「鬼門コンパ(2)」仙田学


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 整然と区画された敷地内には、夕闇に浸された墓石の列が見渡すかぎり四方八方へと延びている。濃い緑のにおいと蝉の鳴き声を掻き分けながら石畳の小道を辿り、いくつかの区画を通り過ぎたところで、万田は足を止めた。大きな柳の木があり、その根方には背の高い潅木が生い茂っている。そこだけいっそう夕闇が濃くなっているようだった。
「このあたりでいいだろう」
 振り返りざまに、間一髪のところで万田は身を反らした。鼻先で空気の裂ける音がする。
「どこに連れていかれるのかと思ったら、ひと気のない夜の阿倍野霊園だとは。本当に男って油断も隙もないわね」
 北大路雅美が構えているのは、墓石清掃用のヒシャクだった。
「壮大な誤解をしてないか? っていうかそれ、入り口のところにあったやつだろ。なんでわざわざここまで来てから」
 万田の声は北大路雅美の耳には入っていないようだった。表情のない目でヒシャクを上段に構え、間合いをつめてくる。
「友達連れてきたんか? 仲良さそうやな」
 聞き覚えのあるしわがれた声のしたほうへ、万田は弾かれたように頭をさげた。
「先生! お久しぶりです。どうしても先生に会いたいっていうものだから……先生?」
 頭をあげた万田の足もとで、北大路雅美の振り下ろしたヒシャクに脳天を打ち据えられて、先生は倒れていた。
「ようあることや。気にせんでええ、ええ」
 泡を食った万田がとりあえず頭から水をぶっかけ、往復ビンタを繰り返すうちに意識を取り戻した先生は、喉に痰が絡まったような声を絞り出した。白い蓬髪の乱れかかった顔を、首に巻いた黒ずんだタオルで拭う。ごま塩髭に覆われた浅黒い顔は、恰好にそぐわず輪郭が細く、眉間には彫刻刀で彫られたような縦皺が刻まれていた。
「あなたが先生ね。失礼しました」
 両手でかかえた一升瓶を、北大路雅美が差しだした。飛田新地の街角で話しこむうちに、私がいなければいつまで経っても撮らないでしょう、と迫ってきた北大路雅美は、今日はもう陽が落ちたから、まだアイディアも固まっていないから、と口ごもる万田を促して、というよりもなかば問い詰めて、先生を撮影しようとしていることを訊きだすと、会わせろと言いだして譲らなくなったのだった。先生がどんな人物なのかということも、その居場所も、はっきりと伝えてしまうと顔をあわせたときに撮らざるをえなくなってしまうような気がした。そこまでのふんぎりのまだつかなかった万田は、とりあえずどこへ行くとも告げないまま北大路雅美を導いてきた。その一方で、でたらめな場所に向かうこともできず、陽が暮れると先生の現れる阿倍野霊園に足は向かった。顔をあわせた後にも、これは先生ではないという言い抜けのできるゆとりがあったとはいえ、隠せども嘘はつきたくなかったのかもしれない。あるいは、北大路雅美と一緒に先生に会えば、本当に撮れてしまうような気がしていたのか。いずれにせよ、先生が現れた瞬間、万田は反射的に北大路雅美に紹介してしまっていた。
「越乃暖梅やんけ」先生は大音声を張りあげた。「姉ちゃん、ほんまおおきに。いやほんま」
 霊園の裏手の酒屋では、美人が買いにいくと阿呆みたいな額の値引きをするらしい。そんな都市伝説を先生に聞かされたことがあったのを万田は思いだし、北大路雅美とともに寄ったのだった。それにしても顔面を紅潮させて打ち震えている先生を見るのは初めてだった。酒に目がないというところだけは、先生の美徳のひとつとして数えかねた。
「生きてるうちに越乃暖梅飲める思えへんかったわ」
「わたしも初めてだわ。あんまり冷えていないのだけれど」
「そのほうがええわ。温燗がいちばんいけんねんこれ。宴しよか宴」
