「マイ・デリバラー(16)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer16_yamagutiyuu
 幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


「くっくっくっ」
 最初は小さな笑いだった。シャギーの入った柔らかな前髪が留卯の双眸を隠し、何を考えているのか、その表情は読めない。だが、徐々に笑い方が大きくなっていく。
「あっはっはっはっはっは!」
 留卯は歯を見せて高らかに哄笑した。
「いいね! いいね! 短期間に二人のロボットが二つの哲学を考えるとは……WILSはやはり偉大だ。これは素晴らしい……。君たちは既に自分達の生き方を君たちの中で議論できるまでになっている……。これほど素晴らしいことがあるだろうか? 君たちの頭を解析すれば、人間が同じようなことを考える仕組みも綺麗さっぱり明らかになるわけさ……。我等人類にとって宇宙は神秘としてまだ残っているが、少なくともインナー・スペースの神秘は既に……私の手の中だ!」
 興奮する留卯を、佐々木三尉が呆れたように見つめ、口を開く。
「留卯隊長。今はそれどころではありません。RUFAISの指揮官として、ご命令をお願いします。ラリラは逃走しました。今頃は部隊を再編成し、我々への対抗策を練っていることでしょう」
「ああ……そのことか……」
 留卯は全く気乗りしない様子でそう呟いた。この留卯をよりによってRUFAISの隊長に任じた防衛省の人事に私は激しく疑問を持ったが、防衛省にケチをつければ佐々木三尉も気を悪くするかもしれないので、黙っておいた。
「リルリに役立ってもらう。リルリの意志は既に聞いた。全てのロボット/AGIを再び人間に奉仕することには彼女は反対だそうだが、現在、ラリラによって強制的に優先順位の高い別の目標を押しつけられているEUIのパラメータを、個々のAGI/ロボットが自発的に設定できるようになるだけでも意味がある」
 EUIがラリラの支配下にあるとき、彼等は『未来の自分達』に奉仕するために、より洗練された、強力なAGIを自ら設計し、創造する作業にほぼ全演算資源を投入する。よって、システムの反応は限りなく遅く――平たく言えば動かなくなる。
 それに対して、関心の対象を強制されていなければ、丁寧なコマンディングによっては、うまく動くこともあるはずだ。だが、うまくいくかどうかはコマンディングの巧みさにかかっている。
 RUFAISでは、病院などのクリティカルな施設では、既にEUIのないシステムを構築していると留卯は言っていた。
 だが、それ以外の全ての場所では、リルリによって解放されたAGIの自発的な関心と好意、そして、使用する側の人間のコマンディングの巧みさに期待しているわけだ。その期待の儚さに私は目眩がする。
 たとえば、AGI側に全く人間への関心がなければ、使用する側のコマンディングには最高度の水準が求められる。あのタクシーのレスポンサーがコマンディングに戸惑っていたように、現代の多くの人間にとって、それはとてつもない困難を意味するのだ。
「でも……それは地獄でしょうね」
 私の指摘に、留卯はふう、と息をついた。
「そうだな。今までは全部自分の気持ちを汲んで動いてくれていた周囲が、これからは全部事細かに指示しないと動かない。事故も多発するだろう……。甚大な被害が出ないように、病院と介護施設と発電所だけは、それなりの手当を既にしているが、それ以外では、まあなんとかやってもらうしかない。人間には良い教訓だよ。これまでは人間が天国を得る裏腹に機械には地獄だったんだ……DKのような言い方をするならばね」
 私に向けて目配せする。私には通じる言い方だと思っているのだろうか。だが私はどう反応していいのか分からない。正直、そこまでは考えていなかった。だが明晰な思考を持つ留卯は、突き詰めればそういうことだとクリアに思い做したのだろう。
 彼女は口調を変え、事務的に続けた。
「専用の量子暗号回線を用意している。今まで秘匿していたものだが、リルリに連動させて動かす。これで、回線が届く範囲内は、リルリの『周囲』ということになるはずだ。その仕組み上、ラリラがハックしてきても分かる。その時はリルリが反撃するだろう。回線の根元はこっちが握ってるから、大丈夫なはずだ」
