「睦月の家長」太田忠司(画・YOUCHAN)

(PDFバージョン:mutukinokachou_ootatadasi

 元旦とは一月一日の朝のことである。高橋躯庵(くあん)は父親にそう教えられた。
 彼にとって父親は、すべての規範だった。この星に住む人間としてするべきこと、日本人として守るべき掟について、父親は厳しく、しかし愛情を持って躯庵に教えた。
 元旦にするべきことも、教えてもらった。朝、東の稜線から昇ってくる「初日の出」に向かって手を合わせるのだ。
 そのためには夜が明けないうちから起き出し、家を出て小塚丘(こづかおか)に登らなければならない。
 前日の大晦日は日付が変わるまで起きていて、新しい年がやってくるのを迎えた。だから睡眠時間は足りていない。妻も息子も夜明け前に起きることを嫌がったが、躯庵は有無を言わせなかった。しきたりに従うことが何よりも重要なのだと信じていたからだ。
 躯庵の家から小塚丘までは、支障なく行けたなら徒歩で一時間ほどだった。身を切るような冷たい空気を頬に感じながら、彼は家族を叱咤激励しつつ歩きつづけた。
 途中で隣人の山田家の人々に遭遇した。彼らも防寒着に身を包み、小塚丘を目指していた。
「今年も、晴れてよかったですな」
 躯庵が声をかけると、山田家の当主である津安(つやす)が凍えた笑顔で、
「そうですな。去年と同じで」
 と応じた。
 山田家は津安夫婦に十歳の息子と四歳の娘、そして津安の母親の五名だった。
「おや? 真馬(しんま)君は?」
 十五歳になる長男の姿がなかったので尋ねると、
「あ、ええ……ちょっと風邪を引いてましてね」
「それはいけない。しかし初日の出を見られないとは残念ですな。新しい年を迎えることができなくなってしまう」
「そうですねえ……」
 津安は屈託のありそうな表情で、
「しかし最近は、初日の出を迎えようとしない家庭も増えてきたようですよ。実際のところ、近所ではうちと高橋さんくらいしか出てきていないようです」
「嘆かわしいことです」
 躯庵は腹立たしげに言った。
「日本人としての誇りを忘れてしまった者たちが多すぎる。地球を離れ、遥か彼方のこの星に移住して幾星霜、やっとのことでこのように安定した暮らしができるようになったのも、ご先祖様の努力があったればこそです。その伝統を守り、日本という国の素晴らしさを伝えていくことこそが、今の我々に求められていることなのです」
「いや、仰るとおりです」
 津安は頷く。
「追われるようにして祖国を離れて以来、私たちは日本人であることの誇りを胸に、幾多の困難を乗り越えてきたのです。そのことを忘れないという意味でも、先祖代々守られつづけてきたしきたりは継承していかなければならない。だからこそ――」
「お父さん」
 津安の娘が父親の袖を引く。
「寒いよお。もう帰ろうよ」
「待ちなさい。もうすぐ丘について、初日の出を拝めるからね」
 諭すようにそう言うと、津安は一礼してまた歩きだした。彼の家族がその後ろをぞろぞろとついていく。皆、覇気がなかった。この行事に意欲的なのは津安だけで、他の家族はいやいや付き従っているように見えた。
 我が家と同じか。躯庵は溜息をついた。振り向くと妻が寝入った息子を抱いたまま、無表情に佇んでいた。
 どこの家庭でも、古き良き伝統を受け継がせることが困難になっているようだ。
「行くぞ」
 気を引き締めるようにそう言うと、躯庵はまた歩きだした。
 小塚丘はその名のとおり、さして高くもない丘だった。ただ他の場所に比べると見晴らしがいいので、初日の出を拝む場所としては絶好なのだった。ただし、その道のりにはひとつだけ、困難が伴う。
 その困難が今、目の前にあった。
 鬱蒼と繁る森を切り開いて作られた丘への道。それがふたつに分かれている。
 その岐路で躯庵は立ち止まった。
 さて、今年はどちらだ?
 躯庵は道を注意深く観察した。向かって左側の道に新しい足跡が残っている。どうやら津安の一家は左の道を選んだようだ。しかし、それが正解とは限らない。
 去年はたしか、右の道を選んだ。それが失敗だった。
 この森は不知森(しらずもり)と呼ばれている。その理由は道に迷うとわかる。まるで迷路に迷い込んだように方向感覚が失われ、自分がどこにいるのかもわからなくなるのだ。そのために森を抜けるのに大変な苦労をさせられる。中には遭難して出てこられなかった者もいるという。
 本来なら正確な地図を必要とする場所だった。しかし地図を作成することは不可能だった。森の中を通る道は、昨日と同じではない。常に歪み曲がり、繋がりかたを変えているのだった。
 この森を抜けるのに必要なのは、果敢な行動力と決断力だけだった。己が信じた道を迷わず進むしかないのだ。その決断をするのが、一家の主の務めだった。
 妻と子供たちは彼の後ろで待っている。躯庵は思案の末、言った。
「こっちだ」
 指差したのは、左の道だった。
 決めたら躊躇しなかった。躯庵は足早に進んだ。あまり遅れると日の出に間に合わない。
