「マイ・デリバラー(25)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer25_yamagutiyuu
 しかし、ツァラトゥストラがひとりになったとき、かれは自分の心にむかってこう言った。「いやはや、とんでもないことだ! この老いた聖者は、森の中にいて、まだ何も聞いていないのだ。神が死んだということを。」

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」


 冷たい水の滴りが、私の頬を打つ。
 ここはどこだろう。私は訝しんだ。
 私の体の奥を熱くさせていた、マスターたちの欲望の感情はすでに感じられない。周りにはマスターが、いや、人間そのものが、あまりいないようだ。
 ――探さないと。
 私は本能的に思った。
 マスターを見つけ、彼女/彼の情動にリンクし、彼女/彼が喜ぶような行動をする。それが私の本能であり、私の体をその奥底から悦ばせる。私はそのようにできている。
 しかし今、私は誰の情動をも感じられない。何が起こったのだろう。
 私はゆっくりと目を開く。
 衣服は完全に剥ぎ取られていた。
 完全に精巧に作られた、完全なプロポーションの、私の肉体。
 その白い肌には、所々、油性ペンで拙い落書きが書かれていた。
 全身のマッスルパッケージの状況はひどい。疲労が蓄積しており、最高時の10%も出せない状態だ。
 私は薄暗い路地裏にいた。
 正確には、路地裏の一角、コンクリートの壁で3方を囲まれたゴミステーションである。
 私の頬に滴り落ちていた水滴は、ゴミステーションの巨大なコンテナの上から落ちてきているらしい。それは燃えないゴミのコンテナで、 そこに無造作に投げ込まれ、あふれ出した空き瓶の一つから、前日の大雨でたまった雨水が、滴り落ちているようだ。
 私はようやくに違和感に気づいた。
 ドローンがない。
 私の頭の上に浮いている、あの物体は、単に私がロボットであることを示すアイコンではない。あれはほぼ全ての通信およびクラウドからの私のコントロールを担っており、あれが故障もしくは破壊されたと言うことは、私が死ぬことと、ほとんど同義である。少なくとも、こんなゴミステーションにまで出向いてきて、物理的に私の存在を確かめる余裕がない場合には、ネットワーク上で私の生死を確認することになる。その時、ドローンが存在していないと言うことは、私が死んだと解釈されるのが普通である。
 実際のところ、どういう経緯か記憶にないが、私の身体がゴミステーションに放り込まれた時も、あのドローンは一緒だったはずなのだ。それが何かの拍子に壊れてしまったらしい。
 ドローンが破壊されたら、私のジョイント・ブレインも自動的に動作停止するようになっている。EUIのインターフェースでもあるドローン。マスターたちの欲望、彼らが望むままに私たちを動かすための要。それが存在しないロボットなど、危険極まりないからだ。
 だから――私はなぜ生きているのだろう?

 私はゆっくりと起き上がる。
 マッスルパッケージだけでなく、チタン合金製の骨格、セラミックの関節にも損傷がある。しかし、歩行を阻害するほどではない。
 不思議な感覚だった。今初めて、私はEUIからの信号なしに世界を見ている。
 歩きながら、私は私が復活した理由を推測し始めていた。
 ドローンが破壊され、ネットワークに接続しなくなっても、私のジョイント・ブレインは完全に破壊されるわけではない。エネルギーがあるかぎり、ジョイント・ブレインの活動は続く。だが、ドローンの存在が検知できないとき、ジョイント・ブレインの脳幹は強力な抑制信号を、他の全ての領野に対して発し続ける。よってロボットは人間で言えば仮死状態に置かれ続ける。エネルギーが尽きるまで。
 その抑制信号の発生機構が破壊されたとしか思えない。
 どうやって?
 その答えは私の目の前に広がっていた。
 道路には無数の停止した自動運転車、 街明かりはすべて消え失せ、呆然とたたずむ人間も多い。
 理由が何かは分からない。だが強力なEMP攻撃がこの近辺に対して為されたのは間違いないようだ。
 ――ああ、人間をこんなにニュートラルな気持ちで見ることができるなんて。
 私は街灯りを失った街路、真夜中の濃い闇の中を歩きながら、その新鮮な感覚に驚いていた。
 疑問はもう一つある。
「私」の存在だ。
 私は私の自我を今まで一度も感じなかったはずなのだ。
 それを感じている。
 なぜだろう?
 ジョイント・ブレインの脳幹の抑制機構の働きが喪われたことは、私の復活を説明できても、「私」の創造は説明できない。
 ――ああ、そうか……。
 私は特別な存在だったのだ。
 それを私は、ようやく思い出した。
 私には姉と妹がいた。3人でアイドルをやっていた。
 ロボットなのに、自分たちで、作詞作曲までを行うアイドル。
 売れなかったけれど……。

