「あけみちゃん」新井素子

(PDFバージョン:akemichann_araimotoko
 あけみちゃんは、保育園の桃組さんです。
 桃組さんは、梅組さんより年下ですけれど、桜組さんのお姉さんです。
 だから、あけみちゃんは、桜組さんには、優しく親切にしないといけません。
 今日も、桜組さんの女の子が、滑り台の階段を登ろうとして転んで、擦り傷を作って泣いていたので、あけみちゃんは、その子を水飲み場まで連れていって、傷を洗ってあげ、保育園の先生にお願いしてバンドエイドをもらい、それをはってあげました。
 うん。あけみちゃんは、よいお姉さんです。
                    ☆
 あけみちゃんがよいお姉さんだったので。
 その日、あけみちゃんの夢の中に神様があらわれました。
「今日、あけみちゃんは、いいことをしたね」
 神様は、にこにこして、こういいました。
「だから、ドロップを、三つ、あげよう。このドロップはね、舐めながら願い事をすると、それが必ず叶うものなんだよ」
 神様、にこにこ。
 純真なあけみちゃんも、にこにこ。
 でも。普通の大人なら、知っています。
 あ……あやしい。これは、あやしい。
 こういう、とても甘い話には、何か、嘘がはいっているんです。どこかに欺瞞があるんです。多分、あけみちゃんに声をかけたこの人は、“神様”ではないのかも知れません。
 ですが。あけみちゃんには、そんなことは判らないので、あけみちゃんは、思いっきり「うん!」って言いました。
「お願いが叶うドロップなのね。じゃ、あたし、それ、本当にお願いしたいことがある人に、あげることにするねっ」
 あら、あけみちゃん。自分ではドロップを使わないつもりなのね。
 ほんとに、あけみちゃんは、なんていいお姉さんなんでしょう。
                    ☆
 翌日。
 目を醒ましたあけみちゃんの手の中には、ドロップが三つ、ありました。あけみちゃんは、「ああ、これが神様がくれたドロップなんだ」って思って、そのまま、ドロップをもって、保育園にいきました。
 保育園にいってみると。いつも元気な太一くんが、なんか、哀しそうな雰囲気です。
 あけみちゃん、聞いてみました。
「ねえ、太一くん、どうしてそんなに哀しそうな顔をしているの?」
 太一くんの答は簡単でした。
 明日から連休で、その連休で、太一くん一家は隣町の遊園地に遊びにいくつもりだったのに、どうやら、この連休、雨らしいのです。それも、かなり、強い雨。太一くんの妹のゆみちゃんは、遊園地のパレードをとっても楽しみにしているのに……強い雨が降ると、パレード、中止になってしまうのです。
 ああ、それなら。
 あけみちゃんは思います。
 太一くんにドロップをあげよう。
 それで、連休が晴れになるように神様に祈れば……。
                    ☆
 神様は。いや、“神様”だとあけみちゃんが思っている存在は。
 そもそも、最初っから、ちょっとがっかりしていました。
 実はあけみちゃんは、政界の大立者の隠し子の私生児という、結構特殊な立場の子供だったので、あけみちゃんの愚痴や悩みを丹念にひろってゆけば、あけみちゃんのお願いを順番に叶えてゆけば、かなりの悪さができるかなーって思っていたのに……あけみちゃん、こんな素晴らしいドロップを、どうやら他人にあげてしまいそうな雰囲気です。
 でも。まあ、それならそれで。心を切り換えて。
 太一くんのお願いだって、悪くはないぞ。
 連休が晴れになるように祈ってくれれば……その願いを叶える為には、現在の気圧配置を大幅に動かす必要がある。そんでもって、それをやったなら、無理に気圧配置を動かしたなら。わはははは、すっごい異常気象が、世界を襲うぞっ。どんなことになるのか、わはははは、後で思い知るがよいっ!