 酒を介して意気投合したらしいふたりは、万田を放置して宴の準備にかかりだした。あたりに散在している潅木の茂みを迷うことなく順繰りにまわって、先生はその奥から煉瓦ブロックを引っぱりだすと、ひときわ広い墓の敷地内になんの断りもなくカマドを作成し始める。ちょうど墓石の陰にすっぽりと収まるほどのサイズのカマドが、みるみるうちにできあがった。ついでぱんぱんに膨らんだゴミ袋を引きずってきた先生は、いっぱいに詰め込まれている割り箸を数本ずつ束ねて掴み取っては、カマドのなかへ無造作に投げ入れていく。先生の的確な指示にしたがい、万田と北大路雅美はいくつもの墓石の裏を駆けずりまわって、その裏に隠されていた鍋やオタマや菜箸やコップや皿などを拾い、カマドの前に集めていった。
 赤の他人の墓石の陰にしつらえた即席のカマドに、割り箸の薪をたっぷりとくべると、先生は湿気たマッチを何本も無駄にしながら火を入れる。万田は取手のとれた鍋に水道水を汲んできて火にかけた。頃合いをみて、先生は何枚ものビニール袋に小分けされた食材を投入し始める。里芋、人参、じゃがいも、チキンナゲット、牛蒡、蓮根。
「画期的なシステムね。誰も手入れにきていないような荒れ放題の墓石ばかりを狙って、墓石の裏を私物入れに改造してしまうなんて」
 万田の敷いてやったハンカチの上にあぐらをかき、北大路雅美は縁の欠けた湯飲み茶碗をぐいと突き出した。剥き出しになった太ももの奥から目を逸らしながら、万田は越乃暖梅をなみなみと注いでやる。
「鍋とか食器類とかも、ゴミの収集日に拾い集めて揃えたんや。このへん住宅街やさかい不自由せえへんねん」
 ラベルが剥がれて泥まみれになっているプラスチック容器から醤油を鍋に差しながら、先生は湯飲み茶碗を豪快に呷った。先生が取り分けて渡した皿から、北大路雅美は里芋をひとつ箸でつまみあげ、大きく口を開いた。
「先生は物持ちがよろしいから。この食料も落ちてたやつなんだよ」
 北大路雅美は手を止めた。
「落ちてたて。人聞き悪いこといいな。ゴミ捨て場に出してあったやつやぞ」
「すいません先生」
「駅のまわり一帯、食べもん屋になっとるやろ。営業時間が終わると、賞味期限切れになった食いもんを一斉に裏口へ出しよんねん。競争率激しいけど、店のもんと顔見知りになっといたら、優先的にまわしてもらえんねや。笑うで。高級料亭やいうてるとこほど、冷凍食品使い倒しとるからな」
 いつになく饒舌な先生につられて、万田も越乃暖梅を喉に流し込む。飲酒の習慣のないせいか焼けるように喉が痛むのをごまかすように、じゃがいもに噛みついた。酸っぱい味が口じゅうに広がっていく。先生が食料の調達に出かけるのは、飲食店の閉まってからの深夜の時間帯だった。鍋のなかの食材は、初夏の陽射しにまる一日照りつけられていたことになる。楽しからぬ微生物が鍋のなかで猖獗を極めているだろうことは想像に難くなかった。おそらく強力な免疫ができているだろう先生はともかく、そして修行の一環として免疫をつけていかなければならない自分はさておき、北大路雅美を食あたりにさせるわけにはいかない。先生を傷つけないような言い訳を探して頭をフル回転させつつ、鍋から離れるよう目配せをしようと振り向くと、
「ちょっとしょっぱいわね。関西は薄味が多いけれど、私はこれくらいのほうが好き」
「姉ちゃんええ食いっぷりや。おかわりよそったろ」
 てんこ盛りに盛られたおかわりの皿を、北大路雅美は掻き込んでいた。切れ長の目は、日本酒を急ピッチで摂取しているとは思えないほど涼しげだ。この適応力の強さなら微生物と胃袋も共存共栄しているに違いない。万田はふたりの目を盗んで自分の皿の中身を鍋に戻した。
「ところであなた、いったいなんの先生なのかしら。学校の先生には見えないのだけれど」
「おれが? 霊園に住んでる学校の先生なんかおらんやろ。お化けの学校やあるまいし」
「住んでる?」
「ここ二、三年の話やから、ゆうてもまだペイペイやけどな」
 皿から顔をあげ、先生は灯り始めた庭園灯の光の届いていない暗がりのほうを顎で示した。痩せた柳の木の枝にロープが張られ、ビニールシートが何枚か引っかけられている。その隙間から、ぼろ布のようなものにくるまった黒いひと影が、潰して広げ敷いた段ボール箱の上に横たわっているのが見えた。
「大先輩や。たぶん自分らが生まれる前からおるんちゃうか」
「二十年以上も前から?」
「ずっととここにおったかはわからんで。いろんな霊園を転々としてきたゆうとったし。昼間は路上とか天王寺公園で過ごすけど、寝るときはここに戻ってくんねんて」
