「潰乱の巷」浦出卓郎


(PDFバージョン:kairannnotimata_uradetakurou
 藪蛇だった。木の幹に穴が開いていた。追っ手に見つかりにくいと思って、針子はそこを通り抜けようとした。随分と身体を細めてそこを通ったはずなのに、みごと嵌まってしまったのだ。余りに周りが暗いので、その向こう側へ抜けることに不安を感じてはいたが、逃げ失せるためには仕方がないと思ったのに。針子がどれほど身体を縮めようと、その穴は確実にこの娘の括れた胴体の当たりで止まるように、自然の力により想定されて作られた狭さだったのだ。
 幸い人は誰もいなかった。だが誰もいない状態もすぐに終わった。跫音が聞こえてきたのだ。首を巡らして確かめると、複数人ではなく一人だった。道化師だった。針子はいつも往来で、そのふざけた顔を見ると笑っていた。鼻を中心にして円弧を描き、赤い丸が見えた。両頬にもその丸があった。鏡を見ながら自分で描いたものと考えると、阿呆らしく思えてくる。
 しかし、今度は針子が笑われる立場になったという訳だ。
 針子の住む町には道化師が多い。日に二三度は必ず道化師と擦れ違う。針子の剣の師匠の知人中にも道化師はいた。まるで道化師が蓋を開けた樽の中に詰まっているようだった。そこを覗き込むと顔がまるで小さい粒々のように見えるのだ。顔と顔が引っ付いているのである。道化師の夫人も道化師だった。針子が道場に行って剣を学んで帰る途中にも、道化師が歩いているのである。
 夕暮れに教室を道化師が覗くのは耐えがたい。針子はいつも顔を顰めるのだ。何度もやったので、表情が顔に張り付くようになってしまっていた。窓の淵が鈍く光って、硝子の中心に曇りが走っていくかのように進み、やがて幾度か鋭い閃光を見せたかと思うと、すぐに校庭の隅に煙のように道化師共が現れるのだが、一人ではなかった。
 それは無数の列ねられた鉱石板だった。針子の視界の隅の方で、無心に行列を作っていくのだった。仏頂面のまま表情は硬直しており、生命の活動は余り感じられない。いやな気持ちがした。それが後々まで残った。
 既に身体に痛いほどの圧迫をもたらしていた。穴の狭さは余程のものだ。闇は尚更濃いというのに、三日月は刀の切れ味を増しているというのに。
 針子はただ参っていたのだが、同時にまた街にやってきた思想家のことを思い出しているのだった。木の穴から抜け出られないままに。
 その男は酷く瘠せて見え、磯浜を蟹が這うように、ねじ曲がった猫背で、街の小路を登っていった。髭が憐れみを乞うように左右に垂れ落ちている。羊皮紙の束が手には握られていた。靴の先が捲れて、汚れた足指が見えている。興味深く思って、付いていくのは浮浪児ばかりだった。
 そもそもこの街の道のくねり方といえば、蝸牛の殻の内側に巻き込まれたような感覚を与えるところがあった。針子などは幾度も迷ったものだ。自分の部屋に帰るのにも難渋した。そこは屋根裏にあったから、急な、狭い階段に疲れて、足どりは重苦しくなるのが常であった。
 羽衣(うい)という針子の友達が、思想家に拘り始めたのが事の起こりだった。屋根裏の蜘蛛の巣がその時光り、微かに揺れた。埃が僅かに舞い上がった。鼠が小さな穴から出たり入ったりを繰り返していた。
「あの人の思想には甚だしいものがある」と羽衣は漏らしたのだ。
「思想って何よ」と針子は聞いた。それに今迄と以後、興味を持つことはなかった。
「愛すべき、思想、より実り多きものの事だよ」と羽衣は言う。恋人の名前を告げるような口吻であった。
「この世を撲滅する、この世を潰乱する。そんな考え方」
 訳が分からなかった。針子は僅かながらもこの世の恩恵を蒙っている。それを虐げる、破壊するとは。まるでお嬢ちゃま・お坊ちゃまの主張だ。親のいない針子にお金はなかった。親のいる羽衣には本を読むだけの余裕があった。
 それだ。だからだと針子は考えていた。一人で狭い穴に挟まりながらの思考は、余り気持ちの良いものではない。そうする間にも道化師が唇を震わせて針子に話し掛けてきた。
「つまる所、『あなたの故郷はどちらですか?』」これは民謡の方言からの翻訳だが、それにしても、私はこいつとは同郷だ。同じ町に暮らしている。なのになぜ聞く? そう言う風に針子は考えていた。その考えは真っ当だった。L字型の形をした町の、その字の書き始めに当たるところに家があって、そこで幼少期を送ったために、と嘘を吐けば良いのであろうか。
 道化師の三つの丸は不可解な風情に歪んでいた。歎くような嘲笑うような顔でこっちを見つめて来やがると、内心では語調を荒げたい気分になるところはあったが、そんなことをしたら、いくらでも暴力を振るわれて、その下敷きにされるのが目に見えていたので、針子は抗いの色を薄めることに努めた。少しでも、そう言う風に見られてしまってはいけないと。
 道化師は更に顔を近付けてきていた。赤と白のストライプの衣を纏っており、伸び縮みは自在で、肥満した身体にぴったりと張り付いていた。やがて声をくぐもらせて笑い始めた。
 早く出してくれと、針子はそれだけを願っていた。兎に角少しでも身動きできるようになれば、状況は変わってくるのだ。足を動かしても手を動かしても、身体は二進も三進も行かない。粗い衣が肌を擦って傷付けた。
 ただ夜の帷がどんよりと垂れてくるのみであった。全てが針子には嘘臭く、星がまるで縫い付けられたように見えた。
 思想家の考えに取り憑かれるようになった羽衣は、書斎を回り始めた。最近は針子が遊びに行くといつもこうだったので、会話は自然途切れるようになっていった。
