『タイラー・ステンランド――「末人(Letzter Mensch)」の肖像』関 竜司

(PDFバージョン:tylerstenlund_sekiryuuji
 かなしいかな。やがてその時は来るだろう、人間がもはやどんな星も産み出さなくなる時が。かなしいかな。最も軽蔑すべき人間の時代が来るだろう、もはや自分自身を軽蔑することのできない人間の時代が来るだろう。見よ、私はあなたがたにそういう末人を指し示そう。

ニーチェ『ツァラトゥストラ』より


1・タイラー・ステンランドを訪ねて
 タイラー・ステンランドは、アメリカ・カリフォルニア州出身の新進気鋭の画家だ。近年では「ニューズウィーク」の編集者に作品が購入されるなど、次第にアートシーンでその名が知られ始めている。筆者は2018年5月3日、香川県直島町にあるステンランド氏のアトリエを訪れた。
 カリフォルニア州立大学でデザインを学んだタイラーは、試行錯誤の末、オイルペインティング(油絵)にたどり着いた。デジタルメディアが発達し、誰もが気軽に写真をとりネットにアップできる時代だからこそ、ステンランドとってイマジネーションのパワーをじかに表現できる油絵は魅力的なのだ。
 ステンランドの絵画は大きく分けて二つの特徴を持っている。一つは東洋と西洋の神話の融合と、もう一つはバイオテクノロジー時代における人間の肖像だ。


2・ガネーシャの寓意
「私の初期の絵画は、自分が正気を失うのではないかという私自身の恐怖を反映している。……しかし外国での生活は、私の関心を人類の神話的遺産へと導いた」
 来日以前、中国で八年間、暮らしていたステンランドは、西洋と東洋の神話的イメージを組み合わせた作品を多数制作している。「関係(Guanxi)」という作品は、磔刑にされた猿(キリスト)がインドの神・ガネーシャに支配されているという構図になっている。ガネーシャは大衆の主、大衆の長の寓意だから、この作品は大衆道徳によってキリスト教倫理が完全に支配、無化されたことを暗示している。ガネーシャに踏みつけられているペテロとパウロも示唆的だ。
 ガネーシャは、ステンランドお気に入りの図像だ。「子どもの救世主(Chiild Messiah)」には男性の頭の上に子どものガネーシャが乗り、男の精神を操っている様が描かれる。現代人の精神はお子様レベルであり、いとも簡単にマスコミや政治家(あるいは宗教指導者)に騙される。人間は自分が自由でいるつもりでも、実はつねに誰かの思想、思考に操られている(文化産業・アドルノ)。そんなあり様を描いた作品だ。
 フリードリッヒ・ニーチェはおよそ自分の意見というものをもたず、他人との摩擦を避け、冷笑的に生きることしかできない大衆を「末人(Letzter Mensh)」と呼んだ。ステンランドの描く近未来的な寓意画は、まさに現代を生きる私たち大衆=末人の肖像なのだ。ステンランドは東洋と西洋の神話のイメージを組み合わせながら、巧みに現代社会を批判している。


関係(Guanxi)

子どもの救世主(Child Messiah)


3・レディメイドの永遠回帰
 今回の訪問で印象的だったのは、ステンランドが何度も「フラクタル」という言葉を口にしていることだった。確かにステンランドの絵には無限に続く繰り返しが、頻繁に現れる。「子どもの救世主」もよくみると子どものガネーシャを操っているのは、ガネーシャに操られた当の男だ。「土偶(Dogu)」と「祭壇(Altar)」はステンランドの代表作だが、これらの作品でも「土偶」は女性の子宮の中に同じ女性が、「祭壇」では女性器に頭を突っ込んだ男性の姿が繰り返し描かれる。この関係は無限に続く。
 ニーチェは神による救いの可能性が失われ、すべてが物理法則(特にエネルギー保存の法則)によって支配される社会では、あらゆるものが繰り返しの輪の中に捉えられ、そこから逃れられることはないと主張した。「永遠回帰(Ewige Widerkunft)」の思想だ。
 寺山修司も自らを親のレディメイド(複製品)であると公言し、親が子どもを作るとはつまるところ自分自身の複製品を作ることに他ならないと言い切る。なぜなら資本主義社会において人間は、常に代替可能な複製品として、特定の役割を果たす匿名の商品としてしか生きていけないからだ。「土偶」に現れる女性の子宮の中に全く同じ女性が存在する描写も、子どもが親の複製品、親の身代わりに過ぎないことを暗示している。
 ニーチェは永遠回帰の輪の中で人間は一切の現実を肯定し、常に自己を超越しようとする「超人(Ubermensh)」になるべきだと説いた。確かにステンランドの描く人間も、バイオテクノロジー(特に遺伝子操作)によって人間を超えた存在になっている。しかしこれらの人物からはニーチェの説くような主体的な意思は感じられない。むしろステンランドの描く人間たちは無限に続く繰り返しの中に安住し、主体性を放棄しているように見える。この消極的な永遠回帰、自己を超越しようとしない永遠回帰のあり様は、そのまま現代を生きる私たち=末人の姿だ。


土偶(Dogu)

祭壇(Altar)


4・力への意志と未来への希望
 ではステンランドの作品に救いはないのか。私たちは機械文明にからめとられ、没主体的、没個性的にベルトコンベアーに載せられたような人生を送るしかないのか。それに対するステンランドの答えは「NO」だ。
 確かにステンランドの作品に出てくる未来人は、主体的な意志というものを持ち合わせていない。彼らは社会の力、科学の力、マネーの力に踊らされているマリオネットのような存在だ。しかし一方でステンランドの描く人物から発せられる強烈なエネルギーは、人間が本来もっている生への意思を感じさせる。人間は主体的に生きる力を持っている。ただそれに気づいていないだけなのだ。人間は自らのもつ強烈な生の力、輝きに触れたとき、真の意味で解放される。ステンランドはそう言わんとしている。そしてそれはニーチェが「力への意志(Wille zur Macht)」と呼んだものに他ならない。ステンランドの絵画は、人間が再び主体的に生きることができる時代の到来を予感させる。その意味で彼の絵画は、まさに近未来に希望が託されたSF絵画、サイファイ・アートなのだ。
(2018・5・4)

(リンク)
   http://www.tylerstenlund.com/index.html

(追記)
 今回インタビューの中でステンランドは、中国のSF作家、劉慈欣(リウ・ツーシン)に注目している旨を話した。劉慈欣は2015年にヒューゴー賞を受賞し、アメリカではオバマ前大統領も愛読しているほど有名な作家だが、日本ではほとんど知られていない。筆者はさっそく『折りたたみ北京』(早川書房)所収の「円」を読んでみた。
 円周率に不老不死の秘密が隠されていると説く学者に、秦の始皇帝は10万桁まで明らかにせよと命じる。学者は兵士たちに単純作業を教えることで、300万の軍隊を用いた驚異の人間計算機を作り出す。この単純な作業を行う300万の兵士というイメージは、まさにステンランドのフラクタルな表現と相通じるものがある。また無限な数の並びの中に意味を見出すところは、素数の並びには意味があり、それが宇宙の謎と結びついていると考えるリーマン予想(1859)を想起させる。
 劉慈欣の主著『三体』の邦訳が待たれる。


(※本記事の画像は全て、著作者の許可を得て掲載しております)



関竜司プロフィール


関竜司 参加作品
『しずおかの文化新書9
しずおかSF 異次元への扉
~SF作品に見る魅惑の静岡県~』