「ここより静かなところはないでしょうね。霊的な意味で騒々しい気もするけれど」
「あのひとなんかはな、おれの親くらいの歳や思うけど、ああしてもう何十年もお迎えがくるのを待っとるんや。名前も、歳も、住んでたとこも、これまでしてきたことも、なんにも覚えとらへん。戸籍上存在してるかどうかもはっきりせえへん。なにもかも失くして、この世とあの世の境目をひたすらさまよってるんや」
 先生は胸ポケットから折れ曲がったシケモクを一本取り出して咥えた。深く煙を吸いこむと、ゆっくりと吐き出す。
「大先輩」
 ビニールシートの向こうの老人へと、北大路雅美はカマドの火に紅く染まった頬を向け、ついで先生と万田を指差した。
「先生と弟子。あなたたちもああなりたいの」
「先生は違う」
 万田は身を乗り出した。
「先生はな、先生は……」
 顔を背けた先生が、タバコの火を墓石で揉み消すのが目に入った。万田が先生と出会ったのは、入学してすぐに入った映画研究部の新歓コンパのあった日だった。天王寺のチェーン店の居酒屋の座敷に数十人が集まっての飲み会は、高校を中退してから映画館でアルバイトをしながら受験勉強をしてきた万田には眩しく、自己紹介や映画の話もそこそこに小グループに分かれて屈託のない個人攻撃を始める部員たちの輪に入っていけず、万田は店をでると二次会の誘いを断り、早々に駅に向かったのだが、そのまま大学の近くのアパートまでまっすぐに戻る気にもなれず、路地裏に入って覚えたばかりのタバコに火をつけた。二、三服ふかしたところで、声をかけてきたのが、黒ずんだ作業着から生乾きの洗濯物のような匂いを立ちのぼらせた年配の男だったのだ。
 このあたりは夜には物騒になり、警察の巡回も厳しくなるから遅い時間に出歩かないほうがいいと忠告してきた男は、立ち話をするうちに万田が天王寺にはまだ数えるほどしか来たことがないと知ると、新世界界隈で酒や焼き鳥の安い店の場所や、さらに安く飲むために店主と仲良くなる方法について、あれやこれやと語ってきた。差しだしたタバコを立て続けに吸う男と小一時間ほど話した後の帰り道、駅まで向かう足取りは軽く、乾いた喉に冷たい水が沁みこむように、男との会話に満たされた自分を万田は見いだしていた。
 西成の飯場での日雇い仕事で日銭を稼ぎながら、天王寺駅周辺の路上で寝泊りしているというその男を、万田はたびたび訪ねていくようになる。タバコや酒を手土産に、陽の暮れる頃に阿倍野霊園を訪れると、男はいつも墓石の裏から調理器具や食材をだしてきて、残飯で拵えた手料理をふるまった。芸大の映像学科に進学し映画研究部に所属しても、心置きなく話せる相手にまだ巡り会えていなかった万田は、ほどなく毎週末のように霊園に通いつめることになる。男のほうも、話し相手を得ること自体がしばらくぶりのことだったらしく、毎回のように供えられたばかりの供え物や賞味期限が切れて廃棄されたてほやほやのスーパーの惣菜で万田をもてなした。男はほとんど自分の話をしなかったが、聞きだしたところによると、数年前から霊園で暮らし始める前までは、大手証券会社で役員を務めていたらしい。大阪市内で庭付き一戸建ての家に住み、家族との関係も良好で、退職後はハワイに移住して夫婦水要らずでゴルフ三昧の生活を送る予定だったとか。ところが次女が大学を卒業した春のある夜に、男は仕事に行くと家をでて、そのまま二度と戻らなかったのだという。食料や寝るところを手に入れるために働き、顔を洗う水の冷たさや雨上がりの陽光の清々しさに喜び、冬の寒さや夏の暑さを怖れ、助けあい、ときには争いながら暮らしていく。こんな生活を手に入れるためにそれまでの人生があったのだと、すぐに気がついた。娘たちを成人するまで育てあげ、一生困らないほどの財産を残すことを目指して働きつめてきたが、それらを実際に入れてしまってからというもの、まるで人生が完了してしまったような退屈を持て余していたからである。その退屈の下から迫りあがってきたのが、路上で暮らしたいという欲望だったのだ。
 どんな映画よりも本よりも、その話は万田の気持ちを揺さぶった。やがて万田は、男を先生と呼ぶようになっていた。