 そもそも書斎は嫌いだった。針子はろくに字が読めなかった。羽衣は思考に耽ることを面白がっているようだったが、針子からはつまらないことに見えた。
 妙な呟きが口を突いて出るようになれば、これはもうお終いだ。闘争は……、革命だ……、などと言われてもよく分からないのだ。羽衣だけではなく、街でもそう言う人を良く見かけるようになったので、針子は随分と心配になった。次第に数は増していき、そう言う人が多数派になっていった。それこそ犀に人が瞬く間に変わっていくようだったのだ。
 撥条を道化師はただ巻いていた。その音が針子の隣では聞こえていた。掌の内側に、鉄の舌が幾枚も巻き込まれて行く。その音が聞こえていた。蝋人形館の片隅にあったオルゴールから取りだしたのだろうか。針子はそう考え始めていた。あのオルゴールの音を聞くと、子供達は一斉に扉の方へ向かっていくのだ。どこに続くかも分からない扉に。夜などは堪らなかった。あんなところ行くべきじゃない。扉に象嵌されて、口を開いたところに鍵穴がある引き攣った叫びを上げそうな顔は見たくはなかった。
 思考の上ではなかなか針子は良いところまで行っていた。全てをまた関知しない方向に行っていたのだ。まな板の上で、魚の眼が濁っている。調理後には、その裏側の肉ですら、随分と美味しく感じられることがあるものだ。骨の髄まで舐め取りたくなるものだ。そういう裏面の思考に入り込んだら、なかなか抜け出せなくなる。それを文字通り行っていた。
「思想なき思想こそが、潰乱させねばならぬ、思想のない安寧に逃げる思想家、政治的主張を避ける政治家を徹底的に撃滅せねばならぬ。虚ろの向こう側を撃たねばならぬ。政治的主張から逃走する、それこそが一つの思想であり、政治思想に他ならぬのに、連中は思想から自由であることを、ノンポリチカルであることを、アパシイであることを、思想ではないといい、にも関わらず、それでいて政治に人を誘導し、その虚ろに引き摺り込もうとする。思想なき思想家を潰乱せねばならぬ。あやつらに向けて、撃鉄を打たねばならぬ」というようなよく分からぬ事を思想家は広場で拡声器を手にして怒鳴っていた。ライ麦の藁束を載せた荷車を引く、白い頭巾をした農婦が幾度も広場を通る中で、次第に数を増していく群衆に己の思想をがなり立てていた。
 やはり集まるのは羽衣のような若い男女であった。顔を赤くして、汗を流しつつ、羽衣はそれを聞き、酔い痴れていた。言葉にならぬ呟きは増していった。群衆が形作られ始めてきた。既に年寄りも混じっていた。さらには道化師も混じり始めていた。
「潰乱の巷を現前させねばならない。思想なき思想それ自体の存在を抹消しなければならない、諸君見たまえ、木の葉一枚であれその内に思想はある。葉脈であり水分である。その化学記号そのものが一つの思想である。それを無いとする思想、思想でありながら思想である事を否認する思想そのものを潰乱しなければならない。思想から逃避する思想家を抹消するべきだ」
 歓声が起こった。どう言う順序で起こったのだろう。先ず小麦粉を篩うような音がした。地鳴りのようでもあった。鈍い震動が人波の頭上を渡ったのだ。
 いつもなら無関心を装う農婦連中もさすがに振り向いていた。その無関心すらも思想とされていたので、どうしても気になったという訳だろう。
 針子は呆れていた。口を開けるのは流石に躊躇ったが、身動きがとれないながらに、今、道化師が近付いて来たのを退けるために、足でその頬に蹴りを食らわせた時の熱心さとはまるで正反対の感情だった。
 跫音は増えてきた。地面を叩く音が軽快だった。なんと羽衣らしい人影が向こうの方から見えてきた。松明を手に握り締めて。その焔が暗天を焦がした。
 既に道化師は口数少なくなり、何も話し掛けてこなくなっていた。そもそも話をする気にもなれないのだ。だが、羽衣の少女めいた人影とも話をする気にはなれない。まるで薄墨色の死後の中にいるかのように、単なるシルエットとして現前しているだけに思われたのだ。話をしても面白かろう筈もない。
 羽衣の変化に、もうちょっと早くから気付いたら好かった。今だったら確実に止めるだろう。どんなことになろうとも、その行為は思想の渦から逃れさせることを確実とするからだ。
 やるべきなのは行動であったのに、だが孤独なひねくれ者を自称する針子はまるで動く事がなかったのだ。
 道化師は蹴り倒されてもなお、針子の身体によって塞がれた穴の方に近付いて来た。その足どりは牛のように鈍重ではあったが、必ず辿り付いてやるというような気概が窺い見えた。
 そもそも思想家が勢力を拡大したのはその口舌の上手さゆえではない。針子から見ても、到底流暢とは思われない滑舌では、誰の心も掴むことは出来ないだろう。
 では何故かと考えた時に、針子が一つ思い到ったのが、「潰乱の巷」という言葉であった。
 針子が竹刀を振るう時は、崩壊の映像などは心に抱かないようにしていた。明鏡止水の心境というと随分と可笑しいけれども、落ち着いた心を保った上で修練を行うのが基本だった。針子でなくとも他の道場仲間も恐らくはそうであっただろう。
 そこに「潰乱」とは。すぐには納得しがたい観念だった。それは針子が作り上げた落ち着いた心を全て打ち壊す言葉になった。羽衣のあそこまでの入れ込み振り自体が、普段の彼女の落ち着きからは考えられないものだったし、普段の生活の中では道化師たちですらとても静かなのに、あれほどうるさい思想家の存在を許してしまうことにどうしても堪えられなかったからである。
 一つの言葉、迎えるべき大きな目標としての「潰乱」。
