「夢見るチンピラと星くずバター」八杉将司

(PDFバージョン:yumemirutinnpirato_yasugimasayosi
 昭彦は畳に転がって、古臭いブラウン管のテレビを見ていた。
 地デジチューナーを取り付けた小さなテレビの画面には、上下に黒帯のつく狭苦しい横長の映像が映っていた。タレントが流行のイタリアン・レストランのカルボナーラを食べてレポートしていたが、画質が荒すぎて説明がなかったら何を食べているのかよくわからなかった。
 部屋のドアがノックされた。昭彦が返事をためらっていたら、乱暴に何度も叩かれた。古い簡易宿泊所の安っぽいドアなので、それだけで蝶番が壊れそうだった。
「俺だ。昭彦だよな。開けろ」
 昭彦は太った体を起こしてドアを開けた。背の高い男が顔をしかめて立っていた。
「兄貴、ドアが壊れる」
 兄貴こと和志はため息をついた。
「探したぞ。苦労させやがって」
「探す? メールを送ったよ」
「間違えてんだよ。隣の宿の名前だったろ」
「あれ? だって」昭彦は部屋の窓を指差した。「そこから見える看板の名前を書いたから間違ってるはずないけど」
「それは隣の宿の看板だ、馬鹿。あと部屋番号も違っていたぞ。二〇六じゃねえ。三〇六だ」
「あれ、ごめん」
「おまえ、ほんと馬鹿だよな。まあ、いいや」
 和志は三畳一間の狭い部屋に入った。部屋の端に安物の布団が畳まれていた。家電はテレビ以外に小さな冷蔵庫と卓上の電熱コンロがあった。
「どうしてこんなところにいる。アパートを追い出されたのか。家賃は俺が払ってやっているだろ」
 昭彦は気まずそうに目を逸らした。
「追い出されたわけじゃないけど、いろいろあって、その……」
「何かやらかしたな。ここに逃げ込んで隠れたつもりになったか。ふん、どうせギャンブル絡みだろ」
「えへへ」昭彦は苦笑いした。
「えへへじゃねえ」和志はまたため息をついた。「せっかく面白いものが手に入ったから飯を作らせようと思ったのに」
「面白いものって?」
 和志はにやりと笑みを浮かべると、手に提げていたスーパーの袋からアルミホイルで包んだ物体を取り出した。
 テーブルに置いてアルミホイルを開く。
 携帯電話ほどの大きさの緑色をした四角い塊があった。
 見た目の色と違って、芳醇なバターの香りが漂った。
「これ、バター?」
「そうだ。でも、だたのバターじゃねえぞ。何年か前に、中国が月に有人基地を建設しただろ」
「え、そうなの? 中国人すげーな」
「知らなかったのかよ。散々テレビや雑誌で話題になっただろ。じゃあ、月面を掘り返して採掘した石を片っ端から地球に送って問題になってることも知らないか」
「知らない。月の石を持って帰ったら駄目なの?」
「さあ。条約やら地球の環境が汚染されるやらどうたらとか言っていたけど、先を越されたほかの国の嫉妬だろ。とにかくだ、中国人が月で面白いものを見つけたんだよ。昔、月に落ちて埋まった隕石で、中に氷がどっさり詰まっていたそうなんだ」
「ふうん」
「その氷を地球に送らせて混ぜ込んだバターがこいつだ」
 昭彦は目を丸くして緑色のバターのブロックを見つめた。
「そんなの食べて大丈夫なの?」
「心配ねえよ。南極の氷が売られてるだろ。それと似たようなものだ」
「バターに氷なんて混ぜられるのかな」
「氷そのものを混ぜられるわけないだろ。バターに乳化させてあるんだ」
「緑色なのはそのせい?」
「それはどうか知らないけどな。混ぜてるといってもほんのちょびっとだけらしいし、ほかにも何か入ってるみたいだしな。そんなことより大事なのはその氷の成分だ。地球には存在しないミネラルが含まれているらしい。ミネラルは聞いたことぐらいあるよな」
