
「ビジネスの話をするのに、毎回、相手を下着一枚にするわけ?」
「先生はどのようにお考えかわかりませんが、勝手に我々の縄張りで個人営業をされた場合、我々としては自分達のビジネスを守らねばなりません。
 限定された市場における、安定した経済秩序の維持です。それが我々のビジネスのベーシックな部分なんですよ。
 先生はレアケースでしてね。普通は、こんな手間はとりません。商品価値のある二〇前後の若い女なら、捕まえて輪姦(まわ)して、傷が残らないように締め上げて、我々と契約関係を結ばせる。そうして経済秩序は維持される」
「売春婦のピンハネってこと?」
「我々は仲介料と斡旋料と理解しておりますが。彼女らは我々の縄張り内で自由に商売が出来る。我々は彼女らの保護と引き替えに売上げの一部を受け取る。ビジネスですよ、ビジネス」
「二〇代でそれなら、三〇過ぎならどうするの?」
「そこですよ、先生。
 先生は否定されるかも知れませんが、セックス産業全般にですね、三〇を過ぎますと、商品価値は激減します。クリスマス過ぎたら、同じケーキが捨て値で売られるようなものです。
 それは不合理とお考えになるかも知れませんし、私も正直、年齢で単純化するのはどうかとは思いますよ。
 ですが、重要なのはそんなことじゃない。商品の価値は、顧客が決める。市場のニーズに合致しない商品は、価格競争力で市場に出すしかないのです」
「本気でそんなこと考えてるの?」
「本気ですし、正気ですよ。私の目的は、如何にして最小の労力で最大の利益を上げるか、それだけです。
 昨今は頭を使わないとシノギも成り立ちませんのでね」
 男は饒舌にそんなことを語る。絶対的な優位な状況で、自説を開陳する。自己愛と自己顕示欲の強い、つまり精神的に幼い男の典型だ。
 だからこいつは、最終的に暴力で私を支配しようとするだろう。それだけは間違いあるまい。こういう男に私は、幻想はいだかないことにしている。なまじ幻想を抱いて傷つくのはこっちだ。
「で、私をどうするの?」
 私が平静でいることは、男の調子を狂わせてるらしい。金切り声でも上げれば、彼の期待に添えただろうが、そんなサービスをする義理はない。
「通常であれば、三〇過ぎた女が我々の縄張りを荒らしたら、輪姦して、傷が残らないように締め上げて、ソープにでも沈めるか、AVにでも売り飛ばすか、そんなところですね。
 我々としても、商品価値のない女を直接抱えるのは、固定費ばかりかさんで利益になりません。若い娘に変な知恵を付ける奴もいますのでね。
 まぁ、ブランドイメージもあります。我々の縄張りにくれば、若い娘と出会える、そういう評判がネットや口コミで広がれば、リピーターも増える。それはビジネスとして安定収益に繋がる」
「ビジネス、ビジネスって言うけど、輪姦して、傷が残らないように締め上げてたら、商品の質を傷つけるんじゃないの? それじゃ利益が下がるんじゃない? ビジネスとしてどうなの?」
 私が冷静なことに、男は苛立ちと不気味さを覚え始めたらしい。口調がだんだん崩れてきた。
「もうすでにおわかりと思いますが、我々は反社会的団体、いわゆる暴力団なんですよ。
 我々世代より古株は、代紋を背負うとか言いますが、要するに組織のブランドイメージです。暴力で相手を屈服させてこその暴力団です。
 暴力を振るうことが、組織のブランドイメージを確かなものとする。そして確固たるブランドイメージが、ビジネスを円滑に進めるんです。
 それに暴力団が暴力を振るわなかったら、市場が納得しませんよ。我々の暴力を期待している市場もあるんです。
 だからこそ縄張り荒らしは輪姦して、傷が残らないように締め上げる。それは商品価値の毀損ではなく、ブランドイメージの確立なんですよ」
 そして男は付け足す。
「この世の中に暴力ほど強いものはないんです。人間とて犬猫と同じ動物です。殴られれば痛い。
 そしてどんな人間であろうと、最後は暴力の前に屈してしまう。暴力の前に勝てる人間などいないんですよ」
「金はどうなのよ?」
「同じことですよ。金とは暴力の一形態に過ぎません。金が暴力を生み、暴力もまた金を生む。等価交換ですよ」
「あなた、いつも縄張り荒らしに、こんな七面倒な説明をしているわけ?」
「いつもならですか。もちろん、こんなビジネスの話なんかしませんよ。私の時間単価は、安くありませんからね。
 先生が平凡な三十路女なら、そこの二人に輪姦されているところでしょう。そうね、この時間なら五回目か六回目でしょうか。こいつら見張りも満足にできない半端者ですけど、若いから盛りのついた犬みたいもんで、一晩くらいなら、平気で女抱けますからね」
「あなたはしないの?」
「先生、この界隈をうろついてる商売女なんか私は抱いたりしませんよ。どんな病気持ってるか、わかったもんじゃない。それに私のコレが、そういうのは嫌がるんでね」
 男は小指を立ててみせる。
「先生は美人だから、三〇過ぎても、そう女子高生は無茶だとしても、まだまだ二〇代で通る。その点では、まだ商品価値は高いわけです。
 あれですよ、スーパーのクリスマスケーキはクリスマスが終われば捨て値ですけど、一流パテシエのケーキなら定価で売れるようなもの。とは言え、旬の食材は遅かれ早かれ捨て値で売られる運命にある、先生ほどの美貌でもね」
「捨て値の女にずいぶん手間をかけるのね」
「あぁ、先生。誤解なされては困ります。私は一般論として、三〇過ぎの女に商品価値がないと言っているだけです。先生はそれらとは違う。
 三〇代にもかかわらず、国立浪速大学理工学部教授、博士号を持ち、海外留学への経験もある、カルテックでしたっけ?」
「MITよ」
「それは失礼。まぁ、文系の私からすれば、どちらも似たようなものです。
 この日本にはですね、セックス産業において、インテリ女を抱きたいという強いニーズがあるんです。動機はまぁ、支配欲とか征服欲とか、そんなんでしょうが、重要なのは、顧客が富裕層であるということです。
 先生は自覚なさっておられないようですが、有名国立大の理系女教授というブランドは、大変な付加価値なんですよ。その辺の女たちより桁一つ多くしても、捌ききれないほどの需要がある」
「あなたの時間単価に見合うくらいに?」
「私の時間単価に見合うくらいにです。おわかりいただけましたか? 私が暴力によらず、話し合いで交渉をしているのも、互いにメリットがある事を理解していただけると信じてのこと」
「下着一枚で縛り付けて、交渉だというの?」
「誰も対等な立場での交渉とは申しておりませんよ。交渉が決裂しても、我々は失うものはない。しかし、先生は社会的立場から何から、すべてを失いかねません。
 それならば、我々は手を組むのがもっとも合理的でしょう。富裕層の顧客は私どもが手配する。利益は紳士的に五分五分でいかがです。先生が立ちんぼで稼ぐより、数倍は利益になるはずですよ」
「一つだけ教えてもらえる?」
「質問の内容によりますけど、なんですか?」