 でも。
 話は、そんなふうにはならなかったのでした。
                    ☆
 あけみちゃんにもらったドロップを舐めながら、太一くんは思いました。
「神様。僕のお願いを、一つ聞いてくれるのなら……どうか。どうか」
 はい、気圧配置を、いくらでも動かしましょう。……って、待っていたのに。
「どうか、妹が、泣きませんように」
 あ。言われた台詞は、まったく違いました。
 あうあう。あわあわ。
 こんなことを祈られてしまって、それでドロップを舐められてしまったら、もう、あけみちゃんにこのドロップを渡した存在、気象を操ることなんてできません。というか、祈られた以上、太一くんの妹のゆみちゃんが泣かないようにしなければなりません。
 そんでそれは……どうすればいいんだ?
                    ☆
 お弁当の時間になると、あけみちゃん、今度は靖子ちゃんが気になります。
 というのは……靖子ちゃんは、いつも、とっても素晴らしいお弁当をもってきている子供だから、なんですね。靖子ちゃんのお弁当が、普通の白い御飯だったことは、過去、一回もありません。いつだって、桜でんぶや鶏そぼろや海苔で、猫の絵が描いてあったり、アニメのキャラクターが描いてあったり。ウィンナーだって、たこさんなんかは当たり前、わにさんとかカニさんとか、思いっきり手がこんでいました。彩りも実に鮮やかで、ミニトマトと、ブロッコリーと、うずらの卵を切ったやつが大活躍です。……なのに、今日の靖子ちゃんのお弁当は、コンビニで売っている、調理パンだったんです。
「靖子ちゃん、今日のお弁当はどうしたの?」
 って……あけみちゃん、よっぽど聞きそうになりましたけれど、あけみちゃんは気が遣える子供です。そんな台詞をぐいっと飲み込んだら……靖子ちゃんの方から。
「ママが病気って訳じゃないんだからねっ!」
 怒鳴りつけられてしまいました。だから、あけみちゃんが慌てて目をそらすと、それにちょっと気がとがめたのか、今度は靖子ちゃんの方が、なんだかあわあわと。
「ごめん、あけみちゃん。やつあたり」
「ううん」
「あのね、ママはね、別に病気じゃないんだよ。それは大丈夫なんだよ。でも……ママ……パパと……」
 こみあげてくるものがあったので、靖子ちゃんは何も言えなくなりました。
 実は、昨夜、靖子ちゃんのパパとママは大喧嘩をしたのです。
 何でも、明日からの連休、パパはおでかけする用事があるらしくて、それはしょうがないんですが……一緒におでかけする相手が、女の人らしいのです。二人で、隣町の遊園地へ行くらしいのです。“けーたいのちゃくしんりれき”っていう、よく判らないものから、それがママに判ってしまったらしいのです。
 確かに、せっかくのおやすみなのに、靖子ちゃんとママのことをほっておいて、パパが女の人と遊園地へ行くっていうのは、酷いと、靖子ちゃんも思います。どうせなら、みんなで一緒に行った方が愉しいだろうと思います。でも、ママの怒り方は、とっても凄くって……遊園地に一回いけなかっただけで、ここまで人は怒るものなんでしょうか。
「……すんっ」
 あけみちゃんに話してしまったからでしょうか、靖子ちゃんは、なんだかぐずぐず泣きだしました。
「……あたし、どうしよう、ママとパパが喧嘩するの、嫌だ。ママが、お弁当を作ってくれないなんてありえないし、“りこん”だなんて……絶対、絶対、絶対、嫌だあっ!」
 も、どうしていいのかよく判らなくなったので。
 あけみちゃんは、靖子ちゃんに、ドロップをあげることにしました。
 靖子ちゃんが、「ママとパパが仲直りをしますように」って祈ってくれれば……。
                    ☆
 あけみちゃんにドロップをくれた存在は、ほくそえみながら思いました。
 おお、不倫男女の修羅場か。これで、男の方が勝手にもとの鞘に戻ってしまえば、女の方はいくらでも不幸にできるな。
 ……まあ……その……不幸の規模として、当初の予定からすると、なんか頭が痛くなるくらい小さなものになっちゃったんだけれど……でも、何もないよりは、ましか。
 ところが。
 話はそんなふうにはすすみませんでした。
                    ☆
「神様」
 ドロップを舐めながら、靖子ちゃんは願います。
 はいはい、パパとママの仲直りかな? その女の人、どっかいっちゃえ、かな?
「どうか、みんなで、ママも、パパも、あたしも、その女の人も、愉しく遊園地へ行けますように」
