「天使と孔子」片理誠

(PDFバージョン:tennsitokousi_hennrimakoto
《顔認証、完了。あなたをサトウ・サトル様と認識しました。国民ナンバーは、JXAAZB―02150―91542245―253。花山市へようこそ。訪問の目的をお聞かせください》
 独立支援特区を出るなり、〈天使〉が頭上に飛んできた。直径二〇センチほどの碁石のような形をした、ドローンと呼ばれる無人機。全体が光沢のある白色をしている。本体からは四本の細いアームが突き出ており、そのそれぞれの先端では小さなプロペラがプーンと可愛らしく回転している。この回転翼が生み出す揚力によって、ああしてホバリングをしているわけだ。
 その姿を私は感慨深く見上げる。
〈天使〉は独立支援特区にはいなかった。これは高度な市民サービスであり、そのシステムの維持運営にはかなりの費用がかかる。要独立支援者ばかりが集められている独立支援特区は税制面で様々な優遇措置がとられている反面、こういった高級な行政サービスとは無縁な地区なのだ。
 だが、今日からは私も〈天使付き〉の身分だ。やっと国の要独立支援の認定が解除されて、晴れて独立支援特区から出られることになったのだ。十年かかった。
 十年前のあの日のことを思うと、今でも胸を掻きむしられているような気持ちになる。
 大学で東洋哲学を学んだ私は、利益ばかりを追求する今の世の中のあり方に我慢がならなかった。これではまさしく老子の嘆いた「大道廃れて仁義あり」の世界ではないか。
 この不正と不義に満ちあふれた世界をどうにかして変えたいと願い、十年前、私は国政選挙に立候補した。
 だが、カネもコネもない徒手空拳の若造がどれほど義憤に駆られたとて、その力は所詮、蟷螂の斧でしかない。
 政治への道は険しく、遠い。敗れた私に残ったのは、膨大な借金だけだった。
 ようやく今日、あの時の負債を払い終えた。これからは私も一般市民と変わらない。つまり〈天使〉からすれば、サービス料をふんだくれる相手になった、というわけだ。だが、私の気分は悪くなかった。
〈天使〉は十年前にはいなかった。私が特区にいる間に、世界は随分と変わったはずだ。もし少しでも良くなってくれているのであれば、あの時の私の負け戦も無駄ではなかったということになる。私はそこに興味があった。その確認だけを楽しみに、この十年を生きてきたと言ってもいいくらいだ。
「市役所に行きたいんだ。転入手続きをしたいのでね」
《かしこまりました。ご案内いたします。なお、このサービスの費用は三五ポイントになります》
 女の子のような可愛らしい声で〈天使〉が告げる。ゆっくりと移動し始めた。ついてこい、ということなのだろう。
 だが私は少々面食らっていた。なんと、道案内一つにも金がかかるのか。
 特区では皆で助け合い、和気藹々と楽しく暮らしていた。私もよく『論語』などを周囲に読んで聞かせたりしたものだ。皆が貧しかったが、それでも道案内で金をせびるようなせこい輩はいなかった。だがここではそうもいかないらしい。
 やれやれ。私は〈天使〉の後に続く。