「わかっているわ。万田くん、あなたのシナリオを読んで、おおよその見当はついていたもの。この作品にはモデルがいるんだろうなって」
 カマドの火と越乃暖梅に紅く染まった顔を、北大路雅美は傾ける。
「あのシナリオ、おまえ読んだんだったよな。なんか悪いな。中途半端なもん読ませちゃって」
 消え入りそうな万田の声に、豪快な放屁音を被せてきたのは、他ならぬ先生だった。
「兄ちゃんシナリオ書いとんの。なんのシナリオなん。どんなんなん」
「つまらないものですが。主人公は日雇い労働をしながら墓場で暮らす初老の男で」
「なんでもないです、なんでも。ほんとつまらない話なんで」
 シナリオのストーリーの説明をし始めた北大路雅美の声を、万田は慌てて遮った。
「隠すことあれへんやん。ほんで?」
 社会を転覆させたいというロマンに取り憑かれている男は、夜な夜な高級住宅街を徘徊しては、目をつけた家に火をつけてまわる。しだいに、賛同する労働者たちが増えていき、彼らは墓場で集団生活を営みながら国家転覆を計画する。その矢先に、仲間のひとりが暴力団組員の事務所に火をつけてしまい、日雇い労働者と暴力団の血で血を争う抗争が勃発する。
「おもろいやん。やくざ映画やな。おれ好きやで。広島代理戦争とかな」
 北大路雅美の説明を聞きながら、手酌で湯呑み茶碗に注ぎ足した越乃暖梅を呷り、先生は前歯の欠けた黒い歯を剥きだして笑う。自分をモデルに作られた話だということには思い及んでいないようだった。
「やくざ映画とはちょっと違うのだけれど。映像化されれば新しいジャンルが必要になるでしょうね、きっと」
「さよか。楽しみやな。いつ撮んのん?」
「それは。まだちゃんと映画の勉強をしたわけでもないし。だいたい観てる映画だってまだまだ少ないし、人生経験だって少ないし。もっともっと勉強して、そのときがくればいつか」
「なんや。だいぶ先の話かえ」
 口もとへ運びかけた湯呑み茶碗を顔から離し、先生は目を見開いた。子どもの頃に飼っていた柴犬を万田は思いだした。忍んできた野良犬とのあいだに子犬が産まれたのだが、家では飼うことができず、里親を探した。引渡しの日の朝、子犬の向けてきた目に揺れていたのと同じ表情が、先生の目にも映っていた。
「万田くん。あなた女の子に告白したことないでしょう。されたことももちろんないだろうけれど」
 北大路雅美は膝の上に載せていた皿のなかを突ついていた箸の先を、万田の鼻先に向けてきた。箸の先端には、里芋が刺さっている。
「おまえってほんと、ひとの心の傷を狂いなく突いてくるよな」
「あなたみたいなひとはね、傷を傷だと感じることもできないところが問題なのよ。手に入れたい、そしてあんなことやこんなことを思う存分やりまくりたいと思っている女の子がいたとしても、あなたは口にすることすらできない。おれは顔がよくないし。背も高くないし。頭も足りないし。お金もまったくないし。自慢できることなんかひとつだってないし。ってね」
「青春やな。兄ちゃん、女の子にここまで言わしたらあかんでしかし」
 頭を抱えてうずくまった万田の肩を、先生がどやしつけた。
「首から上がマイケル・J・フォックスとすげ変えられて、脳は東大総長のものが移植され、宝くじで当たった一億円で手術をして二十センチほど身長を伸ばしたとしても、万田くん、あなたはこう言うでしょう。今日は日取りがよくない、って」
「それもはや、おれじゃなくなってるし。でも言われてることはその通りだよ」
「認めた。じゃあこれはなにかしら」
 膝に抱えていた皿を墓石の上に置くと、北大路雅美は立ちあがり、ワンピースの裾を翻して万田の前を横切ると、万田の鞄の前でしゃがみこんだ。白い細腕をなかに突っこむと、引っぱりだしたのは、シングル8だった。
「告白する勇気もないのにラブレターを鞄に忍ばせて意中の相手を追いまわしている乙女のように、なぜ撮るつもりもないのにカメラを携帯してシナリオにでてくる場所をうろついていたの」
「その喩えいつまで引っぱるんだ。撮るつもりだったよ。おれのシナリオをもとに先輩方が映画を撮るなんて、やっぱり考えられないんだけどさ、でもそれだと寂しすぎるっていうか。映画だとかそうじゃないとか抜きにして、おれが見たいものを撮りたくなったんだよ」
