「鬼門コンパ(1)」仙田学


(PDFバージョン:kimonnkonnpa1_senndamanabu
 数十本もの釘の突きだした太い角材を、北大路雅美はゆっくりと持ちあげ、頭上に構えた。切れ長の目は大きく見開かれているが、瞳孔がすぼまっているせいで、白目の部分が魚の腹のように青白く光ってみえた。風で乱れかかった長い黒髪のあいだから、引き結ばれた薄い唇が覗いている。表情を変えずに、北大路雅美は角材を振りおろした。重く鈍い音が立ち、迸った鮮血が北大路雅美の頬に数滴飛んだ。
 北大路雅美の足もとにうずくまっているのは、血まみれの男だった。肉が落ち骨の浮いた身体は隈なく腫れあがって青黒く染まり、毛髪のほとんど抜け落ちた頭部は膨れあがり、顔の肉のあいだに埋もれて目の位置も見分けられなくなっていた。さらに北大路雅美は何度も角材を振りおろし、そのたびに男の身体は右に左にと大きく傾いだが、その喉からはもう声もでないようだった。
 顔といわずワンピースといわず血の撥ねた跡をあちこちにつけたまま、北大路雅美は角材を投げ捨てた。北大路雅美の背後から、固太りの男が首を伸ばす。倒れた男の足に油をかけ、ライターで火をつけた。途端に、倒れていた男の身体が跳ね、物狂わしく手足が動いて火を叩く。その様子に、北大路雅美と万田と、さらにその後ろにいる天然パーマの男と眼鏡の男は、手を叩き腰を折って笑った。あれやりなよ、と北大路雅美は眼鏡の男に目配せをする。眼鏡の男はひとしきり太ももを叩いて笑ったあとで、背後にまとめて置かれていた荷物のなかから、臙脂色の筒の束を取りだした。
 眼鏡の男は固太りの男とともに血まみれの男の頭のまわりに筒の束を二重、三重に巻きつけると、筒の束に繋がった細長い導火線を手に、離れて見守っていた北大路雅美たちのところへ駆けていった。導火線の端を渡された北大路雅美は、手にしていたマッチを擦り、誕生日ケーキの蝋燭を前にしているような表情で火をつけた。手持ち花火に火がついたような音を立てて、火はまっすぐに男のほうへ向かっていく。やがて、今度は打ち上げ花火のような音がいくつも連続して起こり、炎と煙が一瞬大きく立ちのぼったが、ものの数秒も経たないうちに立ち消えた。顔を見あわせる男たちのあいだから、真っ先に北大路雅美が足を踏みだした。
 赤黒い血や肉の微小な塊が放射状に飛び散っている草を踏みしめながら、火をつけられた男に近づくと、北大路雅美たちはそのまわりを取り囲んだ。男の頭部は、上半分がなくなっていた。原形をとどめていないほど崩れ、わずかな肉の出っ張りになってしまっている口と鼻の上がすっかり吹き飛んでしまっているのだった。天然パーマと眼鏡が血の気のうせた顔で何歩か後ずさるのを尻目に、北大路雅美は前のめりに座った恰好のまま絶命した男を上から覗きこむ。そのまま割れた頭のなかに両手を突っこんだ。しだいに細い身体ごと前後に揺らしながら、北大路雅美は苛立っているように目をきつく眇め、男の頭のなかをかきまわしていく。洗濯物を手洗いしているような音がすぐに風呂の水をかきまぜているような音に変わり、気が遠くなるほどの時間が経ったと思える頃に、北大路雅美は水溜りから足を抜くような音を立てて男の頭のなかから手を引っこ抜いた。灰白色の半固体が、白い指のあいだから滴り落ちる。北大路雅美と入れ替わりに男に近づいたのは、万田だった。先ほど北大路雅美の構えていた釘の刺さった角材を、万田は水平にひと薙ぎした。辛うじて形を保っていた頭部は完全に破砕され、赤黒い嘔吐物のような柔らかな内容物が、北大路雅美と男たちの全身に降りかかった。
 長い腕を窮屈そうに動かして、万田は缶ビールを掴むと、熱いお茶をすするようにひと口だけ口に含んだ。スクリーンに反射する光のなかで、頬骨の浮いた細面の顔は風呂あがりのように色艶がよく、いたずらが発覚しやないかと脅えている子どものように目を伏せ、片手で後ろ髪を弄りながら弱々しげな笑みを口もとに浮かべているせいもあって、和也よりひとまわり以上も年上の男には見えなかった。
 それ以上に、世界的な映画監督の撮った映画に出演した人物と隣りあわせで当の映画を観ているという事実は、さらに和也には信じ難いことだった。
 喉の奥がひりつき、口のなかが乾ききっていたことに和也は気がついた。足もとのリュックサックからペットボトルを取りだし、生温い水を口いっぱいに含む。和也は唇を舐めた。言葉は喉に引っかかったままでていかなかった。
 ――本当は、誰が殺されたんですか?