「ミネラルウォーターのミネラルのことかな」
「そうだ。ミネラルが何を意味しているかまでわからないか」
「会社の名前だと思ってたけど。株式会社ミネラルみたいな」
「ねえよ、そんな会社……ありそうな気もするが。いや、とにかく会社じゃない。炭水化物やたんぱく質といった栄養素の一つだよ。無機物の栄養素をミネラルというんだ」
 昭彦は首をひねって「ふうん」と曖昧な相槌を打った。
「全然わかってないだろ。無機物は鉄とか銅のことだ。そういうのも食わないと人間は生きていけないんだよ」
「マジか。俺、鉄なんて食ったことないぞ」
「別にフライパンみたいな鉄の塊を食う必要はない。ほんの少しだけでいいんだ。だから必須微量元素とも言われている。それでも必須というとおりなくてはならないものだ。たとえば息を吸って体に取り込んだ酸素を全身に送るには鉄がいる。血が赤いのは、鉄が酸素とくっついたせいで錆びているからなんだぜ」
「へえ。兄貴、物知りだな」
「これぐらいネットのウェブサイトに書いてある。月で見つかった地球にない栄養素と言われてもよくわからないだろ。それで栄養について少し調べてみたんだ」
「月で見つかったのもその必須なんとか元素?」
「ああ。金属元素っぽいものらしい。でも、名前はまだついてない。地球にない元素なんだ。栄養と言っているのも人が取ったら効果があるので栄養になると言っているだけだしな。だからミネラルと呼ぶのもおかしいかもしれないが、まあ、いいだろ。とにかくそういうものがバターに混ぜ込んであるらしい」
「どんな効果があるの?」
「人がこれまで見えなかったものが見えるようになったり、聞こえなかった音が聞こえるようになったりするらしい」
「栄養だけでそこまでなるかな」
「たとえばビタミンが足らなくなったら視力が落ちるなんてこともある。きっとそれと同じなんだよ。つまり人類はこれまでずっと栄養不足で、本当は見えるのに見えなかったものがあるんだ」
「じゃあ、目や耳に効く栄養ってことか」
「そのへんはわかってない。どこに作用してそんな効果が出るのかは研究もまともにされてないんだ。目や耳じゃなくて脳みその栄養かもしれない」
「何が見えるようになるの?」
「さあ。これをくれたのはダフ屋仲間のオヤジなんだが、そのオヤジもアイドルのチケットを欲しがった香港の金持ちからもらっただけなので知らないと言ってた。だから俺たちで確かめてみるかしない。で、これを使って何か飯を作らせたかったが……」
 和志はキッチンのない狭い部屋を見渡した。この古い簡易宿泊所には共有の炊事場もなかった。
「いくらおまえでも無理だよな」
 昭彦は頭はよくなかったが、料理の腕は天才だった。スーパーの安売り素材でも高級レストランに引けを取らない味に仕立て上げられるほどで、かつては高級旅館の厨房も任されていたこともあった。
「できるよ」
 昭彦はあっさり答えた。
「マジか」
「うん。もう夕飯時だからすぐに作ろうか」
 昭彦は冷蔵庫を開けた。中にはトレーに入った肉、調味料、何かが入った密封容器などがぎっしり詰まっていた。そこから鶏むね肉を出した。昨夜スーパーで買ったらしく半額のシールが張られていた。ほかにも調味料などを取り出した。水は洗面所の水道から汲んできて用意をし、押入れにしまっていた包丁とまな板を使って下ごしらえを始めた。
 窓際に座った和志は、その姿を後ろから眺めながら訊いた。
「ところで、結局、何をやらかしたんだ」
 昭彦は二枚の鶏肉に薄力粉をまぶすと答えた。
「うん、バカラで負けたんだけど、流れは俺にきてたんだよ。でも、お金がもうなかったから……」
