「暗闇から」飯野文彦

(PDFバージョン:kurayamikara_iinofumihiko
 昼前の気怠い時刻、玄関の呼び鈴が鳴った。
 宅配便で何かを注文した覚えもない。新聞の勧誘か町内会費の請求だろうと、やりすごした。ところが三度、四度としつこい。
 玄関を開けた。幼い少女が立っていた。
「君は?」
「うふふ」
 見覚えがない。家を間違えたのだろう。そう言おうとすると、少女は勝手に話しだした。
「ママと近くまで来たの。ママが教えてくれたんだよ、ここにいるって」
「いるって、誰が?」
 それには答えず、
「『いっしょに行こうよお』って言っても来ないし、もう帰るって言うから。あたし、ひとりで来ちゃった」
「君のママって?」
「さて、誰でしょう?」
 じっと少女を見た。年の頃なら、七歳ぐらいだろうか。やはり見知らぬ少女だ、思ったとき、ふと面影がだぶる。
「君のママって?」
「じゃあね」
 少女は答えず、走り去っていく。
「あ、待って」
 サンダルを引っかけて後を追ったが、すでに少女の姿はなかった。
 面影が。しかし――。

◇ ◇
 智美の親友だった真由子に電話をかけた。なかなか出ない。表示された番号から、私だとわかっている。だから出ないのだ。
 切ろうとしたとき、電話が通じた。相手は無言だった。すでにばれている、と知りながらも、
「もしもし、井之だけど」
「よく、かけてこられたわね」
 灯火にバケツで水を、ぶちまけるような口調だった。
 押し潰されそうな沈黙がつづいた。やっぱりいい、と、切ろうとしたとき、真由子が言った。
「これから、七回忌の法要に行くところ」
「法要って」
「決まってるでしょ。智美の」
「今日が……」
「ぜったいに来ないで。迷惑。今頃になって。あのとき、せめて、お線香の一本でも、上げに来るかと思ったのに」
「七回忌、か」
「急ぐから」
「あ、待って。子どものことだけど」
 返事はなかったが、電話は切れなかった。
「子どもがいるのか?」
「誰から訊いたの?」
 それじゃ、やっぱりあの女の子は。智美の両親が、育てているのだろうか。それを訊ねる前に、真由子が言った。
「あの日、智美はその検診があって、病院へ向かう途中だった。心身ともに不安定だったから、そのせいもあって――」
◇ ◇
 あの日、真由子から私に電話が入った。
「智美がトラックと正面衝突した。救急車で、K病院へ運ばれたけど。はやく、はやく行ってあげて」
「飲んでるから」
「まだ午前中よ」
「いや、でも」
「タクシーに乗ればいいでしょ。K病院だからね。急いで」
 私は焼酎をあおった。前後不覚になって、潰れた。翌朝になって、真由子から伝言が入っているのに気づいた。
〈お通夜は明日の午後6時から。告別式は明後日の午後1時。場所は××シティーホール〉
 昼過ぎ、ふたたび電話がきた。出なかった。涙声の伝言が残った。
〈智美は実家に戻った。私から、言いたくないけど、顔だけでも見に来てあげな〉
 あの日の夕方近く、私は高速バスで上京した。あてなどなかった。新宿の飲み屋で明け方近くまで飲み、公園で寝て、目が醒めると、日中からやっている飲み屋で飲んだ。
 数万円の有り金を使い果たしたのは、三日後で、残った小銭でキセルして、郷里に戻ったのだった。
◇ ◇
 午後、近くのスーパーで、焼酎とつまみを買っていると、真由子からメールがきた。
 智美が生前、真由子に送ったメールの抜粋らしい。事故が起こる、少し前の日付のものだった。
〈もう無理みたい。いくら思っても、どんどん離れていくだけ。この間、やっと最終予選まで残ったでしょ。今が勝負だって。
 でも、子どもは産むつもり。このことは、絶対に彼に言わないでね。〉
◇ ◇
 あの頃、私はとある文芸誌の、新人賞最終予選に残った。一次、二次通過は何度かあったものの、最終ははじめてだった。結果、落選したけれども、編集者から連絡をもらい、書いたものを送るように言われた。
 だが、書けなかった。ぴたりと、涸れきったように、書けなくなった。
