「ケントのマカトン」木本雅彦


(PDFバージョン:kenntonomakatonn_kimotomasahiko
 ──ええ、はい、マカトンです。マカトン……ご存知ですか? そうですか。ひとことで説明すると手話の簡単なものです。言語能力が未発達な児童との意思疎通に使います。特別支援学校や療育施設で使われることが多いですが、すべての指導者が使えるというものでもありません。
 手話から引用しているサインもありますが、手話とは違います。だけど見た目は手話に似ているでしょう。しかし音声による言葉と併用することが多いです。発語や音声理解が遅れている子供に向けて使うので、この意味とこの言葉が結びついていることを教えることが大事なのですね。
 これからお話することは、このマカトンについての体験です。マカトンを知っている必要はありません、大丈夫です。手話のようなものを補助的に使って会話しているのだなと理解してください。

 ──私が勤務する支援学校では、意思疎通の補助的な道具として、マカトンを使います。職員のほとんどが簡単なマカトンを使えますし、保護者向けにマカトン教室を不定期に開催しています。子供たちの、そうですね……三割程度は発語に難があるので、表現の方法としてマカトンを使います。ある程度喋れる子供でも、聴覚より視覚が優位な子供がいるので、そういう子に指示を伝える場合なども、言葉とマカトンを併用することが多いです。
 マカトンは、もうひとつの言語と言ってもいいと思います。

 ──ケント君はマカトンを上手に操る子でした。発語は遅く、小学二年生でしたが、三語文程度の発語でした。しかしマカトンでは五語か六語程度の文章を作れていたと思います。理解力はあったので、こちらの言葉をよく聞いて理解していましたし、私たちのマカトンでの指示も通っていたと思います。特別支援学校での授業の範囲では問題ありませんでした。日常的なコミュニケーションも成立していました。積極的な性格の子だということもあって、困ったという記憶はありません。
 その日の正確な日付を覚えています。九月四日でした。支援学校が終わり、放課後デイサービス──ええと、学校が終わったあとの時間を見てくれるサービスのことです。放課後デイとも言いますね──の担当者に連れられて放課後デイで時間を過ごし、その後お母さんのお迎えを待って一緒に帰宅したと聞いています。帰宅途中で、ケント君はいなくなってしまいました。お母さんが少し目を離した隙のことだったそうです。
 いなくなった付近に歩いていないか、放課後デイに戻っていないか、念のため学校にも連絡がありました。しかし学校から放課後デイ、そしてケント君の自宅までは、歩いて行ける距離ではないので教師としては探しに出たものか続報を待つべきか迷い、結局学校で待機することにしました。一時間ほどしてお母さんから連絡がありました。自宅の前にいたそうです。鍵がなくて家の中に入れなかったのですね。お母さんが警察に相談する前にひとまず自宅に戻ったところで、発見したとのことでした。

 ──翌日、ケント君は普通に登校しました。朝の挨拶をして授業をはじめました。しばらくすると、私は、彼が不思議なマカトンらしきハンドサインをしていることに気づきました。ハンドサインなのですが、私が知っているマカトンにはない動きでした。最初は、私が知らないサインを彼が家でおぼえたのかとも思いましたが、それにしては随分と複雑な動きをするなあと思いました。
「ごめんね、先生、そのサインが分からないんだ」
 と言うと、彼は本棚から図鑑を持ってきました。恐竜の図鑑でした。図鑑を開き、アロサウルスを指差して複雑なサインをしました。
「そうなんだ、その恐竜は、そのサインなのね」
 私はケント君のサインを真似ました。彼は納得して別のページを開き、今度はステゴサウルスを指差してサインをしました。そして次々に恐竜を指差して、複雑なサインを教えてくれました。もちろん、その場で私がすべてを覚えきることはできなかったのですが、この子は随分と色々のサインを知っているのだなあということと、恐竜ごとに違うマカトンがあるなんて知らなかった、今度教科書を調べてみようと思いました。

 あまりにも数が多かったので、私は少し思案して、彼のマカトンをビデオに録画しておこうと思いました。そうすれば後から見て私も覚えることができますから。

 ──ケント君のマカトンは、どんどん複雑になり、図鑑もどんどん高度になりました。図書室に言って上級生向けの図鑑や本を借りてきて、それを見ながら必死にマカトンを使っていました。私は最初の三日程度でついていくことができなくなったので、その様子を動画に保存することだけに専念することにしました。
 彼が読む図鑑は、人類の進化や、科学技術の発展や、宇宙のなりたちといった、難しいものになりました。小学生向けの内容とはいえ、こうなってくると、私は内容についていくこともできません。彼の興味を見守ることに徹していました。

 ある日、図鑑を見終えたケント君が私のところにあってきて、マカトンで何かを訴えはじめました。それはとても複雑なサインでした。私が読み取れたのは、「みんな、たくさん、一緒」ということだけで、彼が繰り出す大量のメッセージを、私は受け止めてあげることができませんでした。理解できなかったのです。
「ごめんね、先生は君の伝えたいことが全部は分からない。みんな、一緒に、なの?」
 ケント君は続けてものすごい速さでサインを繰り出しました。しかし私には読み取ることができません。ごめんね、ごめんね、と繰り返しました。
 とうとう彼はあきらめました。肩を落としていたのが、印象的でした。

 ──翌日、ケント君は学校を休みました。お母さんから学校にあった連絡によると、熱を出したとのことでした。後から聞いたところでは、三九度以上あったとのことです。三日お休みして、彼は登校してきました。
 彼のマカトンは消えていました。
 図鑑の恐竜を示して、これは何? と聞いても、「知らない」と返事が返ってきました。
 ケント君は、元のケント君に戻ってしまっていました。

 ──ええ、はい。彼を録画したビデオは残っていたので、近くの大学の先生に見てもらったりもしたのですが、マカトンではないし、日本手話でもないとのことでした。
 彼は、ごく短い期間だけ、特別な表現方法を手に入れて、そして失ってしまったのです。その表現手段で彼が何を伝えようとしていたのかは、誰にも分かりません。
 もしかして、と思うのです。
 彼が、放課後デイの後行方をくらませた時に、誰か──もしかしたら宇宙人かもしれないと言ったら冗談と思われるでしょうか──誰かが彼の頭に言葉を書き込んで、彼の脳がその情報の多さに耐えきれずに熱を出したのではないかと。

 彼の言葉を私が理解できなかったのは、残念としか言えません。
 しかし希望はあります。少なくとも、彼の中には、伝えたい何かがあることが分かりました。彼は強い気持ちと、複雑な思考を持っています。それを引き出すための言葉を教えるのは、私たちの仕事です。彼が高度な表現力を持った言葉を身につけた時、きっと私たちはもう一度、彼の心の中を聞くことができるでしょう。

 私は彼の中に眠っている言葉を、聞きたいのです。



木本雅彦プロフィール


木本雅彦既刊
『人生リセットボタン』