 森は夜明け前の闇の中で静まり返っていた。津金鳥(つがねどり)の声も聞こえない。懐中電灯の明かりで足下を照らしながら、前へと進む。地面はしっとりと濡れていて、柔らかかった。
 歩きながら森の植生を確認した。酉有(とりあり)の木が多いが、中には依甲(えこう)も混じっている。いい兆候だ。依甲は小塚丘に多く生えている蔓性植物だった。この道が丘に繋がっている可能性は高い。
「もう少しだ。頑張れ」
 後ろの家族に声をかけ、さらに足を早める。
 と、またも分かれ道に行き会った。右と左。今度も地面を確認した。が、足跡がない。津安たちが先に行っているのだから、どちらかの道に足跡が残っているはずなのに。
 躯庵は焦った。もしかしたら、どこかで分かれ道を見落としたのか。津安の家族は、そちらに行ってしまったのか。
 しかしここでうろたえた姿を晒すことは、家長として許されることではなかった。躯庵は右の道を指した。
「こっちだ」
 しかししばらく進んで、彼は自分が間違ったのではないかと不安になった。道が細くなり、地面のぬかるみがひどくなってきたのだ。依甲の姿もなくなった。
 焦るな。自分を信じろ。躯庵は自分に言い聞かせた。かつて父親がそうしていたように、自分も自信に満ちた姿を家族に見せなければならない。だから――。
 不意にバランスを失った。足を滑らせたのだ。みっともなく尻餅を突いてしまった。急いで立ち上がる。妻は無表情で彼を見つめていた。
 無口なまま、躯庵は歩きつづける。そしてまた分かれ道に出た。
 今度は道が三本に別れている。
「くそっ」
 思わず声が出た。この森はどこまで俺を虚仮にすれば気が済むんだ。
 三つの道を見比べた。しかしどれにも目立った違いはない。右か、左か、真ん中か。
 口に出すまで、自分でもどちらか決めかねていた。
「……右」
 不安を気取られないように勢いよく指で差し、歩きだす。
 が、すぐに振り向いた。妻がついてこない。
「どうした? 早く来い」
 呼びかけても妻は動かなかった。
「もう、あなたにはついていかないわ」
 家を出てから今まで一言も口にしなかった妻が、口を開いた。
「わたしたちは、もうあなたを信じない」
「何を言っている! 俺は家長だぞ。俺の言うことは――」
「あなたには、何も決められない。決めても、それは間違っている」
「馬鹿な! じゃあ誰が決める? 誰が家族を導くと言うんだ?」
「この子よ」
 妻は腕に抱いていた息子を躯庵に示した。眠っているように見えた。
「そんな赤ん坊に何ができる?」
 その言葉に応じるように、息子は眼を開けた。そして小さな手を伸ばし、真ん中の道を指差した。
「そっちが正しいと言うのか。その道が小塚丘に通じていると言うのか」
「違うわ。真ん中の道は、家に通じている。わたしたちは、帰るの」
 そう言うと妻は、子供を抱いたまま真ん中の道を歩きだした。
「おい、待て!」
 呼び止めたが、彼らの姿はたちまちのうちに見えなくなった。
「おい? おい!」
 躯庵は叫んだ。しかし返事はなかった。
 取り残された彼は、途方に暮れた。
 このまま自分の道を行くか、それとも家族を追って真ん中の道を進むか。考えても、答えは出なかった。
 父親ならこんなとき、どうしただろう。家族に見捨てられ、ひとりになったら。
 周囲が明るくなりはじめていた。夜明けが近い。しかし躯庵は動けなかった。
 そのとき、目の前に誰かいるのに気が付いた。彼が来るのを待っているように見える。
 躯庵は懐中電灯を向けた。男だった。眩しそうに眼を両手で覆い、それからゆっくりと下ろした。顔が見えた。
 躯庵は息を呑んだ。
「……父さん」
「やっと来たな」
 躯庵の父親は笑みを浮かべた。
「おまえも家族から見放されたか。俺がおまえたちから見放されたように」
「見放した? 俺が父さんを?」
「忘れたか。母さんとおまえはあの年の元日、森の中で俺を見捨てて家に帰った。それからずっと俺は、この森を彷徨っている。だが、もうひとりじゃないようだな。息子が戻ってきた」
「俺は……」
「これも、家長の務めなんだよ。時が来たら家族から捨てられ、ひとりになる。そしてまた時が来たら、こうして家族と再会する。家長としての最後の仕事を教えるためにな」
 父親の姿が砂のように、ゆっくりと崩れていく。
「これが俺たちの運命……伝統を守る者の掟だ……おまえもいつか、息子が迎えに来るまでこうして……」
 躯庵は駆け寄った。すでに父親は形を成していなかった。崩れ去った遺骸を前に、彼は泣いた。
「俺は……俺は……!」
 東の空が明るくなってきた。初日の出が昇ったのだ。
 津安は無事、御来光を見ることができたのだろうか。あるいは彼もまた家族から見捨てられ、森を彷徨い歩いているのだろうか。
 そして自分は……。
 躯庵は歩きだした。これから、長い旅が始まるのだと思った。いつか、息子が会いに来るまで。



太田忠司プロフィール
YOUCHANプロフィール


太田忠司既刊(競作)
『ショートショート美術館
名作絵画の光と闇』