 そこで口ごもり、ごまかすように黙って卵を溶きだしたので和志が言った。
「誰かに借りたか」
「うん」
「でも、さらに負けて返す金がなくなったんだろう」
 昭彦は渋々うなずいた。
 この男の悪い癖だった。ギャンブルになると人が変わるのだ。高級旅館などで働いたときもギャンブルのやりすぎで借金を作り、あげく旅館の金庫から金を盗んだのである。バレてクビになったが、そんなことばかりしていたので今は無職だった。
「誰の金を踏み倒した」
「……ウォンさん」
「何だと」和志は思わず大きな声を上げた。「あの女帝の婆さんから借りたのか」
「貸してくれるっていうから……」
「馬鹿野郎。あの婆さん、ただの金貸しじゃねえぞ。担保に何を渡した。自分の名義の通帳か。保険証か」
「それも渡したけど、あと免許証と個人番号カード、実印も」
「おいおいおい、何やってんだ。返済しないと殺されるぞ、おまえ」
「そんな大げさな」
「大げさなものか。あの婆さんは不法入国の斡旋もしているから、そいつにおまえの戸籍を売って成り代わらせることもできるんだ。売った客が、おまえが生きていると都合が悪いと考えて始末の依頼を出したらどうなると思う。あの婆さんの取り巻きには人殺しも平気でやるやつがごろごろいるんだぞ」
 昭彦は卓上コンロで熱したフライパンに、和志が持ってきたバターを切り取って乗せた。
「嘘だよ。優しそうなおばあさんだったもの」
「おまえっ」
 いきり立った和志はぶん殴ろうと腰を上げたが、溶けたバターの香りに怒りが失せてしまった。畳にぺたりと座る。うまそうな匂いには弱かった。
 家が貧乏なうえに親の料理が絶望的にまずかった和志は、うまいものを食うことを人生の至上にしていた。あらゆることよりも優先されるべき喜びだった。
 昭彦の料理はまさにその幸福をもたらす。二人は血の繋がった兄弟ではない。和志が偶然知った昭彦の料理に惚れ込んで、このおつむの弱いギャンブル狂の面倒をみていたのだ。昭彦が兄貴と呼んでいるのは、どうしようもなく行き詰ったところを拾ってくれたからだった。
 手際よく調理は進み、あっという間に夕飯ができた。
 柔らかい卵に包まれたチキン・ピカタに酢漬けの野菜の付け合せと、バターが絡んだガーリックライス、さらにはオニオンスープまで作ってしまった。
 バターとガーリックの香ばしい匂いが三畳の部屋を満たした。
 和志は鶏肉をほおばった。卵にしみこんだバターの旨みが柔らかい肉に乗っていた。バターは少し変わった風味をしていたが、それはそれでアクセントになってうまかった。
「やっぱりおまえは天才だな」
「えへへ」
 昭彦は照れて笑った。
 きれいに平らげると、体がやたら火照ってきたのでアルミサッシの窓を開けた。
 ちょうど月が見えた。
 見事な満月で、澄み切った夜空に眩しいほど輝いていた。
 二人は食事の余韻に浸って月を眺めた。
 やがて昭彦がぽつりとつぶやいた。
「俺、殺されるのかな」
 和志は鼻で笑った。
「殺させねえよ。おまえは俺の夢なんだからな」
「いつかレストランをやるんだよね」
「ああ。おまえの料理を出すためだけの店だから、カウンターだけの小さな店にするつもりだ。でも、行列ができるほどの人気になったら厄介か。完全予約制にしてもいいな。そのほうが無駄に忙しくならなくていい。俺がおまえの料理を堪能する時間もできるしな。出す料理のジャンルはどうしような。このチキンはうまかったからイタリアンもいけるな。いや、洋食屋という手もあるか。だけど、おまえは和食も得意だったよな。だったら……」
 和志が言葉を切ったのは、昭彦が急に手を伸ばして目の前の宙をつかむ仕草をしたからだった。