「万田くん、あなたの口からその言葉を聞けるのを、私はずっと待っていた気がするわ。あなたは、撮らずにはいられないひと。あなたがやるべきことは、あのシナリオを映画にすることではなくて、撮ることであなた自身に少しでも近づいていくことなのよ」
 カマドの火がひときわ強くなり、シングル8を胸に押し当てている北大路雅美の姿が赤々と浮かびあがった。切れ長の目は熱に浮かされたように濡れていた。絵を描くことが恐ろしい、という北大路雅美の言葉を万田は思いだす。絵を描くことは自分から遠ざかっていくことでもあるともいっていた。だが自分に近づけないことが恐ろしいというわけではないらしい。近づくためには描かねばならず、描けば描くほど遠ざかっていく。そのようなやりかたでしか、自分とは近づけないものなのだとしたら。それは果てのない干潟の干拓事業のようなものだ。陸地を拡大して海を埋め尽くしたいという願望。そもそもの初めから不可能なことなのだが、といってそれ以外の方途はなにもないのだ。北大路雅美はずっと以前からそのような営みに身を捧げてきたのかもしれない。そして先生も。その影の気配すら感じられない、大海原の向こうの大陸で。万田と同じように波打ち際に立ち、向こう側に焦がれながら。
「だから、形になんてならなくてもいいの。万田くん、あなたは、あなたに近づくために、いまのあなたから脱出しなければならないの。撮りなさい」
 北大路雅美から手渡されたシングル8は、まるで水からあがったばかりの自分の体のように重く、万田は足を踏みしめなければならなかった。
「なんや自分ら。駆け落ちでもすんのん? 青春やな」
 墓石に凭れて座ったまま、先生は万田と北大路雅美の顔を交互に見あげ、感じ入ったふうに首を振った。


 ふちの赤く染まった目を万田が向けている窓の外では、濃い葉陰をいちめんに散らした茶畑がゆっくりと現れては後方へ消えていく。景色を限っている峰々は、雲のない空にその輪郭を押し絵のようにくっきりと浮かびあがらせていた。
「静岡か。おれの友だちの親父が、ちょうどこのへんで新幹線停めたことがある」
「新幹線を? 意味わかんないっすね」
「混んでて自由席に座れなくて、デッキに座り込んで本読んでたらしい。そしたら車掌に注意されたんだと。逆ギレして、言いあいになって、停めろって話になって」
「まじっすか。最悪っすね」
「和也くんにすりゃありえない話だろうけど、おれらの親くらいの、六、七十年代に若い頃を過ごした世代にはありがちな話なんだよ。先生はまさに、その世代のひとだった」
「万田さんの親の世代ってことは……、僕のおじいちゃんくらいの世代っすね」
「おいおい。せめて親戚の叔父さんくらいにしといてくれ」
 緩く握ったこぶしで、万田は和也の肩を突いてくる。鼻息を漏らしているだけのような、か細い声で笑いながら、自分の膝頭のあたりに目を伏せている。万田に一歳数ヶ月の娘がいることを和也は思い出した。春先の柔らかな風にも根もとから靡いてしまう細い草のようなこの男に、父親という役柄はあまりにも寸法があっていないようにみえる。初めて万田に会ったとき、和也が思い出したのは、母方の叔父だった。
 万田とほぼ同年代だった叔父に、小学生だった和也は頻繁に誘われて連れだされた。正月の親戚一同の集まりなどでは大柄でよく笑う妻と和也より少し年上のふたりの娘に隠れるように隅に座り、グラスを手に所在なげに笑みを浮かべているのが常だった叔父は、和也を連れ出すときには決まって、熱に浮かされたような赤らんだ顔でのべつ喋り続け、牛の体ほどある大きさのバイクの後ろに和也を乗せると、ヒーローもののアニメの主題歌を爆音で流しながら郊外の国道を飛ばした。山を切り崩して作られた住宅造成地に到着すると、叔父はナップザックから蛍光色の衣装を引っ張り出し、洗濯のしすぎで伸びきったブリーフ一枚になって、お気に入りのアニメのキャラに変身するのだった。渡された一眼レフで、山々をバックに自由気ままなポーズを取る叔父を言われるがままに撮影し終わると、ふたたび爆音バイクで自宅まで送り届けられる。爆音が近所の噂に立たなかったはずはなく、母親も気がついていたとしか思えないのに一言もなにも言ってきたことがなかったその儀式は、月にいちどのペースで数年間続いたかと思うと、ぱったりと途絶えた。