 十年ぶりにごく普通の一般市民としてゆっくりと町を歩いてみると、やはり世界は随分と様変わりをしていた。
 ここでは皆が〈天使付き〉だ。頭上にドローンがふわふわと浮かんでいる。天使の輪のように。
 しかしこの活気のなさはどうしたものだろう。役所へと続くメインストリート。六車線もある車道では無人の電動カートがひっきりなしに行き来していると言うのに、その両側に設けられた幅二〇メートルはあろうかという立派な歩道には、人影がまばらにしかない。
 道の端で立ち話をしていたと思われる中年女性の一団は、〈天使〉に《通行の邪魔です。立ち止まらないでください》とせき立てられ、「うるっさいわねぇ」「分かってるわよ、もう!」「あっち行って!」「無理よ、これは追い払えないんだから」「そうそう。追い払えるんなら、みんなとっくにやってるわよ」「そう言えば聞いた? 山田さんとこの奥さん、〈天使〉を振り切ろうとして」《これ以上この場に止まる場合は、警告の対象となります。速やかに移動してください》「うるっさいわねぇ」「分かってるわよ、もう!」「あっち行って!」「行きましょ!」とわめきながら、喫茶店の中へと消えていった。
 腰の後ろに手を当て、太極拳のようなのんびりとした動作で歩いている老人も、やはり〈天使〉に《歩道を時速一キロメートル以下の速度で移動することは、他の歩行者様の迷惑になるため、条例により禁止されています。もっと速やかに移動してください。なお、身体的な理由等により移動が困難な場合は、電動車椅子のレンタル手続きを行ってください。電動車椅子のレンタルサービスは月々三千ポイントからご利用可能です。繰り返します。歩道を時速一キロメートル以下の速度で移動することは》と激しくせき立てられていた。もっとも言われている側は「はいはい」とさして気に留めている風ではなかったが。きっと言われ慣れているのだろう。
 私自身も〈天使〉には随分と面食らっていた。
 こいつと一緒だと歩道を横切ることすらできない。走ることも、誰かを追い抜くことも。
 そうしようとした瞬間にけたたましいサイレンを鳴らして、もう一回やったら警察に通報する、と私を脅すのだ。きちんと周囲の安全を確認しているにも関わらず、である。誰にも迷惑などかけていないのだから良いではないか、といくら訴えても、法律で決まっているのだから駄目なものは駄目、の一点張り。そして奴が何かを答える度に課金が発生してしまう。
 おかげで目的地まで行くのに時間がかかるったらなかった。近道も禁止、急ぐのも禁止、口答えするのも禁止。あれもこれも全部禁止。まったく、何て邪魔なロボットなんだろう。
 だが〈天使〉の言いつけに従うのは善良な市民の義務であり、これを遠慮することは誰にもできない。つまり逃げようが追い払おうが、〈天使〉は永遠にまとわりつくのである。こいつは防犯の任務も担っているので、解除することは誰にもできない。
 通りには活気がない以外にも、おかしなところがあった。
 若者が、何というか、ギクシャクした歩き方をしている。どこかが痙攣しているみたいに。健康そうに見えるにも関わらず、だ。
 それと、仮面のようなものを被っている者もいる。仮装パーティでもあるのだろうか。だが、それにしてはお面が随分と地味だが。
 まったく、訳が分からんなぁ。と私は頭を掻く。


 ガミガミ屋の〈天使〉を頭上に頂きながらも、そしてそのおかげで随分と余計なサービス料をむしり取られながらも、どうにかこうにか私は市役所に到着することができた。
 さっそく端末を操作して転入手続きをすませる。今は役所の窓口も多くが無人となっている。ほとんどの市民はオンラインで手続きをするのだろう。私も早く自分の情報端末を買わなくては。
(しかし、独立支援特区の外がこうも物入りだったとは。お節介を焼かれるたびにサービス料をむしり取られていたのでは、金がいくらあっても足りないぞ。〈天使〉システムの維持に膨大な費用がかかるのはよく分かるが)
 実際、市民一人一人にあのドローンを貼り付けておくのは大変だろう。
 今、私の周囲にあの〈天使〉はいない。あれは建物の中にまではこないようだ。市役所の敷地に入った途端にどこかへ飛んでいった。《案内サービスをご利用頂き、ありがとうございました。それでは良いお手続きを》とか何とか言っていたが、冗談じゃない、この市役所の敷地から一歩でも外に出たらまたどこからともなく飛んできて、頭上をブンブンと回り続けるのだ。しかもああだこうだ言っては私から容赦なく金をふんだくってゆく。
 あんなひどいサービスによく皆は納得しているものだな、とうんざりしながら役所の出口へと向かう途中で、私は地下へと続く階段に気づいた。
 ん?
 けばけばしい文字で「この下、花山市メイン商店街」と書かれた看板が、そのすぐ横に立っている。


