「奇妙なサイン会」太田忠司(画・YOUCHAN)

(PDFバージョン:kimyounasainnkai_ootatadasi

「田野中正円先生サイン会」という立て看板を見かけたとき、私は思わず足を止めた。
 たまたま訪れた片田舎にある小さな本屋だった。田野中正円といえばノーベル文学賞をも遠からず手中にするだろうと言われている大作家ではないか。いやまさか、そんな著名人がこんなところでサイン会を開くとは。
 大いに疑問に思いながらも、私はその本屋に足を踏み入れた。
 どこといって特徴のなさそうな、ありふれた地方の本屋だった。書架に並んでいるのは雑誌か実用書が主体で、文芸書の類は片隅に追いやられている。
 店の奥にカウンターがあり、そこに若い女性がぽつんと座っていた。短くカットした髪に大きな黒縁眼鏡。一見すると高校生、いや、もしかしたら中学生かもしれない。となるとアルバイトか。でも成人という可能性も捨てられなかった。それくらい年齢の識別が難しい顔立ちなのだ。エプロンの胸元に付けられたプレートには「密原」という名前が記されている。
 女性は私が見つめているのにも気付いていない様子で、文庫本に眼を落としている。
 思いきって声をかけた。
「あの……」
 女性は顔を上げた。
「はい、何でしょうか」
「あの、田野中先生のサイン会というのは、本当にここでやるんですか」
「田野中先生? ええ、やりますよ」
「いつやるんですか」
「いつでも」
「いつでも? どういう意味で?」
「だから、いつでもやりますよって。今、やりましょうか」
 そう言うと女性は手にしていた文庫を置き、カウンターの下から鋳物の香炉と鈴、鈴棒と数珠を取り出した。そして数珠を左手に掛けると右手で鈴を叩き、何やら念仏のようなものを唱えはじめた。
 なんだなんだ、なにが始まったんだ?
 呆気にとられている私が見ている前で、女性の表情がみるみる変わっていく。それまで柔和な顔立ちだったのが、男のような精悍さに変化していったのだ。やがて女性は念仏をやめ、眼を開いた。
「……わしが田野中正円じゃ。サインしてほしいのはあんたか」
「あ……はい」
 思わず返事をした。
「あの、もしかしてこれ、いわゆる口寄せってやつですか。あなたは、イタコ?」
「わしは田野中正円じゃと言っておるだろうが」
 女性は足下のカウンターから本を一冊取り出す。田野中正円のいささか古い著書だった。
「あんたの名前を、これに書け」
 差し出された半紙に自分の名前を書き記す。女性はそれを見ながら、筆ペンで見返しにさらさらさらと書きつけた。
 そこには私の名前と「田野中正円」の名前が書かれていた。いかにも大作家っぽい達筆だった。私はおずおずと訊いた。
「あなたが本当に田野中正円だとしたら、もう死んでるってことですか」
「なんでわしが死なねばならんのだ」
「でも、イタコに呼ばれたってことは……」
「四の五の言うな。サインしてやったのだから、さっさと帰れ」
 早々に店を追い出された。私はその本をバッグに収め、帰路についた。

 後日、文芸編集をしている友人にこの話をしてみた。
「まあ、眉唾ものだと思うけどね」
 サインしてもらった本も見せた。友人はそのサインを見て眼を見開いた。
「これ、まぎれもなく田野中先生のサインだよ」
「え? まさか」
「田野中先生のサインは何度も見たことがある。間違いないよ」
「でも、どういうことなんだ……まさか、世間に知られている田野中先生はじつは影武者で、あの女の子が田野中正円の正体なのか」
「そんなことはない。先生はれっきとした男だよ。しかも相当のお歳だ。でも……」
 友人はあたりを憚るように小声で言った。
「ただ先生、ときどき意識を失うことがあるらしいんだ。そして気を失っている間、夢を見てるんだそうだ」
「夢?」
「ああ、どこか小さな本屋で本にサインしている夢だそうだよ」



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