「これでも身元がバレないように注意してきたつもりだけど、警察でもないのに、どうやって私の職場まで突き止められたのよ?」
「それは我々から逃げられるか? と言うご質問と解釈してよろしいですね。まぁ、こちらの手の内をすべて明かすわけにはまいりませんが、一つだけお教えしましょう。
 監視カメラですよ。先生の場合、決め手となったのは」
「監視カメラ!? 警察でもないのに、どうやって?」
「先生は家の組の縄張りを荒らしたわけですよね。縄張りには家の組の息のかかった店もたくさんあるんですよ。もちろん合法的な商売のね。
 そういう店の監視カメラの映像を集めましてね、先生を見つけて、追跡したわけですよ」
「暴力団が画像分析ソフトなんか持ってるんだ」
「いえ、そんなものはありませんよ。あったとしても、使えるのは若頭補佐の私か、若頭くらいでしょう。
 人海戦術ですよ。暇な若い奴は組に幾らでもいるんでね。先生の映ってる画像を探し出して、時間と歩いてきた方角を割り出す。それを全店舗の映像で集めて、つなぎ合わせれば、先生の動きはどこまでもたぐれるんですよ。ソーシャルハッキングって奴ですかね」
 男は自分の優位を私に見せつけたと判断したらしい。態度に余裕さえ感じられた。
「それでビジネスの話です。我々と契約すれば、いままでと同じ行為を行いながら、数倍の収入になる、いかがです?」
「あのね、私は金のためにこの商売してるわけじゃないのよ」
 男は、口を半開きで動きを止める。
「ええと、先生。他の場面なら、自分は金のために動かない、と言うのは立派な態度かもしれませんけど、状況をご理解いただいてますか? 先生、それだと自分は淫乱だと言ってることになりますよ」
「そうよ、私はセックスが好きだから、客を取ってるの、お金目的じゃなくて」
「そんなことを女性が自分の口から言っちゃいけない」
「なんですって?」
「だから女がそんなこと自分の口から言っちゃ駄目だってんだよ! 慎みとかあるだろうが!」
 男は急に怒り始めた。これはまずい徴候だ。ビジネスと言ってる間は、暴力を振るうこともなかろうが、規範意識を刺激すると暴力に訴える奴は多いのだ。
 しかし、売春婦をピンハネしている男が、どうしてこんなことに過敏に反応するのか? 何かを刺激したか?
「取り消せよ、いまの言葉」
 取り消すのは簡単だが、ここで素直に従うのも賢明とは言えない。これは「心理学で言うところのゲーム」だ。それに乗ってしまえば、「危険なゲーム」を延々と続けることになる。
 心理学的に賢明なのは、この「ゲーム」を「別のゲーム」にすり替えることだ。それは感情的に不安定な母とのつきあいの中で学んだことだ。厄介な日常経験が、ここで役にたつとは。
「それはあなたにとって、大事なことなの?」
「なんだと」
 男はスーツ下のホルスターから拳銃をとりだした。
「ベレッタのポケット拳銃だ。戦争に使うには、ちょっと非力すぎる。至近距離から頭に一発撃ち込むには便利だがな」
 物騒な台詞で脅しをかけているが、過去の経験から言って、こうして道具をちらつかせている間は、意外に冷静なものなのだ。
 後ろのDQNたちも、ボスが拳銃を抜いたのに意外に落ち着いてる。こういう光景は過去に何度もあったのだろう。
 突然、ドアが開いたかと思うと、閃光と大音響が室内を包み込んだ。DQNたちも男も私も視界を失った。
 そして一〇人くらいの人間が雪崩れ込んでくる気配があった。だが私はそこで椅子ごと倒され、床に頭を打ち付ける。そしてそのまま気を失った。


「ご気分はいかがですか?」
 気がついたのは、ベッドの上だった。前の状況が状況だけに、私は自分がどうなっているかを確認する。驚いたことに下着一枚だったのが、パジャマを着ていた。病院などでよく見る入院着のあれだ。
「病院?」
「拉致監禁されたわけですし、頭も打たれていましたから。念のためCTなどもとりました。異常はありませんでしたが」
「どこなの?」
「万代医大です。その特別病棟」
「万代池医科大学の特別病棟ってこと? 頭打ったくらいで医大に搬送はされないんじゃない?」
「先生は特別ですから」
「どいつもこいつもそればっかり。あなたもあのヤクザの仲間?」
 たぶんそれは違うだろう。私を拉致したインテリヤクザのこれ見よがしの服装とは対照的に、目の前の小柄な若い男は遺伝子レベルで秘書を感じさせる。
 服装は地味なスーツだが、ただ仕立てはしっかりしている。それなりの社会的地位ではありそうだ。
 私はスーツのバッジに気がついた。それで却ってわからなくなった。バッジは世界的なIT関連企業である大山グループのバッジだからだ。
 それで思い出した。万代池医科大学は、大山グループの一員なのを。主に医療や健康面とIT技術の融合を研究するための専門医科大学だ。浪速大学の人間として、何度かここには仕事で足を運んだことがある。
 あの時と変わらないとすれば、特別病棟とは、研究棟の中にあり、部外者の立ち入りが禁じられているはずだった。昨今では、国立私立を問わず、研究室の出入りは厳しい。
 それは研究が知財権を伴うためで、万代医大の研究棟も医療や生命科学分野の基幹特許を守るため部外者の出入りには厳格だ。そういう説明であったはず。
「まず、自己紹介をさせて下さい。私、総帥秘書室長の木魂七夫と申します」
「総帥って大山グループ総帥、大山大嶽の秘書って意味?」
「そうなります。
 何が起きたのか、簡単に説明いたしますと、まず先生を拉致したのは、山姫組という広域暴力団です。表向きは合法的な会社を幾つか動かしてますが、暴力団は暴力団です。
 彼らは先生のプライベートな仕事について先生を拉致した、我々はそれを察知して、先生を奪還した。まぁ、その混乱で先生は頭を床にぶつけられて、とりあえずこちらに保護したわけです。
 我々ももう少し穏便にことを進めるつもりでしたが、若林が拳銃をとりだしたので、万が一の事態を避けるためにあのような仕儀になった次第です」
「若林って言うんだ、あいつ」
「若林騎士、留学してMBAまで取得しながら、なぜか山姫組の若頭補佐。武闘派で知られてまして、組で最も危険な奴です。妙に頭が回るので、本当に質が悪い」
「若林のことはわかったけど、大山グループが私に何の用よ? 用があるなら大学に来ればいいじゃない」
「いえ、我々が探している女性が、先生である事がわかったのは、ほんの数時間前なんですよ。その点で山姫組に遅れをとってしまった。連中が何をどこまで知っているのか、それもわかりませんからね。他の幹部ならともかく、あの若林でしたし」
「私をさがしていた? 何のために?」
「失われたピースを手に入れるためです。我々の総帥のために」


「厄神さんには、前にどちらかでお会いしませんでしたか?」
 大山総帥は首を傾げながら、そう尋ねた。我々がいたのは、やはり万代池医科大の一室だ。
 本来は病室なのだろうが、調度類はビジネスマンのオフィスのようだ。ただ天井のあちこちにレーザー通信用の光学器機が設置されているのが目についた。