 動物園の敷地を区切る背の高い柵に沿って道路に並んでいたベビーカステラやたこ焼きの屋台は、ほとんどが屋根を畳み撤収の準備が進められている。西陽を遮るもののない、身体にまといつくような熱気の滞留する道路のそこかしこでは、だがまだ地面に置かれた大型のカセットデッキから大音量で流れる演歌にあわせて、蛍光色の着流しやピンク色のスーツを纏った中年の男女たちがマイクを通して大音声の歌声を響かせていた。
 青空カラオケにふける人々を尻目に、長い影を延ばしながらそぞろ歩くワイシャツ姿の男たちやベビーカーを押す母親たちや甲高い声をあげて駆け抜けていく子どもたちに揉まれるようにして、万田は天王寺駅方面を指して歩いていた。肩から斜め掛けにした鞄のなかに右手を突っこみながら。
 汗ばんだ指先が絡みついているのは、八ミリカメラのシャッターボタンにだった。なかには封を切ったばかりのフィルムが装着されている。少し力をこめて人差し指を引けば、重い音を立ててフィルムがまわりだすだろう。その手応えを思うと、万田の胸は子どもの頃のような全能感で満たされた。夢中になっていたヒーローアニメのなかで、主人公が毎回必ず敵との戦いで負ける直前になって取り出す、最終兵器を手にしているようだった。いますぐに右手を鞄から出してシャッターボタンを押せば、一瞬で世界の色が塗り替えられてしまうだろう。だがじっさいに手を動かすことを考えただけで、嫌な汗で背中が濡れるのがわかった。そんなときにはカメラが拳銃のように思えた。たとえ身を守るためだとしても、身に帯びているだけで凶事を呼び寄せてしまうこともあるだろう、拳銃のように。
 一度もカメラを鞄からださず、だがシャッターボタンから指を離さないまま、万田は谷町筋の坂を天王寺駅へ向かって下っていった。駅を左手に、谷町筋と御堂筋とが交わる巨大な交差点にかかっている幅の広い歩道橋を渡って、阿倍野筋へと向かう。車体いちめんを原色の広告に包まれたチンチン電車が車道の中央を走っている阿倍野筋の歩道は、西側も東側もアーケード商店街が、地下鉄の駅ひとつぶんほどの距離を延びている。すでにシャッターの降ろされた店の前には、ビニールシートが敷かれていたり、段ボール箱が組み立てられたりしていた。底を抜いた段ボール箱を幾つか繋ぎあわせ、ダクト状にしたもののなかには、泥はねのようなものや土埃でどす黒く変色した布を身に纏いつけた蓬髪の、年齢も性別すらも定かではない人々が転がっている。力なく開かれた目。陽に焼けいちめんが髭に覆われた皺だらけの顔。垢と泥で爪のなかまで黒く汚れた手。
 先生の姿はどこにも見当たらなかった。
 陽が完全に落ちてしまえば撮影はできなくなってしまう。
 珍しく仕事にでているのかもしれないと、万田は西成のほうへ向かうことにした。環状線沿いに右へ折れ、裏道に入って西へ進んでいくと、やがて見晴らしのいい高台にでる。古い民家や商店が建ち並ぶ住宅地である阿倍野町から、数十メートルはあるだろう切り立った崖に刻まれた石段を下っていくと、西成区にでるのだった。