 この二字の与える印象が、人々に大きな感動を呼び起こしたということだろう、思想なき思想を撃つという標語が町中に掲げられるのは時間の問題だった。
 ポスターが張られた電信柱の冷たい鮫色が、夜空ではやけに薄らんでいた。星の輝きが人々の全一の存在への希求を否応なく増させていた。全ての思想の統合としての「潰乱」の実現を行おうというのだった。
 思想家といえば行列の先頭に立って、いつもの猫背を今回ばかりはしゃんと伸ばして、旗を振りながら人々を引き連れていた。既に聞こえる言葉はただ一つ、「潰乱」であった。
 数多くの松明が揺れた。炎の舌が巻き上がっていた。家を出た針子はもう追われる身だと思い、素早く駈け出したのだ。一目散に、だった。
 だが特に人々は針子を追ってくる様子は見えなかった。それよりも先ず先に「潰乱」すべきものがあるという風だった。
 木の穴に嵌め込まれたままの今、それを考えると、随分とせっかちだったと思った。ゆっくり出ても間に合ったのだ、針子のことなど誰も気に掛けないだろう。道化師は尚、起き上がり小坊師のように何度もこちらに向かってきた。何度も針子は蹴りをくれた。運動神経だけは好かったから問題はないものの、流石に疲れを感じていた。曲げた首にも痛みを覚えた。
 羽衣以外はと考えた。だが本当にそうだろうか。羽衣も自分が思っているほど、針子のことを気に掛けるであろうか。思想なき思想家として、羽衣の弾劾の対象になるはずの針子のことを、羽衣は思想に取り憑かれて以降は、尚更構わなくなったようだった。
 それこそ集会などに出向くことが増えたようだった。ただでさえ寂しがり屋な針子は余計取り残されたような気がした。
 しかし、ひたすら竹刀を振り続け、心を落ち着かせていると、それも気にならなくなるのだった。だから、ひたすらに道場に通い詰めた。
 けれども、その道場の中にも思想が入り込み始めたのだ。「潰乱」の言葉が囁かれ始めたのだった。厳格極まりないと思っていた師匠である道場主まで、その思想を口にし始めた時は、さすがの針子も驚愕し、震えが止まらなかった。足下が揺るがされているという気すらしていた。道場仲間たちも真剣に思想なき思想を「潰乱」させる事の素晴らしさを語り、歓声を上げ始めた。
 それから、街の隅々にまで広がるのはあっという間だった。乞食ですらもが、「潰乱、潰乱」と呟くのには、流石に針子も沸き上がる笑いを抑えることが出来なかった。だが笑いが静まった後に、嫌に重苦しい、苦い気分が胸の内に広がるのだった。
 そんなに、「潰乱」がいいのかよ、と針子は毒付いたものだった。全てを壊して、それで困るのはあんたらでしょと、破壊を望んでいるやつほどいざ椿事が出来となったら真っ先に逃げ出すんだと。今迄そんな例は見てきたし、そんな奴らの言うことは信用出来ない。人殺しもしかねないような輩を持ち上げることは、どうしても納得出来ないのだ。
 羽衣がとうとう針子の目の前に現れた。月のきらめきは増え、針子の視界にその光の厳かさが降り注ぐような気がした。穴の後ろに道化師がいるかと思えば、穴の前に友達がいるのだった。
 針子は顔を顰めた。文字通り、泣きそうになるぐらいにだった。再会できた歓びであろうか? いや違う、そこにはもっと不穏なものがあった。
 羽衣は薄い唇を歪めた。せせら笑いだった。何にせよこの友達を笑っているのだ。少しも同情の対象ではなかった。続いて羽衣は無表情になった。目は虚ろ、針子が幾ら覗いても内側が見えない。奥まで螺旋状だった。既に嘲笑の対象ですらなくなったとでも言うかのようだ。目の前の友達が。
「羽衣、待ってたよ。逢いたかったよ」と出来るだけ真情を込めて針子は叫んだ。だがその裏側には諦観が踞っていた。夕暮れの校舎裏で、うつろな目で三角座りをしている諦観が。
「潰乱の対象とはならぬ者は潰乱しなくていい」羽衣は一息に言ってのけた。「あたしにはなんでもないのだ、あなたは」と言いたかったのだろう。針子は身体が崩れる感じがした。そこに臀部を掴まれるのを覚え、思わず足が出ていた。
 嫌な音が鳴った。これは確実に鼻柱が折れただろう。だが、すぐにこの道化師のことはどうでもいいと思い始めた。例えどうなろうが、こっちの知ったことじゃない。責任はない。その間に、羽衣はもう歩き始めていた。
「いかないで」思わず掠れ気味に、針子は友達に声を掛けた。だが相手はすたすたと無言のまま歩き去ってしまった。
 道化師の動きが感じられなくなった。死んでしまったのかも知れないが、失望感に包まれた針子にとってはどうでもいいことだった。
 兎も角も回想せねばならない、足を休めながら、幾度も考え始めていた。
 そもそも羽衣とは一番仲が好かった訳ではない。道場仲間の栞の方が親友と言えたのだった。いつも一緒に修行をしていたものだった。試合をすることがあれば、栞は激しい勢いで打ち込んできた。面を食らうことも何度かあった。腕前は幾倍も栞の方が上手だったのだ。
 だが相変わらずそこにも例の憎むべき「潰乱」が忍び込んできたのだった。例の道場主がその思想を、思想なき思想を潰すべしという非常に愚かしい考え方を披瀝したそのすぐ後だったように思う。帰り道で栞に思想に付いて聞かれた針子は、
「わたし、ノンポリだから」と言ってしまったのだ。
 藪蛇だった。相手の表情に含まれ始めた些かの真剣さを感じ取っていれば良かったのだ。嘘でも良いから、何らかの思想を持っていると言ってその場を切り抜けていれば好かったのだ。