「御社の研究チームの幾つかとは、一緒に仕事をしたことがあります。その時に、何度か会議で」
 それは嘘ではなかったが、仕事で会ったのは等身大ディスプレーを介してのことだ。
「あぁ、なるほど」
 大山総帥は、それ以上はこの件に触れなかった。じつは我々が直接接触したことは何度かある。ただ大山総帥がそれに触れたくないならば、私から持ち出す必要はないだろう。
 私は、木魂が若林から取り返した安物のスーツを着ていた。目立たないように量販店のスーツにしたのだが、こんなことなら職場用の高級スーツにすればよかったと、少しばかり後悔した。 
 大山総帥の年齢は私より少し上くらい。身長は私より高く、一八〇は越えているだろう。トレードマークでもある詰め襟のネールジャケットは、スパイ映画に登場する悪の首領をイメージしているとも言われている。それは彼の野心の表明であった。
 だからメディアに出るときは、純白のペルシャ猫を抱いていることも多い。だがいまはミミちゃんというその白猫は、室内にはいなかった。別の部屋で木魂がかいがいしく世話をしていた猫が、ミミちゃんなのだろう。
「あなたのようなお美しい方をすぐに思い出せないとは、もう老化がはじまっているのかな」
「ご冗談を」
 この育ちの良さそうな紳士が、世界的なIT企業グループの総帥だ。
 ただ日本では彼の知名度はそれほど高くない。日本の経済界では未だに若造扱いだ。だがアメリカやヨーロッパでは、彼は国賓待遇を受けていた。
 大山グループに本社という存在はない。世界の主要都市にある支社が順番に本社機能を担う。つまり支店間を大山総帥とそのスタッフが移動し、彼らが到着すれば、そこが本社機能を持つ。
「総帥、そろそろお時間ですが」
 秘書の木魂が音も無く現れる。確信はないが、彼はボディーガードでもあるようだ。
「そんな時間か。では、厄神さん、私はこれで」
 大山総帥はそのまま椅子に掛けると、椅子は変形してストレッチャーのようになる。そして彼はそのまま眠った。
 私は木魂に促されるように、部屋を出る。自動ドアが開くと、そこで待っていたらしい白猫が尻尾を立てて、大山総帥の元に走って行こうとする。木魂はそれを慣れた手つきで捕まえ、抱っこした。猫はごろごろと喉を鳴らすが、顔は大山総帥の方を見ていた。そんな猫のけなげさに、少しだけ泣けた。
「どう思われます?」
 猫をキャットタワーのあるケージに移しながら、木魂は尋ねる。
「どうって? お元気そうね、とでも言えばいいのかしら? まだ体調は本調子ではないみたいだけど」
「なぜそうお考えに?」
「あなたが尋ねるから応えるけど、大山総帥は日本滞在中に何者かに狙撃された。それ以来、直接彼の姿を見た者はいない。緊急に大規模な手術がなされたらしいが、生死不明。ただ限られた者だけが、ネット経由で彼と連絡を取っている。ネットに流れている噂はそんなものね。
 もっとも否定する意見も多いけど。暗殺の有無は確認しようがないし、そもそも彼と直接会える人間は世界でも限られているって」
「厄神先生は、噂を信じられました?」
「肯定派も否定派も、事実関係について何のエビデンスも提示していない。典型的な無意味な議論よ。
 ただ、あの様子では暗殺の有無はともかく、体調はよくないみたいね。すぐ横にならないといけないようじゃ」
 私はそうと気づかれないように、私物を確認する。ポシェットが一つ見つからない。若林が持っているのか、木魂が持っているのか。どちらにしても、ちょっと厄介だ。
「ロボットだとはお考えになりませんか?」
 木魂はいきなり斜め上のことを言い出す。
「いまのがロボット? 精巧なアンドロイドってこと? それはない」
「その根拠は?」
「これでも仕事柄、アンドロイドは随分見てるのよ。国内外のをね。大山総帥のあの表情を再現できるほど、表情筋のアクチュエーターを備えたアンドロイドはまだないはず。
 もちろん大山グループの財力と技術力があれば再現可能かもしれないけど、彼は自力で歩いていた。ケーブルを引きずることもなく。完全自律であれだけ自然な表情を再現できるアンドロイドは世界にはまだないはず。
 あと……」
「あと?」
「飼い猫が飛び出してきたでしょ。彼に甘えようとして。猫は嗅覚が鋭い動物なの。大山総帥の匂いまで再現したアンドロイドなんて考えられないじゃない。いまの技術水準じゃ」
 木魂はそれを聞くと、ほっとした表情を浮かべた。
「ありがとうございます。お説の通り、いま会っていただいたのは大山総帥その人です。本人に間違いありません。そうですか、ミミちゃんが決め手か、それは気がつかなかった」
「こんなことのために私を呼んだわけ? 違うわよね?」
「どうも回りくどくて申し訳ございません。話の内容が内容なので、先に大山総帥に会っていただこうと思いまして。
 先ほどの噂でございますが、ほぼ事実です。大山総帥は頭を狙撃され、重傷を負いました」
「えぇぇ、あの噂本当なの、誰にやられたのよ!」
「それを知るのは厄神先生の人生を不幸にすると思います。それにすでに始末のついたことです」
「始末、つけたんだ」
「そこは御社が世界的企業体である事の最大のメリットです」
 考えて見れば、いまさっき山姫組という武闘派暴力団を力で叩きのめした連中だ。木魂は紳士に見えるが、それを言えば若林だってそうだった。紳士であることと暴力の行使は、残念ながら矛盾しない。
「総帥は一命はとりとめましたが、頭蓋骨内にかなりの損傷を負いました」
「嘘でしょ、それほどの重傷から短期間であそこまで回復はできないはずよ。だったら、さっき会ったのは、影武者?」
「影武者に見えますか? 厄神先生なら本人である事はおわかりと思いますが」
「本人だとは思うけど、服を脱いでくれなければ断定は出来ないわ」
「そうでしょうな」
 予想していたことだが、木魂は私のプライベートの仕事についてわかっているようだった。ただ、どこまで把握しているかはわからない。私とて、こっちの商売を隠すための工夫はしている。
「我々は組織の全力をあげ、大山総帥の救命に当たりました。不幸中の幸いは、この病院のすべての施設が使えたことです。襲撃から一〇分後には、総帥は手術をはじめることができました。
 総帥の問題は脳神経系であり、首から下は無事です。我々は損傷した組織を取り除き、脳内にチップを埋め込んだ。ニューロンと親和性の高い、有機チップですよ」
「嘘でしょ、あれは脳神経と外部器機とのインターフェースに使うもので、脳神経系の代替機能なんかないはずよ」
「仰る通りです。有機チップに大脳や小脳、中脳の代替などできません。
 そんな技術は我々にも、他の誰も持ってはいない。脳細胞がどのようなメカニズムで働くのか、それさえもわかってはいないのが現実ですからね。わかっていると自惚れている馬鹿がいるだけの話で」
「だったら……」
「我々はまず、大山総帥の肉体が生存することを最優先した。呼吸や消化活動、新陳代謝、そうした恒常性の維持に関する機能を復活させることを最優先しました」