 うわぁ、と私は口をあんぐりと開ける。
 地下街には地上とは別世界が広がっていた。
 通路のそこら中に人があふれている。皆、活気に満ちた、生き生きとした顔をしていた。
 通りの左右にずらりと立ち並ぶ商店も、商売に随分と熱が入っていると見え、はっぴを着た店員が威勢良く呼び込みをしていたり、派手なネオンが瞬いていたり、威勢の良いマーチが大音量でかけられていたり。
 猥雑で、何もかもがひっちゃかめっちゃかで、一見すると無秩序なようだが、それでもここの人々は幸せそうだ。皆が笑顔だった。
 清潔なゴーストタウン、とでも形容すべきだった地上の町とは正反対だ。ここでは人々は混沌という名の自由を謳歌している。
 市役所の地下から、このごった煮のような地下街は四方八方に伸びていた。どの通路も幅はせいぜい五メートルあるかどうかといったところだが、まっすぐにどこまでも続いている。そしてこの地下街のどこにも〈天使〉はいなかった。
 キョロキョロと左右を見回しながら歩いていると、露天商の一人と目が合った。「へい、らっしゃい!」と彼。まだ二十代くらいだろうか。小太りで、すり切れた身なり。シートの上に並べられたガラクタの向こうで小さな椅子に腰掛け、ニヤニヤしている。
「見ない顔ですが、旦那、ここは初めてですかい?」
 あ、ああ、と私。
 ここには〈天使〉がいないね、と話しかけると、彼は腹を抱えて笑い始めた。
「あんなもんを〈天使〉と呼ぶのは、今じゃ役人どもと政治屋だけですよ! それじゃ本物の天使様にあまりに失礼ってもんでさぁ。あんなのは〈空飛ぶ小姑〉で十分。もっとも、俺たちはただ単に〈蠅〉と呼んでますがね」
 なるほどね、と私も笑う。皆も嫌いなんだな、と少し安心した。
「〈蠅〉は公道の上しか飛べないんです。ここの地下街は全て私道ですんで、あのクソうるせぇロボット風紀委員の心配はないんでさぁ」
「私道? でもそれじゃ、ここの維持や管理は大変なのじゃないかね。税金だって」
「ええ、そりゃまぁね。ですが防災やら防犯やらの関係で、今ではもう地上の道のほとんどは公道になってんスわ。ま、地下に潜るのも致し方なしってところでしてね。この辺りの地下街は各自治会が上手く切り盛りしてますんで、結構いい感じですよ。旦那、地下街は初めてで?」
 私はうなずく。
「独立支援特区から……移転してきたばかりなんだ」
 青年は相好を崩した。
「なら〈蠅〉対策を買っておかなくっちゃ! どうです旦那、安くしておきますぜ」
 並べられているガラクタの中から、黒っぽい、半透明のマスクを彼は取り出す。
「これは」
 受け取ってよく眺めてみる。地上の人々が被っていたものの内の一つだ。
「もうサングラスくらいじゃ〈蠅〉の目は誤魔化せないんスよ。顔全体を覆ってしまわないとね。連中の顔認証システムを防ぐには、このくらいのことをやる必要があるんス。これでも赤外線や紫外線のスキャンまで防ぐ優れものの素材でできてるんですぜ。超音波センサーの攪乱もできる、最新式の奴です。そしてこれ!」
 彼は続いてケーブルの先に吸盤のようなものがついている小型の機械を私に差し出した。
「これは?」
「歩き方を変えることによって認証を防ぐ装置っス。このパッドを両足の太ももに貼って、このスイッチを入れれば、低周波によって足の筋肉が不規則に痙攣を起こしますんで、もう〈蠅〉は旦那の歩行認証をできないって寸法ですよ。
 自分が誰かを見破られない限り、〈蠅〉は旦那からサービス料を分捕ることはできねぇんス。
 そして、こちらから自分の正体を申告しなくてはならない、なんて法もない。こっちにだって歴とした個人情報保護法があるんですからね。あれは〈蠅〉が勝手に旦那の正体を見破ってやっているってだけのことなんス。だからそれを防ぎさえすりゃあいいんですよ。
 ま、それでもどこまでもくっついてはきますがね、防犯カメラとして。ま、でも、向こうが勝手に飛ぶぶんには、こっちの知ったことじゃないッスからね」
 腕組みをして、得意げに笑っている。
 私は悲しくなった。ため息。商品を返す。
「……ああ、何と言うことだ。こんな有様を孔先生がご覧になったら、どんなに嘆かれることか」
「はぁ?」
 青年が首を傾げている。
 私はうつむいた。
『論語』には、こうある。