 だがもう遅かった。栞の顔は真っ赤になっていたのだ。そんなに怒ることないのに、と何度思ったことだろう。手刀で思いっきり胴を叩かれ、針子は転んでしまった。相手の怒りを感じ取って、取るものも取りあえず、逃げ去った。
 それ以来、栞とも会うことがなくなったのだった。自分と友達の仲を引き裂いた思想を、針子は心底から憎み始めた。
 例の思想家の姿はそこら中で見かけるようになった。全ての家のドアのベルを鳴らし、取っ手を掴んだとすら言えた。どの家の主も、今では親切に応対して、豪勢な食事を振る舞っていた。素晴らしい思想を下さる先生だ。この事実は元々そうではなかった針子をただ一人の皮肉屋にした。思想が肉に変わるとは詰まり、この事であろう。思想家は七面鳥をそのまま丸かぶりしていた。
 何を置いても、針子はその思想家の揚げ足取りに腐心するようになったのだった。そもそも奴は思想を口にするが、それ自体が曖昧なのだ。思想だったら何でもいいと言うのか。それじゃあ思想を持たない自由は認められないのか。どうにも頓珍漢極まるだろう。自分の考えに賛同しないものが全て思想なき思想家であって、「潰乱」しなければならないというのであろうか。馬鹿げたことだ。どこまでも人に喧嘩を売るやりかたというものだ。針子には事の顛末が見えたような気がした。
 つまりは、一時的な熱狂なのだ。所詮は煽動されて盛り上がっているだけなのだから、自分は暫しそこから逃げ出せば良いだけの話なのであると。
 あの思想家が蟹のように道路を動き回る。憎々しげな顔で、針子はそれを睨んでいた。だが思想家の足どりは、以前よりかなり早くなった。自分の考えが受け容れられているように思ったからであろう。口角泡を飛ばす演説も毎日のように行われていた。演台も益々高く、立派に作り直されていった。
 針子は町中に居場所がなくなった。羽衣と栞の顔が絶えず脳裏にちらついた。楽しかった頃の記憶が蘇ってきた。自分からこの二人を奪った思想家に対する、底知れない怒りが湧き起こったのだ。
 そうだ、それならば私は思想なき思想家になろう、虚ろの向こう側を撃つ? 虚ろを越えられるとでも思っているのだろうか。その思い上がりを何とかするためにも、私は虚ろの側に立とう。
 これはまさしく思想家の言っていることの完全なる逆張りではあったが、針子の中では既に確定された意見として、成立したのであった。
 道化師の物音がしなくなって、少し身体を動かしてみたら、微かに胴体が、穴からずれて、僅かに前の方に動けるようになった。そこから更に力を込めて、押し進むと、綺麗に穴から出ることができた。僅かな擦り剥けと打ち身を身体に残しはしたものの、特に目立った傷はなかった。
 余りにも呆気無かったので、針子は驚いた。このままいつまでもこの穴から抜け出ることが出来ないとまで思い詰めていたのに。急いで逃げなくてはいけないと思ったが、続いて虚脱感に囚われた。もう羽衣は自分には無関心なのだ。追われる心配もない。
 道化師たちすらもう自分の周りから居なくなったようで、誰も居ない野原に一人だけで立ち尽くしていた。鼻を折られたらしい、あの道化師も消えていた。夜風が吹いてきた。それが嫌に薄ら寒く、針子は背中を震わせた。
 また松明が見え、今度は栞を先頭にした集団が現れた。こちらは激しい動きで、針子のいる方角に向かってきたのだった。怒れる牝牛といえば些か言い過ぎな気もするが。栞の怒りはまだ静まる様子がなかった。何とその手には竹刀まで握られていたのだ。丸腰だった針子は二三歩後ずさりした。腰に軽い痛みが走った。
「裏切り者が、こんなところにいた」怒鳴り付けるような感じで、栞は言った。
「裏切り者とは誰のこと?」流石にむかっとした針子は怒鳴り返した。しかしその声に怒気はなく、如何にも弱々しかった。
「思想なき思想家(ノンポリ)になった人間に話すことはない」栞は冷徹な調子で言った。
「訳の分からないことを言って」と針子は怒鳴った。「そもそも私には、あんたが、信奉しているあの思想家のことが分からないんだよ」
「それはあんたが思想なき思想家だからだ」
 と栞はなおも叫んだ。
「そうだ。私はあんたの言うように思想なき思想を持つ思想家だ」ここで針子はいきなり皮肉めかして、「私は思想なき思想という思想を持つ思想家だ。私を撃てるのか? 思想を持つものを「潰乱」できるのか? さあどうだ、やれるもんなら私を「潰乱」させてみろ。出来るか?」と最後は声を鋭くして吠えた。
 途端に、栞は思考に破綻を来したようだった。もちろんのことだ。これまで思想なき思想家を撃てとは教えられてきた。だが思想なき思想という思想を持つと確言している人間を撃てるのか? 思想家の思想の解れは、ずばりそこであった。思想家である事を避ける、ノンポリチカルであり、アパシイである連中を撃つ事は可能だが、思想家であることを確言する人間を撃てるのか。
「私は政治的であり、政治に興味を持っている。そう言う人間を撃てるのか? どうだ? 私は思想家だ、君らの「潰乱」を廃滅する思想家だ、どうだ」
 滔々とした針子の弁舌は止まらなかった。それは一度巻き込まれた撥条が、外側に向かって開かれていく様にも似ていた。事実、道化師の掌から転がり落ちたそれは、夜の底でその動きを静かに行っていたのだった。
 草叢のダイヤモンド達が、光りながら空中に滑り出していった。羽ばたきの音が幾つも聞こえた。小さな火の玉が星をちりばめさせた夜空に浮き上がるようだった。道化師共は硬直していた。それは無数の蒲鉾板であった。驚くべき速度で、一人一人屹立していく。
 栞はぽかんと唇を開けていた。口紅を塗っていないそれは、開ききって、乾燥を始めていた。白い歯の向こうに、口蓋垂が見えていた。交戦意欲をすっかりなくしてしまったようである。針子の勝ちだった。