 木魂が軽く首を傾げると、病院特有の白い壁に模式化された世界地図が現れた。世界規模の何かのネットワークらしい。
「我々は万代池医科大学以外にも世界中に医科大学や病院を経営しています。医療分野へのIT技術の応用は、重要な収益源の一つなのでね。
 そうした病院には医療モニターや生命維持装置を必要とする患者が全世界に一〇〇万人単位でいます。そうした医療データは病院内のみならず、こうして大山グループの研究機関で共有できる。もちろん入院時に患者からの了解はとってあります」
「どうせ契約書の隅に小さな文字で一行でしょ」
「裁判に勝つには、一行あれば十分です。お察しと思いますが、そうしたネットワークには恒常性を維持するための脳神経系のデータもある」
「大山総帥の身体から送られた神経データをそのネットに流して、他人の中脳や小脳を借りて、神経情報の処理をして、それをまたネットから有機チップ経由で肉体に戻してるとでも……」
「すべての脳神経系が破壊されたわけではありませんので、他人の脳神経に身体制御を委ねる情報量は比較的大人しい値で収まってます。だいたい毎秒一〇〇万から二〇〇万ビット程度で」
「ほとんど自前の脳組織じゃ処理していないように聞こえるけど」
「それは解釈の問題でしょう。一日は八六四〇〇秒、一人に一秒だけ恒常性維持のために脳神経系を借りるとしても、八六四〇〇人の人間がいれば間に合います。
 じっさいは脳機能をシャエアしている集団は、この三倍、二五九二〇〇人おります」
「同じ情報を三組に流して、多数決方式で異常値を弾いているわけね」
「流石です。その通り、安定稼働を優先されるシステムでは実績のある方法です」
 大山総帥の身体とは何だろうと、私は思った。いま世界中に散っている二六万人弱の医療器機に接続された人達。彼らは自分の生命を維持してくれるからこそ、装置と自分らを結ぶことを許している。
 だがそれらの装置はネットワークで連携し、人体の恒常性を掌る脳機能のデータを収集し、分析していた。その上に、一人一日一秒だけだが、大山総帥の破壊された脳機能を代替している。
 この二六万人弱の人達がいなければ、大山総帥は呼吸も出来なければ、心臓の鼓動さえままならない。
 生きるために必要な最小限度の閉じた肉体を身体と呼ぶならば、いま大山総帥はこの二六万人弱の人間と合わせて一人の身体となる。
 別の言い方をすれば、二五九二〇〇人の人体を用いて、二五九二〇一人が生きている。
 先ほどの部屋には天井のあちこちにレーザー通信用の光学器機が見えたが、あれが大山総帥とネットワークを結びつけ、彼を厄介なケーブルから解放しているのだろう。
「恒常性が維持できるからこそ、大山総帥は、あの部屋の中で、呼吸し、会話し、食事も排泄もできるのです。まぁ、制御モデルの関係で極端に激しい運動はまだ無理ですが」
「美食家になれても、好色漢にはなれないってわけね」
「それは我々より、厄神先生の方がお詳しいでしょう」
 木魂はそう言って私の想像を裏付けた。何を隠そう、大山大嶽は私の客だった男だ。大山グループが急成長し始めた頃からの客だから、かれこれ二年になろうか。もっともあの客が大山総帥と気がついたのは、ごく最近のことだが。
 彼はプライベートに関しては何も語らなかった。それはこちらも同じだし、匿名のおつきあいは互いのルールだ。もちろん保険はかけている。立場的に弱いのはこちらなのだから。
「総帥の肉体が生きているのはわかった。だけど、人格はどうなの? どこかの病院で寝ている人達の脳機能をシェアしたとしても大山総帥の人格は再現できないでしょ」
「確かに他人の脳機能のシェアでは、問題は解決いたしません。ですが、人格の再現は可能です。むしろ中脳や小脳の機能の代替よりやさしいくらいです」
「本気で言ってるの?」
「ですから、最初にお尋ねしたんです。大山総帥と対面して、どう思ったかと」
「どうって、まぁ、普通に人間だと思えたわよ。チューリングテストのことを尋ねているなら」
「厄神先生のご専門からすれば、そうした視点になろうかとも思いますが、大山総帥として違和感はありましたか?」
「それは秘書のあなたの方がわかるでしょ。私が知ってる大山総帥はメディアに登場する大山総帥なのよ。メディアで露出する大山総帥とプライベートな彼個人とでは違うでしょ」
「果たして、そうでしょうか? メディアに露出する大山総帥のイメージが、作られ、演出されたものだとしても、プライベートな総帥個人の人格とは無縁ではありません。メディアに露出した姿とそれが同じであれば、人格も同じと言えるのでは?」
「それはなんか詭弁臭いなぁ。まぁ、メディアに露出している大山総帥と同じに見えたという答えを期待しているなら、それは肯定するけど」
「事の本質は、一人の人間が、その身体の中に持っている情報は有限であると言うことです。
 大脳であれ、DNAであれ、人間は身体というハードウエアに記録できる以上の情報量を持ち得ない。身体は有限ですから、記録できる情報量も有限です」
「肉体が持つ情報量が有限なのは認めるとして、具体的に何をしたのよ?」
「結論を言えば単純な話です。我々、大山グループが必要とするのは、大山大嶽という個人ではない。大山グループの大山総帥なんです。大山総帥という人物が、社会人格的に大山総帥として機能すれば、それでいいのです」
「つまり、あなたたちは大山大嶽の人格を再現しているわけではなく、大山総帥のシミュレーションを作り上げ、そのシミュレーションで大山総帥の肉体を制御しているということ?」
「一言でいえば。口で言ってもなかなか納得していただけないだろうと思いまして、先生には先に会見をお願いした次第です」
 大山総帥は非情なまでの合理主義者として知られている。complianceよりperformanceと言い放ち、時にそれが物議を醸すほどだ。
 大山総帥の部下(それともむしろ信者と言うべきか)たちは、非常時に際して大山総帥の「社会的人格だけ」再現するという非情なまでの合理主義の実行を躊躇わなかった。
 いまの大山総帥に意識があるかどうかわからないが、狙撃される前の彼であったとしても、いまの自分の姿に納得するような気がした。
 大山総帥の肉体に加えられた処置の数々は、少なからず日本の国法に触れている気はするのだが、彼らの合理主義からすれば、露見しない違法は、違法ではないのかもしれない。
「やっぱり詭弁臭いわね。人格シミュレーションを社会人格にのみに限定しますと言っても、結局は大脳組織のシミュレーションであるなら、いまの技術で手に負える話じゃないはずよ」
「大脳組織のシミュレーションなど行っておりません。理由は厄神先生がいま仰った通り、技術的に不可能だからです」
「だったら、さっきのあれは何よ? 大脳の損傷は軽微だったの?」
「中脳や小脳が深刻なダメージを受けているのに、大脳は無事というのは考えにくいのでは?