 間口の狭く屋根の低い日本家屋が長屋のようにぎっしりと軒を連ねていた。表向きは料亭ということになっているそれぞれの店の屋号の書かれた電飾やオレンジ色のナトリウム灯の光が夕闇に灯りだし、大正時代に作られたという飛田新地の当時の町並みがそのまま残されているようだった。少しでも早くドヤ街へと抜けようと、小走りで通りを進む万田に、軒先に立つ遣り手婆たちが声をかけてくる。どの店の戸口も全開になっていて、上がり框には仲居が座っている。スポットライトに照らしだされて、キャミソールやボンデージ服に身を包んで。気に入った子がいれば遣り手婆にその旨を伝えればよい。女の子とふたりで二階の座敷へあがると、ビールがだされ、十五分一万円で自由恋愛ができるという。大阪でひとり暮らしを始めて数ヶ月しか経たない万田が、できたばかりの友人たちからすでに何度も聞かされていた話だった。気に入った女の子に入れあげて通いつめた挙句、仕送りもアルバイト代も使い果たして退学した先輩もいたらしい。料亭街とは名ばかりの、実態としては日本最大級の遊郭街だった。
「兄ちゃんどこ行くん? この子かわいいやろ? 遊んでいってや」
 万田の腕を掴んできたのは、遣り手婆のひとりだった。髪が乱れ、鼻の頭には脂汗の球を光らせている。そのまま引っ張られて万田はたたらを踏む。上がり框に座っている女の子の、泣き笑いしているような顔が目の端をよぎった。その顔に吸い寄せられるように万田は敷居を跨ぎかけるが、すんでのところで踏みとどまる。なおも纏いついてくる手を振り払って軒先から離れたところで、細くひんやりとした身体にぶつかった。万田は謝りながら、店があるのとは逆のほうへとよろめきながら離れる。
 腕組みをして首を斜めに反らせ、きつい目つきを向けてきたのは、長い黒髪を腰のあたりまで伸ばした少女だった。濃紺色のワンピースにつつまれた、高校生のように華奢な体つきには見覚えがある。同じ映像学科の学生で、ついさっきまで一緒に講義を受けてもいた。日陰で育った植物のように色が白く、薄い顔立ちながら目鼻立ちは整っている。北大路雅美、という名前を万田は思い出した。いちどなにかの実習で同じグループになったことがあった。口は利かなかった。その後も誰かから噂を聞くこともなかった。北大路雅美が友人と一緒にいるところを見たこともなかった。万田の頭から足の先まで視線を動かすと、北大路雅美は哀れむような表情を浮かべ、顔を背けた。
「どうも。おれわかる? 学校一緒だよな。前に同じ班になったことあるよな」
 自分の声が震えているのが万田にはわかった。北大路雅美は振り返りもせず、軽く片手をあげて歩きだす。遊郭の玄関から勢いよく飛びだしてきた自分の姿が、十八歳の少女の目を通して見えたようだった。
「奇遇だな。じつはたまたま偶然ひょんなことから生まれて初めて通りかかったんだけど、なにしてたんだ? 散歩か?」
 入学そうそうあらぬ噂が広まりでもしてはと、万田は北大路雅美の後を追う。いや、待てよ。夕間暮れの陽射しと街灯の光も届かない薄闇を切り裂いて、細い足首に絡みついた赤いサンダルは、深海を泳ぐ魚のように進んでいく。仮に万田が本当に店からでてきたところだったとしても、北大路雅美がこの界隈をうろついていることはもっと不審なことに違いない。女子大生がひやかして歩いて楽しめる店などこの街にはないし、どう逆立ちしてもここにいる理由はありそうにない。たったひとつを除いては。
「そんなことあるわけないでしょう。私は芸妓をしていないし、わざわざこんなところに散歩にくるほど趣味の幅が広いわけでもない。家に帰っているところよ。ところで、どうだったの。感想は? よかったの? ふだんからよく来るんでしょう」
 不意に北大路雅美は足を止めた。ふたたびぶつかりかけた万田が足をもつれさせるようにしてよけると、北大路雅美は台所の排水溝のぬめりを見るような目を向けてくる。
「おい。誤解しないでくれ。おれは用事があって通りかかっただけでだな」
「用事?」
 北大路雅美は首を傾げる。長い黒髪が生温い風に弄られて流れた。