 他人を避けるようになった。何も訊かれたくない。何を説明したくもない。智美であろうとも、いや智美だからこそ、会いたくない、会えない。
 電話で、素っ気なく、伝えた。
「書くことしか考えられない」
 以後、電話は無視した。メールや手紙の類は、読まずに捨てた。家に来たこともあったが、居留守を使った。
◇ ◇
 なぜ、あんなに意固地だったんだろう。今考えると、自分のことながら、まったくわからない。
 小説は一向に進まなかった。キーボードに置いた指は動かず、飲みながらノートパソコンに向かうようになった。白い画面を、じっと見ながら、飲んだ。
 時に、飲んで気分が高揚し、まるで天下を取った気持ちで、
「やったぞ。これだ。希代の名作になる」
 と紙にメモしたり、あらすじをパソコンに打ち込んだ。
 翌日になって見直すと、メモはぐちゃぐちゃで読めず、パソコンは陳腐で抽象的な言葉の羅列ばかりだった。思わず、キーボードを叩き壊したこともある。
◇ ◇
 その頃、すでに父母は死んでいた。独りっ子で兄弟もいない。実家に住み、両親の残した、わずかな遺産で、細々と暮らした。
 明るいうちから飲み、ふと気がつくと、話している自分がいた。
「そうなんだ。次の作品で、やっと、でかい賞が取れそうだ。そうしたら、賞金でスーツを買って、おまえの家へ行くから」
「何しにくるの?」
「決まってるだろ」
「ありがとう。でも、もう遅いよ」
「遅くなんかあるもんか。待たせたけど、今度こそ、まちがいない」
「そうだね。わかってるよ」
「なあ、そうだろ。ははは、そうか、わかってたのか。うん、おまえが言うなら、まちがいない。今度こそ、ぜったいに、ぜったいに、まちがいない」
 ふと我に返ると、汚れた茶の間で、立ち上がり、叫んでいた。
 もちろん誰もいるはずはない。ただ掌に冷たい感覚が残っていた。細く、冷たい指に似た感覚だった
◇ ◇
 見兼ねた遠縁の男が、知り合いの広告会社を紹介してくれた。親の金も底をつきかけており、仕方なく、フリーのライターとして、働きだした。もう四、五年になる。
 地方の話だ。スーパーや大型電気店、不動産屋の広告がほとんどだが、タウン誌の仕事も入った。これが、なかなか面白い。細かい直しにカチンと来ることも多々あるけれど、ちょっとばかし工夫を凝らした文章を、
「井之さん、やりますねえ」
 と感心されると、眠っていた琴線に響くものがある。
◇ ◇
「短いものから、ぽつぽつ書いてみるか」
 ふだんなら家飲みをはじめるところだが、半ば無意識のうちに、つぶやき、ノートパソコンを開いていた。
 広告会社の、若い男から、電話がきた。
「すんません。今日締め切りのタウン誌なんですが、空きスペースができちゃって。800字程度なんですけど、なんか埋めてもらえませんか」
「いきなり言われても」
「何でもけっこうです。お願いします」
「しかし」
「井之さんしか、頼める人がいなくて」
「それじゃあ」
「助かります。午後7時までに、メールしてください」
 押し切られるかっこうで電話を切った。時計を見た。午後5時を、わずかに過ぎていた。
 ノートパソコンに向かったものの、何も浮かんでこない。端からネタなどないのだから当然だ。よっぽど、うっちゃって、飲みはじめようと思った。しかし、なぜだろう。尻を椅子に接着されたように動かない。
 電話がきた。
「もう7時ですけど」
「あと、一時間あれば」
「無理です。30分以内にメールしてください。絶対ですよ」
 いつの間にか、雨になったらしい。雨音が催促の言葉と重なって、気持ちを苛立たせる。
「ああ、もう。いきなり言われても」
 唸りながら、とにかく指を動かす。
◇ ◇
 昨晩のことです。ぼくは午前1時前には寝ました。連れ合いは、それより遅く、午前2時過ぎに寝たそうです。
 寝ていて、ふと気がつくと、となりからうなり声がします。連れ合いはときどき悪夢を見るとかで、うなされることがあるので、ああ、またかと思っていたら、引きつった声で、