 我々があえて社会的人格の再現と言っている理由は単純です。大山総帥の内面の再現は不可能だからです。
 人格のコピーは可能かというような、哲学レベルの話ではなく、襲撃直後はすでに脳組織は人格のコピーを議論が出来る状態ではございませんでした。
 ただ我々にとっての幸運は、大山総帥の天才性と言いますか、先見性にあった。総帥は将来的なビジネスとして社会的人格の再現技術を研究させていた。
 それは何かと言えば、特定個人に関する情報、メディアやネットに流通している情報から、『社会の側から見て』その人物と認識出来る人格の再現です」
「ええと、それって、私の理解が正しければ、人工知能にいかに巧妙に本人の成り済ましをさせるかというような話?」
「そうした表現をされるのは、我々としては非常に心外ではありますが、基本的な構造は仰る通りです」
 私の「巧妙な成り済まし」という言い方は、木魂の気分をかなり害したのだろう。彼は初めて、感情らしいものを表情に浮かべた。
「ただやはり成り済ましは、表現としては不適当でしょう。我々のスタッフの間でも同様の意見はありましたが、それは不正確だと結論が出ております」
「なぜ、って訊いて欲しいみたいね、なぜ?」
「理由は至って単純です。社会的人格は、総帥と社会との相互作用の中で誕生する。
 しかし、人間の脳神経系が処理する情報量が毎秒一〇〇〇万ビットなのに対して、意識のそれは一〇〇ビットほどに過ぎない。そして人間の意志は無意識の一〇〇〇万ビットの中で誕生し、意識はそれを後追いで認識しているだけのこと。
 いくつもの実験で、人間は意識するよりも先に肉体は動き始めていることが確認されています。
 そうであれば、肉体の動きを解析すれば、その人物の意識は予想できる。肉体の動きと意識との相関関係を高い精度で得ることが出来るわけです。
 意識など脳神経系の錯覚であるならば、AIがビッグデータの処理で錯覚を起こせば、意識の再現も不可能じゃない。
 重要なのは、大山総帥の情報は、社内の監視カメラや各種メディアへの登場、さらにそれらを元にした二次的、三次的な分析や言及で膨大な情報が生まれているという事実です。
 それらは意識の一〇〇ビットはもとより、無意識の一〇〇〇万ビットをも凌駕する。控え目に計算しても毎秒一〇〇〇億ビット以下と言うことはない」
「つまり、あれ。大山総帥本人の肉体から発せられ、処理される情報よりも、大山総帥の肉体の外、世界中に流れる彼に関する情報量の方が圧倒的に多い。
 だから社会の中で形作られて行く大山総帥の人格イメージを再現するシミュレーターを作り上げれば、それが大山総帥になる、そういう理屈?」
「大山総帥の肉体が、社会がイメージする大山総帥とまったく同じ反応と行動を行なったなら、それはいかなる定義に基づいても大山総帥個人です。
 これはいわゆるオメガポイントと言ってもいいのではないでしょうか?」
「どうだろ。仮にオメガポイントとしても、金持ちじゃないと実現不可能ね」
「それが何か問題でも? 貧乏人のオメガポイントなど無意味ですよ。社会的に価値のある人間だからこそ、オメガポイントを行う意味がある。社会負担に見合うだけの社会貢献をするからこそ、オメガポイントが意義を持つんです」
「御社らしいわね。いずれにせよ、これって突き詰めればやっぱりチューリングテストは有効か否かって、話ね。しかし、そのシミュレーションが妥当だとどうして言えるの?」
「厄神先生にお越しいただいたのもその問題を話し合うためです」
「私の専門分野は、同じ情報工学でもそれとは方向性が違うのはわかってるわよね?」
「もちろん、我々の興味は厄神先生のプライベートな仕事にある。
 人間の人格形成は記憶を元に形成されているのはご存じかと思います。我々も人格シミュレーターのために、大山総帥の個人史を細大漏らさず集めました。
 それこそTV番組から、夏休みの宿題の絵日記まで。幸いにも大山総帥は早熟だったので、子供の頃からメールやSNSを活用していた。それらもまた重要なデータとなった。総帥のウエアラブル端末も、身体の動きと意識の相関を得るための貴重なデータを提供してくれた。
 大山グループを創設してからは、大山総帥の記憶以上の情報量で、総帥の記録が残されています。何時何分に誰に何をどんな表情で言ったか。本人の記憶になくとも記録は残る」
「でも、何か問題が生じたわけね」
「なぜそうお考えに?」
「万事順調なら、私をここに連れてこないでしょ」
「その通り。
 おわかりのことと思いますが、我々が必要としているのは、大山グループの意志決定を行う大山総帥の再現です。同じ情報に基づき、大山総帥と同じ意志決定が行える存在。それこそが大山総帥の社会的人格です。
 我々は大山総帥の社会人格シミュレーターが完成した時、何度か試験を行いました。過去の会議の様子はすべて記録してありますから、それを再現する。
 会議のメンバーの発表を正確に再現したとき、大山総帥の下した意志決定が、現実のそれと同一なら、我々のプロジェクトは成功したことになる」
「だが、失敗したわけか」
「失敗はしていません。ただ特定の条件下で予想外の振る舞いをするだけです」
「それは失敗を糊塗するソフト屋の常套句じゃない。要求仕様どおりに完成しないものを、世間では失敗というのよ」
「テストラン段階の不都合は失敗とは言いません。それに我々はすでに『特定の条件』を絞り込んでおります」
「それが私と関係あるわけ?」
 この時点で私は、木魂の目的と、社会人格シミュレーターの不都合の理由がわかっていた。同時に、木魂がすべてを把握しているわけではないことも。すべては大山総帥の秘密主義の賜だ。おかげで私は、彼らにとってまだ価値のある存在として生きている。
「総帥のシミュレーションは、通常の意志決定では問題なく正常な判断を下します。
 ところが、投機的な企業買収や事業の売却のような強いストレスを伴う場面で、シミュレーターは過去の大山総帥とは異なる判断を下したのです」
「ストレスに弱いわけだ」
「いまの大山総帥ではグループの通常業務しか管理できない。事業を拡大するための難しい判断には使えない。尋常ではないストレスに曝されますからね。
 我々は大山総帥の記録を再度、精査した。結果、総帥が日本に戻ったとき、定期的に二時間だけまったく消息がつかめないことが明らかになった」
「毎月、第一、第三水曜日の午後九時から一一時までね」
「そうです、大山総帥が厄神先生の客として会っていた時間です。総帥自身がこの時間の痕跡を消していたために、我々が厄神先生にたどりつくまで大変な労力がかかりましたよ」