「日本最大級の遊郭街に用事があるだなんて、高校球児のように正々堂々と顔見知りの女子大生に告白できる勇気には、別の意味で感心したわ」
「その感心まったく嬉しくない。用事ってのはだな」
 首を振りながら後ずさりしていく北大路雅美を手で制しながら、万田は鞄から勢いよくカメラを引っぱりだした。手のひらから少しはみだすほどの大きさの黒々とした直方体の本体から、玩具の万華鏡のようなレンズが突きだしている。絞りやピントを調節するねじなどが無骨な形を覗かせている他には、過分に装飾的な部品などはいっさいない。シングル8、という名の八ミリカメラだった。
「冗談よ。その用事知っているわ。映画を撮ろうとしているのでしょう。なのになぜかしら、あなたが身の潔白を証明しようとすればするほど、どんどん激しく別の意味で感心してしまうのだけれど」
「芸妓と自由恋愛をしているところを八ミリカメラで撮影するとか、おれはそっち方面を目指してるわけじゃないぞ。っていうか、なんでおれが映画を撮ろうとしてることを」
 やさぐれた雰囲気の男が通りすがりに向けてきた不吉な目つきに、万田は抱えこむようにしてカメラを隠した。遊郭街の真ん中でうかつに撮影などしようものなら、どのような楽しからぬ事態を招かないとも限らない。
「芸妓と自由恋愛をしているところを八ミリカメラで撮影しようとしているなんて一言も言ってないのだけれど。その柔軟な発想力には舌を巻くわ。それに」
 北大路雅美は人差し指を万田の鼻先に突きつけた。
「あなたならやりかねない」
「おれのなにを知ってるんだよ」
 指先を逸らさないまま、北大路雅美はため息をつく。
「デザイン学科や文芸学科の子たちと一緒にわら半紙で詩集を作って、難波の引っかけ橋の上で売った。しかも目立つように昇り竜の刺繍の入った学ランを着て、顔に血糊を塗って転がっていたそうね。集団で地下鉄に乗りこんで、電車のなかやホーム上を駆けまわって鬼ごっこをしたこともある。高松塚古墳の上でケンケンパーをする計画も立てていたけれど、メンバーが集まらなくて延期になったようね」
「北大路……だったよな。おまえ、誰かと知りあいだったっけ」
 かすかに跳ねあがるように、北大路雅美の眉が動いた。あげていた指をゆっくりとおろす。
「引っかけ橋のたもとで、一部始終を見ていたわ。地下鉄の鬼ごっこのときには、帽子を深く被ってマスクをし、乗客に紛れてすぐ後ろをついて歩いていた。漏れ聞こえてくる会話から、ケンケンパーの計画と、映画の撮影計画を知ったの」
「つけまわしすぎだろ。ひょっとしておまえ」
 北大路雅美は俯いた。長い黒髪のあいだから、頬が紅く染まっていくのが見えた。ワンピースの裾を、細い指先が握り締める。
「そんなに参加したかったのか?」
「万田くん。あなたのこと、そこまで鈍いひとだとは思わなかったわ」
 弾かれたように顔をあげた、北大路雅美の目は潤んでいた。
「なんにもわかっていない。胸がうずいて、まるでなかから凶暴な獣が飛びだしてきそうな衝動。何者かになりたい、というよりならなければならないという焦燥。でもどちらも、どこにもやり場なんてない。ゆきずりの号令で異郷へ、そこでは空気さえも異郷であるような徹底的な異郷に送りこまれ、物騒な仕事に就かなければならなくなったとしても、嬉々として従うでしょう」
「なんの話だ」
 まるで知らないあいだに身体についていた傷痕を発見したように、万田は困惑した。
「あれは入学式の帰りだったかしら。会場をでたところでサークルの勧誘に揉みくちゃにされたの。なかには腕を引っ張ってきたり、違法行為すれすれの連中もいて、よほどぶっ飛ばしてやろうかとも思ったのだけれど」