 新興宗教に入信した叔父が家族を棄て、出家したという話を和也が母親から聞いたのは、そのずっと後のことだった。
「六、七十年代ですか」
「おれは昔からその時代に興味があってさ。音楽にしろ映画にしろ本にしろ。その時代に生まれたかったってずっと思ってたくらい。だから、おれは先生をモデルにしたシナリオを書いたりしてたわけだけど、先生自身ってより、あの時代への憧れを形にしたかったのかもな」
 手のなかで缶ビールを弄びながら、万田は鼻から大きく息を吐いた。
「憧れですか。生まれる時代は選べないっすもんね」
「あの頃は、その必然性のなさに直面したくなかったんだろうな」
「相澤さんも、そうだったんでしょうか。『鬼門コンパ』もあの時代が背景になってますよね」
 和也は座席から背を浮かせ、体ごと万田のほうへ振り向けた。窓の向こうを目で追いながら、万田は横顔だけで頷いた。
「学生運動の話だもんな。そういやあいつ、テレビで浅間山荘事件の特集をやっていて、当時のニュース映像を見たのがきっかけで、あの映画を思いついたっていってたっけ」
「なるほど。内ゲバの事件ですもんね」
「二十年も前の話だとはいえ、同じ日本だとは思えなかったって。どこか外国の映像、ってよりまるで映画を見てるみたいだったっていってた。それは、おれたちの世代に共有されてる感覚なんだよ。『鬼門コンパ』の撮影が始まった年に、ちょうどオウム真理教事件が起こったしな」
「それこそおれ、テレビで当時の映像を見ましたよ」
 新興宗教団体の教祖だった死刑囚や教団幹部たちの手記や音声の記録、当時の再現映像などで構成された特集番組に、和也はたしかに、自分が生まれて間もない頃のこの国であった出来事だとは思えない、という印象を受けた。だがたとえば、その出来事と拮抗するような映画を撮りたいという願望には、大きな飛躍を感じずにはいられなかった。実際に事件を題材にとった映画や小説に触れてみたこともあったが、いずれも事件そのものの提起した問題の射程の外にまで届くほどの強度を備えているようには思えなかった。むしろどれほど切実きわまりない現実の問題をも嘲笑い、現実よりも複雑で切実な問題を提起することができるのが映画であると教えてくれたのが『鬼門コンパ』だった。
 相澤俊一の監督デビュー作品である映画『鬼門コンパ』は、河内芸術大学の卒業制作作品として制作された。自主制作映画のコンペティション的な映画祭でグランプリを受賞し、余人の想像を絶する物語とグロテスクで凄惨極まりない映像は各界に衝撃を与えたものの、数々の国外の映画祭にも出品が予定されながら、税関でストップされ、すべての映画祭での上映が禁止されたという、いわくつきの作品である。
 映画の舞台になっているのは七十年代の大阪だった。古びた文化住宅の一室であるアジトで、学生の左翼活動家たちが共同生活を営んでいる。来るべき武力闘争の決行の日に向けて、資金繰りや武器の調達などに追われながら、彼らは服役中のリーダーが刑務所から出所してくるのを待っているのだ。そんななか、暫定的に仲間たちを取り纏めていたリーダーの情婦とメンバーの男が関係を持ってしまう。しだいに男がリーダーに取って代わろうとし始めるにつれ、メンバーどうしの関係に亀裂が走り、苛烈な内ゲバへと発展していく。粉砕される頭部。切断される、あるいは噛み千切られる男性器。散弾銃を突っこまれ銃撃される女性器。日本刀で刎ねられる首。登場人物はひとり残らず殺される。
 中野のミニシアターで単館公開されるや、同館開設いらいの観客動員数を記録したものの、観客が失神して救急車で運ばれた、映写技師が上映中に嘔吐したなどの都市伝説も多々生まれた。