「ようするに、私の客としての大山総帥のデータが欲しいわけなんでしょ。で、空白の二時間の情報を提供しろと。彼の性癖から何から。
 その見返りは?」
「厄神先生の安全ではいかがですか? 失礼ながら、先生はそれ以上の要求を出せる立場ではないのでは?」
 それはその通りだった。大山グループの技術力は信じるとしても彼らの善意だの倫理感を信じるのは甘すぎる。
「木魂さんが、そういう要求をするところをみると、まだデータは見つかっていないのね」
「データとは?」
「私が、何の保険もかけずに、商売していると思った? 安全な客しか取らないし、万が一に備えて、行為はすべて複数のビデオで記録しているの、死角が無いように。おかしな真似をすれば、客も社会的な立場を失う」
「大山総帥との行為も」
「当然でしょ。私はてっきりそのデータの件で拉致されたのだとばっかり思っていたわ」
「それで、そのデータは?」
「見返りは?」
「私の裁量で自由になるのは五〇〇〇万までです。その範囲なら。欲をかくとすべてを失いますよ」
「なら先ほどの安全保障にプラス一〇〇〇万。金が目当てじゃないの、大山グループから大金が私に振り込まれたという事実が欲しいだけ。保険よ、つまりは。現金授受があった以上は、あなた方も知らぬ存ぜぬは通用しない」
「なるほど、どうも厄神先生とは話が合いそうです。了解しました。で、データは?」
「あれは肌身離さず持ち歩いてる。だから私の持ち物の中よ。エルメスのポシェットあったでしょ。今年の限定モデル。赤い奴」
「そのようなものは、あの地下室にはございませんでしたが。あれば我々が見逃すはずがありません」
 木魂は監視カメラの動画を表示する。それが目まぐるしく変化するのは、画像検索のせいだろう。
 私が何者か特定できたいま、その気になれば監視は自由自在なのを誇示したいのか。すぐに検索結果が表示される。レストランで会計を済ませたとき、トートバックの中に赤いポシェットが映っていた。
「それよ」
「若林だな。たぶん」
「そう言えば、一度どこかに出かけてたみたいね」
「あいつがデータに気がついたのだとしたら厄介だ。最悪、山姫組に兵隊を送ることになる。
 先生、若林に話してもらえませんか?」
「私が?」
「データの提供までが契約における先生の義務ですからね」
「あっ、そ。でも、若林に話せって山姫組に行けってこと?」
「まさか。淑女を、一人でそんな危険な場所に行かせるなど」
 木魂は嫌味な口調で淑女と言った。
「彼の身柄は我々が確保しております。さて、間に合えばよろしいが」
 木魂がそう言うと、壁のモニターにどこかの夜景が映る。真っ暗だが、どこかに強い照明があるらしい。色のコントラストから、それは船だと思われた。大型のクルーザーの類。
「どうしました、木魂さん?」
「船長、投棄作業はまだか?」
「あぁ、巡視艇が出ていたんで出港が遅れた。投棄地点まで、あと一時間はかかる」
「よかった、間に合った。ちょっと若林と話をさせてくれ」
「あぁ、じゃぁ、スターンのカメラに切り替えるわ」
 それと同時に、クルーザーの船尾部にカメラが切り替わる。そこには全裸で足をセメントで固められたDQN二人と若林がいた。投棄とは、この三人を海に捨てることか。
「じゃぁ、先生お願いします」
 木魂はカメラの位置を指示すると、カメラの視界から離れた。
「お元気? 若林騎士さん?」
「せ、先生……どういうことです」
 若林はかなり暴れたのか、DQN二人と違って、身体中に痣があった。そんな彼も私が現れるとは、思っていなかったのだろう。敵か味方かわかりかねているようだ。
「一言でいえば、山姫組はこの国で絶対に怒らせてはいけない人達を敵に回したのよ。私を拉致したってことは、そういうことでしょ。山姫組は我々に宣戦布告した。商売女が縄張りを荒らしたからなんて、そんな下手な口実が通用するとでも思ってるの」
「我々って誰だよ!」
「猿芝居はもうけっこう。それより私のコーチの赤いポシェットはどこ?」
「あれはエルメスの限定品じゃなかったのか」
「やはりあなたが持ってたのね。どこ、ポーチは。答えないならそれでもいいわよ。こっちは山姫組を壊滅させるのが面倒だから聞いているだけだから」
 木魂は真性のサディストなのだろう。頼んでもいないのに、脇のモニターに山姫組の主要幹部の名前や、若林の個人情報を表示する。好きなのか、こういう人をいたぶる小芝居が。
「明日の夜明けと共に大沼組長以下、鬼島、谷川、斉藤の三人は射殺される。鬼島はあなたの兄貴分よね。それで組が崩壊したら、組事務所を家捜しすればいい」
「できるものなら、やってみやがれ!」
「そう、せっかく我々が話し合いのチャンスを与えているのに、あなたは応じないわけ。やはりヤクザにはヤクザに通用するプロトコルが必要か。
 あなた言ったわよね、どんな人間も、暴力には勝てないって。あなたの身体で確かめてみましょうか」
「素人に何ができる!」
「我々は素人でも、その方面のプロの友人たちはたくさんいるの。彼らが新人にさせる儀式って知ってる? あなたみたいな男を輪姦して、締め上げるのよ。ホールメイトの結束は何より強い。
 で、北条朱美だっけ、あなたの女。彼女はどうしよう、堅気だから輪姦して、締め上げて、ソープにでも沈めようか、見せしめに。きっと高く売れるわよ、山姫組の幹部の女、申し分のないブランドイメージよ」
「朱美に、朱美に手を出すな!」
 私が若林の愛人の北条朱美の名前を出した途端、彼の顔色が変わった。自分の女まで把握されていると知って、若林は足をコンクリートで固められた不自然な状態で座り込んみ、嗚咽をしはじめる。
 驚いたことに、女をセックスビジネスの道具としか思っていないこの男は、自分の愛人だけは本気で惚れている。案外つまらない男だったか。
「あなた、要求を出せる立場じゃないのよ。ここで素直に吐くか、入団儀式の道具として男達に輪姦されてから吐くか、選択肢はこの二つ、他はないの」
「あれはエルメスの限定品だろ、俺が買おうと思ったら、もう売り切れてて……」
「あなた、もしかして、私のポシェットを朱美に渡したわけ? それは泥棒でしょ、あなたの好きなビジネスじゃなくて」
 若林は何も答えず頷くだけだった。
「じゃぁ、あなたから朱美に、ポシェットを大人しく渡すように電話して。我々が受け取りにうかがうからって」
 私がそう言うと、木魂がカメラの脇でOKという印を示す。
「朱美には、手を出さないと約束してくれ!」