「晴れ舞台の入学式を、一転惨劇の現場に塗り替えるつもりかよ」
「すんでのところで思い留まって、適当なサークルに入部したわ。その後は、もう入部したといえばしつこく誘われることもなくなった。ひと月ほど経って、勧誘の波が収まってきた頃に、退部届をだすために初めて部室を訪れたの」
「待てよ。ってことはおまえ」
「映画研究部の部員よ。筋金入りの幽霊部員だけれど」北大路雅美は小鼻を膨らませた。「部室に行ったのはその一回きり。でも退部届はださなかった。そこで、あなたの噂を聞いたからよ」
「おれの噂?」
「正確には、あなたと相澤くんの噂。学園祭の上映会で上映するための作品を撮っているのはあなたたちふたりだけだって、先輩たちが話していたわ」
「あれか。エントリーしただけで、まだ撮ってはないけどな」
 万田は口ごもった。秋にある学園祭で、映画研究部は上映会を開いていた。部員のなかから企画を募り、集まったシナリオを部内会議で検討して、過半数の賛同を得たものを部全体で一丸となって制作していく、という流れを入部したばかりの頃のオリエンテーションで知らされた万田は、書き溜めてあったシナリオのひとつを深い考えもなく提出した。ふたを開けてみると、じっさいにエントリーしていたのは万田と、同じ映像学科の新入生の相澤俊一だけだった。
「たしか学園祭は十一月だったはず。そんな悠長なことで間に合うのかしら。相澤くんはもう撮り始めているって噂だったけれど」
「相澤は、高校の頃からもうかなり撮ってて、慣れてるからな。おれは、シナリオを書いたことはあるけど、撮ったことはないし。スタッフだって、どう使っていいかわかんないし」
「映像学科のひとがたくさんいるから、あなたが撮るっていいだせば、寄ってたかって手伝うと思うわ」
「でもおれ、まさか選ばれるとは思ってなかったんだよな。先輩方の選評を聞きたかっただけっていうか。シナリオだってちゃんと勉強したわけでもないし、たぶんまだまだ改善の余地があるはずなんだよ」
「選ばれたということは、少なくとも映研のみんなにはウケたんでしょう」
「先輩方は、撮りたいひとたちの集まりなんだよ。技術はすごいものを持ってる。でもシナリオ書けるひとがいないんだよ。書きたくても書けないんじゃないかな。だから、まあ誰のでもいいんだよ。撮る口実ができれば。影で貶されながら使われるくらいなら、選ばれないほうがマシだったよ」
 絶対傑作になるよ、学園祭が終わったらアマチュア向けの映画祭に出品しよう、と早々と撮影スタッフに名乗りをあげてきた先輩方の誰彼の笑顔を万田は思いだす。その言葉や表情の意味を胸の奥の入り口あたりで遮っていた濃い靄のようなものが、北大路雅美と話すうちに晴れていくようだった。
 シナリオはこれまでに何本も書いたことがあったものの、書き方を学んだことは一度もなかった。手当たりしだいに映画は観てきたが、好きなものは繰り返し観ていながらもなぜどこが好きなのかを問われても説得力のある説明をできたことは一度もなく、そのためいつからかそれらについて語ることを憚るようになってしまったというような観かたしかしてきておらず、一方で嫌いなものはその理由を分析することもなく観た端から忘れていっていた。
 つまりは観たものを自分のものにできているという手応えがなかったのだ。そんな自分が映画研究部の先輩方を率いて自作の監督をする。考えただけでも、いわば好きな料理だけをつまみ食いして覚えたていどの料理の腕で料理店の店長を任されたような、申し訳なさにいっぱいになるのだった。