 これを道(みちび)くに政を以てし、これを斉(ととの)うるに刑を以てすれば、民免れて恥ずるなし。
 これを道(みちび)くに徳を以てし、これを斉(ととの)うるに礼を以てすれば、恥ずるありて且つ格(ただ)し。


“法令と厳罰主義で民をきつく縛れば、人々は恥を忘れ、法の抜け穴ばかりを探すようになる”と古代中国の大賢者は予言していた。そして事実、世界はそうなってしまった。これでは十年前よりももっとひどい。ああ。目の前が真っ暗になった。拳を握りしめる。
「先生……」
 ふと『論語』の別の一節が思い出された。特区で過ごしたあの楽しかった日々が、つい昨日までそこに居たというのに、走馬燈のように脳裏を駆け巡る。

 疏食(ソシ)を飯(くら)い水を飲み、肱(ひじ)を曲げてこれを枕とす。
 楽しみまた其の中に在り。
 不義にして富み且つ貴(たっと)きは、我に於いて浮雲の如し。


「……浮雲の如し、か……」フ、と私は口元を緩める。
 はぃ? と青年。
 私は勢いよく顔を上げた。
「決めた! あの市民サービス用のドローン、私は〈雲〉と呼ぶことにするよ! 確かに〈天使〉では恐れ多いし、かといって〈蠅〉では品がなさ過ぎる。〈雲〉くらいが丁度良いだろう」
「は、はぁ、そうスか」と彼。
 ところで、と私は話を続ける。
「そこの壁に立てかけられているモップは、売り物かね? そいつを是非買いたいんだが。何なら柄だけでもいいんだ」
「へ? こんなもんをいったい何に……まさか旦那、〈蠅〉叩きをしようってんじゃないでしょうね? そいつはやめた方がいい! あのドローンは特別仕様だか何だかで、とにかくべらぼうに高いんです! ぶっ壊したら法外な弁償代を請求されます! すぐに独立支援特区に逆戻りだ」
 そいつは願ったり叶ったりだ、と私は笑う。
 金を支払い、怪訝顔の青年からモップを受け取る。さっそく金具を外して柄だけの状態にした。ヘッドの部分をゴミ箱に放り込む。
「これは杖だよ」と青年に振り返って私は微笑む。
 もうすっかり気持ちは晴れていた。
「この杖で頭上のもやもやした〈雲〉を払い、この杖を突いて、私は帰るんだ、我が魂の故郷、愛しの桃源郷にね! “かえりなんいざ”という奴さ。もはや浮き世には何の未練もなくなった!」
 人混みの中、地上へと続く階段を目指す。
 最後に振り返ると、青年はまだこちらを見ていた。呆然とした表情のままで。
 親指を立てて、私は叫ぶ。
「まぁ、せいぜい頑張りたまえよ! これは君たちが選んだ世界なのだから!」
 モップの柄を担ぐ。高笑いをしながら、私は階段に足をかけた。



片理誠プロフィール


片理誠既刊
『ミスティックフロー・オンライン
第3話 百銃の女王(5)』