「雑感II 平泉の世界遺産登録勧告」平谷美樹

(PDFバージョン:zakkan2_hirayayosiki
 二〇一一年五月八日未明。イコモスが平泉の世界遺産登録を勧告した。
 イコモス=ICOMOSとはInternational Council on Monuments and Sites、国際記念物遺跡会議のことである。文化遺産の保護や保存、それに関わる科学技術の研究などを行う非政府組織で、世界遺産登録の審査はその活動の一つである。
 世界遺産の対象になったのは岩手県平泉町に存在する中尊寺、毛越寺、観自在王院跡など、浄土思想を具現化した寺院や庭園である。
 二〇〇八年の世界遺産委員会で登録延期となったが、今回はなんとか登録の勧告までこぎつけた。
 東日本大震災で被災した岩手県にとって、この報せは一筋の光明であった。
 正式決定は六月末にパリで行われる会議で発表されるのでまだ安心はできないのだが、勧告を受けたものはほとんど正式登録されているから、嘆息をもらすことはないだろうと思う。
 平泉はぼくの家から車で一時間足らず。もう何十回となく足を運んでいる。
 二〇〇八年の秋からほぼ二年間、【河北新報】という新聞に義経の影武者を主人公とした小説を書いた。義経と平泉の関係は深いので、取材のために同地を訪れる回数も増えた。
 平泉について取材を続けるうちに、今度こそ世界遺産登録が実現して欲しいと強く願うようになった。
「平泉が世界の宝となる」
 とか、
「観光客が増え、地域が活性化する」
 とかの、一般的な〈歓迎〉とは異なる少々複雑な思いである。
 平泉というと、絢爛たる黄金文化であるとか、マルコポーロの【東方見聞録】に〈黄金の国ジパング〉と記される元となった都市ということで記憶なさっている方もいるだろう。実際に、平安時代後期には、京に次ぐ人口を持つ日本第二の都市であった。後に幕府が置かれる鎌倉は小さな港町であったし、江戸は存在せず、ただただ葦原が広がる荒れ地であった。
 そもそも平泉のある岩手は、中央の人々が〈蝦夷(えみし)〉と呼んだ蛮族の棲む国である。
 蝦夷というと、イメージとして、縄文人を思い浮かべるが、食文化からみれば、弥生人であり米を主食とした人々である。しかし、東北に住む弥生の民は寒冷な気候のせいで安定した収穫を求められず、狩猟採集も行った。そのために、蝦夷の文化には、弥生と縄文が混在している。
 北海道では長く稲作が行われなかったので縄文文化の次に続縄文文化が産まれる。
 東北には続縄文文化の土器や埋葬方法なども入ってきており、まさに弥生と縄文が重なり合って存在していたことが分かる。
 蝦夷とは、稲作をしつつ森や山との関わりを強く維持した民である。
 日本書紀には、六五九年、唐に熟蝦夷(にきえみし)男女二人を献上したという記述がある。
 朝見の際に、日本の使者であった吉祥連(きさのむらじ)は、
「蝦夷には三種類ある」
 と言った。
 都に近いところに住む熟蝦夷。
 次に近い場所に住むのが麁蝦夷(あらえみし)。
 一番遠いのが都加留(つがる)。
 平泉の辺りは麁蝦夷の土地であったろう。
 蝦夷は、《宋書》(そうじょ)の夷蛮伝(いばんでん)の倭国(わこく)条には〈毛人〉という字で登場する。
 大和の地から東に住む“蛮族”の総称である。毛人の文字は七世紀の中頃から〈蝦夷〉に変わる。
 その当時、大和朝廷は南東北までを支配地としていた。つまり、そこに住む者は蝦夷ではなく〈国民〉となったのである。
 蝦夷は北東北に住む者たちの呼び名となった。
 「エミシ」という言葉は、弓を上手に使う人々という意味の「ユミシ」が語源ではないかと言われている。古い時代には蘇我毛人など、豪族の名前にもエミシは使われていて、「勇猛な人」という意味を持っていた。
 〈夷〉という文字は中国の中華思想から来ている。中央が一番尊く、その外側は蛮族の国。東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)・南蛮・北狄(ほくてき)と、四方に蛮族が棲んでいるという考え方である。
 大和は中華思想に合わせて、人種的には同じ人々を蛮族と位置づけた。エミシは東や北に住む蛮族「夷狄」だったのである。
 蝦夷というと《まつろわぬ人々》というイメージが強く、中央の支配に雄々しく戦った者たちを思い浮かべる。