 たとえ観た映画は確実に手のなかに収めてきたという確信があったとしても、それでも万田は監督の任に就くことをためらっただろう。伝える側に立つ者として、万田には人生の深遠に触れた経験がなかった。社会で起こっている事象についてはもとより、家族や友人たちについても、自分の人生についてさえ、一度だって真剣に悩んだことがなかった。というよりも、それらは硬く分厚いガラス窓の向こう側にあるように、すぐそこに見えてはいるのに触れることのできないものだった。
「それは相澤くんも同じではないかしら」
 曲がり角にくるたびに、吹き抜ける生ぬるい風に長い黒髪を弄らせながら、北大路雅美は先に立って赤いサンダルのヒールの音を響かせている。オレンジ色に染まっていた空は濃い群青色に塗りこめられていて、提灯や行灯を模った街灯にもひとつまたひとつと灯りが灯しだされていっていた。
「出席番号が近いせいで同じ班に振り分けられることが多くて、私は相澤くんと話す機会がたびたびあったのだけれど、話すことといえば映画のことばかり。それもB級ホラーとかスプラッター映画で、映画理論の講義のときなんか、つまらなそうにあくびをしていたわ。ヌーヴェル・バーグもイタリアン・ネオリアリスモも観たことがないっていっていた。でもね、万田くん。好きな映画の話を相澤くんがしているとき、手に取るようにわかったの。相澤くんがこれまでどんなふうに生きてきたのか、どこへ向かおうとしているのかが。そんな話はこれっぽっちもしたことがないのにね」
「どんなふうに生きてきたのか、どこへ向かおうとしているのか」
 誰かから聞いたことのある、北大路雅美の噂を万田は思いだした。高校時代は絵を描いていて、名のある賞をいくつも受賞していたのだが、現役合格をした東京にある国立の芸大の美術学科を蹴って大阪の片田舎にある私立の芸大の、しかも映像学科に入学してきたらしい、というものだった。本当だとすれば、なぜ数段ランクの落ちる大学の、それまでの経歴とは関係のない学科のほうを選んだのか。口にしかけて万田は思い当たった。なぜこの大学なのか、という問いは、進路を決めるさいに親からさんざん投げかけられたものでもあったのだ。高校を中退していらいアルバイトをしていた映画館で入学金を貯め、残りの学費は奨学金で賄ってまでこの大学にこだわった理由は、万田にもよくわかっていなかった。
「わたしはね、ずっと絵を描いてきたの。子どもの頃からずっと。絵さえ描いていられれば、他にはなにもいらなかった。これからもずっと描いていくために東京の芸大に行きたくて、つまらない受験用のデッサンに三年間も魂を売ったわ。でも本当に芸大に合格して、これからずっと描いていけるようになったとたん、怖くなった。怖くてたまらなくなったのよ」
 しだいに遅くなってきていた北大路雅美の歩みは、四つ辻を抜けたあたりでいよいよ止まってしまった。
「怖いって、いったいなにが?」
「万田くん、自分の顔を鏡で見たことはあるかしら?」
「残念ながら毎朝見てる」
「もしもその顔がある朝グレムリンみたいな、いえそれだとあまり変わりばえしないわね。マイケル・J・フォックスみたいな顔に出世していたらどうする?」
「いまの質問の前半部分は、わざわざ口にだす必要があったのか。無用に傷ついたし、あとどうするって訊かれても」
「私のやってきたことは、日々それの連続だったわ。描いても描いても、いくら描いても私は私に近づけない。むしろ、どんどん遠ざかっていく一方なの」
