「山野さん、ありがとうございました」片理誠

(PDFバージョン:yamanosannarigatougozaimasita_hennrimakoto
 癌で闘病されていた山野浩一会員が、2017年7月20日にご逝去されました。
 私は山野さんとは一度だけ、2010年に行われたSF大会「TOKON10」の「SF新人賞&左京賞受賞作家『21世紀SF』を考える」という企画の時に、ご一緒させていただきました。
 超然とされた穏やかな雰囲気をまとったかたで、マイクを持たれた時もとても落ち着いて話されていたのですが、時折、眼差しが射るように鋭く光ったのが今でも印象に残っております。

 その後、私自身がお目にかかる機会はなかったのですが、普段から山野さんと親しく交流されていて、当サイトにもいつも多大なご協力をくださっている岡和田晃会員が、単行本や文庫本にまだ収録されていない山野さんの作品を、ご本人の許諾を得た上で、当サイトにお寄せくださいまして、「山野浩一未収録小説集」として発表させていただける運びとなりました。
 その最初となったのが「死滅世代」という短編。これは長らくファンの方々の間では、その存在が噂されるのみの“幻の作品”だったのだそうで、その分、反響も大きく、山野さんも喜んでおられたとのことです。
 そして第二回となる「自殺の翌日」がサイトに掲載された、まさにその日に、山野さんは旅立たれてしまいました。


【これより先は、「死滅世代」のネタバレを含みますので、未読の方はご注意くださいませ】

「死滅世代」は私も読ませていただきまして、その衝撃的な内容と、そこに描かれているデカダンとも言える時代の空気に大いに驚き、親しい人と感想のやりとりをしたり、他の方の感想も拝見したりしていたのですが、そこで一つ気づいたのは「結末の解釈に関しては[ 救いは有る / 救いは無い ]の二派に分かれる」傾向がある、ということでした。
 私は最初に読んだ時、「救いは有る」と感じました。
 作品のラストで主人公はある場所に辿り着きますが、これには伏線があって、作中の「地球上でも死に接して生きていると自殺への誘惑から逃がれることができる」という台詞によって、事前にそのことは暗示されていたのです。つまり物語の最後に辿り着いたあの特別な地こそが、主人公にとって「死に接することのできる場所」、聖地だったわけです。
 私はこれを「救い」と捉えました。「全てが死滅してゆくこの世界の中にあって、彼だけは、無意識ではあっても、まだ必死に、懸命に生きようとしている」と思ったんです。
 ですが読み返していくうちに、違う解釈も成り立つということに気づきました。
 主人公の生き様ではなく、そのもう一方で描かれてきた無気力で冷笑的な世界の解釈の方に重きを置いて読むと、あのラストは「全てが死滅してゆくこの世界の中にあっても、彼だけはまだ、生きることに恋々としている」という風にも、確かに読めます。
「生きようとしている」という点では同じなのですが、それを「生命が持つ前向きな強さ、逞しさ」と見るか、「滅びることを潔しとできない、生命の悲哀」と見るかで、救いの[ 有る / 無し ]が変わるのです。
 もしどちらかのメッセージのみを読者に強烈に訴えたかったのであれば、山野さんはそのように書かれたはずで、でも実際にはそうは書かれなかった。どちらにも取れるように書かれた。これはつまり「結末の解釈は、一人一人の読者に委ねる」ということだったのだろうと思います。
 そうは思うのですが、でも実際に書かれていた山野さんご本人は、いったいどうだったのか。どちらのつもりで書かれていたのか。他の方々の感想を読むうちに段々と興味がわいてきまして、もしいつかお話しする機会があったら、是非山野さんに伺ってみたいと思っておりました。
 ですが、ご逝去により、それもかなわぬ夢となってしまいました。


 山野浩一様、作品掲載の許可をくださり、まことにありがとうございました。SF Prologue Waveを代表いたしまして、篤く御礼申し上げますとともに、謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。



片理誠プロフィール