「私たちだって、朱美に興味はないから」
 船長は木魂の指示で、スターン脇のバケツから若林のスマホをとりだした。沖で持ち主ともども棄てられるはずだったのだろう。
 自分のスマホを震えながら受け取ると、若林は愛人の元に電話する。朱美の声は聞こえるようになっていた。
 朱美は声から判断して、二〇代くらい。あれが媚びでなく、自然体なら張り倒したくなるような高音が耳につく甘えた声で若林と会話する。
 朱美はポシェットを返せという若林の要求にかなり抵抗していたが、若林が「俺が死んでもいいのか!」と一喝すると、さすがに尋常ではないと察したのか、返却を了解した。
 スマホを切ると、若林は不自然な姿勢でかがみ込み、私に向かう。
「これでいいだろ。約束は守れよ」
「約束? なにそれ? あなたと何も約束してないわよ。ポシェットが確認できたら、あなたたちも朱美も太平洋で魚の餌になるの。わかるでしょ、あなたたち知りすぎたのよ」
「てめぇ!」
 若林はつかみかかろうとするが、船員たちに棒で殴られて足下のコンクリートごと昏倒する。私が指示すると若林は船員たちに起こされ、再びカメラの前に立ち上がる。
「じゃぁ、改めて約束しましょうか。あなたは未来永劫、私がいいと言うまで、私の命令に従いなさい。なら、あなたも朱美も助けてあげる」
「あいつらもだ」
「あいつら?」
「ケンとリュウジだ! あいつらも助けろ! いや、助けてやってください!」
「兄貴分が命がけで舎弟を守りました、美しいお話なこと。他人はソープに沈めても平気なのに、身内には身体を張るの。案外あなたもつまらない男なのね。いいわよ、助けてあげるわよ」
「約束してくれるな」
「約束する」
「よかった……」
「若林、私が約束してやったのよ。ちゃんと礼を言いなさい」
「ありがとうございます」
 もう抵抗する気力も失せたのか、若林は素直に頭を下げた。
「それといまのやり取りは、ちゃんと記録されているから。下手を打つと、あなた我々が手を下す前に、自分の組から消されるわよ。それは忘れないでね」
 若林にとって、それは最後のショックであったらしい。彼は生きているが、瞳はその瞬間死んだ。そして画面は消える。
「厄神先生、すばらしい交渉力ですね」
「木魂さん、いまのやりとりを嫌悪せずに感心するなんて、お里が知れるわよ」


 若林の愛人の北条朱美は、素直にポシェットを戻した。回収チームはポシェットに張り付けてあるメモリーチップを発見していたようだが、あえて触ろうとはしなかったらしい。
 実を言えば、このチップのデータは複製で、原本は別に保管してある。
 ただこうして肌身離さず持ち歩いていれば、大抵の人間は複製の方を原本と考える。それが原本の安全に繋がるわけだ。もちろんそれは木魂にも言ってはいない。
 データの確認はやはり万代池医科大学の特別区にある会議室で行われた。大山総帥の人格シミュレーター作成に関わる科学者や技術者、さらに大山グループの意志決定に関わる幹部らが集められたようだ。
 大山グループの幹部の四割ほどが女性。私が名前を知っている人間も数人いた。こればかりは予想していなかったが、この先、彼女たちが私をどんな目で見るかと思うと、泣きたくなるほど不愉快だ。
 木魂はそれを見越して、幹部に召集をかけたのか。だとしたらこいつはやはりSなのかもしれない。
 驚いたのは、その場に若林までいたことだ。アルマーニのスーツを着ていたが、着こなすと言うより、着せられたという風情だ。私を認めると、やくざ風に半身を屈めて挨拶する。
 嫌味なのか屈従の印なのか、魂を抜かれたような表情からは、それは読み取れない。
 若林の両脇には屈強な警備員が立っていた。データが偽物なら制裁が待っていると言うことだろう。もっともそれは私にも言えることだ。別の警備員二人が、私の背後を守っている。
 動画データはすべて暗号化されている。木魂に与えられたノートパソコンでデータを復号し、幹部たちの前にファイル一覧が表示され、私は大山総帥関連のデータ群から一つ選ぶ。
「先にお断りしておきますけど、画像は性行為に関するものです。そうしたものが不快な方は退席をお勧めします」
 木魂は私に対してではなく、幹部たち全員に向かって言う。
「この場に、己の本分を忘れるような人間は一人もおりません。我が大山グループはどれだけのことが可能か、理解しているものばかりです。それは、そちらの若林君が証人となってくれるでしょう。
 もちろん、この場で見た内容を外部に漏らすような愚か者がいないことは言うまでも無いことです」
 やはりこいつSだと、私は確信した。そして私は画像を再生した。画像は四つのカメラで撮影しているので、異なる四方向からの画像が正面のモニターに映る。
「四方向なら、モデルの作成に好都合だ」などと技術者たちが軽口を叩いていたのは、最初の数秒だけだった。そこからは木魂も含めて無言となる。
 誰も何とも言わないが、会議室は、「やっちまった」と言う空気に包まれる。
 そこには全裸の大山大嶽がいる。そこまでは誰もが予想していたことだろう。予想していないのは、ボンデージ姿で乗馬用の鞭をもった私の姿だ。そして大山総帥が全裸なだけでなく、口にギャグを咬まされ、首輪をしていることを。
 さすがの木魂も青ざめている。若林は若林で、惚けたような表情を画面に向けていた。
 彼らは私がセックスワーカーだとわかると、「何をしていたのか?」という点には何の興味もなかったらしい。若林は金を、木魂は大山総帥だけを見ていたからだ。そして肝心の私の「仕事」を見ていない。
 もちろん商売道具を持参しているところを拉致されれば否応なくわかっただろう。しかし、大学から仕事場に行くのにボンデージの衣装や道具一式を持ち歩く馬鹿もいない。
 そう言うのはすべて仕事場近くに借りたロッカールームに入れている。ホームレスや「同業者」が生活道具を突っ込むのに使われているような有料ロッカールームだけに、監視カメラの類はない。
 健全な社会には彼らのような不健全な人間は感知されない。感知されない人間のために、監視カメラが設置されるはずもない。若林も木魂もだからそれに気がつかなかったのだろう。
 映像の中の大山総帥は、自分のことを豚と呼び、私の暴力に泣き叫ぶだけの肉塊となっている。そんな肉塊を私は踏みつけ、言葉で嬲る。
 私が消毒用の酒精綿と長い銀の針を取りだし、出血に注意しながら、大山総帥のペニスに針を刺しはじめる場面で、会議は中断することとなった。
「あれが強度ストレスに対する反応誤差の原因か」