 極めつけの都市伝説は、凄惨なリンチシーンの撮影中に、じっさいに出演者のひとりが殺されてしまった、というものだった。もちろん、それが事実なら相澤は映画監督ではなく犯罪者として名を馳せていただろう。単なるネット上の噂にすぎなかったとはいえ、数年が経っても巨大掲示板にスレッドが乱立し続け、書きこみの勢いは衰えを知らなかった。書きこんでいる者の大半は、おそらくカルト映画マニアか映画業界関係者、もしくは映画業界を志望している学生だろうと思われた。和也もそのひとりだった。
 真偽のほどを確かめようと、和也は夜な夜なネット上の掲示板を渡り歩くようになる。 映画そのものよりも殺人事件の噂のほうに惹きこまれていくまでに、それほどの時間はかからなかった。もし自分が出演していたとしたら、殺されていたのは自分だったかもしれない。その考えに、和也はとりつかれた。和也は映画学校の学生だった。卒業制作として映画を撮影する予定だった。九十年代を背景に『鬼門コンパ』の舞台裏を描こう、という提案は、だが同じ班のメンバーには一斉に却下された。もう少しデータを集め、企画を固めてからプレゼンをし直そうと、コンタクトをとれそうな映画の関係者を探していたところ、浮上してきたのが万田岳の存在だった。
 河内芸術大学で相澤俊一と同級生だった万田岳は、『鬼門コンパ』に出演している。活動家たちのメンバーのひとりの役だった。全員がお互いに殺しあうこの映画のなかで、物語上では仲間に殺されているのだが、どういうわけかただひとり、殺害シーンが描かれていない。映画の中盤あたりで、さりげなく消えているのだ。考えうるかぎりの残虐非道な殺されかたの見本市のようなこの作品において、それはあまりにも奇妙なことにみえた。そのくせネット上で映画出演後の足跡を辿ることができたのは、万田だけだった。
 活動情報の他に本や映画の感想、時事問題への切れ味鈍い考察などからなる、SNS上の投稿を数年ぶん遡った挙句に、和也は『鬼門コンパ』にかんする記述を発見した。

 私はいちど、友人に殺されている。
 映画のなかで殺されている。
 その記憶があるからこそ、なんとか生きていけているのかもしれない。
 ただし、ここだけの話になるのだが、その映画を監督した友人の当初の予定では、登場人物全員が死んでしまうその映画のなかで、私だけは生き延びることになっていたらしい。凄惨な殺害現場から、私ひとりが逃げ出すところで、映画は終わるはずだったと。
 ところが、クランクアップを待たずに、私は撮影現場から消えてしまった。そのため、私だけは映画のなかで殺害場面を描かれていない。物語上、殺されていることは確実だ。  
 言い直そう、私には殺された記憶がない。
 だからこそあのとき、死んでしまったのかもしれない。

 近所の立ち食い蕎麦屋が閉店になっていたことを嘆く投稿の後に唐突に現れるこのくだりが『鬼門コンパ』についてのものであるということに、いったいどれほどのひとが気づいただろう。殺人事件が起こったかもしれないという噂の真相を突きとめる糸口がここにあるというのに。その考えは、和也の胸を躍らせた。ここで万田は言外に、殺人が行われたということをほのめかしているのではないだろうか。すっかり暗記してしまうほどこの記述を読みこんだ和也には、ここで語っている「私」は殺されてしまった出演者の誰かを代弁しているとしか思えなくなっていった。
 当の投稿にコメントを書きこんでみたところ、万田からすぐに返信コメントが寄せられた。連日のようにコメント欄でやりとりを続け、メールアドレスを交換してからはさらに密に連絡を取りあった。二十年も前に端役で出演した映画のことばかりを根掘り葉掘り尋ねる和也に、万田は懇切丁寧な返事を返して寄越し、和也が映画学校でシナリオを学んでいると知ってからは、もと芸大生として創作面でのアドバイスも差し挟んでくるようになった。『鬼門コンパ』の撮影の舞台裏をモチーフにした映画を撮りたいと打ち明け、書きつつあるシナリオの断片を送って、当時の話を詳しく聞きたいと打診したところ、ちょうど仕事で大阪に行くついでに芸大時代の友人たちと会うから、ついてこないかと誘われたのだった。
「だから和也くん、きみもおれたちと一緒なんだよ。おれたちが六、七十年代に憧れたように、きみも九十年代に憧れている」
 顎を反らせて缶ビールを呷ると、万田は紅く染まった目のふちに皺を寄せて、くすんだ色の歯を剥きだした。