「何をしている」
「え、兄貴、見えない?」
「何がだ」
「ここに大きな毛玉みたいなのがあるんだけど」
 和志は目を凝らした。確かにさっきから視界にぼんやりしたものがあった。目にゴミが入ったのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
 やがて和志の視界にも「それ」がはっきりと輪郭を持って浮かんできた。
 昭彦の言うとおり毛玉だった。両手で抱えられそうなほどの大きさで、真っ白だった。柔らかい毛に包まれ、猫が丸まって寝ているような形に見えた。でも、目や口などはなく、尻尾や足もなかった。
 その毛玉は開けた窓から入ってきたようだ。一つだけでなく、いくつかも部屋に入ってきた。
 和志が毛玉に触れると感覚があった。生きているように柔らかく暖かだった。でも、しっかりしていて、つかんだら自分のほうが引っ張られた。毛玉は自分から部屋に入ってきたのに、間違えたといわんばかりに窓から出てゆこうとした。
 外に目をやると、無数の毛玉が浮遊していた。ゆっくり夜空へと上がっていく。和志と昭彦には月を目指しているように見えた。
「兄貴、これに乗って逃げようか」
「どこに逃げるんだよ。あの婆さんは地の果てまで追ってくるぞ」
「じゃあ、月に逃げよう」
 いつもなら和志は「馬鹿か」と吐き捨てるところだが、夢でも見ているような幻想的な光景を目の当たりにしているせいか「悪くないな」と笑った。
「さすがに月までは追ってこれないだろうからな」
「月で店を開こう。客は中国人だ」
「最近はアメリカ人やロシア人もいるぞ。日本人も今度行くらしい。繁盛しそうだな」
「だけど、外国の人が俺の料理を兄貴みたいにうまいと言ってくれるかな」
「言うさ。おまえの料理だ。心配いらない」
「でも、カジノに行けないのは嫌だな……あ、ネットでやれるか。兄貴、コンピュータは苦手だからできるようにしてくれよ」
「おまえなあ」和志は苦笑いした。
 そのとき、ドアが激しく叩かれた。
「開けろ!」
 粗野で野太い男の怒鳴り声が響いた。
 それでもドアを開けないとわかると、ドアを蹴った。繰り返ししつこく蹴りつけた。
 とうとう蝶番が壊れてドアが吹っ飛んだ。
 アメフト選手みたいな巨漢と小柄な男の二人組が踏み込んできた。
 昭彦を追いかけてきた借金取りだった。
 しかし、部屋には誰もいなかった。
 巨漢は開けっ放しの窓を見て舌打ちした。
「逃げやがったか」
「三階だぞ」小男が言った。「ベランダもなければつかめそうな雨どいもなかった。確認済みだ」
「でもよ」
 小男は鼻をひくつかせた。部屋を見回し、棚にあるアルミホイルの塊に目を留めた。中身が少しだけむき出しになっていた。
「これの匂いか」
 アルミホイルを指でつまんで開く。
「……マリファナか」
「クスリ? そんなふうに見えないぞ」
「カナビスバターだよ。大麻の葉やハシシを煮て抽出したものをバターで固めたんだ」
「ああ、なるほど」巨漢は窓を見た。「そいつを食ってハイになってるところに俺たちがきたから、パニックになって飛び降りたんだな」
「そのようだな。首の骨を折ってくたばってるんじゃねえか」
「手間が省けてちょうどいい」
 巨漢はせせら笑いながら窓から外をのぞいた。
 その笑みが引っ込む。
「嘘だろ」
「どうした」
 小男も外を見た。
 唖然とした。
 二人の男がふわふわと浮かんでいたのだ。
 どこまでも空高く、まっすぐ月に向かって飛び去っていった。

(了)



八杉将司プロフィール


八杉将司既刊
『アンダー・ヘイヴン12
 boy meets dead 1
 殺し屋の少女』