「こんにちは、こんにちは、こんにちは」と言い出しました。
 これはこれは、と身体を揺すって起こしたところ、こわい夢を見た、と言います。時計を見たら、午前3時を過ぎた時刻で、まだ外は暗く、どんな夢か訊くと、こっちまで怖くなって、眠れなくなるかもしれない。やり過ごして、寝たのですが。
 ふと、気がつくと、隣室からテレビの声が聞こえるのです。
「おい、寝る前に消さなかったのか」
 連れ合いを起こすと、
「ええー消したよ。何で、ついてるの」
 とおびえながら、消しに行きました。消しに行ってやればよかったんですが、怖くて布団から出られなくて。ちらり時計を見ると、午前4時を過ぎたところでした。
「ちゃんと消しとけよな」
「消したってば。だって、さっき起こしたとき、ついてなかったでしょ?」
 そう言われると、たしかに身体を揺すったとき、テレビの音声は、聞こえていなかったのです。
「どんな夢を見た?」
 連れ合いにそう訊ねたのは、朝起きてからでした。
 彼女が洗面台で鏡に向かっていると、どこか自分の顔が違って感じられる。変だなあ、と思って、まばたきをくりかえし、突然やめて、じっと鏡を見つめたら、鏡の中の自分は、依然として、まばたきをつづけていた。
 それで、これは自分じゃないと思い、こんにちは、と声をかけたと言うのです。
「なんかいる。だからテレビ、ついたでしょ」
 そう言われても……。
◇ ◇
 電話がきた。
「もう7時40分になりますが」
「今、できたところです」
「じゃ、すぐにメールしてください」
 躊躇いに押し潰されそうだった。
 コップに焼酎をなみなみと注ぎ、一気に飲み干す。かっと心身が熱くなる。鼓動の高鳴りにまかせて、送信した。
◇ ◇
 10分ほどで電話が鳴った。
「いいっすねえ。いや、いいですよ、これ。実話ですか?」
「いや。独り者ですから」
「あ、すんません。いやあ、なかなかです。使わせてもらいます」
「はあ」
「小説家になれるんじゃないですか。次は、最初から井之さんに、お願いしようかな」
「そんな」
「いえ、決めました。まじに井之さんのコーナー、企画会議に出しますから。考えといてください。じゃあ、入校しますから」
 あわただしく電話は切れた。
 追い詰められて何も浮かばず、ひねりだした戯れ言だったが、豚もおだてられれば。
「小説家に、か」
 滅多にない爽快感に、ひとり勝手に照れて、右手で左手を握ったとき、指先に冷たい感覚が宿った。
「連れ合いって」
 文章に〈連れ合い〉と書いていたとき、私の頭に浮かんでいたのは、智美だったと気づいたのだった。
◇ ◇
 誰にも話していないけれど、智美が事故に遭った前日、彼女と会っている。
 行き詰まり、散歩にでも、と外へ出た夕方、歩きはじめた私に、彼女が声をかけてきた。待ち伏せしていたらしい。私は苛立ち、無言で、睨んだ。
「ごめん。邪魔なのは、わかってる。ただ、明日……」
 黙っていると、彼女は、それ以上、何も言わず、淋しく微笑み、右手をさしだした。
 瞳が震えていた。私ははやく済ませたくて、乱暴に手を握り、足早に立ち去った。以前よりも細く、冷たい指の感触が掌に残ったが、それもすぐに消えたのだった。
◇ ◇
 こんな時間に、と思いながらも、懐中電灯を手に家を出た。線香一本持ってこなかったが、せめて、手を合わせたい。
 寺の境内は、先ほどまで降っていた雨で、ぬかるんでいた。闇夜だった。懐中電灯で、地面を照らして、進んだ。
 懐中電灯の灯りが、蝋燭の火を消すように、ふっと消えた。電池を入れかえてきたばかりなのに。
 立ち止まった私の足に、何かがしがみつく。うふふ、と微かな笑い声がした。私は、その小さな頭を、しずかに撫でてから言った。
「そこに水たまりがある。さあ」
 暗闇に、そっと手をさしだす。細く冷たい指が、私の指にふれた。
(了)



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『飯野文彦劇場
 ポール・デルヴォーの絵』