 しかし、《続日本紀》には、閇村(へいむら)の蝦夷が朝廷に、
「毎年、昆布を貢ぎ物として陸奥国府に贈っているが、遠すぎるので村の近くに収める場所を作って欲しい」
 と訴えて来たという記述がある。
閇村とはおそらく岩手県の下閉伊(しもへい)郡あたりにあった村であろう。
 この村ばかりではなく、蝦夷の村の多くは朝廷に貢ぎ物を贈っていた。これを蝦夷朝貢と言うが、国から給付金があったので、交易と呼んでもいいだろう。
 ともあれ、朝廷に恭順を誓った蝦夷もいて、これが俘囚(ふしゅう)と呼ばれた。
 俘囚たちの中には、「移配」という措置を受ける者もいた。
 他の土地に移されるのである。移された俘囚たちには俘囚料という手当が支払われ、職業訓練を受けた。近江、駿河、伊予その他多くの土地で俘囚料を支払っていたという記録が延喜式にある。俘囚たちが移配された土地を俘囚郷と呼ぶ。
 働かなくても食っていけるそのシステムは、蝦夷たちの勤労意欲を削ぎ、生涯俘囚料を受け取る者も多かった。
 ぼくが小説を連載していた新聞社の記者は、
「アメリカの先住民政策と同じですね。為政者の考えることはどこでも同じだ」
 と言っていた。
 前出の吉祥連(きさのむらじ)は、蝦夷の生活を次のように説明している。
「家屋を建てる技術をもたないために木下に住み、五穀を育てないために肉食である」
 定住型家屋は縄文時代にすでに出来ているし、稗や粟の栽培は縄文時代から始まっている。青森の縄文の遺跡からは米の存在を示すプラントオパールも出ている。
 大国唐の天子におもねって、面白おかしく誇張して蝦夷を説明したのだろう。
 天子にとっては大和もまた蛮族の国であるから、目糞鼻糞であったろうが。
 日本書紀の斉明天皇の項には、捕らえた蝦夷を宴会に引っ張り出して見物する描写が出てくる。
 テレビ番組などで、方言を笑うことを目的にした趣向をよくみかけることがある。いつの時代も中央は、地方を貶めることを楽しみの一つと考えるようである。
 虐げられてきた蝦夷の中から、俘囚を統率する俘囚長という役割を与えられたのが安倍氏である。平泉文化を築いた藤原氏はその跡を継ぐ形で現れた。
 平泉藤原氏は、平将門(たいらのまさかど)を討った藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫であるといわれ、蝦夷の出ではないが、婚姻によって安倍氏の血が受け継がれている。
 平泉藤原氏が収めた出羽・陸奥国は、中央から地果つる所にある国=奥州と呼ばれた。
 京に次ぐ都市になった後も、蛮族の国というレッテルはついてまわるのである。
 現代になっても、平泉藤原文化は京の模倣文化であり、たいして重要なものではないと、一段低く見る学者たちの発言もある。
 日本には大和時代に取り入れた中華思想が根強く残っているようである。
 古来より、人々はそうやって自尊心を保ってきた。洛中以外は京ではないという考え方も、東京以外はすべて田舎という考え方も、隣県よりも自分の県の方が都会的と感じるのも——。人は自分より劣るものを見つけだして安心感を得る生き物であるから、それはいたしかたないことであると思う。
 世界遺産に登録されたからといって、平泉藤原文化を正しく評価されたとは思わない。あくまでも浄土思想の具現化に関して、評価されただけである。
 また、世界遺産という存在は、多くの一般市民にとって〈観光地のお墨付き〉程度のものであることも知っている。
 だが、世界遺産に登録されることによって、今までより少しは北東北の歴史を知ろうとする人々が増えてくれることを歓迎するのである。
 平泉藤原文化は虐げられ続けた民が築き上げた文化である。
 平泉藤原氏初代清衡は【中尊寺落慶供養願文】の一節に、
「鐘楼の鐘の音はあまねく広がり、平等に苦を除き、楽を与える。そして、今まで死んでいった全ての生き物、官軍、賊軍の魂も浄土へ運ぶ」
 という意味の言葉を記している。
 平泉藤原氏は、三代およそ百年に渡って戦争のない平和な世を築いた。
 おそらく平泉は当時、日本のどこよりも自由な町であったに違いないと、ぼくは夢想する。
 為政者が、虐げられる者の心を知っていたからである。



平谷美樹プロフィール


平谷美樹既刊
『義経になった男(一)三人の義経』
『義経になった男(二)壇ノ浦』
『義経になった男(三)義経北行』
『義経になった男(四)奥州合戦』