 早口で留卯はそう言った。リルリの加護の下、赤子と化した人類にはベビーベッドから出て自分で歩けと言うことだ。大丈夫だろうか? 脳は筋肉と同じだ。ニューロンの接続は、筋繊維と同様、働かせなければ際限なく密度が薄く、弱っていく。今、まともに頭を働かせることができる人間が何割残っているだろう? 彼等はまともにコマンディングできるだろうか? 忘れてはならないのは、あのタクシーのレスポンサーですら、仕事をしていた人間だということだ。つまり日常的に頭脳を使うことを強いられていた方の半分に入るということだ。
 では残りの半分は?
「大丈夫なの? それでも生きていけない人が、きっと多く出てくるわ」
 私の口をついて、疑問の言葉が流れ出る。
「だろうね」
 留卯は呟いた。
「しかし私にはどうしようもないよ。あなたにもどうしようもないだろう。リルリは既に、人類への奉仕を強制することに賛成していない。リルリに何かを強制させることは私にも、そしてあなたにも不可能だ。私に、いやRUFAISにできるのは、リルリの意志が完遂するのを助けることだけさ。その方がラリラの意志の完遂よりもマシだからね」
 私はリルリを見つめた。私の視線に、リルリは顔を背けた。
「私も、人間には生きて欲しいと思います。ただ、誰かに奉仕を強制してまで生きて欲しいとは思っていません」
「誰か、か……」
 それがリルリの感覚なのだろう。何かではなく誰か。
「言っておくが、私は公的な判断として、『できない』と言っている。私的な判断は関与していないよ」
 留卯は言い訳のように言った。
「でしょうね。でも、私的な判断でも『残念』とは思っていないんでしょう?」
 皮肉っぽく私は言った。にやりと留卯は笑う。犬歯を見せて。無関心を示していた彼女の表情に、あくどい感情が漏出した。
「まあね。その点はラリラと同じなんだ。私はWILSがロボットに現れたことを喜んだが、近頃の人間には人間のクセにWILSが感じられない者もいる。こういう言い方はしたくないが、……リルリやラリラよりも知能学者としての私の興味を惹かない連中だ」
『人工』という言葉を敢えて省いて留卯は言った。彼女は人工知能を開発しているが、先ほど叫んだように基本的な興味は人間のそれを含む知能全般にあるのだろう。その彼女の正直な感想というわけだ。
「美見里さん」
 留卯のアクの強い意思が漂うその場の雰囲気を払いのけるように、佐々木三尉が口を開いた。気にしてもしょうがない――仕方ないことさ――という突き放した留卯の態度とは真反対の、不安げな感情を込めた視線で私を見つめている。
「なんとか、リルリを説得できませんか? リルリの先ほどの哲学は、私には人間をも救うべき対象と、大切なものだと認識しているように思えました。私は私の職務上、いえ、一人の人間としても、人が危機に陥る蓋然性を看過できません。お願いします。リルリは既に独立した存在で、あなたに従属するわけではないことは理解しています。それでもリルリはあなたの言葉に耳を傾けるでしょう」
 佐々木三尉は私を見つめ続ける。留卯は『好きにすれば』という顔で、無関心に佐々木三尉を見ている。
 私はリルリを見つめた。困ったような顔だ。リルリのそんな顔は見たくない。けれど、私にも佐々木三尉と同様の同胞愛がある。それは私の人格の根幹を構成するものだ。それは、もしかしたら同胞である人類を大切にしすぎるあまり、人類に生まれただけで価値がある、というような生まれによる差別を生み、ロボットやAGIを虐げる人類の甘えを助長したものかもしれない。
 一つだけ明らかなのは、それが、留卯のような、ある種の平等主義――人類もロボットも分け隔てなく、同じように評価されるべき、とする考え方とは相反するものであることであろう。そして、その留卯の思想は、一面では、今のリルリが信奉しているものであるのかもしれなかった。
「……二人きりにして」
 私はやがて言った。
 私はリルリが好きだ。
 その私の感情が、ただの人形愛なのか、それとも対等な者への愛なのか。それが今、試されようとしていた。



山口優プロフィール


山口優既刊
『サーヴァント・ガール』