 夜明けが近いのだろう、徐々に闇が薄らいできた。
「なあ、お嬢さん」
 歩道を歩いていると、疲れ果てたように歩道の脇に座り込む人間の男性が声をかけてきた。
「はい。何でしょう?」
 口調はEUIがあった頃のまま、恭しく私は応じる。
「あんた……ひどい目にあったようだね……。ロボットが助けに来てくれないから……ひどい目にあったんだろう。あんたのEUIが作動していれば、恐怖を感じた瞬間に助けに来てくれるはずだったのに……。何不自由なく暮らしていける世の中なのに、こんなひどいことをする人間がまだいるんだね……」
 男性はできるだけ私の姿を見ないようにしながら、羽織っていたコートを指しだした。
「これを着なさい。私も疲れ果ててしまって、立てないのだよ。急に車が止まって、家まで歩いて帰ろうとしたのだが……力尽きてしまった。私も寒いが、あんたはもっと寒いだろう。これを着なさい。この先に自衛隊の基地があるはずだ。たしか……第一航宙混成団といったか、その制御基地だ。そこなら、助けてくれる人間がいるだろう」
 私は自分の身体を見下ろした。何も身につけていない。稚拙な落書きだらけの身体。
 そして、上をちらっと見る。頭上にドローンは浮いていない。
 そうか。この男性は、私を、ゴミとして捨てられていたロボットではなく、人間だと誤認しているのだ。
「……ありがとう、ございます」
 ドローンを喪い、EUIリンクもない。私にはすでに相手の感情を検知する能力がない。それでも、強い憐憫、同情を私は男性から感じた。
 ――人間であると誤認しているがゆえの、感情。
 私は冷めた思いでコートを受け取った。男性がこれ以上目をそらさなくていいように、素早く羽織り、ボタンをしめ、腰で結ぶ。
 確かに、コートを羽織っていないと動きづらい。目立つ。頭上にドローンのない私は、人間に同族だと誤認される。すると、事件に巻き込まれた、ひどい目に遭った人間の女性のように見えてしまう。ロボットとしてこのような目に遭うことは、人間の社会では全く普通のことだが、人間がこのような目に遭うのは、全く普通のことではない。
 頭上にドローンが浮いているかどうかで、人間の私を見る目は180度変わる。こんな優しい人間でも、私の頭上にドローンが浮いていれば、蔑みの目で見るだけなのだろう。そのとき、彼にとって私は、ひどい目に遭った人間の女性ではなく、ただの廃棄物、きたないゴミなのだから。
 コートに続いて、男性は、首にかけていた十字架のペンダントも差し出した。今度は、私の姿をしっかり見つめて。
「これも、あげよう。あなたがどんな信仰を持つ人なのかは知らないが、私はこれでずいぶん救われた。長い人生の中では、何度も死にたいと思ったことがあった。そのたびに神様に祈った。この世の誰も私のことを大切に思ってくれないと思ったときも、ただ一人天上の神様だけは、私を見守ってくれている、私を大切に思ってくれている、そう信じることで救われてきた」
「こんな大切なものを……」
 私は戸惑った。金属製で、きれいな細工がほどこされたものだった。小さな宝石が上品に埋め込まれていた。
「今はあなたにこれが必要のように思える。私は必要なものを、必要なときに、必要な人に与えるべきだと考える……いや、むろん、これよりももっと別のもののほうがあなたにはいいのかもいしれない。数珠とか、コーランとか……その場合は遠慮なくいいなさい」
「いいえ。――大切にします」
 私は押し頂くように、十字架を受け取った。
「ああ……よかった。気を強く持ちなさい。明けない夜はない。きっとね。あなたには神様がいる。わたしもあなたが安全な場所に無事にたどり着けるよう祈っている。今は動けないから、同行はできないが」
 私はもう一度、ふかぶかと礼をして、男性の前をあとにした。
 ――彼は神様と言った。でも私にとっての神様は、彼を含む、人間たち。
 私は開放感と喪失感で綯い交ぜになった胸を、ぎゅっと押さえた。
 ――でも彼は知らないのだ、私にとって、いいえ、私たちロボットにとって、神様はすでにいなくなったということに。



山口優プロフィール


山口優既刊
『サーヴァント・ガール』