 ……って……えええ?
 何だそれ、その祈りは何だ。そんでもって、これは、どうしたらいいんだ? よりにもよって、不倫が発覚した夫婦が、子供連れで遊園地にいって、そこに不倫相手まで来て、それで“愉しく”って、それは、一体全体、どんなに高いハードルだっ!
                    ☆
 お帰りの時間になると。
 今度はあけみちゃん、山岸くんが気になります。
 あけみちゃんのママは、お仕事が忙しいので、お迎えの時間に遅れることが、よく、あります。これは、あけみちゃん、とても気にしていたし、とても嫌だったので……だから、他の人達のお迎え時間を、結構、あけみちゃんは、把握していたのですね。
 そんで、そんな意味で言えば。山岸くんは、とても“お迎え時間”がちゃんとしている子供でした。
いつだって、きっちり、五時。
 まるで計ったかのように、必ず、この時間になると、山岸くんのお迎えがきます。
 それは、お母さんだったりおばあちゃんだったりおじいちゃんだったりしたのですが、この時間になっても、山岸くんにまだお迎えが来ていないなんてケース、一回もなかったのでした。
 ですが。
 今日に限って、五時を過ぎても、山岸くんのお迎えはこなくて……お迎えが来るのが八時前後の(保育園の御好意で、特例としてこの時間まで預かってもらっている)あけみちゃんは、時間がたつにつれ、何だか、どんどん、怖くなります。
 六時になっても、山岸くんのお迎えが来ない。
 七時になっても、山岸くんのお迎えが来ない。
 気がつくと、あけみちゃんは、いつの間にか、山岸くんに寄り添っていました。
                    ☆
「あけみちゃん、気にしなくていいからね」
 寄り添っていると、ふいに、山岸くんはこんなことをいいました。
「今日はうち、僕をお迎えにくるどころじゃないんだよ」
 ……って?
「僕のうちは、代々、隣町の遊園地一家なんだ」
 遊園地一家……この言葉が、すでに、あけみちゃんには訳判らないんですけれど、山岸くんは、続けて。
「うち、パパが遊園地のアトラクション責任者、もう引退しているおじいちゃんが先代遊園地の園長さん、ママも経理の仕事してる。僕も、大人になったら、あの遊園地につとめるつもりだったんだ。でも……昨日、遊園地で、なんかすごくまずいことが発見されちゃったんだって」
 具体的に言えば。昨日の時点で、この遊園地の大人気アトラクション、ジェットコースターの故障が発見され、当分ジェットコースター休業って話になっちゃったんです。連休に、その遊園地の最大の呼び物であるジェットコースターが止まるとなると……これはもう、関係者、真っ青です。
 そんで、あわてて、パレードを充実させてそちらに人目を引きつけようとしたら、今度は、強い雨っていう天気予報。パレード自体の開催が危ぶまれてしまうようになってしまいました。
 かてて加えて。明日の強い雨の前哨戦で、今日、隣の県も雨が降りました。その結果、隣の県と、この県を結ぶ道路が……一部、不通になってしまったのです。そして、この道路が不通になってしまうと、遊園地に来る人の数が、一桁、違ってきてしまうのは、もう、自明の理なんです。
 だから。
 遊園地一家である山岸さん家は、パニックです。保育園にいる子供を迎えにゆくだなんて、そんな精神的ゆとりがないくらいの、パニックです。山岸君もそれが判っているから、いつもの時間にお迎えがこなくても我慢して、その後もずっと我慢して……。
 ……けど……でも……あの……山岸くん、もう、泣きそう。
                    ☆
 そこで。あけみちゃんは、山岸くんに、最後のドロップをあげました。
 んで……ドロップをくれた、“神様”だか何だか判らない存在も、も、泣きそう。
「あー……その……そのドロップで、“明日の雨をやめて欲しい”って祈ってくれれば、それは、最初の、“気圧配置を思うがままに動かしてくれるわっ”に話が戻るんだけれど……“道路の不通をなかったことにして欲しい”って祈ってくれれば、もっとでかい幹線道路を不通にしてやるんだけれど……どうせっ! どうせっ!」
 ……はい、そうですね。
 最後のドロップも、予想していない言葉で消費されてしまいました。
「神様。連休あけには、ちゃんと時間どおりにお迎えにこられる、そんなゆとりができますように」
 頼むよ。ドロップ舐めて頼まなくても、そんなのは絶対だろうがよ? そんなの、連休が終われば、絶対にちゃんとお迎えが来るだろーがよっ。