「憧れ。そうかもしれないです」
 和也は言い淀んだ。映画学校の友人からまわされてきたDVDを何気なく再生した途端に、まるで長いトンネルからようやく抜けることができて、目の前いっぱいに新しい風景が拓けたような、目眩を和也は持て余した。映画の放つ眩いばかりの光によって、むしろそれまでトンネルのなかにいたことを気づかされたようだった。あの光のもとへ近づきたい。それが和也の願いになった。
「それで、相澤の映画のドキュメンタリーを撮ろうとしてるの?」
「本当は、違うと思うんですけどね。相澤さんに憧れてるなら相澤さんの映画みたいな映画を撮らないと。近づきたいからドキュメンタリー撮るなんて、相澤さんからいちばん遠いことをしてるんですよね。っていうか、おれが相澤さんに近づきたいってことがすでに恐れ多いっす」
「相澤みたいになりたい、か。和也くん、きみ就職とかどうするの?」
「いい夢見ながら熟睡しているひとを叩き起こすような一言っすね」
「どっちかっていうと、おれはきみの親寄りの世代だからさ、心配なんだよ。路頭に迷ってほしくはないからね」
 万田は言葉を探すように、和也の膝の頭あたりに向けた目を泳がせていた。
「専門学校なんで、一年の終わり頃からみんな就活を始めるみたいです。ほとんどのひとが、映像製作会社とか映画関連の仕事に就くらしいですけど、おれは……」
 映画学校という名がついてはいるものの、映画の制作を志している者はほんのひと握りだった。その他の大半はテレビや音楽やマスコミ業界を目指しており、残りは足もとを直視せずに漫然と流れてきたような者たちだった。自身がどの範疇に属するのか、和也にはわからなかった。どれであってもおかしくはない。種を蒔く場所を間違ってはいないという確信はあった。だがそれがどんな実を結ぶのかについては、見当もつかないのだ。そもそも蒔いているのは種ではないかもしれないという可能性にまでは思い及ばなかったとしても。
 ほとんど無限に可能性があるということは、可能性がひとつもないことに等しい。何者にでもなれるという状況を選ぶことは、何者にもなれないと自ら宣告するようなもの。だが真に何者かになるということは、何者にもならないまま、すべての可能性を抱擁することではないか。何者かになることは他のなにかになることを断念することでもあり、ありえたかもしれない自分を殺してしまうことでもあるのだから。それはもっとも絶望的なやりかたで、過去を失ってしまうことのように和也には思えた。
「わかるんだけどね。おれだって芸大生の頃には就職なんて考えもしなかったし。でもそのおかげで、しなくてもいい遠まわりをいっぱいしたんだよね。人間生きてるだけで金がかかるもんだからさ。やりたいことがあって、それがいますぐ金になるっていうなら別だけど、そうじゃないなら、ちゃんと収入源を確保して、生活の基盤を作ったうえで、やりたいことやるべきだと思うんだよね」
 まだビールの入ったままの缶を指先でへこませながら、万田は籠もったような声で笑った。そういえば、万田は卒業後なんの仕事をしているんだろう。話すことといえばいつも相澤の映画のことばかりで、どこに住んでいるのかもなんの仕事をしているのかも、万田のことについては未だになにも知らないことに和也は気がついた。おそらく映画の仕事を目指していたはず。だがいまは映画に関わってはいないらしいことは想像できた。芸大生の頃に、万田は映画を撮ることで自分自身に近づこうとしていたという。それは叶えられたのだろうか。だとすれば、映画から離れたことで、万田はまた自分から遠ざかったということになる。あるいは映画とは別の方途で、自分に近づくことができたのだろうか。そもそも自分について、近づいたり遠ざかったりできるものであるという認識が和也にはなかった。和也の近づきたいものは、自分ではなく真実だった。『鬼門コンパ』の撮影現場で現実に殺人事件が起こったという噂は正しいのか。そうだとすれば、本当は誰が殺されたのか。
 ――本当は、誰が殺されたんですか?
 だがその一言を口にすることが和也にはできなかった。



仙田学プロフィール


仙田学既刊
『盗まれた遺書』