 空気の読めない技術屋がそんな感想を口にするも、それに応える気力のあるメンバーはいなかった。
「厄神先生、今日はありがとうございました。これ以降の作業は我々だけで対処できると思います。ご自宅まで、送らせますので」
 木魂は丁重に、頭を下げ、エルメスのポシェットを返してくれた。感触から、中に相応の現金が入っているのがわかった。
 木魂は私と最後まで視線を合わせなかった。自分達には神にも等しい偉大な人物が、「私は豚です」と泣き叫んでいたのだ。気持ちの整理も必要だろう。
 ポシェットの現金の意味はわからない。木魂にもわかっていないだろう。金をやるからとっとと帰れ、たぶんそれが一番近いのではなかろうか。私は彼らの偶像を破壊した女。
 VIP用の目立たない出入り口に案内されたのは、私だけではなかった。若林も同じだった。
「今日から先生のことは姐さんと呼ばしてもらいます」
 若林は、いかにも体育会系な格好で頭を下げる。
「なんで、姐さんなのよ」
「俺にも矜持ってものがあるんでね。糞インテリ女に頭なんぞ下げたくないが、姐さんなら下げられる」
「単なる自己満足ね」
「そういう商売でしてね。それではお先に」
 若林は後ろの警備員に促されてタクシーに乗せられる。私は大山グループのBMWで自宅まで送られた。帰宅したとき、すでに周囲は明るくなっていた。


 それから一ヶ月ほどは何もなかった。もちろんプライベートな仕事は休んだ。常連からオファーがあったが、それはすべて断った。そろそろこの仕事も潮時ということなのだろう。
 そんな時、大学の方に大山グループから研究施設への招待状が届いた。ヒューマノイド研究について協力して欲しいという内容だった。
 代表者は秘書室長の木魂七夫となれば、断るわけにはいかない。会見場所は万代池医科大学のあの特別区であった。
 大山グループからは高級外車で大学まで迎えが来た。他の場合なら喜ぶべきだろうが、事情が事情だ。素直には喜べない。
 厄介ごとが待っているのは、入口まで木魂が迎えに来たことでも明らかだった。
「厄神先生のおかげで、人格シミュレーターは、我々の期待したとおりの反応をするようになりました。高いストレスがかかる意志決定でも、総裁と同じ決断を下せるようになりました。
 おかげで面倒なプロジェクトの立ち上げや企業買収なども滞りなく進んでおります」
 木魂はこの一ヶ月で、なんとか現実と折り合いをつけることが出来たらしい。私と大山総帥とのプレイを見たときの茫然自失とした様子はそこにはない。
「何事?」
「厄神先生でなければお願いできない案件が発生しまして」
「大山総裁はシンガポールにいるんじゃないの? そんなニュースを見たけど」
「ネットワーク環境下なら、総帥の身体がどこにあろうが関係ありませんよ。総帥の人格データは常にネットワークの中を移動している。姿は見えず、感知することは出来ないが、しかし、それは世界中にある」
「総帥は神だとでも言いたそうね」
「自分は神の創世に協力している。そう考えれば、厄神先生もご自身の仕事にやりがいを感じていただけるのでは?」
 木魂は私を地下の研究棟に案内した。こんな場所にまで施設があるとは知らなかった。
「人格シミュレーションは概ね正常に機能しております。ただ、大山総帥は襲撃されてから、厄神先生からのプレイを受けておりません。それが情緒面の安定にいささか影響を及ぼしておりまして」
「あのデータじゃ駄目なの?」
「あのデータは大変参考になりましたが、総帥の人格シミュレーターにとっては過去の記憶でしかない。
 忘れていただいては困りますが、総帥の肉体は生きている。総帥は色々な情報を肉体の感覚器官を通して受け取っている。シミュレーションはそこから先の脳神経系の情報処理の補助を行っている」
「処理能力では補助の方が大きいけど」
「処理量の問題ではありません。社会人格は肉体と不可分ですからね。肉体あっての人格です。
 そして人格シミュレーターは肉体から受けた感覚情報で常に進歩している。日々、そのシミュレーターを構成する情報群は違う。だから厄神先生との秘密のプレイも新たな実体験が必要なんです」
「まぁ、必要はわかるけど、総帥は日本にいないのよ」
「日本にいても同じです。総帥は病み上がりですし、ある意味、精密機械でもある。鞭で叩いたり、足で踏みつけるなど問題外です」
「じゃぁ、どうするの?」
 木魂は何も言わず、私をある部屋に案内する。そこは私がプレイに使う二流ビジネスホテルの一室とまったく同じだった。時代に取り残されたようなビジネスホテル。だが社会的に成功している私の客たちには、その場末感もまた、興奮の材料になる。
「衣装と道具はこちらで用意いたしました。こいつを総帥と思ってプレイして下さい。ちゃんとペニスもつけました」
 床には大山総帥と同じ背格好の灰色の人形のようなものが正座の姿勢でおかれている。
「何これ?」
「医療研究用のアンドロイドを改造しました。皮膚感覚はもちろん、ちゃんと手足も稼働します。短時間なら二足歩行も可能ですが、あのビデオを見る限り、四つん這いができれば十分ですよね」
「プレイ中はね……これを相手にしろっての?」
 人間に似ているアンドロイドには不気味の谷というものがあるという。人間に似ているから気味悪く感じる一線があるという話だ。
 確かにそれは不気味だった。人間に似ているからと言うより、人間の造形に失敗したような不気味さか。それでも技術的には精巧で、叩けば相応に反応する。
 とは言え私もプロだ。何度か軽く練習すると、こつを掴んだ。そしてデータ収集のための本番がはじまる。
 この灰色のアンドロイドが感じる痛みは、ネットワークを経由し、大山総帥の肉体に送られ、そこで彼の中で屈辱的な体験として、人格シミュレーターで処理される。そうして彼の記憶が作られる。
 その大山大嶽の記憶が、ネット経由で瞬時にアンドロイドに戻ってくる。それはまさに大山大嶽がするだろう反応を返してきた。
 豚と罵られ、踏みつけにされながら、彼の意識はこの体験をどう認識しているのだろう。意識は身体が行う膨大な情報処理の中から生まれる錯覚だという説がある。
 それが正しいなら、アンドロイドの痛みも、大山大嶽の意識の中では自分の体験として認識されるのだろう。
 なら私はどうなのだろう。勃起するアンドロイドのペニスに銀の針を刺しながら、私の意識はアンドロイドを不気味に思っている。
 だが、この時、私の身体は、行為によって濡れていた。



林譲治プロフィール


林譲治既刊
『新戦艦〈大和〉 死闘編
ミューノベル』