 そのまま痴人のように立ち尽す栞を切株に腰掛けさせると、針子はその手を優しく両手で包み込んだ。ただ、何も言わずにだった。
「私たちは友達だよ」そう口の中で呟きはしたが、その言葉の裏に妙に苦み走った、むかむかするものを覚えていた。友情とは何とも別物である感じがしたからだ。
 この女を置いて、立ち去りたいと思い、それを実行した。駈け去る針子は爽快であった。全ての景色が後方に消えて行った。
 違う場所へと永遠に居を移そうと言うのだった。これほど高らかに唄い上げられそうな出来事は滅多にない。蝋人形館の中で子供の時一人踏み迷った時のように、脚の力だけに全てを委ねていた。あの絨毯の模様がやたらと眼にちらつくのだ。どうにも眼が痒くなってきた。
 いくらでも思い出せる。その時の方が記憶がより鮮明に浮かび上がってくるのだから。少しでもそれを捉えようと努力した。時間はただ流れるのだから、何とかしなければならない。過去の映像を一つでも探し出せれば、針子にとって喜ばしいことはなかった。途切れがちにだが、一つの画像を明滅させながら昔の頃のことが浮かんだ。だが見ればすぐに消えてしまった。とても甘美だったような気がしたのに。
 辿り付いたところには道化師もおらず、そもそも人がいなかった。郊外のような気がするのだが、遠くに襤褸屋が霞んで見えるだけだった。
 湿気が増したようだ。頬に感じていた乾きが消えていった。ややあって自分の身体の疲労に気付いた。足を鉛のように重く感じた。鳥の鳴き声がし始めたが、それがどのような種類なのか、まるで見当が付かない。
 また針子は思い返していた。早い時点でこういう事態にならないように防ぐ方法はなかったのだろうか。思想なき思想を「潰乱」せよという思想にのめり込んだ人々を抜け出させるには、ただ単に、思想家になりさえすれば良かったのだった、私が。そう言う簡単なことにも気付かなかったとは、何て馬鹿だったんだろうか。単純な話だ。
 しかし、内省は直ぐに中断された。羽衣の影がまた姿を現したからだった。それは紙切れ一枚のようで、吹けば飛んでしまいそうな具合だった。縮れた葉を持つ木々の枝の間から、少女の長い髪が、多少は間隔を持ちつつ見えた。なぜそう言う風に見えるかと言えば、指をその間に梳き入れているからで、その指の動きが、スルスルと上がったり下がったりして針子には見えるからだった。
 どうにも落ち着きがない。なぜなのか思案した。子供の時はまだ二人は知り合いではなかったが、羽衣が物を買うのを、針子は物欲しげに見ていた。その時針子はその店で働かされていた。ただ何でも買えている羽衣に対するうらやましさを抑えることが出来なかった。今現在でもそれは続いていたのだった。
 その時の楽しみは蝋人形館にいけることぐらいだった。絨毯と、落ち着いた顔の動かない人々の姿を鑑賞することで、その衣装を見る事で、暇を慰めるばかりだった。
 大統領の蝋人形を見て、針子はその首元からネクタイを盗み出した。こっそりそれを垂らして、廊下を走ってみた。勢いで靡くそれを見て、子供の針子は楽しい気分になった。声を上げて叫びたいぐらいに。
 今はどうだろうか。今の楽しみは何だろうか。そう考えてみたが、全く見当が付かない。分かるなら寧ろ教えて欲しい。しかし、屋根裏部屋の蜘蛛の巣が微妙に光るのを眺める時、写真を眺めるだけの新聞越しにそこにだけ視点を据える時に僅かばかりの歓びがあるのだとすれば。それならそれぐらい楽しいことはないのに。
 兎も角、目の前の羽衣だ。面と向かって言うべきだ。そうしないと私は臆病者になる。何か話さなければならない。その思想なき思想を撃てと言う思想に付いて、なんとか言ってやるべきなのだ。
「羽衣、ねえったら」と声を掛けた。だが向こうは少しも返事をしなかった。他の事に気を取られているらしく、虚ろな目付きになっていた。どこを眺めているのかすらよく分からなかった。針子は袖を引っ張ったが、少しも羽衣は動かない。
 針子はやがて諦めた。そして、考えられることとしては、思想家への憎しみだけだった。そもそもの根源が奴に起因しているのだから、奴を撃てば良いのだ。
 そこに考えを到らせるべきだった。簡単なことだ。なぜ思いつかなかったのだろうか。そのためには、街の中心部まで入り込む必要が出てくる。奴の周りを固める人垣を、一人一人躱していって、あるなら銃で、それがないなら剣でも鍬でも使って、中央にいる奴を仕留める。それでこの街を覆う胡乱な思想を消し去ることが出来るだろう。
 何しろ思想家の思想を唱えられるのは思想家その人しかいないのだ。後はただの思想家の操り人形ばかりと思えた。自分からその思想を唱える人を見たことがない。自発からではなく、他から言わされているのが丸分かりであった。道化師達のように板切れのように立ち尽くしていくばかりであった。
 空が曇ってきた。沈んだ色になっていた。雷が轟いた。その光が見えた。立ち尽くしている針子にもはっきりと。雨が横殴りに降り始めた。
 風が吹いてきた。頬に当たった。目を瞑った。今、目覚めたばかりの時のような気持ちになっていた。瞼が張り付いた感じを覚えた。
 道がぬかるみを増していく、長靴も穿いていないのに、こんな道を進むことは苦行以外のなにものでもなかった。泥の中に足が吸い込まれていく。幾ら歩いても歩いても、少しも進む事が出来ない。このまま吸い込まれていけば、どれだけ楽かとまで考えたが、生憎それ程は沈まなかった。落ち着かないイメージばかりが針子の頭の中をよぎった。