 後ろから追い抜いてきたバイクをよけて自動販売機に凭れかかった北大路雅美は、そのまま背を預けたまましゃがみこんだ。陽が完全に落ちるまでには西成に辿り着いて先生を捕まえなければ、わざわざ電車を乗り継いで天王寺まででてきた甲斐がなくなってしまうというのに、ついさっきまで苛まれていた腹の底から刺しこむような焦燥感が消え失せてしまっていたことにようやく万田は気がついた。まるで学校をさぼって盛り場をうろついてはみたものの行く当てもなくなって途方に暮れてしまった中学生のように、万田は北大路雅美の隣に腰をおろす。
「描いても描いても自分に近づけないことが怖いってこと?」
 それまでに書いてきたシナリオの内容を万田は思い返していた。書くことによって自分に近づけた、というような実感を持てたことは一度だってなかった。だが書くことが怖い、という感情には覚えがある気がしないでもなかった。映画研究部の企画で選ばれたシナリオを撮りたいと先輩方が寄ってきたときに胸底でとぐろを巻き、万田を及び腰にさせた不安は、手繰り寄せていけば怖れに似た感情に行き着くのかもしれない。衝撃作だ、これは傑作になる、ぜひ撮ろうと熱のこもった賞賛を聞かされるたびに、とんでもないです面白くありませんと返していた言葉は、謙遜などではなく本心だった。万田は自作のシナリオを、心から面白いと思えたことがなかったのだ。ひとりでもいい、自分以外の誰かに面白いとみなされれば、万田にとってその作品は存在した。だが作品が存在することで自分に近づけたなどと思えたことが万田にはなかった。ことによるとそのせいで、万田は映画の制作に乗り気になれなかったのかもしれない。もしも作品の存在が自分の存在とは無縁のものなのだとすれば、映画が完成してしまえば万田の存在は跡形もなく消え去ってしまうという可能性もあるのだから。
「それは違う。近づけないことは失ってしまうことではないもの。一枚の絵を描いて、そこに私がいないからまた一枚、別の絵を描く。そこにもやっぱり私はいない。だからまた新しい絵を描く。どの絵のなかにも私はいないのだけれど、でもね、一枚の絵に絶望してまた別の絵に向かう希望のなかには、振り返るとたしかに私の影が映っているの。作品が完成するたびに、私たちは存在しなくなってしまうかもしれないのだけれど、闇がなければ光もないのと同じで、存在の影なりと残すためには、それは必要な過程なのよ」
 汗ばんだ肌の匂いと西陽の熱を吸った髪の匂いがふくらみ、目の隅でワンピースの裾が踊った。北大路雅美の立てた両膝のあいだから、細いながらもほどよく肉のついた太ももと、その付け根を覆う黒い布が覗いていた。
「大サービス」
 顔を逸らせかけた万田の顎に、北大路雅美は手をかける。切れ長の大きな目のなかで、黒い瞳が揺れていた。
「シナリオを読ませてもらったから。映画研究部のシナリオコンペでね。あそこには私の影が映りこんでいるように思えたの。描きあげたばかりの絵を眺めているときみたいに」
「お前とちゃんと話したのは今日が初めてだし、気のせいじゃないかな」
 北大路雅美の股間から目を引き剥がしながら立ちあがろうとした万田は、腕を強く引っぱられてよろけた。
「もう遠まわりしている時間はないの。あなたにも、私にも」
 万田が膝を突いた拍子に鞄から飛びだした八ミリカメラのレンズに、北大路雅美は細い指先を這わせる。温かい息が万田の頬をくすぐった。
「相澤くんは放っておいても撮れるひと。でも万田くん、あなたは、私がいなければいつまで経っても撮らないでしょう」



仙田学プロフィール


仙田学既刊
『盗まれた遺書』