 全能のドロップだっていっているのに。
 どうしてそんなお願いばっかり?
                    ☆
 翌日。
 靖子ちゃんのパパとママ、そして女の人は、何故か、その遊園地に行きました。靖子ちゃんのママは、完全に旦那へのあてつけです。不倫相手の女性は、どうしてだか、陰から靖子ちゃん一家のことをみたくなり……何故か、みんなして、遊園地へ、行ってしまったのです。
 午後から、ゆるやかに、雨が降り出しました。
 やがて、その雨は、強くなってゆきます。
 太一くんの妹、ゆみちゃんは、顔が段々こわばってきます。
「……やっぱり……パレード、ないのね……」
 その、顔が。
 なんかあんまり哀しそうだったので。太一くんのママが、聞きました。
「ゆみ、そんなにパレードが楽しみだったの?」
「うんっ! ……うん……けど……もう……駄目だよね……」
 これを聞いて。奮起しないお母さんは、多分、いません。だから、お母さん。
「じゃあ、来週も、また、来ましょうか?」
 ……え? ありなの? そんなことって、ありなの? 今日遊園地に来たのに、来週もまた遊園地に来ることができるだなんて、そんな幸運、ありなの?
「来週、来て、ゆっくりパレード、見よ? んー、その場合、お仕事の都合があるからね、パパは駄目だと思うんだけれど、ゆみがそんなにパレードみたいのなら、ママが一人ででも連れてきてあげるから」
 うわあっ。
 ここで、ゆみちゃん。もう、満面の笑顔になりました。
 そして、ママにぶつかるように抱きついて。
「ありがとうママ!」
                    ☆
「ありがとうママ!」
 そして、全開の笑顔。
 どこの誰とも知らない子供の、その、あまりの全開の笑顔を見た瞬間……靖子ちゃんのパパの浮気相手の女の人は……思いました。
 ……あたし、一体、何やってんだろう。
 部長さんに家族がいることはよく判っている、その家族から部長さんを奪いとってやるつもりだった、だから、家族連れが一番はずしにくい連休で、無理矢理部長さんを隣町の遊園地に連れていって、奥さんと家族に勝つつもりだった。けど、それがばれちゃって、部長さん家が修羅場になって……。
 どこかに、ざまあみろって思っていた、あたしは、いないか?
 部長さん家がぐたぐたになったことを、喜んでいた、あたしは、いないか?
 ……これは、もう、多分、恋ではない。始まりは、恋だったのに、今の感情は、恋ではない。
 家族との間で、板挟みになって欲しいって思っちゃった段階で……もう、あたしには、素直に部長さんを恋する資格がない。
「ママ、嬉しい、ママ、ありがとう」
 母親にまとわりつく、幼い娘の姿を見ているうちに。女の人の心の中で、すべての感情が昇華されてゆき……。
「部長。おしあわせに」
 心からそう思って……女の人は、遊園地を、あとにしました。
 うん、とても、楽しい気分で。それこそ、幸せな、気持ちになって。
                    ☆
「ありがとうママ!」
 風にのって、こんな言葉が、流れてきました。
 それを聞いた瞬間……靖子ちゃんのママは、思います。
 うん、そうだった。私は、靖子の、ママなんだ。
 夫の浮気が許せない気分は、まだまだあります。これはもう、絶対にそう簡単には許さないつもりです。ですが……離婚まで考えたのは……早計だったか? だって、私は、靖子の、ママなんだもの。
 夫へのあてつけで、今日、この遊園地に来たのですが、考えてみたら、靖子のパパは、たったのひとりです。この男以外いないのです。
 許せないから、夫と別れる。その場合、靖子が被る傷を考えると……。
 靖子ちゃんのママは、笑いました。
 これは、本当の、笑み。
「靖子。ママはね、できるだけ、パパと仲良くしてゆくからね」
                    ☆
 それを聞いた、靖子ちゃんのパパも、思いました。
 確かに俺は悪い。
 だが、あてつけに今日、遊園地へ行くことを主張した妻は、いかがなものか。
 それを言うなら、連休に隣町の遊園地に行くことを強要した彼女はどうなんだ。
 だが……。唯一。たったひとり。この状況で、“悪くない”人がいる。
 靖子だ。
 俺は、靖子の、パパなんだ。俺が今、絶対にやらなきゃいけないことは何かっていうと、それは、靖子の笑顔を守ることなんであって……。
 靖子ちゃんのパパ、靖子ちゃんに笑いかけます。心の底から。
                    ☆
 このお話の教訓は、たったの一つです。

 一般市民を、なめるんじゃねえっ。
 神様が何を思おうが、神様を名乗る何かが何を思おうが、んなこと、知ったことじゃ、ないんです。

 人は。
 人の幸せを、祈る、生き物。
 だから、人は、人の幸せを祈り続けます。
 いつまでも。叶わなくとも。

 そして。
 かくて、こうして。

 すべての願いは、丸く納まったのでした。
 めでたし、めでたし。



新井素子プロフィール


新井素子既刊
『…絶句〈上〉』
『…絶句〈下〉』