 散り散りなのだが、何かの姿だと見えなくもない。それは酷く悲しい姿だった。
 部屋の中程に一人の女が踞っている。壁紙は悲しいほどに黄色と赤の四角が幾つか交錯して、幾何学模様を描いていた。絨毯がこの部屋にも張られていたが、蝋人形館の廊下のものとはまるで似ておらず、模様もなく、単色だけだった。女は何か叫んでいたが、聞き取れず、泣き疲れていたのか顔を覆っていた。針子はそれを見て立ち尽くしていた。
 その方角に行こうと思うのだが、行けば行くほどその女は小さくなっていく。いや、違うのだ。こちらが進めば進むほど、女への距離は遠くなっていくのだった。まるで絨毯が動いて行くようなのだ。
 泥から足を抜いた時、針子はそのイメージから開放された。もう戻りたくなかった。ただ一心に思想家の居る街へ向かっていきたかったのだ。それ以外に思うところはなかった。
 道化師たちがいた。群れ集って、そのストライプが通常の倍に拡大されて地平を横断するかのようだ。顔を寄せ合って何かを話し込んでいた。
 針子にはよく聞こえなかった。それが一層針子をいらだたせた。身体が震えてならなかった。見られてはいけないと幾度も自分に話しかけ、どこかへ走って行きたかったが、後ろはと言えばぬかるみだ。とても戻る気は起こらなかった。かといってこのまま進むのも到底考えられなかった。道化師の塊の中を突き進む? 考えられない。
 何もかもが嫌になった。だが、道化師の群と道の間に僅かな狭間があるのを見付けた。そこは小山になっていて、松の木が少し傾きがちに上方に生えていたが、そこから道路までは砂だけで石も殆どなく、草も生えていない空間があった。そこに足を掛けて、道化師たちに接触しないように向こう側に渡るという寸法だ。
 ちょっと動かしただけで滑りそうになった。最大限の力を掛けて、突っ張り、細い身体をその上に乗せた。跨ぎ越すような身体の揺れを感じつつ、気が付けば道化師共に悟られないで、向こう側に渡ることができていた。
 そのまま蹌踉と歩いて、人が見えないところまで辿り付くと、再び一散に駈け足で走り出した。最早何も考えず、ただただ走り続けた。
 やがて、針子が見慣れた街へと続く道へと入っていった。木々も疎らになっていった。鳥の鳴き声もしなくなっていった。とはいえ、針子はそのようなものに心を傾ける余裕などをとっくに失してはいたのだが。
 街の門は開かれていた。格別外部の人間の侵入を拒んでいる様子はないようだった。だが人は殆ど出ていったのか、家々はがらんとして、不用心にも扉が開けられたままであった。昔は賑やかだった酒場ですら、今は誰一人、姿が見えない。思想家を守るために中央に集まったのか、「潰乱の巷」を現出させるために、外に出て行ったのか。どちらにしても針子にとっては気楽だった。蝸牛のような道は、針子をさらに内側へと尚更に巻込んでいった。
 丁度殻の真ん中に当たる庁舎の方では煙が上がっていた。
「革命の狼煙か」と言って針子はいきなり吹き出した。余りにも型にはまりすぎている、針子が蝋人形館で見たミニチュアルと同じだった。内心ではゲラゲラと笑い出したかった。路面を転げ回りたかったが、何とかして堪えた。それにしても、連中はどこまで間が抜けているのだろうか。すっかりありがちなことばかりしてくる。
 すっかり針子は冷笑家に化けていた。このようなことを経験させられたのだ。皮肉の一つや二つでも言いたくなるではないか。
 庁舎の前の広場には道化師共が集まって、今度はストライプが広場の端から端にまで広がっていた。なにか唸る声が聞こえて来た。既に言葉になっていない。ただ一層高らかに聞こえるのは、例の思想家の声だけだった。スピーカーがすっかり高くなった演台に据え付けられて、そこから流れてくるのだった。
「諸君、ひたすらに潰乱しなければならぬ。ただひたすらな破壊、抹消を好む抹消をこそ、愛さなければならぬ。それをしない輩を潰乱させないといけない。潰乱の巷はやがて現出されるであろう。潰乱の巷こそが尤も望まれて然るべきものなのだ。思想なき思想を唱える者は、未だ残っている。ほら、君たちのすぐ後ろにもいる」
 と言う声の下に、群衆が一斉に針子の方を振り返った。腰を抜かしそうになったが、何とか堪え、相手の様子を窺った。農婦や道場の師匠を針子はその中に見出した。群衆は針子に向かって指を差してきた。異物そのものであるかのように、ただ一心に。そして、粉塵を立てて走り寄ってきたのだ。
 針子は最初脅えたものの、軈ては落ち着いてある程度の距離を取りながら走った。こいつらは所詮木偶人形だ、それ自体は恐れるに足らないだろう。イメージのちらつきはできるだけ抑えていた。そこに没入してしまっては命すら危ういと思えたのだから。
 広場の真ん中に一匹野良犬のように誰かが迷い込んできた。栞だった。泥の中を転げ回り、岩の間を這い上って、服はぼろぼろになり、もう布一切ればかりになっていた。口から泡を出して、地面に両手を付いて息を切らしていた。群衆はそれに全く気を取られず、栞の四肢を踏み付けにして通った。
 少女の叫びが聞こえたが、それも雑踏にもみ消されていく。鍛えられた筋肉の弾け飛ぶ音がした。骨を砕く音も。
 それを聞いて、針子は空恐ろしくなった。振り返ることもせず、ただ走った。しかし、目的が何もなかった訳ではない。手頃な隠れられる場所を探したのだ。
 密集した、ガラ空きの家が多い中で隠れるのは簡単だ。直ぐ様針子は群衆を撒いて、小さな家の部屋の隅に隠れた。敢えて自分の住んでいる屋根裏に近くではないところを選んだ。何も入っていない瓶を割って、武器代わりに持ち、暫く待機したものの、跫音がこちらに向かってくる気配はない。
 安心した針子は暫く家の中を物色した。これでも自分の暮らしていた屋根裏よりはましだと思えたのだった。埃も積もっていないし、それが針子の中に絶え間のない憂鬱を積もらせることもない。随分豪勢な暮らしをしてやがる。
 針子はいつも屋根裏で蜘蛛の巣が揺れて光るのをただ眺めて暮らしていたのだった。そうでもしないと慰めにはならないからだった。心を落ち着かせることには工夫がいった。暫く押し黙っておく必要があるし、そうしたままでいるとえらく気が滅入った。歩き回るのも逆効果になることが多い。
 第一、それでは羽衣と同じようなものではないか、頬が火照り、他から見れば赤面したように見えるのではないかと思い、もっと恥ずかしくなった。
 思想家の所にはあと少しでいけると確信していた。既に手には凶器もあるし、殆ど人はいなくなった。皆、針子を追っているつもりだろうが、実は術中にはまっているのである。思想家を撃って、「潰乱の巷」を終わらせる時はそう遠くない。そうすれば秩序が到来する。既に針子はそういう風に考えていた。「潰乱」を撃滅しなければならない。物事を潰すなどもっての他である。針子はもう一個の思想家に自分はなったという風に考え始めていた。庁舎までの道を辿りながら、ぶつぶつと呟き始めていた。撃滅せよ、撃滅せよ、何よりも「潰乱」を撃滅せよ、と。
 庁舎はも抜けのからとなっていた。人っ子一人いないのだ、くすぶった笑いが針子の唇を突いた。栞の遺骸をただただ無心に眺めていた。何の感動もなかった。あの角度で足が出ていれば、確かにこう言う風に皮膚が裂け、肉が出るのは目に見えているなと思うぐらいであった。庁舎の扉は鍵も掛けておらず、勝手に開いた。
 部屋が無数にあった。針子自身、庁舎に入るのは初めてだった。だが誰にも見咎められることはない。書類の山を見ながら、自分には字が読めなかったことを久々に思いだしていた。
 書類の束を思いっきり床にばらまいて踏みにじった。針子の気分は爽快だった。机に置いてあった燐寸を擦って、その上に投げつけた。何度も繰り返しながら、市長の部屋へと入り込んだ。そこには羽衣がいた。床に倒れていた。衣一つも纏わない姿であった。
 流石に針子も二三歩後ろに下がった。また何か落ち付かない気持ちになった。今までの怒りが急に萎むような感じすら覚えたのだった。羽衣の息遣いが聞こえて来た。眼を背けるようにして、思想家の方に向かった。凶器を握り締めて。
「待ってくれ」さすがの思想家も情けなさそうな声を上げて、数歩とびすさった。既にズボンのチャックを開けたままであったので、何をやろうとしていたかは安易に露見した。
 割れた瓶が一度空を切った。思想家は更に声を上げた。
 それを見て針子は笑い出してしまった。ここまで弱そうなやつに皆動かされていたのかと。あの自分より腕の立つ栞ですらが、鉄砲玉の如くにあしらわれていたとは。全く信じられなかった。
「何が潰乱だ」針子は嘲った。「てめえ自身が潰乱されることを恐れるとはね」
「潰乱は思想だ」思想家は怒鳴った。「何を貴様が、貴様こそ、俺の潰乱を潰乱したではないか。貴様が潰乱以上の潰乱をやったではないか」
 針子は憤って、瓶を思想家の顔に叩き付けた。最大限の力を、誠心誠意に込めたつもりだった。思想家はなにか叫びを上げて、床に身体を擦り付け、血の跡を引き摺りながら、蟹のように手足を動かして這い回った。針子は書斎にあった護身用の鉄棒で、何度もそれを殴り続けた。栞と同じような音を立てた後、思想家はとうとう動かなくなり、死んでしまった。
 いとも呆気なかった。あれだけ撃滅すべき対象としていた思想家をこうも簡単に倒せるとは。思想という奴の内実も知れたものだ。脳漿の色も見る限り他の連中と違いがあるように思われないではないか。
 針子は羽衣の方に振り返った。急いで胸元を隠してはいたが、その手は震えていた。針子の手は血に染まっていたからだ。そのまま針子は出来るだけ笑顔を作って、羽衣の方に近付いた。
「どうしたの、羽衣、友達だよ」と針子は言った。自身では有無を言わせぬ調子で言ったつもりだった。
 だがそれにも拘わらず、羽衣は身を引いていった。針子は羊皮紙を思想家の机から取り上げて、それを思想家から流れる血に浸した。
「こうなる」と言いつつ、それを羽衣の胸元に投げつけた。羽衣の真っ白い服が見る間に赤く染まった。「潰乱を望んでいたんじゃなかったの? これが潰乱だよ。羽衣の一番望んでいたことだよ」
 思わず、鉄棒を取りだして、羽衣を打ち据えていた。とても厳しく、優しさも含ませたつもりだった。見事に羽衣の背骨を折っていたので、針子にとっては喜ばしいことだった。兎も角、友達だから潰乱すべきだ。なんとしてもの急務だった。
「そうだ。潰乱するべきだ、徹底的な潰乱こそが、意志の体現になるのだから。思想なき思想を撃つという発想、それ自体を潰乱するしかないだろう。そうすれば永遠に根を断つことが出来る」
 針子は熱弁した。もう誰に向かうともなしに喋っていた。聞き手がいようが、いなかろうが、どうでもいいのだ。ともかくも喋り続けなければならない。
 そのまま、羽衣に動かないように命じた後部屋を出て行った。格別声を掛けなくても、既に羽衣は痛みにのたうち回っており、部屋を出ることなどできそうになく見えたが。
 炎が窓から幾度も吹き上がる長い廊下を渡り歩き、針子は幾度も己の思想を熱弁して回った。自身の影が大きくなり、気分も高揚してくるのを覚えた。一つの歌を私は唄っているのだと。それは皆を揺すぶり起こす声であり、世間の方向性を変える言葉だった。
 まさに「潰乱の巷」が現前されようとしていたのである。針子は書類をばらまいて火を付けて回った。窓を叩き割っていった。一つ一つの破片が光って、庁舎の前の広場に落ちて行く。部屋の扉々を壁に掛けてあった手斧で叩き壊していった。廊下に倒れ込んでいる人々を踏みつけにして歩いていった。
 道化師共がそれを呆然と見上げていた。まさにパレードのような群衆だった。
 針子はとても上得意になって、そのまま潰乱の行為を続けた。いかにも正当性があるかのように主張しつつ、叫び声を上げた。
「潰乱する思想家を潰乱した」何度もそれを繰り返していく毎に、言葉は以前とは全く変わった深みを増していった。それは何度も輪を描いて広がっていった。
 思い出していた。過去の蝋人形館を。そこでいくらでもさまよったのを。涙が出るほどだった。羽衣のことですら、もう二次的なことになっていた。思想を広げていくことこそが何よりも重要であり、行うべき事なのだった。
 そうした時に改めて考えると、思想を持たないという事はどう考えても不利に働くものだと考え始めた。思想を持っていない人間よりも思想を持っている人間の方が、遥かに偉いのだ。
「私は彼らに思想を与えるし、彼らはそれを受け容れる。思想は人々を圧倒するものだし、人々を所有するための手段でもある。その時、私の有り難い思想から逃れる輩がいれば、確かに居心地が悪い。そうだ、そうなのだ。思想は相手に押し付けてこそ価値があるのだ。それから逃れる輩というものは思想にとってはひたすらな害悪となるだろう。思想なき思想家を潰乱せよ、真にあの思想家の言っていることは正しかったのだ」
 針子は瞬く間に思考していた。今までにない、明晰なものだと錯覚していた。既に針子は耳鳴りのように沢山の人々の歓声を聞いていたのだった。それは針子の名を次々に叫んでいた。とまれ、勝利の一瞬を自覚したのであった。階段を駆け下りて、庁舎の入り口から外へと歩み進んだ。
「思想なき思想を潰乱せよ」針子は叫んだ。そして、道化師が一斉に、壁面のように並ぶ中を、広場の中を歩いていった。そして、演台へ登ると、己の持つただ一つの思想について演説を始めたのだ。
「思想なき思想を潰乱しなければならない、彼らは思想を持つことを拒絶し、思想から徹底的に逃避しようとする。愚かしい人々だ。潰乱の巷を現前させなければならない、幾ら現前させてもそれは足りない、徹底的な潰乱こそが我々に用意された唯一の道なのである。潰乱の上にも潰乱せよ。潰乱が足りないようではいけない。この世界自体を潰乱させることを望まねばならない」
 針子の演説には複数人が耳を傾けてはいたが、首を捻るものもいた。何とも理解されないようで、それが針子を激怒させた。こいつらはあの思想家の話なら聞くというのに、私の話はなぜ聞けないんだ。これほどありがたい話であるのにも関わらず。
「潰乱せよ、全ての思想家を潰乱せよ!」針子は最大限に声を上げた。心底からわき上がる怒りを込めた発言だった。
 すると、群衆から野菜が抛り投げられてきた。瓶が投げつけられて、それが針子の顔に当たった。
 額から血を垂らしながら、針子は頽れた。涙が顔を伝って流れ始めていることにその時初めて気付いた。
 思想家を「潰乱」せよといった途端に、忽ち自分は思想家になった。そして、「潰乱」されるべき対象になっていたのだ。
 これこそがまさに「潰乱の巷」だった。私はそれを現前させたのだ。嫌が応にも、自分がその一番最初の対象となるのだ。それを凄く落ち着かないことだと考え始めていた。
 針子に群衆は向かってくるのだが、その間にも針子は幼い頃のことに思いを馳せていた。
 例えば、蝋人形館の扉の前に立った時だ。口を開いたままの引き攣ったような顔が目の前にあった。それを初めて見た時の驚きが今でも直ぐに蘇ってきていた。
 また、硬直した顔の蝋で作られた人々を眺めた時のことだ。今考えると、自分が、引き攣ったような表情を浮かべたままの蝋のような色をした顔になろうとしていくのに思い至って、さらには蝋人形館に陳列されるとまで考え始めた。唇はすっかり乾いて、顔を永遠にそのままに硬直させて。
 蝋人形館は幾ら眺めても飽きることはない。絨毯が長く伸びてどこまでも続くようにいつまでも続く、そういう時間の中に自分もやがては身を置かれることになるのだった。その中には栞も羽衣もいた。どちらも同じような表情だった。その同じような表情でその横に自分が並べられることを考えた。
 素晴らしいことだと、そういう風にでも考えないと震えが、とても止まらなかった。恐ろしい冷ややかさがその内側で広がっていった。針子は留まることのない恐怖を絶え間無く感じていたのだ。それは身体を這い登っていって眼の裏側の肉にまで到達していた。
 身動きがとれなかった。何かめちゃくちゃな衝動が針子の舌の裏側に控えていたのだ。
 身体が群衆に持ち上げられて、手足が押さえ付けられていた。板の上にでもいるのかと思った。それほど四肢の感覚はなくなっていた。首筋にナイフが当てられるのを思った。
「潰乱、潰乱」
 皆が叫び声を上げるのが聞こえて来た。刃が引かれていくに従って、針子は何度でも思った。昔のことを、昔のことを。
 ネクタイを手にして、翻らせて走り回るのは爽快だ。小さな狭い穴のような空間でも、幼い針子ならば通り抜けていくことが出来た。その時はもうこの地上にはないぐらいに、幸せな顔を浮かべていたのだった。それは確かにそうだった。確実に針子が幸せだった頃の思い出なのだった。



浦出卓郎プロフィール